saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章「死んではいません」1️⃣

「草はひとりで生える」by OSHO
発行 / OEJ Books

第七章 死んでは いません 1975.2.27 講話



“ ある上皇が 導師愚堂(ぐどう)に訊いた

解脱に至った人間は
死ぬと どうなる?


愚堂は 応える

どうして私が 知ってましょう



上皇

どうしてかって?
そなたも 解脱に達している師であろうが



愚堂 言う

その通りです
が まだ 死んではおりません ”




人間は〈本物 ザ- リアル〉に関して 無知だ。
〈本物〉を知ることはむずかしい。

〈本物〉を 知るためには、まず自分が〈本物〉にならねばならないからだ。
同じ質のものだけが、 同じものを 知ることができる。


人間は 偽りに満ちている。
人間として存在しているものの、 たいへんな偽善者だ。

自分自身が〈本物〉ではないのだ。

自分の 本来の顔は まったく失われている。

いくつもの顔を持ち、そのたくさんの顔を使う。
ところが、
自分自身は その本来の顔に、自分の〈本物〉の顔に 気づいていない。


人間は 真似をする。
他人(ひと)の真似を しつづける。

そのうちに、少しずつ、 自分には自分だけの 独特(ユニーク)な在り方があることを 忘れていく。

〈本物〉は、 あなた自身が〈本物〉でない限り 知ることはできない。
それには並々ならぬ努力が要る。
その道は 険しい。


そこで 人は、トリックを試みる。
つまり、〈本物〉に つ い て 考え始めるのだ。

哲学的な解釈を与えたり、理論を作り出したり、〈本物〉についての 知的な系統づけまでする。


哲学というのは 全部これだ。
〈 ザ- リアル 本物〉を知らない という無知に関して 自分自身をだますために、マインドが考え出した トリック、それが哲学だ。
だからこの世は 哲学であふれていて、世界中が、思想や 理論の上で暮らしている。

ヒンドゥー教イスラム教、 キリスト教ジャイナ教、 仏教、数え切れないほどの思想だ。


それらは みんな安っぽい。
そのなかでは、あなたは 自分を変える必要がない。
ごく普通の知性、平凡なマインドがあれば それで済む。
高い IQは 必要ないから むずかしいことは全くない。

それらの思想を採用することで、あなたは 自分の無知を 自身に対して隠すのだ。



哲学とは 隠すための手段にすぎない。

何一つ知らないのに、人は 知っているような感じを 抱き始める。

一歩も踏み出していないのに、もう到達したように感じる。


哲学というのは 最悪の病気だ。
一度 この病気にかかったら、そこから抜け出すのは 大変むずかしい。
なぜなら、
それは エゴを たっぷり満足させてくれるからだ。


人は、自分の無知を知ると 傷つく。
そして、この無知は全面的で 完璧なものだ。
あなたは 本当に 全く何も知らない。


あなたは 真っ暗な無知の内にあるのだが、このことは エゴを ひどく傷つける。

あなたは何かを知りたいと思う。
少なくとも 何か知りたい。

哲学は そういうあなたの慰めになる。
そこには 理論がある。
あなたに 普通の聡明さがあれば それで充分だ。
理論を学ぶこともできるし、自分自身のシステムや 哲学をもつこともできる。

そうなったら、あなたは 楽になる。
そうなれば、あなたは 自分が何かを知るだけでなく、他人に教えることもできる。
忠告することもできる。
自分の知識を 他人に 見せびらかすことができるのだ。
そして、
全ては うまくおさまって、無知は 忘れられる。


哲学とは、〈現実(リアリティ)〉について、本物の様相について 理論的な構築をすることだ。

それは つ い て であり、に 関 し て であって、〈本物〉そのものではない。

まるで薮(やぶ)を つついてまわるように、ぐるぐる周囲を まわりつづけるだけだ。
〈本物〉の 中心に触れることは けっしてない。
そんなことはできない話だ。
それは 哲学には 不可能なことだ。

なぜ 不可能なのか?

