saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

落ちるのは熟れた果実だけ------03

( “知る” ということは
“ あなた自身が知った ” ときにのみ
それが あなた自身の直接の体験であるときにのみ 生きてくるのだと。
他を通して知るときには
それは ただの記憶であって 知識ではない。)


記憶というのは 死んでいる--
あなたがたが 多くのものを寄せ集めるときには------
知識の 富、教典の 富が まわり中に集められ
あなたの頭(マインド)は “ 濃縮図書館 ” だ。
と そのうちに あなたは
自分は ほかの人たちの重荷を運び歩いているだけだ
何ひとつ 自分に属しているものはない
自分が 知ったわけではない と気づいてくる。

そうなったら、あなたは それを 落とすことができる
そういった知識のすべてを 落とすことができるのだ。

その 落とすことの中で
新しいタイプの 無知 が あなたの内側に生じてくる。
この 無知 は、“無知な人々の無知” ではない。
ふむ?
これは 賢者の在り方だ、知恵の在り方だ--
賢い人だけが、私は 知らない と言うことができる。
そして
私は知らない と言うことの奥底で
彼は 知識を切望しているわけではない。
彼は 単純に事実を述べているだけだ。

あなたがたが 心(ハート)をこめて、“私は知らない”と 言えるとき
まさに その瞬間
あなたがたの 眼は ひらかれる!
あなたが 自分の全一性(トータリティ)をもって こう言える瞬間
私は 知らない--と
あなたは 知識に対して有能になったのだ。


この無知は 美しい。
が、この無知は 知識を通して達成されるもの
それは 豊かさを通して達成される貧しさだ。

そして
同じことが 自我(エゴ)についても起こる。
もし持っていたら 失うことができる--


仏陀玉座を降りて 一介の乞食になったとき------
いったい仏陀にとって その必要性は 何だったのだろう?

彼は王として君臨していた
その自我(エゴ)の 頂点(ピーク)に在った------
が、この極端な動きは なぜだろう?
宮殿から街路に降りて 乞食になるとは?

仏陀の その物乞いの内には美しさがあった。

大地は かくも美しい乞食を知ったことはなかった!
かくも豊かな乞食
王者のような乞食
このような帝王--


玉座から降りてきたときの彼には いったい何が起こったのだろうか?

彼は 自分の自我(エゴ)から降りてきたのだ
王位とは シンボル以外の何ものでもない。
自我(エゴ)のシンボル
権力の、威信の、地位のシンボル------

彼は そこから降りてきた--
そして、 “ 無我が起こった ”。

この 無我、自我(エゴ)の無い状態は 謙虚とはちがう。

この無我は 卑下とはちがう。

謙虚な人々は たくさんいるかもしれないが、
彼らの その へりくだりの下には 微妙な自我(エゴ)がはたらいている。



「落ちるのは熟れた果実だけ------04」へ つづく

落ちるのは熟れた果実だけ------02

(…そのときには あなたの貧しさは 豊かだ。
そのときには あなたの貧しさは独自の王国をもつ---)


同じことが すべてに起こる。
ウパニシャド、あるいは老子、イエス仏陀------
彼らは皆、知識とは無用のもの と教えてきた。

ますます “もの識り” になることは 何の助けにもならない
助けにならないどころか 邪魔になる。
知識は 必要ではない。

それは 無知であれ という意味ではない。
その無知は ほんとうのものではない。
知識を充分に集積したときに、それをまた棄てる---
と、そのとき はじめて 無知が達せられる。

そのときこそ あなたは真の無知になるのだ------
ーーーソクラテスのように。

このように彼は言うことができた。
私が知っているのは ただ一つ、自分は何も知らないということだ、と。
この知識
あるいは この無知は、
ー あなたの呼びたいように呼ぶがいい ー
全面的に異質のもの、質的に ちがっているものだ。
次元が変わってしまったのだ。

もしあなたが ごく単純に 無知であるなら
というのも あなたはけっして真の知識に達したわけではないからだが
その(単純)無知は 賢くはありえない。

それは 知恵ではない
それは たんなる知識の欠如にすぎない。

そして内側には 切望が残っている。
どうしたら もっと知識が得られるだろうか?
どうしたら もっと情報が得られるだろうか?


