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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章「死んではいません」8️⃣

(…解脱した人は もうすでに死んでいる。
なぜなら その人は存在していないのだから。)


ゴータマ仏陀は、解脱後、四十年にわたり旅してまわった。
その四十年の間、絶えまなく村から町へ町から村へと動いて、自らの覚(サトリ)得た全てを人々に説き与え歩いた。

一方では、彼はひとことも言葉を発したことはなく、 一歩も動きはしなかった ともいわれる。
これは どういうことだろうか?


彼が ひとことも話さなかったというのは 確かに正しい。
というのも、 彼はもう存在してはいなかったのだから、 い な い 人間が どうやって言葉を発することができる?


そこで説かれたのは 仏陀という人の言葉ではなく、〈実在〉そのものによって語られた言葉だ。
なぜなら仏陀は もう人ではなく、ただ名前が実用的 機能的なものとして残っていたにすぎない。

実用的な用途のため以外には、仏陀は もう名前など必要ではなかった。


一歩も 動きはしなかった、けれども、旅から旅へと動きまわった と言うことができる。

仏陀が歩いた地域は ビハールと呼ばれるが、ビハール全体が なぜその名前を得たかは、仏陀の流浪に由来する。
ビハールとは、旅、流浪の旅という意味だ。
そして、仏陀の その流浪の故に、その地域全体がビハールとして知られるようになった。


ところが、仏陀は 一歩として動きはしなかったーーーそう言われてきていることは まちがいではない。
全く正しい。
まさに、仏陀は 一歩として動きはしなかった。


あなたに 言っておこう。
私は こうしてあなたに語りつづけてはいるが、私は ひとことの言葉も発していない。
自我が 消えてなくなっているとき、一体誰が言葉を発することができよう?


では、私が あなたに語りかけるときには、何が 起こっているのだろう?

この語りかけは、樹々の間を抜けて通る そよ風のようなもの、河に向かって流れる泉の水のようなもの、静かにひらいていく花のようなものだ。
そこに 私は いない。


花は 自分が自分自身をひらいたと主張することはできない。
そよ風は、「私は樹々の間を抜けていきます」とは言えない。
そよ風に そう主張する自我はない。
河は、「自分は海に向かって流れている」とは言えない。


河は 流れる。
誰かが 流 し て いる わけではない。

私は あなたがたに語りかける。
だが、私 は ひとこととして言葉を発したことはない。

だが こういうことを 一体どう伝えたらいいのだろう?

解脱に達している人は すでに死んでいる。
過去は 消え去り、 自己という中心は もう存在していない。
今ではその「人」は どこにもいない。
そして あらゆるところに存在している。


今こそその人は、大いなる〈実在〉と 一体になっている。
波は 海のなかに消え去った。
だから、あなたが そこに覚者の立っているのを見るとき、 その肉体は ひとつの接触点にすぎない。
それだけのことだ。

それはちょうど 電気の差し込みのようなものだ。
エネルギーが動き出すための差し込み------エネルギーは どこにでも在る。
だから、覚者(ブッダ)が そこにいる場合、 彼は 宇宙との接触点になる。

彼自身は もうそこに存在していない。
ただ 一つの通路として在るにすぎない。

この世に降ろされた 一本の錨だ。
そして その錨の失われるときが、覚者の 肉体の消えるときだ。


あなたは「何が起こるか?」と訊くが、波が消えてなくなるとき 何が起こる?
彼は 消失して海になる。

一人の覚者が 消えるときには、ちょうど波が消えていくように肉体が消える。


覚者とは すでに死んでいる境地だ。
だからこそ覚者と 呼ばれるのだ。
同時に、覚者は けっして死ぬことはない。
なぜなら、ひとたび自我(エゴ)が失われたら、永遠の生命が得られるからだ。

覚者は どこにもいない、が、覚者は あらゆるところにいる。
自己という 中心をもたなくなると、〈実在全体〉が あなたの中心になる。



この問いは愚かしい。
理路整然として意味ありげだが、愚かしい質問だ。

だからこそ愚堂は こう応えている。


“ どうして私が知ってましょう ”


この応答には 多くの意味が こめられている。
愚堂が言っているのは こういうことだ。
「私」は存在していない、 だから私のなかの誰が そんなことを知っていよう。

波が海のなかに 消えていくとき、私が それをどう知りえようか。


上皇

どうしてかって?