それは、哲学は 理論を基にしているのに、〈現実〉は 理論を越えているからだ。

あなたは このことを もう少し理解しなければならない。


倫理は 一貫性を求める。
〈現実〉には 一貫性がない。
いや、
別の言い方をすれば、〈現実〉には あまりにも深い 一貫性があるので、たとえ正反対のものであっても 矛盾しない。

〈現実〉は 逆説的であり、あらゆる反対のものが〈現実〉のなかで 出会い、混ざり合い 溶け合う。
それは とてつもなく広大だ。

論理は 狭い。
論理は 道路のようなもので、狭く、しかも ゴール到着を 指向する。
〈現実〉は 広大な空間であり、ゴールもなければ どこへ向かうということもない。

それは すでに こ こ に あって、あらゆる次元が 一緒になって動いている。

論理は平坦だが、〈現実〉には 多くの次元がある。


論理では、Aは あくまでもA で、けっしてB ではありえない。
これこそ 論理の 一貫性だ。

〈現実〉の内では、Aは、Aであるけれど、いつでも 動いていってBにもなる。


論理で言えば、生は 生であって、けっして死ではありえない。
どうして 生が 死でありうる?

ところが〈現実〉の内では、生は瞬間ごとに 死に向かって動いている。
生は 死なのだ。


論理では、 愛は愛であって、憎しみではありえない と言う。
しかし、 愛は 一瞬ごとに 憎しみに向かって動いているし、憎しみは 一瞬 一瞬、愛に向かって動いている。

あなたは、同じ人を愛し、また憎む。
愛が 深ければ深いほど 憎しみもまた深い。
愛と 憎しみは 同じコインの表裏なのだ。


あなたは 人を 愛することなく憎めるかね?

まず 愛さなくては、憎むことはできない。
憎しみは、その第一段階に 愛を必要とする。

友情を 一度も感じたことのない人に、 どうやったら敵意をもてる?


友と敵とは 、論理のなかだけで 区別されているのであって、〈現実(リアリティ)〉にあっては 二つは 一緒だ。

あなたも、自分のもっている憎しみを 深く 探(さぐ)っていけば、そこに隠された愛を 見つけることができるだろう。


あなたが 生まれた瞬間、死も またあなたと共に生まれる。
誕生は 死の始まりであり、死は 誕生のクライマックスだ。


ギリシャの神秘家、ヘラクレイトスは こう言っている。

神は 生と死
夏と冬
飢えと飽満
善と悪

常に 両性に在り

神は 現実 (リアリティ)



〈現実〉を よく見ると、 あなたにも、 あらゆる反対のものが 内側で出会っているのが見えるはずだ。

〈現実〉は 矛盾に満ちている。

論理には 矛盾がない。
論理は 簡単で、単純で汚れがなくきれいだ。

〈現実〉は とても複合的だ。
〈現実〉は 三段論法のようにはいかない。

〈現実〉の次元は多様だから、数学の公式のようにはいかない。
そして、
矛盾し合うものは 全て 一緒になって、それぞれ相互関係を保っている。


昼は夜になり、夜は昼になっていく。
朝とは、夜がくるという徴(しるし)に ほかならない。

若さは 老いるし、美しさも変わって醜くなる。

何もかも変わり、その反対になる。


このことを 深く理解しておきなさい。
なぜなら、これこそ、哲学と宗教のあいだにある根本的な違いなのだから。


哲学は論理的だが 宗教は違う。
哲学は論理的だが、宗教は〈現実〉的だ。

哲学を理解するのは 少しもむずかしくない。
だが、宗教を理解することは ほとんど不可能だ。

論理の使う言語は簡単だが、宗教は 語ることができない。
宗教は〈現実〉の言葉を話さなければならないからだ。


2️⃣へ つづく

問題は 一つだけーーー 11

(…このことは、深い瞑想のなかで起こることと まったく同じだ。)

そこでもまた、あなたは闘う。
あなたの 内なる存在が大きく開くと、そこに深淵が ぽっかり口をあける。

それは ちょうど渦巻のようなものだ。
そこで闘い始めたら、あなたは 粉々に打ち砕かれる。
あなたはそれを認めて 受け容れなければならない。

ただ それと共に動いていけばいい。
それと闘わないことだ。

ただ 一緒に動いていって、それが導くままに行くだけでいい。
あなたは 自分のエネルギーをしまっておいて、少しのロスもないようにする。
渦巻に乗って巻かれていくだけなのだから。