知りすぎてしまうと------
あなたがたは教典を 知っている
過去を、伝統を 知っている
あなたがたは、知りうるものは すべて知っている

突如として
あなたは その すべての不毛さに 目覚めてくる。

突如として
あなたは これは知識ではない と 目覚めてくる。

これは 借り物だ!
これらは あなた自身の 実存的な体験ではない
これらは あなた自身が “ 知る ” に至ったものではない!

他の人たちは それを “ 知った ” のかもしれない、が
あなたは それを ただ集めただけだ。

あなたの その集積は機械的なもの

それは あなたの内部から 湧き起こったものではない

それは 成長ではない。

それは他所(ヨソ)の間口から 寄せ集めたガラクタにすぎない。
借り物、死物--!


憶えておくがいい。
“ 知る ” ということは
“ あなた自身が知った ” ときにのみ
それが あなた自身の直接の体験であるときにのみ 生きてくるのだと。

他を通して知るときには
それは ただの記憶であって 知識ではない。


記憶というのは 死んでいる---



「落ちるのは熟れた果実だけ------03」に つづく

落ちるのは熟れた果実だけ------01

質疑応答集「八日めの朝⚪バグワン-シュリ-ラジニーシ」OSHO

落ちるのは熟れた果実だけ--------
(質問)
バグワン---
困難なことを じっと耐える姿勢を発達させるうちに、私は人生の多くをあきらめるようになってしまいました。
この あきらめは、瞑想の中で もっと生き生きと生命的になろうとする自分の努力を圧迫する重しのような感じがします。
これは私が 自分の自我(エゴ)を抑圧してきたという意味でしょうか?
それに、私がほんとうに自我(エゴ)を落とせるようになるためには、私は もう一度 それ(エゴ)を見つけ出さなければならないという意味なのでしょうか?




これは きわめて大きな問題の一つ---

たいへん逆説的に思えるかもしれない、が
これは真実だ。
自我(エゴ)を失うことができるためには
まず それを獲得しなければならない。
熟した果実だけが 大地に落ちることができる!


熟すこと------、それが すべてだ。
熟していない自我(エゴ)は 投げ出すことはできない
破壊することもできない。
もし 熟していない自我(エゴ)を相手に それを破壊しよう溶解しようと闘うとしたら、その努力は すべて失敗に終ることになる。

そして 破壊するどころか
むしろ、新しい 微妙なかたちで ますます強くなっていくことが わかるだろう。

これは理解すべき基本的なこと。
自我(エゴ)は頂点(ピーク)にまで達しなければならない
強くならなければならない
一種の まとまりを得なければならない。

そうなって はじめて、それを溶解することができる。
弱い自我(エゴ)は 溶解のしようがない。
そして これがひとつの問題となるのだ---


東洋では
あらゆる宗教が 無我を、自我(エゴ)のないことを説いてきた。
だから東洋では
あらゆる人が 最初から自我(エゴ)に反対する。

この対立的な姿勢のために、自我(エゴ)は けっして強くならなかった。
ほうり投げだせるほどに まとまり整うまでには けっして至らなかった。
それは まったく熟さなかった---
だから東洋では
自我(エゴ)を溶解させることはきわめてむつかしい
ほとんど 不可能に近い。


西洋では
その宗教と心理学の伝統全体が 人々に強い自我(エゴ)をもつように提議し、説教し、説得している。
なぜなら、強固な自我(エゴ)をもたなかったら、どうやって生き延びていける?
生とは苦闘だ。
もし自我(エゴ)が なかったら あなたは壊されてしまう。
いったい誰が抵抗する?
誰が闘う?
誰が競争する?
生とは 絶えまない競争だ。

西洋の心理学は こう言う。
自我(エゴ)を獲得するがいい
強い自我となるがいい---!