そなたも解脱に達している師であろうが ”


人は 師(マスター)から 答をもらうことを期待する。
だが答とは 教師からもらうもの、師からは もらえない。

師は ただあなたのマインドを壊すだけだ。
たとえ 一見答えているようにみえても、師は けっして答えてはいない。


師は はぐらかすのがうまい。
あなたが 何かを訊く。
そうすると 師は 別のことを話しだす。

あなたが Aについて質問すると、師は Bについて話すのだ。
しかし師には 説得力があり、人を引きつける力がある。
だから Bについて話したとしても、あなたは 自分の質問が答えられたのだと納得することになる。

それに、あなたのする質問は 愚かしいものばかりで、答えようにも答えられない見当違いのものばかりだ。
だから 師はけっして答を与えはしない。


師は あなたに、あたかも答えをもらっているような感じを抱かせる。
だが 師が実際やっているのは、あなたの足もとの 地面を引きはがそうとすることだ。

その努力の全ては、あなたのマインドを潰して崩して落とさせてしまうことにある。


もしあなたが 師の近くにしばらくの間でもいることができたら、あなたは壊される。
師とは 一つの混沌(カオス)だ。
その近くにいるうちに、あなたは引き倒されてしまうだろう。

質問も答もなくなっていく。
そうなって初めて、沈黙が あなたの内に在るようになる。
と、師は あなたに関して 成功したことになる。


答は、あなたのマインドに 再び詰めこまれるだけだ。
だから、師は あなたに答などあげられない。
答は理論や 説明となって、あなたが〈現実〉のなかに入っていく邪魔をする。
師は、あなたの持ってくる質問を切り崩す。

そうするとあなたは、次第に問うのを やめるようになる。
そして、問いかけが 一切なくなるときがやって来る。
そのとき初めて、本当の答が 与えられる。


しかし、その答は 言葉によるものではない。
その答は、師の存在 そのものから与えられる。
そのとき師は、自分自身の存在を あなたの内に注ぎこむ。
師は パイプのような媒介役となり、大いなる全体は 師を通ってあなたの内に注ぎこまれる。


“ どうしてかって?

そなたも解脱に達している師であろうが ”


9️⃣へつづく

第七章「死んではいません」7️⃣

(…解脱した人間がどうなるかについての理論は 山ほどある。)

ある人たちは、解脱者は モクシャと呼ばれるところに達して、永遠に永久に生きるのだ と言う。

それに もっと色彩豊かなのもある。
それによると、解脱者は 神の王国に入って、神とともに永遠に永久に生きるのだそうだ。
そこでは イエスが神の玉座の脇に、 右側に坐り 、 天使たちが舞ったり 唄ったりして 祝福が終わりなくつづく------

こういった理論が何百万とあるが、これらは全て 人々を慰めるために 神学者たちが創り出したものだ。
あなた方が 聞きたがるから、誰かが その答えを考え出さなければならない。

しかし、その誰かは けっして解脱に達している人たちではない。

解脱に至った人たちは 沈黙している。
彼らは 関わろうとはしない。


エスは こう言う、野の百合を想うがいいと。
百合は 今 こ こ に 在る、ただそれだけだ。
明日のことなど 少しも気にかけない。
明日は、明日自身が決めていくだろう。


ある人が、 一人の 禅の導師(マスター)のところへ新約聖書を持っていった。
その導師は 数行を読んで この 一節に行きあたった。

野の百合を想うがいい
想い煩うこともなく
明日を思うこともない
今、ここにあってあまねく美しい
あの大王ソロモンが
その栄光の頂きにあった時でさえ
この美しさには及ぶべくもないーーー


その禅師は これを読むと こう言った。
「待て! 誰が言ったか知らないが、これは覚者(ブッダ)だ」


禅師は イエスのことも知らなかったし、キリスト教のことも知らなかった。
キリスト教が 日本にまだそれほど普及していなかった頃のことである。

その禅師は言う。
「待て! もういい。
それ以上言う必要はない。
誰であろうが これは覚者の 一人だ」


解脱に至った人たちは 誰もが皆、 こ の 瞬 間 とどまることを 主張してきている。
だから愚堂もまた こう応えたのだ。

どうして私が知ってましょう と。


上皇

どうしてかって?

そなたも解脱に達している師であろうが ”


師(マスター)から、私たちは 答えをもらうことを期待する。
だが実のところは、師は 答など けっして与えない。

あなたの出す問いを 壊すだけだ。

師からの答への期待と、問いそのものが壊されることのあいだには、とてつもなく大きな差異がある。


師から 私たちは、自分たちの出す 質問への答を期待するが、もし質問自体が 愚かしかったら、答も 質問よりいいものにはなりえない。

馬鹿げた質問に 賢く答えることなどムリだ。
問いそのものが愚劣なのだから。


たとえば 誰かがこんなことを訊ねるとする。
「緑という色は どんな味がするでしょうか?」

ばかばかしい。
関連性が全くない。

ところが、これは質問としては完璧なように見える。
言語学的には完璧な質問だから訊けないことはない。
「緑という色はどんな味がする?」 言葉の上では、言語構成という点では何一つ ミスはない。


いろいろな理由から これと同じことが、この逸話の問いに関しても言える。
「解脱に至った人は 死後どうなるのですか」というのが この質問だが、まず、解脱に至った人間は けっして死なない。

解脱している人とは、永遠の命を知るに至った人のことだ。
だから 死ぬことはありえない。

次に、解脱に至った人は もう人ではなくなっている。
その自我は 溶けて消えてしまった。
だからこそ 解脱していると いえるのだから!

