saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「あなたの魂を照らす 60の物語」 by OSHO 訳者ー奥平 亜美衣

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Earthen Lamps
60 Parables and Anecdotes to Light Up Your Heart


 第三十五話「他人に見る 自分の姿」

 ある朝 早く、友人が私を訪ねてやって来た。
友人の目は、怒りと苦しみで燃えていた。
辛辣に毒々しく、誰かを罵っていた。

私は 我慢強く彼の話を最後まで聞いてから、 ある出来事について 聞いたことがあるかと彼に尋ねた。
聞く耳を持つ様子ではなさそうだったが、 それでも 彼はこう尋ねた。
「どんな出来事だ?」

私が 笑い出したので、 友人は 少しリラックスしたようだった。
それから 私は話し出した------。


 ある心理学者が、 愛と憎しみについての研究を 行った。
学者は、大学の十五名から成るクラスに対して、クラスメートの中で 憎まれて当然だと思う人の 名前の頭文字を 三十秒以内に書き出すようにと言った。

 ある若者は 誰の名前も 書くことができなかった。
他の学生たちは、 数名の名前を書き出した。
一人の学生は、 書ける限り 多くの名前を書き出した。

研究の結果は、非常に驚くべきものだった。
嫌いな相手の名前を 多く書き出した学生たちは、他の学生からも 嫌われているという結果になったのだ。

最も素晴らしく 意味深い発見は、誰の名前も書き出さなかった学生は、誰からも名前を書かれなかった ということだ。


 人が 人生という道のりで 出会う相手は、自分の鏡であることが よくある。
私たちは、 自分の姿を 他人の中に見つけることはないだろうか?

自分の中に 憎しみがあると、他人が その憎しみに 値すべき人間に感じられないか?

その憎しみ自体が、 憎むべき人を 創り出し、 生み出してしまう。
そして これらの創造物や発明品には、目的がある。

憎むべき相手がいるお陰で、自分自身の中にある 憎むべき自分を 見なくて済むからだ。

他人のことを 針小棒大に騒ぎ立てると、自分の中にある大きなことが、ささいなことに感じ始めるのだ。


 片方の目しか見えない という苦痛から逃れるには、二つの方法しかない。
自分の目を治すか、他人が両方の目を失ったと 想像するかだ。
もちろん、 後者のほうが 簡単そうに思える
自分は 何もしなくてもいいからだ。
ただ 想像するだけでよい。

 私たちが 他人に会う時、その人たちを 自分の鏡だと考えるべきだ ということを覚えておいて欲しい。
他人の中に見るものは、自分たちの中にも存在しないか、まずは 探ってみるべきだ。
そうすることで、日々の 人間関係という鏡の中で 自分探しに忙しくなる。


 この世や その人間関係から逃げ出すことは、臆病であるだけでなく、無意味だ。
自分を探すために 人間関係を使うのが、 正しい方法である。

鏡なしに 自分の顔を見ることが不可能なように、人間関係がないと 自分を知ることも不可能なのだ。
他人という形の中で、自分自身と絶えず対面しているのだ。

愛で満たされた心は、他人の中に 愛を見出だす。
こうした経験が 頂点に達することで、最終的に神との対面へと 導かれる。


 この地球上で、 地獄に暮らす人たちと、天国に暮らす人たちがいる。
苦痛も喜びも、地獄も天国も、その大本は 私たちの中に存在する。

そして 私たちの中に存在するものは全て、外のスクリーンに映し出される。
この世界で 目に映るものが死しかない という人もいれば、この宇宙の神聖さにおける 永遠の美しさや調和を映す目もある。

 つまり、外側に現れるものは、永遠でもなければ、人生の核でもない。
私たちの 内側なのだ。
この真実に 常に目を向けることができる人は、外側の物事から解放され、内側に落ち着く。

喜びを経験しても 苦痛を経験しても、憎しみを経験しても 愛を経験しても、友とともにあっても 敵がいても、思考に このことが常にあれば、 結局のところ、 喜びも苦痛も、敵も友も存在せず、そこには 自分がいるだけだと気づく。

私が 私自身の敵であり、私が 私自身の友なのだ。



Earthen Lamps
60 Parables and Anecdotes to Light Up Your Heart
第三十五話 他人に見る自分の姿 Pp. 155ー157

訳者 Amy Okudaira 奥平 亜美衣
発行 大和書房