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(OSHO 講話、抜粋---)

内省を
どこまで押し進めても
何も得られない。

だから、
内省を
どこまでも押し進めようと
しないこと。

フロイト派の精神分析
まさに
それを行なっている。
思考を自由に
連想させてゆく。
ひとつの思考がやって来たら、
次の思考が湧いてくるのを待つ。
それが
どんどん鎖のように
つづいてゆく……
精神分析
諸派がやっているのは
まさにそれだ―
あなたは
過去にもどってゆき始める。

ひとつの思考が
別の思考を呼び覚まし、
それが延々と
果てしなくつづいてゆく。
それにはきりがない。
それに
入り込んでしまったら、
あなたは
まったく何の益にもならない
永遠の旅に出ることになる。
心はそれをやりかねないから、
気をつけなければならない。

内省を
どこまで押し進めても
何も得られない。
この想念が
どこから生まれてきたかを
見ることで よしとし、
その先を
究めようとしてはならない。
マインドを探し求めても、
とらえることは
できないからだ。

意識によって
意識を超えることはできない。
だから、
いたずらに
無益なことは試みないこと。
そうしないと
次から次へと現れる思考に
振りまわされて、
自分がそこで
何をしようとしていたのか
すっかり忘れてしまう。
鼻の頭は消え、
第三の目は忘れられ、
光の循環は
遥か彼方に遠ざかってしまう。

だから
思考をつなげないよう、
ひとつの思考だけにする。
連想をはじめてはいけない。

ひとつの思考が現れてくる―
それがどこにあり、
どこから現れて、
いつ消えてゆくのかを
見守りなさい。
見守っていると、
それは消えてしまう。
これを
心にとめておきなさい。

仏教徒
思考が現れると、
「思考、思考」
と言って
油断なく目を見張る。
それはちょうど
家に泥棒が入ったら、
「泥棒だ!泥棒だ!」
と叫んで、
みんなの注意を
呼び覚ますようなものだ。

ただ
「思考、思考」
と言うだけで、
あなたは
油断なく目を見張り、
注意深くなる。
泥棒が入った。
さあ、
泥棒が何をしているか
見守るがいい。

あなたが気づくと、
思考はただちに止まる。

思考はあなたを見て、
そして少し驚く。
あなたはこれまで一度も
そんなことを
したことがなかったからだ。
思考は
あまり
歓迎されていないのを
感じる。
「こいつは
 どうしてしまったんだろう?
 いつも
 よくもてなしてくれたのに、
 『泥棒!泥棒!思考だ、思考だ』
 などと言っている。
 こいつは
 どうしちまったんだろう?」
思考は当惑し、
何が起こっているのか
理解することができない。
「こいつは
 おかしくなりはじめている
 のだろうか。
 鼻の頭を見ながら
 『思考、思考』と
 くり返しているぞ」

気づきそのものが
思考の動きを一瞬止める。
思考はその場に釘づけになる。

そして
見守りつづけなさい。
非難してはいけない。
放り出そうとしてはいけない。
闘ってはいけない。
非難しても
正当化しても、
思考と同一化することに
なるからだ。

ただそこにあって、
油断なく目を見張り、
思考を見つめなさい。
そうすれば
思考は消えはじめる。
現れたときと同じように
消えてゆく。
それは
空想から生まれ、
空想のなかに消えてゆく。

思考が消えれば、
観想にもどればいい。
思考には根などないのだから、
その元をたどる必要はない。
さもなければ
大宇宙の源そのものまで
たどらなければならなくなる。

精神分析
きりがないのはそのためだ。
それはけっして終わらない。
精神分析を完全に終えた者など
この世にひとりもいない。
精神分析
完全に終えることなど
ありえない。
一年、二年、三年、四年、
五年、六年、七年と―
精神分析
七年間通っている人もいる。

あなたはどう思うかね?
彼らが止めるのは
精神分析
終了したからだと思うかね?
いいや、
彼らは精神分析にうんざりし、
精神分析医は彼らに
うんざりしてしまったからだ。
ものごとは
いつか決着を
つけなければならない。
終止符を
打たなければならない。
いつまで
つづけられるだろう?

そして、
精神分析
完了したことは一度もない―
それはありえない。
それは
むいてもむいても
なくならない
たまねぎのようなものだ。
その皮をえんえんと
剥きつづけることはできるが、
どこまでいってもきりがない。

だがそれは助けになる。
それは自分自身に、
そして社会に
もっと適応するのを
助けてくれる。
それは
あなたを
変容させるのではなく、
正常な異常者にするだけだ。
それは
あなたが住んでいる
神経症的な社会に
あなたが適応するのを
助けてくれる。

それはあなたを、
変容を遂げた
輝かしい存在にするのではなく、
生がもたらすものは
善悪を問わずことごとく受け入れ、
誰もがしているように
身をひきずりながら歩いてゆく
ふつうの人間にしてくれる。
それは嘆きながら
生を受け入れることを
教えてくれる。
それは
本当の受容ではない。

真の受容は
つねに祝祭をもたらすからだ。


Osho - The Secret Of Secrets