ところが 西洋では 自我(エゴ)を消すのは非常に簡単だ。
西洋人の求道者は
自我(エゴ)こそ問題だ という理解に到達したときには
簡単に それを解消することができる
東洋人の求道者より ずっと簡単にできる。
ふむ?
これは 逆説的だね。
西洋では 自我を教える
東洋では 無我を教える
しかし西洋では 自我(エゴ)を解消するのは簡単だ
東洋では それは非常にむつかしい---


これは あなたがたにとって困難な課題になるだろう。
まず獲得して、それから 失う------
というのも
あなたが失うことのできるのは、あなたがたが持っているものだけだからだ。
持っていなかったら どうやって失くすことができる?

あなたがたは 豊かであって はじめて貧しくなれる。
もし豊かでなかったら
あなたがたの貧しさには
エスが 説きつづけた “ 心 貧しき者 ” のもつ美しさ
ゴータマ仏陀が 乞食になったときに見られるような あの深い意味はない。

豊かな者だけが 貧しくなることができる。
なぜなら人は、持っているものしか失うことはできないからだ。

もし豊かだったことが なかったら
どうして あなたに貧しくなれよう?

あなたの貧しさは ほんの表面的なものにとどまるだけ
それは けっして精神に在るものではない。
表面的には 貧しいが
深いところでは まだ富を 熱望しつづける。
それは 一つの野心となる
富を獲得したいという 間断ない欲望となる。
表面的にだけ あなたは貧しい。

そしてあなたは
貧しさは善い などと言って自分を慰めさえするのだ。
しかし あなたがたには貧しくはなれない。
豊かな人だけが、真に富める者だけが 貧しくなれる。
ほんとうに豊かであるためには 富を持っているだけでは充分ではない---
それでも まだ貧しいかもしれない。
もし野心が まだあるとしたら
あなたは 貧しい!

あなたが 何を持っているかは 肝心ではない。
もしあなたが 充分持っていたら
そのときには欲望は消える。
欲望の消失---、それが 充分であることの 指針となる。
そうなったら あなたは豊かだ
あなたには その 豊かさを落とすことができる
あなたは 貧しくなることができる

仏陀のような乞食になることができる------
そのときには あなたの貧しさは 豊かだ。
そのときには あなたの貧しさは 独自の王国をもつ---


落ちるのは熟れた果実だけ------02へ つづく

質疑応答集「七日めの朝 --- 10 」by OSHO

(…過去は過去であって 取り消すことなど できはしない。
あなたには もう過去を変えることはできないし
戻ることもできない。
だからこそ大自然は、賢くも あなたがたに過去生を 思い出すことをゆるさないのだ。)


さもなかったら、あなたがたは狂ってしまう!

あなたが 一人の女性と 恋におちるとするね。
そして
もし 突然あなたが、この女性は過去生で あなたの母親だったことに気がつく------と、ものごとは すっかりこみ入ってくる。
どうすれば いい?

過去生において この女性が あなたの母親だったとしたら
彼女とセックスすることは 罪悪感を生じさせる。
それに セックスしないこともまた 罪悪感を生じさせる。
なぜなら あなたは彼女を愛しているからだ。
だからこそ
私は 大自然は “ 賢くも ” あなたがたに 過去の生を 思い出させないと言うのだ。

思い出すことが ゆるされるような時点に あなたが到ったとき
あなたが まったく何ものにも乱されることのないほど瞑想的になったとき
そのときには 門がひらかれ
過去生は すべてがあなたの前に現われる。

これは 自動的なメカニズムだ。

時には このメカニズムが はたらかないこともある。
また、偶然、過去生を思い出すことができる子供が 生まれてくることもある。
しかし そういった子供の人生は めちゃめちゃだ。


