saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「お喋りなマインド」02

 瞑想とは 言葉なしで生きること、状況のなかで 非言語的に生きる ということだ。

ときには、それが自然発生的に 起こることもある。
誰かと恋愛していると、それが起こる。

もしあなたが 本当に愛していれば、〈臨在〉が 感じられる。

言語ではない。
恋人たちは 親しくなると 必ず静かになる。
表現すべきことが 何もない。というのではない。
それどころか、内に秘められた思いは 山のようにある。
が、まったく言葉はない。
それはありえない。

言葉が出てくるのは、愛が終わったときだけだ。


 恋人どうしが 少しも静かでなく、いつも話しているようなら、それは愛が 枯渇しているしるしだ。
いまや、言葉で 空白を埋めようとしている。

愛があれば 言葉はない。

まさに 愛の存在そのものが あまりにも圧倒的、感動的であるため、言語や言葉の障壁が消されてしまうからだ。

普通、それは 愛のなかでしか消されない。


 瞑想は 愛の頂点だ。
それは、ひとりの人への愛でなく 存在全体に対する愛だ。

私にとって、瞑想とは 自分を取り巻く存在全体との 生きた関係だ。

どんな状況のなかでも 愛を忘れなければ、あなたは 瞑想のなかにいる・・・。


 社会は言語をもたらす。
言葉なしには 存在できない。

社会は言語を 必要とする。
だが、存在は 言語を必要としない。

「言葉なしで生きるべきだ」と 言うのではない。
それを 使う必要はあるが、言語化の機能は 自分で点灯できるものでなければならない。

社会の 一員として生きているかぎり、言葉のはたらきは必要だ。
それなしに 生きることはできない。

だが、独りでいるときには、その機能は 停止されるべきだ。
それを 消すことができなければならない。

もしそれを 停止させることができないなら、その機能は 狂っている。

もし停止できないなら、もしそれが 延々と続き、停止させることができないなら、それは その機能が あなたを支配してしまったのだ。

あなたは 奴隷だ。

マインドは、主人でなく ひとつの道具でなければならない。

だが、それが 主人になってしまっている。


 マインドが主人であれば、瞑想的な状態は 存在しない。

あなたの意識が 主人であるとき はじめて、瞑想的な状態が存在する。

…03に 続く

MEDITATION
THE FIRST AND LAST FREEDOM by OSHO,
「新瞑想法入門」
(翻訳) スワミ・デヴァ・マジュヌ
(発行) 瞑想社
(発売)(株) めるくまーる