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第八章 信を生きる by OSHO, (12)

(…最も美しいもの、最も貴重な何かが花開く。 そしてそれこそが信頼という花だ。)



 “一撃の下に軛は断たれて、

 一切は止まることなく流れ、また記憶する者もいない。

 すべては空にして明瞭、

 心力を労することなく、自ずから光明を放っている。

 ここではもう、思考も、感情も、知識も、想像力も何の価値もない。”



 その時「一」が 生きている。
ただ 生きている。
「一」が 呼吸している。
ただ 呼吸している。

どんな想像も、どんな想いも、どんな思考(マインド)もない。
そんなものは すべて何の価値もない。

人は存在を 信頼する。

そして こちらが存在を 信頼する時、存在も こちらを信頼する。

この 信頼の出会いこそ、究極の至福、歓喜、サマーディだ。


 だから これについて何ができよう。

それは 行為の問題ではない。
することは何もない。

人は 見なければならないのだ。
〈生〉を 観察しなければならない。

観察者に なりなさい。
あらゆることを よく見るのだ。

今度、愛を感じたら、ただそれに騙されないでいてごらん。
愛するがいい。
だが、内側を見なさい---そこには 憎しみが控えている。
見守りなさい。

すると突然、ある閃きがあるだろう。
あなたには この愛が、まさに 憎しみの第一歩に 他ならないことが 分かるはずだ。


 そうなれば、何を選ぶことがあろう。
また、どうして「主よ、我等により多くの愛を与えたまえ」と求めることがあるだろうか。
より多くの憎しみが来るだけではないか。
とすれば、どうするか。

あなたは愛の中に浮かび、そして 憎しみがやって来ていることを知っているだろう。

あなたは愛に執着することもない。
なぜなら、執着とは、自分が憎しみと闘っている ということだからだ。
しかもあなたは、昼に夜が従うごとく、愛には憎しみが従うことを知っている。

とすれば、何が起こるか。

あなたは愛に執着することもなく、憎むこともなくなる。


 そして、人が そのような平衡、そのような平静の中にいる時、愛を求めることもなく、憎しみから逃れようとすることもなく、何事にも執着せず、また 何ひとつまとわりつくものもない時、その時 突然、人は 愛してもいなければ 憎んでもいない。

突然、一撃の下に、二元性は打ち破られる。


 どんな所からでも・・・・、
グルジェフは よく弟子に、自分の主要な性格特徴を発見するようにと言っていた。
これは 役に立つ。

自分の 主要な性格特徴を見つけてごらん。
恐怖、憎しみ、愛、貪欲、セックス。
何が 自分の 一番の性格特徴か。
ただ よく見て、そして理解しなさい。

そして その主要な性格特徴に働きかけ、その対立物を 一緒に見ようとしてごらん。


 もしそれが 愛なら、愛と憎しみを 一緒に見るのだ。

もし、それを見ることができたら、それらは 互いに否定し合い、突然あなたは 空っぽになる。

そこには 愛もなければ、憎しみもない。
それらは 一時には、片方しか存在できない。
両方一緒に存在すれば、それは 互いに否定し合う、突然、その両方がなくなる。

自分だけが 独り、その全面的な「独り」の中に残される。
そこには 何もない。
何の跡形もない。

これこそが 僧サンの言っている空、シュンニャータだ。


 そして、もしあなたが、ひとつの二元性で これを見ることができたら、あなたは あらゆるものに それを見ることができる。

それは 大した問題ではない。

一度、ひとつの二元性---例えば愛憎---の中に それを見たら、あなたは すべての中に それを見たのだ。

あらゆるものが 同じことだ。
ある まったく異なった質の 実存が現われることになる。



 信頼----それは、ある教義として信ずべきようなものではない。
それはどんな神にも、どんなキリストにも、クリシュナにも、モハメッドにも 関係はない。

また どんなコーランにも、ギータにも、バイブルにも関係ない。
そうではなく、それは あなたが 覚めていることに、十全に意識して、見抜いていることに関係がある。
そして 一撃のもとに自由になることに。



 “一撃のもとに軛は断たれて、

 一切は止まることなく流れ、また記憶するものもいない。

 すべては空にして明瞭、

 心力を労することなく、自ずから光明を放っている。

 ここではもう、思考も、感情も、知識も、想像力も何の価値もない。”