つまり、まず、解脱した人は けっして死なない。

だが、同時に、解脱した人は もうすでに死んでいる。

なぜなら その人は存在していないのだから。


8️⃣へ つづく

第七章「死んではいません」6️⃣

(…それはちょうど 盲目の人が、朝、太陽が昇るとどうなるか訊くようなもの。
どうやって説明すればいい?
どうやったら 伝えられるかね?
それを 伝えることは不可能だ。)


昔、あるところに盲目の人がいたという。

この人は ただの盲目ではなく、相当な哲学者だった。
だが、彼の住んでいる村では、村中が 彼のために悩まされていた。
というのは、彼は 光などというものは この世にないと、論理的に立証してしまうからだった。

彼が言うには、
「私には 手があって、ものに 触れ、 それを感じることができる。
だから、光が どこにあるか 私に示してくれ。
もし存在するのだったら、 それは必ず 触れることができるはずだ。
もし存在するのだったら、それは味わうことができるはずだ。
それを打ったら 私にその音が聞こえるはずだ」


村人たちは、彼の主張に 反論できないものだから 大いに困ってしまった。

彼には 四つの感覚しかなく、こう言うのだ。
「私には 感覚が四つある。
光を 私のところへ もってきてくれさえすれば、私は この 四感を通して、それが果たして存在するかどうか みてみようじゃないか」

村人たちが、「あなたは眼が見えないから、見ることができないんだよ」と 言っても、彼は 笑って こんなことを言うのだ。
「君たちは 夢でもみてるんじゃないかね?
眼って 一体何だ?
君たちに眼があって 私に眼がないなんて、一体 どう証明できる?
光とは何なのか 私に言ってみてくれ。
説明してみてくれ!」


しかし、村人たちにそれはできなかった。
それはとても不可能だった。

そんなわけで彼らは すっかり憂うつになってしまった。
この男は盲目で、彼らには眼がある。
眼があるから 光が何か知っているが、盲目の男に どう光を説明すればいい?


そんなある日、仏陀が この村に立ち寄った。

そこで村人たちは みんなで、この狂った哲学者、盲目狂人を 仏陀の許に連れていき、こう頼んだのだった。
「どうかこの男に 光を説明してやってください。
私たちがどう言っても 駄目でした。
この男は 大した男なのですよ。
光が存在しないことを証明するんです。

触れることもできないし、嗅ぐことも 味わうこともできない、聞くこともできない、それなのに どうやって存在できるのだ、 こう言って 私たちを困らせます。
あなたがここに来たからには、光を彼に 説明してやってください」


すると仏陀は言った。
「お前たちは なんて愚かなんだろう。
眼の見えない人間に 光を説明できるはずがないではないか。
その努力自体 全くバカげている。
私は非常に有能な医者を知っているから、 この男を その医者に連れていって眼の治療を受けさせなさい」

早速その盲目の男は 医者のところに連れていかれ、治療を受けた。
すると彼は 完全な盲目ではないことがわかり、半年も経つうちには 少しずつ見えるようになった。

彼は 別の町にいた仏陀の許にかけつけると、その足下に ひれ伏して言った。
「今こそ、今こそ わかりました。
光は在ります、存在しています。
今になって初めて、あの村人たちが なぜ証明できなかったか分かりました。

それに今こそ、あなたが私を医者に送ってくださったことが本当に良いことだったと分かります。
私には 治療が必要だったのです。
光についての哲学や 理論ではなかったのです」


無知な人間が「解脱に至った人は 死ぬとどうなるのでしょう」と 訊いてきたら、ほうっておくしかない。

それが、「解脱に至った人には、生きている間、何が起こるのでしょう?」という問いであっても 説明は不可能だ。
説明なんかとてもできないことだ。


たとえば、私に何が起こったのかと訊かれても、私には 説明のしようがない。
そんなことは不可能だ。

あなたが 見 る ことを始めない限り、あなたの眼が開かれない限り、説明は 不可能だ。
あなたが 変わらない限り、何 一つ説き明かすことはできない。
コミュニケーションは 不可能なのだ。


解脱とは、まったく異なった質をもった存在の在り方であって、あなたは それに対しては盲目だからだ。


あなたは、私が解脱していることを 信じることはできる。
しかし、それを 見ることはできない。
そう信じることは確かに役には立つ。
なぜなら そう信じることで、あなたは 自分を開いた状態にしておけるからだ。
そういった信頼は役に立つ。

あなたは こう言って否定することだってできるのだから。
「いや、私には信じられない、どうして信じられよう?
自分が知らないのに、どうして信頼できる?」

こういう否定は あなたを閉ざす。
そうなったら もう可能性は 一切ない。

だからこそ宗教の世界では、シュダーラ、 つまり信頼を強調するのだ。
盲目の人は、人々が 光というものがあるよというとき、 ただ それを信じ、信頼するほかない。
そして もし信頼すれば 、そこに 一つの可能性が生まれる。
信頼しなかったら、こんなことを言って 治療さえ認めようとしないだろう。
「あなたたちは何を言っているんだ? 光なんてものはない。
それに、眼なんていうものもありはしない。
私は あなたたちの言うことなど信じない。
だから、互いに時間を無駄にすることはやめよう」


