「信心銘」Neither This Nor That by OSHO

「第二章 道は完全だ」(01)

 ニーチェは言う。
「人間は超えられるべきものだ。人間は、存在ではない。
動物には存在がある。神には存在がある。
だが、人間は まだ存在になっていない。
人間は ひとつの移行、過渡期だ。
ひとつの完全から 別の完全への移行。
人は 中間で引き裂かれている」と。


 僧璨は、戻れと言う。
そしてもし、あなたたちが尋ねるなら、私は 僧璨の方が パタンジャリより易しいと言おう。

結局は、同じことが起こる。

たくさんの努力が、あなたを 無努力に連れて行くことになる。

何も努力もしなくても、やはりあなたは 無努力になる。
なぜなら、努力は 決して目的地にはなり得ないからだ。

努力は 手段でしかあり得ない。
人は、どこまでも永遠に 努力し続けることはできない。

人は 無努力の状態に至るために 努力するのだ。


 パタンジャリにあっては 努力は通り路、無努力が終点だ。
努力は手段、無努力が目的だ。

僧璨の道では、無努力が 手段で、無努力が 終点だ。

僧璨では、最初の一歩は 最後の一歩だ。

僧璨にあっては、手段と目標の区別はない。
だが、パタンジャリには 区別がある。
人は たくさんの段階を 通り過ぎなければならない。


 だから、パタンジャリの道では、光明は 段階的に起こる。

僧璨の道では、光明は一瞬のうちに、まさに今の この瞬間にも、起こり得る。

それは 突然のものであり得る。

もしあなたが 僧璨を理解できるなら、それ以上に 素晴らしいものはない。
だが、理解できなければ、その時は パタンジャリが唯一の道だ。


“ 道は大いなる虚空のように完全だ。
 足りないものも、余計なものもない。
 しかり、いいとかいけないとか選り好みをするばかりに、
 本当の姿が見えないだけだ。”


 私達が 本当の姿を見ることができないのは、そのためだ。

受け容れたり、拒否したりするためなのだ。

人は 自分の考え、意見 偏見を持ち込む。
そして あらゆるものを色づけしてしまう。

そうでなければ、すべては完全だ。

人は、ただ見ればいいだけだ。
濁りのない目で、どんな考えも持たずに ただ見る。

どんな拒否も、あるいは 受容もなしに、ただ 純粋に見る。

まるで、自分の目の背後には 思考(マインド)などないかのように、あたかも 自分の目が ただの鏡に過ぎないかのようにだ。

鏡は「美しい」「醜い」を 言わない。


 鏡は、前に来たものを 何でもただ映すだけだ。

そこには どんな判断もない。

もし、あなたの目の背後に 思考(マインド)が なかったら、その目が ただ映し出すだけだったら、それがただ見るだけで、「これはいい、あれは悪い」などと 言わなかったら、非難したり、賞賛したりしなかったら、もしそうなら、あらゆるものは 申し分なく明瞭で、為されるべきことなど何もない。

この明晰性、意見も偏見も持たない この目---それで、あなたは 光明を得ている。

OSHO

(02)へ 続く---