起こっていること全てを 楽しむがいい。

あなたは 渦の翼に乗って飛んでいるようなものだ。
一秒とたたないうちに あなたは底に引きこまれる。

その力は 途轍もないから、多くの人々を殺してしまいさえする。
そして ひとたび底の近くまできたら、簡単に それから脱け出すことができる。
いや 脱け出す必要もない。
渦の勢いは もうあなたを引きとめておくほど強くはない。
だから、あなたは そこからただ出ていくだけだ。


これとまったく同じことが 深い瞑想のなかで起こる。
あなたは 息苦しくなり、何かに掴(つか)まえられたような感じになる。
何かがあなたに乗り移ったようになり、何か強い磁力に 引きこまれていく。
あなたは抵抗して 闘い始めるだろう。

だが、もし抵抗すれば、あなたのエネルギーは 吸いこまれていくだけだ。


エスの言葉で、クリスチャンたちが、もう二千年も どう解釈したらいいのかわからない とても信じがたい言葉がある。
それは、「悪魔に抗(あらが)うなかれ」という言葉だ。
つまり、相手が悪魔であっても 抵抗してはならない ということだ。


もし抵抗したら 悪魔が勝つ。

あなたは ほんのちっぽけなエネルギーにすぎない。
抗うなかれ。

闘う ということ自体、あなたの負けを 示唆する。

ところが、闘わなければ 誰も あなたを負かすことはできない。

たとえ 非常に邪悪な力、悪魔が相手であっても、もし あなたが 闘うことをしなかったら、相手は あなたを 打ち負かすことはできない。

もし闘い始めたら、あなたは もうすでに破れたも同じだ。


闘いとなれば 失敗は目にみえている。
だが、
抵抗したり 闘ったりしなければ、失敗することは あり得ない。

闘いもしないのに 負けるはずはないだろう?


柔道の奥義は まさに これだ。
闘わない。

日本は 柔道という 全く微妙な武術を発展させたが、柔道で修行を積んだ人は 負けるということを知らない。
なぜなら、闘わないからだ。

たとえあなたが そういう人を殴っても、その人は、あなたが殴ることで出したエネルギーを吸収する。
抵抗はしない。
闘わないのだ。

そして数分後には、あなたが いくら強かろうが 負かされてしまう。
どんなに弱くても、柔道を知っていれば 相手を負かすことができる。


あなたも 観察すれば、こういったことが 周囲でしょっちゅう起こっているのが分かるだろう。

例えば あなたは小さな子供が転ぶのを見る。
子供は 一日 何回となく転び、そしてまた起き上がると 転んだことなど忘れてしまう。

ところが、もしあなたが子供のような転び方をしたら、これはもう 必ず病院行きだ。

では 子供が転ぶときには 一体何がどうなっているのだろう?

子供は ただ単純に転ぶだけで 抵抗は 一切しない。
子供は 重力に引っぱられるままに動く。

子供は ただ転ぶ。
抵抗せずに、クッションが落ちるように転ぶ。

ところが あなたが転ぶときには 抵抗がある。
まず、
転ばないように 力んでしまう。
細胞の全部、骨の 一本一本が 緊張してこわばる。

緊張した骨と 張りつめた神経が、いやいやながら 逆らいながら転んだら、多くのものが壊れるわけだ。
重力に引っぱられて というより、あなた自身の抵抗が ケガを生む。


それから、酔っぱらいが 道ばたで転んでいるのを 見たことがあるだろうか?

溝に落ちて ころがっている酔っぱらい。
ところが 何ともない。
次の朝には ケロリとしている。

そして会社に出かけ、夜になると また転ぶだろう。
酔っぱらいには、 あなたの知らない 転び方の秘訣があるにちがいない。

それは 何だろう?

つまり こうだ。
酔っぱらいすぎて 抵抗できなくなっている というわけだ。

抵抗できないから 、ただ単純に転ぶ。

だから、次の朝には まるっきり OK でいられる。
また 楽しく仕事に出かけていく。

もしあなたが 酔っぱらいと同じように転んだとしたら、まっすぐ病院に運ばれることになるだろう。
あちこち骨折したり 傷ついたりしているだろう。

そういうケガは すべて、あなたが 闘うことから 起こるのだ。

以下 略ーーー



「草は ひとりでに 生える」by OSHO

発行 / O E J Books

問題は 一つだけーーー🔟

(…物理的な肉体なら 生きて浮かぶはずがない。
そんなことは 全ての法則に反している。)


“ 私は何か 精霊のようなものを見たのだと思ったが
やはりあなたは人間だった
教えていただけないでしょうか?
水を あのようにくぐるには 何か秘訣があるのでしょうか? ”

老人よ、あなたは奇跡をやりとげた。
とても信じられないようなことです。
あのように 水とつき合うには、何かやり方が、秘訣があるのでしょうか?