一つの次元から、 別の次元に 何か伝えることは不可能だ。
どうしても うまくいかない。

あなたは、 存在の もう 一つ上の次元へと昇っていかなければならない。
高まって そこに達したとき、初めて、 あなたにも見えてくる。

そして、あなたが見て、経験するとき、初めて あなたのもっていた信頼は満たされる。
しかし、見えるまでは、信じ、信頼するほかない。

そして 自分に 変身が起こることを許すことだ。



“ 愚堂は応える
どうして私が知ってましょう ”


死は まだやってきていません。
それが来るときは 来るまでで、来たら 私も知ることになるだろうから、そのときには 必ずお知らせしましょう。
ですが 今のところは知りません。

解脱に達している人は、あなたに理論を与えようとはしない。

そういう人が あなたにあげたいのは洞察だ。
理論ではない。

洞察は、あなたの 内部の 深い現象だが、理論は 借りものだ。
愚堂だって 答えようと思えば答えられた。
解脱した人間がどうなるかについての理論は 山ほどある。


7️⃣へ つづく

第七章「死んではいません」5️⃣

(…彼(愚堂)の言っている意味は こうだ。
今、この今の瞬間の 私を 見てください。
解脱を得た者が あなたの眼の前にいるのですよ。
この私を 見てください。
なぜ それ以外のことを心配するのですか?)


あるとき、 一人の男が 愚堂に会いにやってきた。

愚堂は高名な師だった。
その男はとても年をとっていて、九十に近い年齢だった。
彼は仏教の ある宗派に属している人で、愚堂に こんなことを訊ねたという。
「私は遠路はるばるやって参りました。
私の命も もう長くありません。
私はつねづね あなたにお会いしたかったのですがーーー愚堂は天皇家の導師として国中に知られていたーーー死ぬ前に ぜひ一度と思い、やって参りました。
というのも、私には 一つどうしてもお尋ねしたいことがあるのです。

五十年近く 経典を学んできましたので、私は ほとんどのことは知り尽くしています。
ですが、一つだけ 私の心を乱すことがあるのです。
それは経典に書かれてある、樹木や岩でさえも解脱に達するということです。
これが、私には どうしても理解できません。
樹木や岩ですよ?」

愚堂は それを聞くと こう言った。
「一つだけ 答えてくれませんか。
あなたはこれまで、自分のことについて 考えたことはないのですか?
自分が解脱できるかどうか、考えたことはないのですか?」

すると その老人は はっとして言った。
「おかしいですね。
白状しますが、私は そんなことは 今まで 一度も考えたことがありません」


樹々や岩が どうして解脱できるのだろうと、この男は、なんと五十年も 考えつづけてきたのだ。

そして遠い道のりを愚堂の許まで、ただただこの質問をするためにやってきた。
だが、自分自身のことは 一度として考えたことがなかった!


人は 死に関する話よくするが、今のこの瞬間を生きて在ることを知らずにいる。

生命(いのち)は こ こ にある。
まず そのことを知りなさい。

そして全身全霊をもって 生きることだ。
なんであなたがたは死の話などする?


人は 死んだらどうなるかについて話す。
だが、 今、 自分に何が起こっているかを 考えた方がずっといい。
そして 死がやってきたら、ただそれに 出会うだけだ。
まず、今ここにある生に 出会いなさい。
もしあなたに 生と出会うことができたら、死と出会うことも できるようになる。


正しく生きることができる人は 正しく死ぬ。

全身全霊をかけて 生きてきた人、豊かな生を生きてきた人、瞬間から瞬間に動き、目覚め 意識して生きてきた人、こういう人は、死がきても 当然同じように 死に向かうだろう。
その死を 生きるだろう。


そういう人は、現在を どう生きるかの特質(クオリティ)を 知っているからだ。
だから、死が 現在になったら それを生きるだけのこと。

しかし、人は 死の方をずっと心配して 生をあまり気にかけない。
だが、
生さえ知ることが できないのに、どうやって死を知ることができる?


死とは、生と別々に在るものではない。

それは 生のクライマックスそのものだ。

だから もしあなたが 生を見逃したら、

死もまた見ることはできない。

死がきても、あなたは 意識を失って昏睡するだろうから。


これは事実、どこにでも起こっていることだ。

人は深い昏睡状態で 死んでいく。
その生全体を 無意識の内に生きてきたからだ。
生を無意識に扱っているのに、どうやって死の直前に意識できるようになる?


死とは 一瞬のうちに起こるもの。

ところが 生は 七十年、 八十年というプロセスでつづく。
もし 八十年かけても 自覚することができないなら、もし意識できるようになるのに 八十年でも充分でないなら、どうやって この 死の一瞬を意識することができよう?


