saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「新瞑想法入門」より抜粋、「二つの困難」01

 瞑想の途上には 二つの困難しかない。
そのうちの ひとつは自我(エゴ)だ。

あなた方は 社会、家庭、学校、教会など周囲の あらゆる人たちによって、たえず利己的であるように 準備されてきている。

現代の心理学でさえ 自我(エゴ)の強化に基づいている。



 自 我 (エゴ)

 現代心理学、現代教育の主要概念は、「強烈な自我(エゴ)を持たないかぎり、人は 激しい生存競争を生き抜くことはできない。
慎み深い人間でいたら、あらゆる人に のけ者にされてしまう」というものだ。

あなたは つねに取り残される。

この競争社会で戦い抜くには、まさに鋼鉄のように強靭な 自我(エゴ)が必要であり、そうして はじめて成功者となりうる。

あらゆる分野で---ビジネスでも、政治でも、どんな職業であれ---きわめて強引な人格が必要とされ、社会全体が 子供たちのなかに 強引な人格を作り出すように おぜん立てされている。

私たちは まさに最初から 子供たちに言う、「クラスで 一番になりなさい」。
そして クラスで一番になると、誰もが 彼を誉め讃える。

私たちは 何をしているのか?

まさに最初から、子供の 自我(エゴ)を養っているのだ。

あなたは子供に 一定の野心を与えている。
「おまえは大統領になれるし、首相にもなれるんだ」。

彼は そういった考えを抱いて旅を始め、成功するにつれて、自我(エゴ)は ますます肥大化する。


 どんなかたちで表れようと、自我(エゴ)は 人間に起こりうる 最大の病だ。

成功すれば、あなたの自我(エゴ)は ますます大きくなるが、それは危険だ。
なぜなら、そうなると あなたは道を さえぎっている その大岩を 取り除かねばならないからだ。

あるいは 自我(エゴ)が小さくて成功できず、人生の敗北者になったら、今度は 自我(エゴ)は傷つく。

そうなると 自我(エゴ)は痛み、それが劣等感を生み出す。

それも また問題になる。

あなたは 何をするにも 恐れるようになる---瞑想ですら。
なぜなら、あなたは 自分が敗北者であることを、つねに失敗することを、知っているからだ。

それが あなたの固定観念になっている。

あなたは あらゆるところで 失敗しており、しかも 瞑想とは かくも巨大なものだ・・・とても成功するはずがない。

 「必ず失敗するだろう」とか、「これは自分の運命、宿命なんだ」とか 考えながら瞑想に入っても、もちろん成功は おぼつかない。

だから自我(エゴ)が大きければ それが害になるし、自我(エゴ)が小さければ 傷となり、それがまた 妨害になる。

どちらにせよ 自我(エゴ)が 問題のひとつだ。



 どの子供も 母親の子宮のなかでは この上もない至福に満ちている。

もちろん彼は それに 気づいていないし、それについて 何も知らない。
至福と まったくひとつであるため、それを「知る者」は どこにもいない。

至福が 彼の 本性であり、「知る者」と「知られる者」に 区別はない。
だから、もちろん子供は、自分が 至福に満ちていることに 気づかない。

人は 何かをなくして はじめてそれに気づく。

 それはそうだ。
失うまえから それを知るのはむずかしい。
なぜなら、まだ失っていないときには、あなたは それと 完全に 一体だからだ。

距離 というものがない---「観察者」と「観察されるもの」は ひとつ、「知る者」と「知られる者」は ひとつだ。



 どの子供も、この上なく 深い至福の状態にいる。

心理学者たちも それを認めている。

「すべての宗教的 探求は 母親の子宮を 再び見い出だそうとする試みに ほかならない」と 彼らは言っている。

彼らは 宗教に対する 批判として言っているが、私にとっては それは批判でも何でもない。

それは まったくの 真実だ。
そう、宗教を求めることは 子宮の探求でもある。

宗教の探求は この全存在を子宮にしようとする探求でもある。


…「二つの困難」02へ 続く

MEDITATION
THE FIRST AND LAST FREEDOM by OSHO,
「新瞑想法入門」
(翻訳) スワミ・デヴァ・マジュヌ
(発行) 瞑想社
(発売) (株) めるくまーる