saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章「濃紫に染められた野辺」4️⃣

(…この英語の courage (勇気) という言葉は とても美しい。
それに 実に興味深い。
ハートを通して 生きる というのが その意味だ。)


詩人は ハートを通して生きる。

そして少しずつ、そのハートの内側で、詩人は〈未知〉の音を 聴き始める。

マインドには それを聴くことはできない。
マインドは〈未知〉からは 遠く遠く離れている。
マインドには 既に知られたものが いっぱい詰まっているのだ。


あなたの マインドにあるものは 一体何かね?

それは全て あなたがもう知ってしまったことだ。
それは 過去のこと、死んでしまったこと、もう消え去っていることだ。


マインドの中身とは、蓄積された過去、つまり 記憶以外の何ものでもない。

ハートは未来であり、ハートは常に 希望そのものだ。
ハートは いつも未来のどこかにいる。

マインドは 過去のことを考える。
が、ハートは 未来を夢見る。


あなたがたに はっきり言っておこう。
現在は 過去より未来に近いということを。
だからこそ私は、 詩人の方が宗教に近いところにいる と言うのだ。


哲学や論理、形而上学や 神学、そして科学、これらは 全て 過去に、既に知られているものに属する。

詩や 音楽、舞踏や 美術、こういった芸術の全ては 未来に属する。


宗教は 現在に属している。
そして、言っておくが、未来は、過去より現在に近い。
なぜなら過去は もう過ぎ去っているからだ。
未来は これから来るもの、やがては存在することになるものだ。
未来には まだ可能性がある。
それは 必ず来るものだし、すでに 来つつある。
どの瞬間も 現在に なっていく。
一瞬ごとに 未来は 現在になるし、現在は 過去になる。


過去には可能性は 全くない。
過去は もう使用済みだ。

あなたは 既に 過去から遠ざかっている。
もう使い尽くされたのだから。
過去とは死物、墓のようなもの。
だが、未来は 一粒の種にも似て、来つつあるもの、永遠に来つつある。
未来は 常に現在に到達し、現在と出会う。


あなたは 常に動いている。

現在は、 未来のなかに入っていく 一つの動きにほかならない。
それは、あなたがすでに踏み出した 一歩であり、その一歩は 未来のなかに向かっている。

そして詩は、可能性や 希望、夢に関わるものであり、現在の より近くに在る。


この男、蜷川は 偉大な詩人だったに違いない。
なぜ私は 偉大な詩人だったに違いない と言うのか?

私は 彼の歌を読んだこともないし、彼が何を書いたかも知らない。
それでも尚、私は、この男は偉大な詩人に違いない と言う。
それは 彼が 禅に関心を寄せたからだ。

それだけではない。
彼は、

“ 一休禅師に入門を望み ”

禅に 興味をもつだけでは 充分ではない。
弟子に ならないかぎり、不十分だ。

宗教に関心を寄せるだけでは足りない。
関心をもつことは 良いことだが、それだけでは深遠にはならない。
関心は好奇心として とどまり、マインドの産物で 終わる。
心身を投入するまでにジャンプしないかぎり、弟子にならないかぎり、マインドの産物として とどまるだけだ。


弟子になる ということは 一つの大きな 決断だ。
並みの決心ではない。
それは、非常にむずかしい、ほとんど不可能に近い決断だ。
私が いつも言っているように、弟子になる ということは、最も不可能な 革命だ。

なぜなら、人間が どうやって他者を信頼できようか?
自分の生命を どうやって他者の手に委ねられよう?
これは 最も不可能に近い革命だ。


だが、これは起こる。
そして、これが起こったときには 実に美しい。
他に 比べるものなどないくらいだ。

そして 並々ならぬ勇気をもった人たち、大胆不敵な人たち、そういう人たちだけが この一歩を踏み出せる。

これは 臆病者には向かない。
それに 頭でっかちの、マインド指向の人たちにも むずかしい。

これは、ハートで生きる人たち、勇気があって、危険を冒せる人たちのためのものだ。


これはこの世で 最大のギャンブルだ。

5️⃣へ つづく