死は、 生の 瞬間瞬間を生きてきた人だけが 見ることができる。

生の 瞬間瞬間を 生きてきていれば、死の瞬間も 見逃さないからだ。


そういう人は明晰(メイセキ)だ。
その 非常に深い 曇りない明智のゆえに、死が来て 動いていくその一瞬でさえ、はっきり見知ることができる。

生を 見 る ことが できた人は、自然に その死もまた見ることができる。

そして その見ることにおいて、人は 生でも死でもないところに 在ることを知る。

ただ、生や 死の 立会人として在るのだ ということを知る。



人が、 解脱に至っている人は 死ぬとどうなるか問う場合、その人は 当然ながら解脱してはいない。

その人は 深い無知から その問いを発している。
だから それに答えるのは 大変むずかしい。


それはちょうど 盲目の人が、朝、太陽が昇るとどうなるか訊くようなもの。

どうやって説明すればいい?
どうやったら 伝えられるかね?

それを 伝えることは不可能だ。


6️⃣へ つづく

第七章「死んではいません」4️⃣

(…宗教的なマインドは 未来について気にかけないし、過去に何があっても 気にかけない。
この瞬間の内に生き、瞬間から瞬間へと 動いていく。
この瞬間が消えるときには、次の この瞬間がくる。
宗教的な人は もうそのなかに動いていっている。
河が 流れてゆくように。)


あなたに憶えておいてほしいことがある。
とても とても深い意味合いのあることだ。

それは、宗教的なマインド、宗教的な人、宗教的な在り方というのは、常に過程(プロセス)であるということだ。
そういう存在は 常に動いている ということだ。


もちろん、その動きには 何の動機があるわけではない。
それは どこか目的地(ゴール)に向かって動く動きではなく、 ただ 動きだけだ。
というのも、 動いていくことこそ〈現実 リアリティ〉の本性だからだ。

動きは〈現実〉の本性であり、宗教的な在り方というのは〈現実〉と 一緒に動くことだ。


河の流れにまかせて 浮いて流れる人のように、宗教的な人も 時間の河とともに流れていく。

ひとつひとつの瞬間を生き、そして、また動く。
特に 何を為すわけではない。
ただ単純に この瞬間を 生きるだけだ。

この瞬間が去れば、次の この瞬間がが来る。
そして その瞬間を生きる。


宗教的な人にとって 始まりはあっても 終わりはない。

覚醒への道程では、始まりはあっても 終わりはない。

それは 詠々と 無限につづく。


これと正反対が 無知について言える。
無知には 始まりがなく 終わりがあるだけだ。
私の無知は いついつ始まりました、こんなことが 言えるかね?

無知に 始まりはない。
仏陀の無知は いつ始まっただろう?

仏陀の無知に 始まりはなかった。
あったのは 終わりだけだ。
それは 二十五世紀も前の 満月の夜に終わりをつげた。


無知には終わりがある。が、始まりはない。
覚醒には 始まりはあるが 終わりはこない。

円輪は こうして完成される。
無知な人間が 解脱するとき、その円輪は 一つの完成した円となる。


無知には始まりがなく、終わりしかない。

覚醒には 始まりしかなく、終わりがない。

こうして円輪が完成する。

こうして、完成された円を内奥にもった、完全な存在が生まれる。
しかし この完全は、けっして不動を意味するものではない。

なぜなら 解脱には、終わりということがないからだ。
それは、無限に 永遠につづけられる。


さて、 一粒の種にも似た この美しい逸話を あなたも理解するよう努めてみなさい。


“ ある上皇が 導師愚堂(グドウ)に 訊いた

解脱に至った人間は

死ぬとどうなる? ”



もし上皇が、この問いを 哲学者にしたのだったら、きっと たくさんの答えをもらったにちがいない。
書物には そんな答えが 山ほど書いてある。


解脱に達した人には、死後 何が起こるのだろう?

仏陀も これと同じ質問を 何回となく受けたという。
そんなとき仏陀は ただ笑うだけだったが、あるとき こんなことがあった。

それは夜のことで、土器の 燭台が仏陀の近くに置かれてあった。
周囲にいた人たちのなかの 一人が この質問を持ち出して言った。
「解脱に達した人の死後は どうなるのですか?」

すると、仏陀は灯火を吹き消して こう言った。
「この炎は もう存在しなくなったわけだが、一体どうなったのかね? 何が起こったのだ?
どこへ行ってしまったのだろう?
あの炎は 今どこに在るのだろう?

ほんの一瞬前までは ここに在ったのに、今は 一体どこに行ってしまったのか?

これと同じことが 解脱に達した人にも起こるのだ」



これは 答というようなものではない。

質問者は 不満だったにちがいない。
仏陀は 質問を はぐらかしている、こう感じたにちがいない。


本当に知ってしまった人たちは、この問いを 必ず避けたり はぐらかしたりする。

だが知らない人たちは、この問いへの答を 多数もっている。
学者や 知識人がそうだ。

彼らに この質問をしてみるがいい。
山ほど 答を出すことだろう。

あなたはそのなかから 好きなのを選べばいい。



“愚堂は 応(コタ)える

どうして私が知っていましょう ”


上皇よ、あなたは 未来のことを訊いているが、私は 今ここにいるのですよ。
私にとって 未来は存在しないのです。

この瞬間だけがあるのであって、 ほかの時間はありません。
あなたは 死について、 しかも解脱に至っている人の死について訊いているが、それは 未来のいつか起こることか 過去に起こったことかのどちらかでしょう?