数年前、一人の少女が私のところへ連れてこられた。
彼女は 自分の過去生 二つを 思い出していた。
そのとき 彼女はまだ十三才だった、が
彼女の 眼の中を 見入れば、その眼が七十才ほどの 老女の眼であることがわかる。
というのも彼女は 二つの過去生、七十年にわたる過去生を思い出していたからだ。

彼女の肉体は 十三才のものだ、が、彼女の精神(マインド)は 七十才のものだった。
彼女は ほかの子供たちと 遊ぶことができなかった。
それはそうだろう。
七十才の老女が どうしたら子供たちと遊べよう?

彼女は 年寄りのように話し、ふるまう。
彼女は 重荷を背負っていた------、彼女の内部(マインド)には その何十年かにわたる心配事が全部あった。
彼女の記憶は 非常に正確だったので、その二つの過去生で家族だった人たちも 追跡することができた。

一つの家族は アッサムに、もう一つは マディヤ-プラデッシュに住んでいた。
彼ら 昔の家族と接触するようになると、彼女は その人たちに あまりにも愛着を覚えるようになって、彼女は どこに住むべきか ということが問題になっていた。


私は 両親に言った。
この子を 少なくとも三週間 私の許に置いてみなさい。
彼女が 忘れることができるよう努力してみよう------
なぜなら この少女の生は 倒錯したものになってしまうからだ。
彼女は 恋におちることさえできない。
彼女はもう老女なのだ!


人が 年老いる ということは記憶と関連している。
もし記憶の拡がりが 七十年にわたっていたら
そのときには あなたは七十才の感じをもつ。


この少女は たいへんな苦しみの中にいるように見えた。
彼女の顔付き、からだ付き、すべてが苦しんでいた。
彼女の中心が 非常に病んでいて、落ち着かず不快に感じているようだった。
すべてが おかしくなっていた。

しかし両親は 娘のことで大いに喜んでいた。
大ぜいの人々が訪れたり 新聞が記事にしたりするからだ。

両親は このことを大いに愉しんでいた。
彼らは 私の言うことに耳を貸そうとしなかった。
私は言った、この子は今に狂うよーーー
両親たちは ふたたびその少女を私のところに連れては来なかった。
が、七年後、彼らはまた来た。
その少女は 発狂していた------

彼らは、何とかしてください と言ったが、私にはこうしか言えなかった。
今では もう何をするのも不可能だ
ただ死だけが 彼女を助けるだろうーーーと。


あなたがたが 思い出さないのは
思い出したら 切り抜けることが むつかしくなるからだ。
この生でさえ、あなたがたは たいへんなゴタゴタをつくりだしている というのに
多くの生を 思い出したら
あなたがたは ただ もう狂うだけだ。

そんなことは 考えないでいなさい。
それにまた、そんなことは的(マト)はずれだ。

的を射ていること というのは
“ 今ここ ” に在る! ということ。

そして 自分の道を さがし出すがいい。
もしあなたが 関係を通して 進んでいけるようだったら
それは 大いにビューティフルだ。
もし、関係を通しては 進めないようなら
そのときには 自分の孤独の中で 何とかするがいい。


道には 二つあるーーー

愛とは、関係に基づいた道を歩む という意味だ。

そして 瞑想
これは、自分の孤独道を歩む ということ。

愛と瞑想ーーー
これが 二つの道だ。

どちらが自分に合うか感じとるがいい。
それから
あなたの エネルギーのすべてを それに注ぐことだ。
そして
その道を 歩んでいきなさいーーー




質疑応答集 七日めの朝
(質問)
バグワン---
妻とか夫、愛人といった私たちの生活上のパートナーについて話していただけませんか?
どういうときに私たちは 相手を辛抱し、どういうときに 関係を絶望的とみて、いや 破壊的ですらある とみて放棄すべきなのでしょうか?
また、私たちがもつ人間関係は過去生からの影響があるのですか?