孔子は単に、方法や 技法やテクニックを、つまり やり方ということを信じてきた人だ。
これは エゴが好んで信じたがるものだ。


私のところへ来る人々のなかで、こんなことを言う人たちがいる。
どうやったら 恋におちることができますか?
やり方があるのですか?

どうやったら恋におちるかだって!

彼らが求めるのは方法であり、テクニックだ。

何を求めているのか、自分には理解できてないとみえる。


恋におちるのに やり方もないし、テクニックも 技法もない。
方法論もない。
だからこそ「おちる」という言葉になっているではないか。
あなたは、制御や コントロールから外れて、まさに お ち て い く のだ。


だから、マインドで ものごとを捉(とら)える人たちは、恋は盲目 と言っている。
彼らは、恋や 愛は 盲目だと言って、あいつは狂ったのだと思う。

理性にとって 愛は 狂気に見えるのだ。
なぜなら、理性というのは 偉大なる操り師だから、何でもコントロールを失ったものは 危険に見える。


だから、孔子も やり方を求めた。

河と どういう風につきあうのですか?
どうやったら 生きて浮かんでこられるのですか?
何か 特別なテクニックがあるにちがいありません。

これは テクニック指向のマインドだ。

世界の 技術文明を生みだす精神だ。


しかし 人間には ハートの世界もある。

そして 人間としての存在や 意識の世界もある。
そこでは 技術や テクノロジーは不可能だ。

技術は 物質に対してだけ可能なのであって、意識の世界に 技術はありえない。

実際 ここではコントロールは不可能だ。
コントロールしようとする その努力、何かを起こそうとする その努力、この 努力そのものは エゴイスティックなものだ。


孔子は、全てを委(ゆだ)ねる ということがあることを知らない。


もしあなたが 河を愛する人だったら、そして河で泳ぎ 遊んできた人だったら、この老人の 言ったことがわかるにちがいない。

私自身 河をとても愛していたから、渦(うず)に巻かれて 河底に落ちていくことが 最高にビューティフルな体験であることを よく知っている。


河には、特に大雨が降って洪水になったときの河には、たくさんの渦巻きができている。

すごい力の、 強い渦だ。
水は その周りを ちょうどスクリューのように回って動く。

もしそのなかに巻きこまれたら、水の力で底に引き込まれる。
そして 深くいけばいくほど渦の力は強くなる。

エゴの自然な傾向としては それと闘おうとするだろう。
それは当然だ。

それは 死を想わせるものだし、エゴは 死を ひじょうに怖れている。
エゴは その渦と 闘おうとする、だが、もしあなたが 洪水の河にできた渦巻や 滝つぼの渦と 闘おうものなら、あなたは 負ける。

渦の力は 途轍もなく強いから、それと闘うことなどできはしない。
力は 役に立たない。


渦に抗って 闘えば闘うほど あなたは弱る。
渦は あなたを引き込みつづけ、あなたはそれを なんとかしようとする。

努力すれば するほど、その分エネルギーが なくなる。
すぐに あなたは 疲れてしまい、渦に巻きこまれて底に 落ちていく。


渦巻現象 というものを よく見るがいい。
水の表面のところでは 渦は大きくなっている。
深く下に 行けば行くほど渦は とても小さくなっていくから、何もしなくても簡単に抜け出られる。

実際 渦のほうが あなたを追い出す。
底に近いところでだ。

もし 水の表面で 闘い始めたら もうお終いだ。
とても生きては戻れない。

私は いろんな渦巻で試してみたが、素敵な経験だった。


このことは、深い瞑想のなかで起こることと まったく同じだ。


11へ つづく

問題は 一つだけーーー9️⃣

(…中心とは 宇宙のなかに在るのであって、自分は その 一部分なのだと。)