仏陀は 一体どうなったのだろう?
こう問うのと同じではないですか?


愚堂は だから言ったのだ。

“ どうして私が知っていましょう ”


彼の言っている意味は こうだ。
今、この今の瞬間の 私を 見てください。
解脱を得た者が あなたの眼の前にいるのですよ。
この私を 見てください。

なぜ それ以外のことを心配するのですか?


5️⃣へ つづく

第七章「死んではいません」3️⃣

(…マインドには 二つの中枢(センター)が あって、一つは 考えることをし、もう 一つは 想像する。
両方とも 頭の領域のものだ。)


しかし、宗教は マインドの産み出すものでは全然ない。
それは 科学でも詩でもないか、あるいは またその両方だ。
これだからこそ宗教は、どんな詩にもまして深い神秘となる。


そこでは マインドは落とされる。
そのなかにある いろいろな中枢全てといっしょに マインドは落とされる。
そうなってから、見 る 。


それは ちょうどあなたが眼鏡を外し、脇に置いて視るのと 同じことだ。
マインドは 一つの機構(メカニズム)だから、脇に置くことができる。

あなたは あなたのマインドではない!


マインドとは 窓のようなもの、あなたは 窓辺に立って その窓から見ている。
そうすると、
窓の枠が〈現実リアリティ〉の枠になる。


あなたは 窓から外を見る。
月がのぼって 空は素晴らしく美しい。

しかしその空は、その窓枠で縁(フチ)が付いている空だ。
そしてもし、窓に 色のついたガラスでも嵌められていたら、その時は 空にもその色が付いてしまう。


宗教とは、家のなかから完全に出てくることだ。

〈現実〉を、 窓や扉越しに見るのではなく、 ガラスを通したり、 考えを通して見るのではなく、 ただ、 単純に そのあるがままを見ること、マインドを 脇に置いて見ることだ。


でもあなたには これがむずかしい。
あまりにも ぴったりマインドと 一体になっているので、マインドとは脇に置けるものだ ということを すっかり忘れている。

しかし、これこそ宗教の手法が 目指していることだ。
ヨーガも タントラも、あらゆるかたちの瞑想も、全て、どうやって マインドを脇に置くか、どうやってマインドと 一体になっているアイデンティティーを壊(コワ)すか、どうやってマインドなしで 見るか、そのための方法以外の何物でもない。

そうして見れば、〈現実〉の内の何であれ、存在するものは ヴェールを脱ぐ。
このことを憶えておきなさい。


ときには宗教は 論理の言葉を話す。
その場合、それは神学となる。
またときには 詩情の言葉で話す。
そのときには それは客観芸術となって表れる。

タージ-マハールが それだ。


初めて タージ-マハールを見るとき、客観芸術というものが何であるか あなたにも解るだろう。

タージ-マハールのような芸術作品を 前にしたら、あなたは ただ坐って眺め 、見る だけだ。

すると急に 静けさが あなたを取巻く。
安らぎが あなたの上に おりてくる。

タージ-マハールの 構成そのものが、あなたの内奥に在るものと 関わるのだ。
その形を ただ見ているだけで、あなたのなかの 何かに 変化が起きる。


芸術には 二つのタイプがある。

一つは 主観芸術で、たとえば ピカソの芸術がそれだ。
ピカソの絵を 見ていると、ピカソという人は どんなタイプのマインドの人だったかがよく分かる。
なぜなら彼は、自分のマインドそのものを描いているからだ、彼は 悪夢を生きていたのに ちがいない。
彼の絵は すべて悪夢的だ。

彼の絵を 長い間 見ていると、気分が悪くなったり吐き気がしてくる。

彼が色彩のなかに描いたのは 彼の内なる狂気だ。
そして、その狂気には伝染性がある。
これが 主観芸術だ。


それが何であろうと、絵であろうと 彫刻であろうと、あなたが 自分の内なるものを表すとしたら それは主観芸術だ。


客観芸術では、個人のマインドは 持ちこまない。
ただ、見る人を変えてしまうような、瞑想に導くような いくつかの客観的な法則に従って創られる。

東洋の芸術はすべて、客観的であろうと努めてきた。
芸術家個人は 作品内部に関わらない。
絵かき個人は忘れられ、彫刻するその人は 忘れられる。
建築家も忘れられる。

彼らは 自分たちを 作品のなかに巻きこまない。
彼らが芸術品を創るときには、あるいくつかの客観的法則に従うだけだ。

そして何世紀にもわたり、その作品を見るたびに、見る人の内側に 瞑想的な何かが起こる。


満月の夜、タージ-マハールの近くに座り、黙って、ただ静かに瞑想する。
時が消え、時のない瞬間が起こる------と、突然、タージ-マハールは そこ外界にはなく、あなたの内側で何かが 変化していく。


マインドが作り出すこの世界に〈現実 リアリティ〉を もたらすため、ときどき宗教は 客観芸術を通じて語る。
ときには論理を通じて語る。
そのときには それは神学となり、そこに議論がうまれる。
しかし どちらの場合も、この世界との妥協にすぎない。

