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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

質疑応答集「七日めの朝 --- 01 」by OSHO

「関係の神秘------」OSHO

(質問)
バグワンーーー
妻とか夫、愛人といった 私たちの生活上のパートナーについて話していただけませんか?
どういうときに 私たちは相手を辛抱し、どういうときに関係を絶望的とみて、いや破壊的ですらあるとみて 放棄すべきなのでしょうか。

また、私たちがもつ人間関係は過去生からの影響があるのですか?




関係とは 神秘のひとつーーー
そしてまた、関係は二人の人間のあいだに存在することから、その双方に 依存するものだ。


二人の人間が出会うたびに
一つの 新しい世界が創りだされる。
ただ二人が出会うことで
新しい現象が〈実在〉の中にあらわれる。
それは 今までなかったもの
今まで存在したことのなかったものだ。
その新しい現象を通じて、二人の人間が変化し変容する。

関わることがなかったら
あなたは ただ 或る一つの存在
関わることで
たちどころに あなたは別の存在になる。
何か 新しいことが起こるのだ。


女性は
恋人となるときには もう同じ女性ではない。

男性は
父親となるときには もう同じ男性ではない。

子供が生まれるーーー
だが私たちは 一つ肝心なことを 完全に見落としている。
それは、子供が生まれときには
その 母親もまた 誕生する ということだ。

それは今までになかった存在
女性は 存在していたが、母親は?
いや いなかった。
そしてこの 母親 というのは まったく新しい存在だ。


関係は あなた方によって創られる

そのかわり また、関係のほうも あなた方を創る。
二人の人間が出会うーーー
ということは 二つの世界が出会うということだ。
これは簡単なことではない。
非常に複雑な、もっともこみ入ったこと。

一人一人の人間が 自分自身に対して一つの世界をもっている。
そしてそれは、長い過去と永遠なる未来をともなった 複雑な神秘なのだ。


最初のうちは ただ外面だけが出会う。
しかし関係が 親密なものに成長していくと
もっと近づき、もっと深まっていくにつれ
少しずつ、中心が出会いはじめる。
中心が出会うとき
それは 愛と呼ばれるーーー
外面だけが出会っているときは面識にすぎない。
あなたは相手に 外側から 境界線あたりから触れるだけ。

そうだったら それは面識、ただの 知り合いの間柄だ。
何度となく
あなたがたは 面識の間柄を愛と呼びはじめる。
そうなったら あなたは誤謬に陥ることになる。
面識は 愛ではない。


愛とは稀なもの
人に その中心のところで出会う ということは
あなた自身、一つの革命を通過する ということだ。
なぜなら
もしあなたが他者にその中心のところで 出会いたいとおもったら、あなた自身、相手が自分の中心に到ることを ゆるさなければならないからだ。

あなたは防禦を解いて こわれやすくならなければならない。
完全に 自分をひらかなければならない。

それには危険がある。
他者をして自分の中心にまで到らせる ということは
冒険だし危険だ。
その人が あなたに何をするか、あなたには知りようがないからだ。
それに
ひとたび あなたの秘密が知られたら
ひとたび あなたの隠れ家が隠れ家でなくなったら
ひとたびあなたが 完全にむき出しになったら
相手が何をするか、あなたにはまったくわからない。

その怖れがあって
私たちは けっして自分を ひらかない。



ただの面識------
ところが私たちは 愛が起こったのだとおもう。
外面が出会う------



質疑応答集「七日めの朝 --- 02」by OSHO へ続く---