宗教的な人たちは言う。
「もし神がいるとしたら 神だけが我(われ)という言葉を使うことが許される。
ほかの誰でも我という言葉を使うべきではない。
なぜなら〈実存〉の中心は 一つだけだから」

中心が 無数に在るということはありえない。
宇宙は無数にあるわけでなく たった一つだけだ。
だから 中心があるとしたら 一つしかありえない。

私たちは みんな参加して それを分かちあっている。

私たちには、中心は 自分の内側にあるとは主張することはできない。
禅の人たちは だからこそ言う。
「へりくだるな、ただ我をなくして 無我となれ」と。


へりくだる ということは エゴの仕掛けるトリックだ。
このエゴは けっして低俗なエゴではない。
洗練されて磨きのかかったエゴの 巧妙な策略だ。


エゴには 二つのタイプがある。

低俗なエゴは、教養のない 無教育の野蛮な人のなかに見られ、もう一つの 洗練されたエゴのほうは、上品で磨かれていて 風雅ですらあり、微妙なエゴだ。
なかなか見破るのはむずかしい。
いつも へりくだったポーズをしている。
だが、
その謙虚さや 素朴さは 全て姿勢にすぎない。


そして孔子は 教養ある文明人の頂点にいる。
彼は 教化ということを信じていた。
彼は言う。
「生は 苦しい闘いだから、多くの法則に従わねばならないし、厳しい規律を課さなければならない。
そして 不必要に 他人を刺激してはならない。
エネルギーを保存しておきなさい。
それが必要になる闘いも起こってくるだろうから、誰とでも 闘うようなことは やめなさい。
必要ないことだ。
エネルギーは蓄えておかねばならない。
そうすれば いつか必要になったとき、本当に闘うことができるというものだ。
だが その闘いは、洗練された教養のあるものでなければならない。
座り方、立ち方、動き方、振る舞い方------」


孔子は 闘い方にまで 法則をもっていた。

この世の 何百、 何千万というエゴの只中で、このエゴのジャングルのなかで、人は 自分の道を見つけなければならない。
ゴールに 辿りつきたかったら、そのエゴ 一つ一つと不必要に争うことはない。
ただ 通り過ぎればいい。
誰も その道を邪魔しないように、へりくだった謙虚なやり方で通り過ぎることだ。

こういう孔子の へりくだりは、だから外交的なものでしかない。
政治的でこそあれ、宗教的ではない。


孔子は 宗教的な人ではなかった。
この孔子のために、 中国は 共産主義の犠牲になったともいえる。
孔子が ずっと長い間、中国の中心的な力として とどまったからだ。

たくさんの人が 私にこんなことを訊ねる。
どうして 中国のように宗教的な国が 共産主義の犠牲になったのか? と。

なぜ あのように唯物的な哲学に走ってしまったのか? と。
だが、
これは偶然ではないのだ。
仏陀は 仏教として中国に入っていったし、老師も存在した。
荘子も いた。

しかし 彼らは けっして中心的な勢力には なれなかった。

中心的な力は ずっと孔子でありつづけた。


そして孔子マルクスとは 旅仲間みたいなものであって、互いのあいだに 問題はないのだ。

インドが 共産主義になるのは むずかしいが、中国がなるのは 極めて簡単だ。
しかも あんなに突然に、あれほど急速になることができる。
というのも、孔子的マインドは まったく政治的、外交的であり、唯物的であるからだ。


禅や 道家の人たちは いつも孔子のことを笑っていた。
そして この話は 彼らの味わいあるジョークの 一つだ。
わかるかな?


“ あるとき 孔子は呂梁(ろりょう)の 大滝を見に行った

その滝は 二百尺もの高みから落ちていて
その水しぶきは 十五里先にまで及んでいた
魚や亀ですら そのなかでは生き永らえないほどの激しい水勢である


ところが 孔子は 一人の老人が その滝つぼに入っていくのを見た
きっと幾多の苦しみの末に
みずから生命を 絶とうと望んでいるにちがいない
そう思って 孔子は 弟子の一人を滝の淵に走らせた
老人を救おうとしてのことだ


老人は 百歩ほど離れたところで浮かび上がった
そして 濡れ髪を風になびかせながら
淵に沿って 楽しそうに鼻唄まじりで行く


孔子は 老人の後を追った
そして追いついたとき 訊ねた


私は 何か精霊のようなものを 見たのだと思ったが
やはりあなたは 人間だった
教えていただけないでしょうか?
水を あのようにくぐるには 何か秘訣があるのでしょうか? ”



孔子には、このような大滝に入るということは、ほとんど不可能に思われた。
二百尺という高いところから 流れ落ちる河ーーーその水しぶきは 十何里という遠くにまで広がっている。

そこに老人が 一人水浴びにきた。
河に 水浴びに。


とんでもないことだ!

