第18章 質問---「OSHO, 一般に・・・04

(…ヒンドゥー教徒曰く「もしあなたが完全にリラックスしたら、この岸が向こう岸なのだ」)


そうしたら、向こう岸に 行くこともない。

もしあなたが 完全にリラックスし、完全に明け渡すなら、この岸が 向こう岸なのだ。


ヒンドゥーマインドにとって、理論、哲学、システムとは、ただのゲーム、工夫に過ぎない--- それは 役立つ。

だが もし余りに固執すると、それらは 害にもなる。

もし誰かが ある特定のボートに 余りに固執したら、そのボートでは 川を渡れないだろう。

最後には、そのボートが障害になるだろうから。
ボートが 向こう岸についても、ボートから 降りれないだろう。

ボートに固執することでさえ、障害になり得る。

工夫に過ぎない理論やシステムへの そのあり方は、非哲学的だ。


哲学は 理論とともに生きる。
宗教は、より実際的だ。



ムラ・ナスルディンは こう言った。
「実際的な 方法(メソッド)こそ、唯一 宗教的な方法だ」


…略…

というように、宗教は実際的で、哲学は 非実際的だ。

それは どういうことか?

もしあなたが 私に「神は いますか?」と 聞けば、それは 二つの受け取り方がある--- 哲学的に、あるいは 宗教的にだ。

もしあなたが「神とは 何か?」、あるいは「神は いますか?」と 私に聞き、私がそれを 哲学的に捉えるなら、我々は どこにもいく必要がない。

あなたは あなたのままで、自分の居場所に いられる。
どこへもいく必要がない。

私はここで あなたに答える。
そして、何であれ 私が信じていることを言う。

もしあなたが 私に 反対するなら、私は それに反論し、私が正しい という証明、証拠を与える。

が、それは ここで可能だ。
実際に 自分が どこかへ行くことはない。


もしあなたが、宗教的な質問として それを私に聞くなら、その意味合いは 違ってくる。
もしあなたが「これは宗教的な質問です」と言うなら、私はあなたに、どんな理論も与えられない。

あなたが そういう風に聞くなら、私は 実際的な方法を 与えるだろう。
その時、神が いるか、いないか というようなことは あなたに言えない。

それは無益だ。

そうではなく、私はあなたに ある方法を与える。
そうして、その方法を実戦するように あなたに言うだろう。

そうすれば、神が いるかいないかが、わかるだろう。

だがそうなると、あなたは 長い道程を 行かねばならない。

ある意識の状態に達して 初めて、その答えが あなたに訪れる。


哲学的な探求には、個人の変容は 必要ない。
あなたが私に 聞き、私は、今 この場で、あなたの質問に 答える。

あなたが 自分のマインドを変える必要は ない。
が、もしあなたが 宗教的な質問を するなら、その 質問は同じかもしれない--- が、「これは宗教的な質問だ」と あなたが言うなら、その時は、状態の変化が 必要になる。



盲人が 私のところに来て、こう聞いた。
「光とは 何ですか?」

もしその盲人が、哲学的に質問しているのなら、私は ある理論を提起するだろう。

彼が 盲目であろうが なかろうが、関係ない。
その理論は、目の見えない人にも 理解できる。

その人は 光が見えないかもしれないが、光に関する理論は 理解できる。
それは 頭脳的なことだ。

実際 その人は 光による煩いが まったくないからだ。

もしあなたが、光が見える人に 光について語るなら、その人には、光についての 自分なりの体験がある。

あなたの理論は その人の体験に 適合するかもしれないし、しないかもしれない。

どちらにしても、その人は 光が見えない人より、光について さらに議論してくるだろう。



しかし、目の見えない人になら、どんな理論でも通用する。
その理論が正しいとする その人の唯一の基準は、その理論が 論理的に証明され得るか どうかだ。

もしあなたが、その理論を論理的な言葉として 証明できれば、目の見えない人は それを信じるだろう。

が、もし目の見えない人が 宗教的な観点から 聞いているなら、その人の視力が回復するように、何らかの手立てを 打たねばならない。

理論では 用をなさない。

その人が 見えるようになるには、手術が必要だ。
外科手術が必要だ。

その人の目が 見えるようにならないかぎり、その人にとっては 光は存在しない。


そうなると、とても難しいことが 理解されねばならない


…05へ 続く

「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る  by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社