saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

質疑応答集「エゴは落ちるーーーたった今!」03

「エゴは落ちる---たった今!」03
…(それについて瞑想したことがあるかね?
自分が落としたいと望んでいるかどうか---?)


ほんとうに
あなたは “ 非存在 ” に な ん で も な い も の になりたいかね?
たとえ宗教的な世界に 思いをはせる場合でも、あなたがたは 何か でありたい、何かを成就したいと望んでいる。
どこかへ達したい、何かになりたいと望んでいる。
たとえ、謙虚であろうと思っていても、 あなたがたの その謙そん、ヘリくだりは、エゴにとっての 秘密の隠れ家以外の何ものでもない。

いわゆる謙虚な人々というのを 見るがいい。
彼らは 自分たちは謙虚だと言って、町中で、その地域で その地方でもっとも謙そんであることを証明しようとする。

もし あなたがたが それに反論して
いいや、あの人のほうが あなたたちより謙虚ですよ、などと言おうものなら、彼らは大いに傷つくことになる。
いったい 誰が傷つくのかね?


私はちょうど 一人のキリスト教の聖人に関する書物を読んでいたのだが------
この聖人が言うには、彼は毎日、神への祈りの中で こう言うのだそうだ。
私こそ、地上で “ もっとも ” 邪悪な人間です
“ もっとも ” 罪深い人間ですーーー

あきらかに彼は謙虚だが------、実は そうではない。
彼は言う。
“ 地上でもっとも罪深い--- ”
そしてこの点に関しては、たとえ神が 自ら反駁したとしても 彼はゆずらないだろう。

彼の関心は、深いところからくる その関心は、罪人(ツミビト)だという点にあるのではなく “ もっとも ” というところにある。
あなたも 罪人になりうる------
もし “ もっとも罪深い ” 、最大の罪人であることが認められたら、あなたはそれを 大いに楽しめる。

最大の罪人ーーーとなったら あなたは頂点にとどく。
徳であるか 罪であるかは 重要ではない。
あなたは ち ょ っ と 特別な 誰か に ならねばならない。
理由は何であれ、あなたの エゴは トップに立たねば気がすまない。


ジョージ-バーナード-ショウは こう言ったと伝えられる。
“私は、天国で 二番になるよりは、地獄で 一番になったほうがいい”
地獄だってトップになるんだったら悪いところではない。

もしあなたが ただ普通の人として行列の中のどこかに立っているのだったら、天国だって冴えない感じになる。
バーナード-ショウは たしかに正しい。
それこそ 人間の心理(マインド)の 動き方だ。


誰も自我(エゴ)を 落としたくない。
そうでなかったら問題などないはずだ。
あなたがたは 今この瞬間にも簡単に それを落とすことができるはずだ。

そして もしあなたが
時間が必要だと 感じるとしたら
自分が それにしがみついているのだ ということを、あなた自身 理解するためにのみ必要であるにすぎない。
それは “ 自分自身 ” の 執着だと あなたが理解する瞬間
それは 起こるーーー!

この単純な事実を理解するのに あなたがたは何生もかけるかもしれない---いや
もうすでに 何世もかけてきたかもしれない。
それなのに まだ理解できていないとはーーー
これは なんとも奇妙なことだ。
ここにあなたにとって重荷となっているものがある。
それのために あなたは地獄
絶えまない地獄に陥ってきた。

ところが あなたときたら依然それに執着する------
それには 深い理由があるにちがいない。
非常に深い根をもった原因があるにちがいない。
このことについて少し話したいとおもう。
あなたがたも気がついてくるかもしれないから------


人間の精神(マインド)は このような作用のしかたをするーーー
つまり、それは 何も無い状態でいるより、いつも 何かに占められている状態を選ぶ。

たとえ そういう状態が苦痛であっても
たとえ それが苦しみであっても
人は 何もない状態よりも、何かに従事することを選ぶ。
なぜなら
何も従事することがない状態の中では、あなたがたは自分が溶解していくような感じを覚えはじめるからだ。

心理学者たちによると
自分の仕事や職場、商売から引退する人はすぐ死んでしまうという。
その寿命は たちまち十年近くは 縮められ
死が来る以前に 死にはじめる------
何も従事することがないからだ、頭を占めるものが 何もないからだ。

何も従事することがないときには
あなたは 無意味な、不毛な感じを抱きはじめる。
あなたは 自分が 必要とされていない感じを抱く。

あなたが いなくても 世界は 何不自由なく進んでいくではないか------

何か従事することがあるときには
あなたは、自分なしでは 世界がつづかない と感じる。
あなたはその 本質的な部分、非常に重要な部分を占めている
あなたなしでは すべてが止まってしまう------

もし何も従事することがないと
突如として あなたは、世界が 自分なしでも すばらしく進んでいくことに気がつく。
何ひとつ変わりもせず------

あなたは捨てられるのだ
ゴミの山の中に 投げ出されたのだ
あなたは 必要ではない------!


自分は必要とされないと 感じる瞬間
自我(エゴ)は 落ち着きを失うーーー
というのも エゴが存在するのは
あなたが 必要とされているときだけ だからだ。

だから まわり中に対して
エゴはこの姿勢を あらゆる人に押しつけていく。
つまり自分は “ か け が え ” のない存在、必要な人
自分なしでは 何も起こりえないし
自分なしでは 世界は崩壊する---と。

従事するものが何もなければ、あなたは、あなたなしでも この“ゲーム”は つづけられるのだと 気がついてくる。
あなたは 本質的な部分ではないし
簡単に 捨てられさえするのだ。
誰一人 あなたのことを構う人はいない
誰一人 あなたのことを考える人はいない。
むしろ
あなたがいなくなって ほっとするかもしれない。

このことは エゴを粉々に打ち砕く。
だから人々は
何にしろ、従事できる何かを求める。
そして、ずっとその従事しているままの状態でいなければならない。
彼らは、自分が必要とされている というその幻想を抱きつづけなければいられない。


瞑想とは
精神が 従事するものの まったく無い状態のこと。
それは或る深遠な “ 隠退 ” だ。
これはヒマラヤの山中に入っていくというような、たんなる表面的な隠退ではない。




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