この滝の とてつもないエネルギーは、たちどころに この老人を殺してしまうだろう。
生きて浮かび上がることなど とてもできるはずがない。
河底に、 岩の間に巻きこまれ、 打ちつけられてしまう。

初め 孔子は この老人が自殺しようとしているのだと思った。
なぜなら この滝つぼからは、とても生きて帰れるはずがない と思ったからだ。

だから彼は 弟子の一人を走らせて 老人を救おうとした。

だが 老人は 飛びこんだ。
そして少し離れた所で また浮かび上がってきた。
生きたままで。
とても 信じられないことだ。


どうしてだろう? 孔子にとって、なぜ それは信じられないようなことだったのか?

それは、孔子が闘争を信じる人間だからだ。

彼は、大自然に合わせて 流れていく秘訣を知らなかった。

この話のなかにある ジョークの部分は まさにこれだ。
つまり 彼は 知 ら な か っ た 。


彼は、泳ぎ方や 規則などは 全部知っていたかもしれない。
が、いかに河と共に 流れるかは知らなかった。

彼は その秘訣である 任(まか)せる ということを知らなかったのだ。

だから彼は 自分の眼を疑いさえした。
老人を 何かの霊かと思った。
物理的な肉体なら 生きて浮かぶはずがない。
そんなことは 全ての法則に反している。


🔟へ つづく

問題は 一つだけーーー8️⃣

(…そうなったら エゴはなくなり、あなたは 自分が ただ無力だったのだ と分かってくる。
自分は 頼っていたのであって、世界の中心では なかったのだ と分かってくる。)


実際のところ、あなたは自分では 何一つできなかった。
頼らなければ 生き延びることはできなかった。
これを理解することで エゴは 少しずつ薄らいでいき、ひとたび 生との間に なんの葛藤もなくなったら、あなたは ゆったりと自然になる。

あなたはリラックスする。

そうなれば、あなたは ふんわり浮きあがる。

世界は 敵でいっぱいのところではなくなり、むしろ 一つの家族、一つの 有機的に結ばれた統一体になる。

そして 世界は あなたに対立するものではなく、あなたが 浮かんでいられるところになる。

これこそ、この小さな逸話の意味することだ。


これは 禅の人たちや道教の人たちが よく使う話だが、このなかに入っていく前に、二、三のことを あなたに話しておこう。

道教や禅の人たちは いつも孔子のことを ジョークの種にしてきた。
これも まさに 一つのジョークだといえる。
なぜなら、彼らにとって孔子は法精神の最高峰だからだ。

孔子という人は、エゴの手本、エゴの典型そのものだ。
巧妙で洗練され 教養豊かなエゴだ。


孔子の哲学は全て、他の人たちと衝突せずに エゴを保っていきながら、しかも いかにエゴに磨きをかけるか、ということにある。


教養人というのが つまりこれだ。
教養人には 謙虚さがない。 全くない!
教養人は たいへん巧妙なエゴイストで、
ひじょうに 狡賢い。

どんな人間関係にも 自分のエゴを持ちこまない。

彼らは エゴを こっそり隠しておき、自分が とても謙虚であることを示そうとする。

にっこり微笑して 頭を下げる。
が、これが 単なる外交的なものだということは 見ていてよくわかる。


孔子が言うには、「この世界に生きるためには、他のエゴたちと共に存在していかなければならないから、自分が どうふるまうかに関して、人は 充分すぎるほどに 気を配るべきである。

さもなければれば 不必要なトラブルが起きてくる」


これだからこそ、孔子は 三千三百もの法則をもって、人が 如何に振舞うべきかを説いたのだ。

どんなことに関しても 彼は法則をもっていた。
例えば、どんな衣服を着るべきか というようなことにまでだ。


道教や 禅と、孔子儒教的思考との違いを よく見てみるがいい。
なぜなら その違いが、全世界を通じて 宗教と道徳を区別させてきたものだからだ。

モラリストというのは 宗教的人間とは違う。
だが、その違いは とても微妙だ。


モラリストは 謙虚であろうとする。

そして 宗教的な人は 実際に謙虚だ。

モラリストは あらゆるところで へりくだったポーズをとる。
ポーズだ!

