saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第九章「これでもない、それでもない」09



(…それは、ある投資だ。 しかも割に合う投資なのだ。)


 その投資とは 何だろう。
その投資とは、靴が ぴったり合っていない方が、人は より多く自分の存在を感じる ということだ。

靴が 完全に合えば、人は ただ寛ぐ。
もし、靴が完全に ぴったり合ったら、足が忘れられるだけではなく、「自分」が 消える。

至福の意識と ともには、どんな「自分」も あり得ない、それは不可能だ。


 惨めな思い(マインド)の もとでしか「自分」は 存在し得ない。
「自分」とは、あなた方の 惨めさ全部の組み合わせに他ならない。

だから、本当に「自分」を捨てる用意があって、初めて その不幸が消えるのだ。
そうでない限り、人は 新しい不幸を 作り続けることになる。

誰にも 助けることはできない。

なぜなら、自分で 自己破壊の 道を歩んでいるのだから。


 だから、この次 何かの問題を持って 私の所に来る時には、まず、その問題を 本当に解決したいのかどうか、よく自分に訊いてみることだ---気をつけなさい、何しろ私は 本当に解決できる。

自分が本当に それを解決することに関心があるのか、それとも ただ その話がしたいだけなのかを、確かめておきなさい。
そういうことを 話すのは、いい気分のものだからね。


 内側に入って 調べてごらん。
そうすれば、すべての不幸は 自分が支えているから存在するのだということが分かるだろう。

自分の支持なしには、何ひとつ存在できない。
自分がエネルギーを与えるから、それは存在しているのだ。

自分が エネルギーを与えなければ、それは 存在できない。

それ にエネルギーを与えるように、誰が あなたを強制していると言うのかね。
悲しい時でさえ、エネルギーが要る。
エネルギーがなくては 人は悲しむこともできないからだ。


 悲しみ という現象を起こすためにも、人はエネルギーを与えなければならない。

だからこそ人は 悲しみの後で あれほど消耗し、疲れ切るのだ。

いったい 何が起こるのか。
落ち込んだと言っても、別に何をしていたわけでもない。

ただ 悲しかっただけだ。

それなのに なぜあんなにも消耗し、疲労するのか。
エネルギーに溢れて 悲しみから出て来ても いいはずだ。
だが、そうではない。


 覚えておきなさい、あらゆる否定的感情は エネルギーを必要とする。
それは 人を消耗させる

あらゆる肯定的な感情と態度は エネルギーの発電機だ。

それは より多くのエネルギーを 生み出す。
決して人を 消耗させない。


 もし自分が 幸せなら、突然 全世界が エネルギーと ともに自分の方へ流れて来る。

全世界が 自分に笑いかける。

人々が 諺でこう言う時、それは正しい。
「あなたが笑えば、世界も笑う。
 あなたが泣けば、あなたは 一人」と。
これは本当だ。
これは まったくの本当だ。


 あなたが 肯定的であれば、全存在は あなたに より多くを与え続ける。
なぜなら、あなたが幸福であれば、全存在も あなたのことで幸福だからだ。

あなたは、重荷ではなく、花だ。
あなたは 岩ではなく、鳥だ。
存在すべてが あなたのことで幸福を感ずる。


 人が悲しみを抱き、その悲しみを あやしながら、死んだ岩のように坐っていれば、誰も その人と 一緒にはいない。
誰も その人と一緒には いられない。

その人と〈生〉の間には 間隙が生じる。
そうなれば、何を していても、その人は 自分のエネルギー源にしか頼れない。
それは 無駄使いされることになる。
その人は 自分のエネルギーを浪費している。
自分の 無意味な愚かさのために その人は 消耗しているのだ。


 だがそこには あることがある。
それは、自分が悲しみ、否定的な 気分でいれば、より多く自我を感じる ということだ。

幸福で、自足し、歓びに満ちていれば、人は 自我を感じない。

幸福で、歓喜に満ちていれば、「自分」は 存在せず、「他人」もまた消える。

存在と架橋され、切り離されてはいない。
両者は 一緒だ。


 人が悲しげで、腹を立てており、貪欲で、自分の 中にばかり閉じ籠り、自分の 傷を楽しみ、それにばかり目を向け、傷を弄び、殉教者に なろうとしていれば、その人と存在の間には 間隙が生じる。

その人は 独り取り残される。
するとそこで、人は「自分」を感ずることになる。

そして、こちらが「自分」を感じれば、全存在が その人に 敵対的になる。

その「自分」故に、全宇宙が敵対的になる というのではなく、それが敵対的に 見えて来る ということだ。

そして、誰もが敵であると見れば、人は、誰もが 敵にならざるを得ないように 振舞うことになる。


…10に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所