ごく普通の凡庸なマインドとの妥協だ。
普通のマインドのなかに 宗教をもたらすための妥協だ。


宗教が 純粋に それ自身の言葉を話すときには、あの老師の 道徳経のように逆説に満ちたものとなる。
ヘラクレイトスの断片的な言葉や、ここに取り上げている禅の逸話なども同じことだ。


宗教が 純粋にそれ自身であるときには、論理と想像の両方を超越する。
宗教は その越えたところ、彼方(カナタ)そのものだ。


では この彼方そのものについて 少し話そう。
そうすれば この逸話に入っていけるだろう。


この逸話は小さい。
まるで 一粒の種のように小さい。
しかし もしあなたが、ハートを 種のための土壌にするなら、それは 大きな木に成長することができよう。


小さい。
形だけを見たら本当に ちっぽけな話だ。
だが あなたに もし、その内に秘められた 形なきものを 見ることができたら、それは無限になる。
それは 永遠になる。


さてこの〈彼方〉に ついてだが、自覚しておいてほしいことがある。


まず、この〈彼方〉は、あなたの 内的な変身を要求するということだ。
あなたが変わらない限り、あなたは それを理解することはできない。
あなたは自分の内部に知覚をもつことが必要になる。


それは知性だけの問題ではない。
天才だからといって 理解できるとは限らないし、かと思うと、ごく普通の村人が理解できるかもしれない。

ときには、アインシュタインのような人でも それを見逃してしまう。
なぜなら これは、 賢さ、 聡明さとは 関係ないものだからだ。

明晰さが 大事なのであって 賢さではない。


明晰というのは 賢さとは違う。
賢い というのは〈現実 リアリティ〉に対して ずる賢いということで、賢さとは ずる賢さのことだ。


明晰ということは 全く違う。
それはずる賢さではなく、子どものような 純真さのことだ。

マインドをもたないで 窓を開け放つ、何の考えも想いも もたないで。


想念でいっぱいのマインドは 明晰さを失う。

それは雲でおおわれた空のようなもの。
考えでいっぱいのマインドは 透明ではない。
それは ゴミ捨て場だ。

ゴミ捨て場を通しては、あなたは〈現実〉が何かを 認識できるようにはなれない。

まず自分自身をそうじして きれいにすることが必要だ。
深いところまでの洗濯が必要だ。


多くの瞑想を通り抜けていかねばならない。
そうすれば、やがて あなたのマインドも、雲一つない青空のように明るく澄んでくる。

だから これは知的な理解の問題ではなく、違ったタイプの 存在の在り方の 問題なのだ。
澄んだ空のような、澄んだ 在り様で 在ることだ。


次に憶えておいてほしいのは、宗教的な人のマインドは、こ の 瞬間を けっして飛び越えて行かないということだ。

この瞬間を飛び越えたら、そのときから あなたはマインドを通して動き始めたことになる。


未来は ここには ない。
だからどうやって未来を見られる?

考えることが できるだけだ。
未来は 考えることだけは できるが、見ることはできない。

見ることができるのは 現在の瞬間だけだ。
この瞬間は すでにここに在る。


だから、宗教的なマインドは この瞬間の内に生きる。


宗教的なマインドに この瞬間を飛び越えさせようとすることはできない。

宗教的なマインドが 未来について考えたら、 その瞬間、もう宗教的でなくなる。
たちまちマインドの質が 変わってくる。

宗教的なマインドというのは 今ここに存在する。
そして、
それだけが 唯一の在り方だ。


あなたがもし、未来のことを、ここにない時間のことを 考え始めたら、あなたは もうすでに、マインドの仕掛けた ワナに はまったのだ。

あなたは 思考が形作られるのを 許したことになる。

現在のなかには 思考は全くない。


こんな観察をしたことがあるだろうか。
今この瞬間、思考は どうやって存在できる?


現在 という時点には 思考は一切存在しない。
思考は 常に、未来か 過去のどちらかのなかで存在する。

過去のことを考えるかーーーその場合には想像がある。
それとも未来のことを考えるかーーーその場合は論理がある。
その どちらかだ。


現在を どうやって考えることができる?
現在においては、あなたは た だ 在 る だけだ!

そしてこの瞬間は とても繊細で、とても小さい。
原子のように小さい。

だから、思考が 存在する余地は 全くない。


思考は 空間を必要とする。
部屋が要る。

そして 現在のなかには 思考のためのスペースはない。
その内には 在 る ということしかない。

ゆえに、 あなたが現在に在るときには 必ず考えることは止まる。
あるいは こう言ってもいい。
あなたが考えることをやめれば、あなたは 現在に在ることになる。

宗教的なマインドは 未来について気にかけないし、過去に何があっても 気にかけない。
この瞬間の内に生き、瞬間から瞬間へと 動いていく。
この瞬間が消えるときには、次の この瞬間がくる。
宗教的な人は もうそのなかに動いていっている。
河が 流れてゆくように。