修養して 得たジェスチャーにすぎない。


宗教的な人は ただ たんに謙虚なのであって、それは ポーズではない。


エゴとは ナンセンスなものだ。

エゴには 存在するための土台などない。

エゴとは 子供っぽい夢にすぎない。

無知だったために 誤解していたのだ と理解することで、宗教的な人間は エゴのない存在になっていく。

エゴは蒸発して 消えていく。
宗教的な人は 謙虚に な る わけではない。

そうでなく、ただ エゴ無しに なるだけだ。

エゴがないのに どうやって謙虚になることができよう?

エゴだけが、謙虚に な る ことができるのだから、エゴ無しに なっているのに 一体誰が謙虚になるのだね?


宗教人は ただ、自分が存在しないことを 知っているだけだ。
そして 自分はこの、 広大無辺な有機体である 宇宙のほんの 一部にすぎないと 知るようになる。
分離した存在ではない。

だから エゴイストになろうとする自分は もういない。
謙虚に な ろ う とする自分も いない。
その人 という個は 存在しない。

自分の内側には、中心を作りあげているものは 実在しないと 知るだけだ。

中心とは 宇宙のなかに在るのであって、自分は その 一部分なのだと。


9️⃣へ つづく

問題は 一つだけーーー7️⃣

(…子供のときに かき集めたエゴのために 愛することができなくなり、誰とも気楽に いっしょにいられない。)


エゴは いつも闘争状態にある。
あなたは 今 静かに座っているかもしれない。
だが、エゴは 常に闘っている。
周りを見回しては、どうやったら人を支配できるか、どうすれば 自分の言うとおりになるか、どうしたら 世のなかで 一番偉い最高の人間になれるか、考え、見張っている。


これが、至る所で問題を引き起こす。

友情、愛、社会。
あらゆるところで あなたは衝突する。
あなたに このエゴを与えた両親とのあいだにすら葛藤がある。

息子が父親を許すことは稀有だし、母親を許し、受け容れる女性も また稀だ。
ほとんどいない。


グルジェフは 人と会う部屋の壁に、一つの文章を書いて張っておいた。
グルジェフのような人間が、こんなに単純な文章を書くなんて信じられないことだ。
その文章とは、
「もしあなたが、父親とも母親とも 気楽になれないのだったら さっさと帰りなさい。
私には あなたを助けることはできない」というものだ。


なぜ そうなのだろう?

つまり、問題は そ こ から起こっているのだから、そこで解決されなければならない ということだ。

昔の東洋の伝統で、親を愛しなさい、尊敬しなさい、 と強く言っているのはここからきている。

親を愛し敬いなさい。しかも可能な限り深く。

なぜなら エゴが生まれ育ったのは、そ こ だからだ。
そこが エゴの土壌なのだから、そこで解消させなさい。
さもなければ あらゆるところで、それはあなたに ついてまわる。


今日の精神分析学もまた この事実に行き当たっている。
精神分析的に なされることは、両親との間にあった問題にまで 人を戻って行かせ、そこで その問題を解こうというものだ。

もし両親との間にある不一致を 解決することができたら、ほかの さまざまな不一致や 衝突は 簡単に消えていく。
というのは、そういった問題の多くが、根底にある この本来的な問題に根ざしているからだ。


たとえば、父親と気楽になれない人は、 神を信じることができない。
なぜなら
神とは〈全体の父〉という父親的な表象をしているからだ。

また、父親との間に相容れないものがある人は、職場で 上役と どうしても気楽にやっていけない。
ボスというのも 父親的な存在だからだ。

父親と 気楽に落ち着いていられない人は、 グル(導師)との間も 落ち着かない。
師(マスター)という存在もまた 父親的だからだ。

両親との間にある 小さな不一致が、あなたの人間関係 全てに反映されていく。


母親との間が うまくいかない男性は、自分の妻とも うまくやっていけない。

妻とは 男性にとって 女性を代表する存在であり、そして母親は あなたにとって 最初の女性だから、そういう人は 女性という存在に対して 気楽さを感じることができない。

