saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 03

Pp 273 ー 276

(…もし ためらいが あったことを自覚していたら、彼は 受け容れられていたことだろう。
が、その “ためらい”の“瞬間”、彼は 自覚心を 失っていた。
誰も 南院を欺くことはできないーーー)

今 あなたが南院に会いに行って、このことをようく憶えている とするね、自分のはきものを どこに置いたかーーーーーー
これは べつにむつかしいことではない。

そして もし南院が
はきものは どこに脱いだかね? 右側か左側か?
と訊いたら、あなたは たちどころに答えるだろう。
右側です!
だが それでもなお あなたの負けだ。
それが 肝心な点ではないからだ。
それは たんなる まどわしにすぎないからだ。


南院は
“ 今この現在 ” 弟子の内部に 何が起こっているかを見るために 相手の思考(マインド)を 脇へそらしている。
南院が 訊ねたその瞬間
はきものはどこだ? 右側か左側か?

この瞬間、この弟子は取り逃した。
この瞬間、彼は ためらった
そして彼自身、その ためらいを自覚していなかった!
彼は考えはじめたーーーその瞬間、彼は目覚めていなかった。

南院は 彼の内部まで見透したーーー
その質問は 弟子の思考をそらすだけのものだった
たんなる まどわしにすぎなかった。

この弟子は 失敗した。
彼を 人々に説くため つかわすことはできない。
彼には その用意ができていない。

彼はまだ 目覚めていないーーーーーー
いまだ目覚めていない者、それがどうやって人々に教え 説くことができよう?

彼が教えることは何であれ 偽りになる。

教えることができる “教師” は たくさんいるーーーーーーが、彼らは 自分自身まだ目覚めていない。

いい教師かもしれない、有能で技術のある いい教師
だが それは肝心な点ではない。
彼らは どんな助けにもならない。



或るとき 私は汽車で旅行していたーーーーーー
一人の男の子が大騒ぎをしていて、その車輌にいた旅客たちは全員 迷惑をしていた。

その子は あちこち走りまわったり コップを倒したり、人々にぶつかったりして、父親は大いに恥ずかしい思いをしていた。

彼は 何度もその子を止めようとしたが、子供のほうは耳を貸そうともしない。
そこで父親はついに こう言った。
ウィリー! 言うことを聴かないで走りまわっていると お尻をぶつぞ!

だが子供は相変わらず走りまわっていた。
そして車輌のいちばん端まで行くと こう叫んだ。
いいよ、ぶってもいいよ!
でも ぶったら 車掌さんのところへ行って、ボクがほんとうは いくつなのか言いつけるからね!


この父親は教師としてはありえないね。
子供でさえ 彼の言うことに耳を傾けようとしない。
自分自身に目覚めていない教師は 教師ではありえない。

彼自身まだ達成していないものを 他者に向かって教えることなど できるはずがない。




目覚め ということは伝染性の病気に似ている。
師(マスター)が 心して目覚めているときには
あなたは その目覚めに感染する。
時には
ただ師(マスター)の脇に坐っているだけで、突如あなたは目覚める。

あたかも雲が消え去って
あなたに 大空がひらけて見えるかのようにーーー
ほんの一瞬のことかもしれない。

その一瞬が 深い変化をあなたの 存在の質にもたらす。


たとえあなたの側で 何の努力をしなくても
ただ静謐なる覚醒に満ちた師(マスター)の近くにいるだけで
突如として あなたもまた沈黙する。

彼が あなたに触れるのだーーー
閉ざされていた扉がひらく。
あるいは
闇夜に走る突然の稲妻のようなもの
その瞬間 あなたは〈全体〉を見る。


それは すぐ消える。 というのも
あなたには それを保持することはできないからだ。
それは あなたが 自分で達成したものではない。
あなたは それを失うーーー
しかし それでもなお あなたは前と 同じではない。
あなたは 今や何かを “知った”!
以前は未知だった 何かをーーーーーー
この 知ったことは ずっとあなたの一部として とどまることだろう。

そして次には欲望が、新しい野心が生じてくる。
これ を 達成すること
これ を 永遠なるものとすることーーー

なぜなら ほんの一瞬で かくも歓びに満ちているものなら
もしそれが降り注いだら
ありあまる幸福感、喜びにあふれるだろうからだ。
しかし
もし師が、 教師が 自分自身 覚醒していない人だったら
彼は 目覚め “に ついて” 教えることは できるかもしれない。
が、目覚め そのものを 教えることはできない。
そして 目覚め “に ついて” 教えることなど まったくもって無意味なこと。

それは言葉にすぎない、理論に すぎない。
あなたは彼から 理論を学ぶことは できるだろうが
事実を学ぶことはできない。


このゆえに
南院の許を離れて行く前に、彼は この弟子の内側まで見通さなければならなかった。
これは質的に 非常に異なったことだーーー

教育の世界では 学生は試験される。
が、かならず彼(彼女)の記憶力が 試験されるのであって、その人そのものではない。
記憶力がテストされるのだ、けっして その人ではない!
南院は この弟子の 記憶力を試しているわけではない。
彼が訊ねているのは
どこにはきものを脱いできたか? 右側か左側か?ではない。
彼は正確な 記憶を求めているのではない。

なぜなら、どこにはきものを脱いだかは 今となっては過去のことだからだ。
南院は、弟子の 今この現在 の 在りざまを見抜こうとしているのであって、記憶力をテストしているのではなかった。
“この瞬間” の 弟子の意識を内部まで見ようというのだ。

過去 は 問題ではない。
現在が、“現在性”が 肝心なのだ!


何院の前に坐っている この弟子の姿を ちょっと想像してみてごらん。
何院が 訊ねるーーーーーー
と、弟子は 過去の中に迷いはじめる。
彼は はきものを どこに脱いだか 考えようとする。
それにまた、自分が それを思い出せるかどうか考える。
彼は、自分が自覚を失っていたのかどうかと考える。

今この現在、彼は 一つの混乱と化したーーー

彼の意識は 雲がかかったようになり
彼は もはやそこにいなかった。
彼は 何院の面前にはいなかった。
彼は 過去の中に行ってしまった
考えごとの中に入ってしまった。
彼は 瞑想の内にはいなかったーーー


ためらい、考えること、考えようとする努力ーーーーーー
何院の眼を ごまかせるものではない。
彼は あなたを見通す、そこにある あらゆる雲を見る
彼は あなたが 今ここ に いないことを見る。


これではあなたは 教えることなど 許されない。
これでは あなたを外に出すことはできない。
ん? 何を教えようというのだね?
自分に無いものを 教えることなどできはしない。
“ふり” を することは できるーーーーーー
が、その見せかけは危険だ。
というのも
もしあなたが 実際そうでないのに 覚醒しているかのような “ふり” をしたら、その見せかけは感染するからだ。

偽導師は 偽弟子をつくりだす。
そして その “偽” の質は 波紋のように広がりつづける。

人が犯しうる もっとも危険な罪は、覚醒を 見せかけることだ。
たとえ殺人を犯したとしても これほどに大きな罪とはならない。



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