 これを 頭で考えるのではなく、〈生〉の中に見ようとしてごらん。
それは 痛みを伴うだろう。
愛を感じている時、憎しみのことなど まったく考えたくもないからだ。

あなたは 本当は、自分が憎しみのことを考えれば、この愛の歓びが すべて消えてしまう と怖れている。
自分が 生きているのに、死のことなどまったく考えたくはない。

なぜといって、あまり死のことを考え過ぎれば、〈生〉を楽しむことができなくなりはしないかと怖れているからだ。

 だが その怖れは、ある意味では正しい。
もしあなたが、本当に 死を意識するようになったら、今 楽しんでいるようには、〈生〉を楽しめなくなるだろう。
がまた、それは さして大きな歓びでもない。
それどころか、それは惨めさに過ぎない。
そういうふうに〈生〉を楽しむことはできなくなるだろう。
が、 いいかね、こんなやり方は、まったく 楽しみなどではないのだ。


 もし愛を交わしながら、憎しみを 思うとしたら、あなたは 今までのようなやり方では、それを楽しめなくなるだろう。
だが、それは本当に 楽しみだったか、それとも ただの強迫観念だったか。

あなたは 本当に 愛を楽しんだことがあるのか。

もし、楽しんでいたのなら、あなたは 花開いていたはずだ、それなら あなたには違った香りがあったはずだ、が、それはない。
もし、そうだったら、あなたには 違った実存の輝きがあったはずだ、 が、それはない。

あなたの 深い内面は空虚で、貧しく、暗く、焔を持たない。
だとすれば、そんな愛や、生や、あらゆるものが、いったい どんな楽しみだったというのか。
いいや、あなたは ただ自分を騙して来ているだけだ。


 あなた方の愛は、一種の酒、麻薬に他ならない。

ほんの いっときの間、あなた方は その中に溺れ、我を忘れる。
すると 憎しみがやって来て、あなたはまた 惨めさの中にいる。

そして再び、自分が 惨めであるが故に、愛を求める。
そして その愛は、またしても 深い眠りに陥ることに他ならない。

これが あなた方の パターンだった。
あなた方が 幸福と呼ぶものはすべて、眠りに陥ることに他ならない。
うまく眠れた と感じれば、あなたはいつでも それが幸せであることだ と思っている。


 あなた方の頭(マインド)にある 幸せな人間とは 何だろう。

それは 何かで困らせてはいない人間だ。
だからこそ、アルコールや 麻薬には あれほどの魅力がある。

それを飲めば、心配事を 忘れるからだ。
あなた方の 愛とは何か。
それは どうやら、自分を麻薬で眠らせる ある生物学的 内蔵課程のようだ。

そしてそれは、化学的なものだ。
体内に、ある化学物質が開放されて、化学的バランスが変化する。

それは マリワナや LSDと 大して違わない。
なぜなら 根本的なことは、身体の中の 化学変化だからだ。


 愛は身体を変える。
断食も また変える。
肉体の化学組織が 古いままではあり得なくなる。

その 新しい化学組成下で ひとときの間、あなたは いい気持ちになる。
そして、また憎しみがやって来て、また世間と 心配事が入りこみ、あなたは再び 車輪に巻き込まれている。

これがあなたが、何回もの生涯で やって来たことだ。


 さあ、僧サンの言っていることを 何でもいい、やってごらん。

そしてそれは、あらゆる祖師達が 言って来たことでもある。

自分が 愛の中にある時、愛を交わしている時、怖れずに、いかにして それが憎しみに変わるかを 見ていなさい。
それが どんなふうに憎しみになっていくかを。

生きている間に、それが いかにして死に向かっているかを 見つめてごらん。
ひとつ呼吸を するたびに、自分が 一歩ずつ 死に近づいているのを 見抜くのだ。
あなたの 命の一瞬一瞬が こぼれ落ち、死が 一歩一歩と 近づいて来る。

あなたの若さが どんなふうに老年になって行くかを 見守るのだ。

反対の極に 見入るのだ。


 勇気が要る。
なぜなら、古いパターンは 補強されるのではなく、それによって 破壊されるからだ。

だが、 ひとたび、愛の中に憎しみを 見ることができたら、あなたは その両方を越えた静けさを達成することができる。

もし、生と死を ともに見ることができたら、あなたは それを超越する。


 一撃の下に あなたは 超越する。
一撃の下に あなたは軛から 開放されている。

あなたは 初めて ひとつの自由な魂だ。
あなたは 自由そのものだ。

だからこそ我々は、この究極の状態を モクシャ、自由と呼ぶのだ。


 何ひとつ すべきことなどない。
ただ 自分の行為に もっと目覚めていなければならないだけだ。

もっと 意識的になること、それが唯一の 瞑想だ。

もっと 注意深くなること。

鋭い覚醒の一瞬、その目醒めは 武器になる。
すると、一撃の下に あらゆる軛は断たれている。


…第八章「信を生きる」おわり…。


NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所