母親というのは あなたにとって 女性の原形だ。

もし母親を 憎んでいるとしたら、 あるいは もし気持ちのなかに 相容れないものを持っているとしたら、あるいは、
もしあなたが 母親と長くいっしょに いられないようだったら、
つまり、退屈で 逃げ出したくなるようだったら、あなたは世界中の どんな女性とも 落ち着いた関係をもつことはできないだろう。

女性がいるところには 必ず自分の母親が付いて回って、自分と母親との微妙な関係が ずっと引きずられていく。


古代インド、ウパニシャッドの時代のインドでは、新しく結婚したカップルが 解脱に達した人のところへ来ると、その人は 必ず、まず 十人の子供の父、 母と なりなさい、と 言って祝福し、妻となった女性に向かって こう言ったものだ。
「夫が おまえの 十一番目の子供にならない限り、この結婚は完全なものとはならない、これを きっと憶えておくがいい」と。

これは なぜだろう?

なぜ夫は 十一番目の子供に ならねばならないのだろう?

そうでなければ 結婚が完成しないとは どういうことか?


その理由は こうだ。
もし男が 母親と折り合いがつくようになったら、今度は 妻のなかに 再び母親を見出すようになる。

男 というのは 常に子供でありつづけ、そして女は 生まれながらの 母親だ。

したがって女性の開花の究極は〈全体の母〉となることだ!


だからこそ私は、私の女性サニヤシンたちを「マ」、つまり母と呼ぶのだ。


そして男性の至る 究極の頂点は、子供のようになることだ。
子供のように 純真無垢になることだ。

そうなれば、世界全体と〈実存〉全体が 母親となる。
これこそ 人に 本来備わっている潜在的な可能性だ。


だが、
まずは 自分の父親、母親と 折り合いをつけなければならない。


エゴは そこで生まれたのだから、そこで カタをつけるべきだ
さもなければ、あなたは 枝や 葉っぱを切りつづけるだけで、根っこは 手も触れられずにそのまま残る。

もし 自分と 父親や母親との間が 平和に落ち着いたら、それは あなたが 成熟した ということだ。

そうなったら エゴはなくなり、あなたは 自分が ただ無力だったのだ と分かってくる。

自分は 頼っていたのであって、世界の中心では なかったのだ と分かってくる。


8️⃣へ つづく

問題は 一つだけーーー6️⃣

(…カール-グスタフ-ユングといえば、その一生を 何千人という数の病人、精神的に欠陥のある人々や 心理的に混乱している人々を研究した人だが、)


その遺言のなかで 彼は こう言っている。
「精神を病んだ患者のなかで、四十過ぎの人の 本当の問題が、宗教上のものでなかった人は 一人もいなかった」


四十歳 以降ーーーそれは ちょうど、十四歳を過ぎると どんな少年少女も セックスにタックルし始めるのと 同じで、問題が たくさん起こる。

そしてもし タックルの仕方を誤ると、問題は つづいて起こり、あなたの周りをうろつきつづける。


十四歳で 性的に成熟するのと同じように、 人は 四十二歳という年齢で 一つ新しい次元が ひらかれる。
というのも 人間には、七年ごとに生理的、心理的、スピリチュアルな変化が起こるからだ。


七年目ごと。
子供時代は 七歳までで 終わり、十四歳までには 思春期も 終わる。
二十一歳までには 様々な変化が起こる。
7年目ごと------


生命のなかには 一つのリズムがある。
四十二歳までには 新しい次元が 現れる。
祈りの次元、宗教的な次元だ。

そして もし、あなたが その次元に正しくタックルできなかったら、もし どうしていいか分からない ということになったら、病気になる。

落ち着きを 全く失って、そわそわと 心惑う。


十四歳の年に 愛することが できなかったら、あなたは 四十二歳になっても 祈ることはできない。

何かを 見落としたままになる。

成長全体は 一つの連続であって、そのうちの 一つの段階でも逸したら 連続性は失われる。

子供のときに かき集めたエゴのために 愛することができなくなり、誰とも気楽に いっしょにいられない。


7️⃣へ つづく