4️⃣へ つづく

第七章「死んではいません」2️⃣

(…哲学を理解するのは 少しもむずかしくない。
だが、宗教を理解することは ほとんど不可能だ。
論理の使う言語は簡単だが、宗教は 語ることができない。
宗教は〈現実〉の言葉を話さなければならないからだ。)


論理とは、 マインドが〈現実〉のなかから選び出した〈現実〉の 断片にすぎない。
全一(トータル)ではない。

宗教は 全体を受け入れて、その あるがままを知ろうとする。
論理は マインドの建造物だ。

哲学や 論理学や科学などは、全て マインドで組み立てたもの、全て 論理に基づいている。


宗教は、人のマインド全体を 解体する。

哲学は〈現実 リアリティ〉に関して マインドが創った 一つの構造でありシステムだ。

マインドは そこに居座って、あなたに選択させたり 自己投影させたり、判断させたりする。

宗教では、あなたは その構造を解体しなければならない。


〈現実 リアリティ〉は あるがままに在るのであって、あなたはその〈現実〉を どうこうしてはならない。

マインドを落として、よく見てごらん。
マインドがあると、全体を見る邪魔になる。
マインドは 一貫性ということに取り憑かれていて、矛盾を認めようとしないのだから。


だから、解脱に達している人の近くに行くと、あなたのマインドは 必ず困惑する。
あなたは さまざまな矛盾を彼に感じる。
あなたのマインドは こんなことを言うだろう。

この人は こうだと言って、次には それに矛盾することを言う。
そして これだと言うかと思うと 今度は全く別なことを話すし、一貫性がない------


宗教的な人は、その在り方の性質から言って 矛盾に満ちている。
そう在らざるを得ない。
彼は 一貫性を探し求めているのではない。
真実を求めている。
〈本物〉を求めている。
そして 、〈現実〉が たとえ何であろうと、〈本物〉の もののためには、〈現実 リアリティ〉のためには、すべてを落とす用意がある。


彼は〈現実〉の構造を 前もって公式化したりすることはない。
〈現実〉とは こうあるべきだという考えは ひとかけらもない。
もしそれが 矛盾だらけだったら 矛盾だらけなのだ。
それで結構、 OK というわけだ。

彼は、〈現実〉に対して こちらから押しつけるものは 何ももっていない。


宗教的なマインドは、〈現実〉が 自らヴェールを脱ぐようにさせるだけだ。
それがどんなものかという考えは 一切持たない。

宗教的な人は 受身だ。

論理的な人、哲学的な人、科学的な人は 攻撃的だ。
そういう人たちは ある考えを思いつくと、その考えを通して〈現実 リアリティ〉を構成する。
その考えの周辺で〈本物 ザ-リアル〉を発見しようとする。
ところが その考えは、人が〈本物〉を見出そうとすると、そうはさせまいとする。
その考えそのものが 邪魔をするのだ。


したがって、一つの道として論理の道があり、もう一つの道として詩情の道がある。

詩情は論理に対立する。

論理は合理的だが 詩情は不合理だ。

論理は論理的だが、 詩情は想像的だ。

この違いをよく憶えておきなさい。
なぜなら宗教は、そのどちらでもない。
論理的でも詩的でもない。


論理は マインドが生み出すものだが、想像もまた マインドの産物だ。

詩人は〈現実〉を想像する。
もちろん、詩人の〈現実〉は、論理学者の〈現実〉より ずっと色彩豊かだ。
詩人は 想像することを怖れない。
全く自由に 想像の世界を泳ぐ。

詩人はべつに、何か特定の考えを追わなければならないことはない。
ただ〈現実〉について 夢みるだけでいい。

しかし、これもまた に つ い て だ。
詩人もまた〈現実〉に つ い て 夢みるのだ。

美しい大いなる〈全体〉が、その 夢みることから創りだされる。
その深い底のほうに 幻想があるから、詩人は 豊かな色彩に満ちている。


一方、 論理は 平坦で色がない。
ほとんど灰色に近い。
そこに 詩情は 全くない。
想像が 欠けている。


詩には 矛盾がいっぱいある。
想像から 生みだされるからだ。

矛盾であろうがどうであろうが かまわない。
詩人に 一貫性を持つように とは 誰も望まない。
たとえ今日 ある詩を書いて、明日、今日の詩と 全く矛盾する詩を 書いたとしても、誰一人 気にかけない。

人々は、これは 詩なんだから、と 言うだけだ。


もし、絵かきが 今日ある絵を描いて、明日 まったく反対の絵を 描いたとしても、絵かきには 一貫性を求めないから、「一体 あなたは何をやっているんです?」とは 誰も訊かない。

「昨日は 月を黄色に塗ったのに 今日の月は 赤いじゃありませんか。 矛盾してはいませんか?」

こんなことを言う人は 誰もいない。
そこにあるのは 詩なのだ。

絵というのは 詩だし、 彫刻も詩だ。

そして、人は 詩人たちには どんな自由も許す。
しかし 詩というのも想像の産物に すぎない。



マインドには 二つの中枢(センター)が あって、一つは 考えることをし、もう 一つは 想像する。

両方とも 頭の領域のものだ。


3️⃣へ つづく