「マイ ウェイ ⚪ 流れ行く白雲の道」by OSHO
話者= バグワン-シュリ-ラジニーシ
翻訳= マ-アナンド-ナルタン
発行= RPJ
発売= 株式会社めるくまーる社

質疑応答集「七日めの朝 --- 09 」by OSHO

(…過去生 (前生)のことは あまり考えないでいなさい。
それにまた 未来のことも あまり考えないでいなさい。
現在で 充分ではないかね?)


関係が 過去から来ると考えることはない。
たしかにそれは過去から来ている!

しかし それについて考えることはない。
そんなことをしたら ますます複雑になるばかりだ。
ものごとは 簡単であればそのほうがいい。

たしかに それはつづいているーーー
過去生から ずっとものごとは 連続性をもってつづいている。
私は その事実を否定しはしない。
だが、そのことで 重荷を背負うことはない。
それは 未来にもずっとつづいていくだろう。
が、それについて 考えてはならないよ。

この現在が すでに、解決するには 手に余るほどなのだから------


菓子をむしゃむしゃ食べて 言うがいい。
“ この ” 菓子は じつにうまい! とね。

過去のことも 未来のことも考えないでいなさい。
過去も未来も それぞれ “ 自分で自分の面倒を見る ” だろう。

連続しないものなど 何ひとつない。

あなたがたは過去、関係をもっていた。
愛し、また憎悪した。

友情を築きあげ、また敵もつくった。
それは ずっと連続するーーー
あなたが 気がついているもの いないものを含めて
それは 常に そこに在るーーー

しかし
もしあなたが それに “ついて” あれこれ考えはじめてしまったら、あなたは 現在の瞬間を 取り逃がすことになる。

だから
過去というものなど無いと 思いなさい。
未来というものなど無いと 思いなさい。
この瞬間が、あなたに与えられているすべてなのだ。

この瞬間しかないかのように 考えをめぐらすがいい。
この瞬間が すべてであるようにふるまって
いかにしたら 自分のエネルギーを愛情ゆたかな現象に
この瞬間、変容できるか 考えをめぐらすがいい。



人々は私の許に来て こんなことを訊く。
自分の過去生について知りたいのですが------

たしかに過去生はあったが、それは 今では的はずれだ。
なぜ そんなことを訊く?
過去について いったい何をしようというのかね?
今では何もできることはない!

過去は過去であって 取り消すことなど できはしない。
あなたには もう過去を変えることはできないし
戻ることもできない。

だからこそ大自然は、賢くも あなたがたに過去生を 思い出すことをゆるさないのだ。



質疑応答集「七日めの朝 --- 10」by OSHO へ 続く---

質疑応答集「七日めの朝 --- 08 」by OSHO

(…責任があるのは 常にあなた自身だ、自分を変えるがいい。 ゴタゴタの元になる性質を落としていくことだ。
愛を、自己変容とあらしめなさい。)

セールスマンを訓練するとき こんなことを言うそうだ
お客さんはかならず正しい!

私も あなたがたに言いたい。
関係の世界、愛の世界においては
あなたが かならずまちがっていて、相手が常に正しい!

恋人たちは いつも このように感じている。
もし そこに愛があるとしたら、彼らは いつもこう感じる。

わたしがどこか おかしいんだ!
もし何かが 起こるべきように起こらなかったら
二人とも 同じように感じる。

そうなったら ものごとは成長する。

そうなったら 中心(センター)がひらき

二人のあいだの 境界線が没入するーーー

しかし
もしあなたが、相手のほうが悪いのだ と考えるとしたら
あなたは 自分自身と、そしてその相手 両方を閉ざすことになる。
相手のほうも あなたが悪い と考えている。

思考というものには伝染性があってね------
もしあなたが 相手が悪い と思っていたら
…たとえあなたが それを口に出さなくても
たとえあなたが 微笑して、相手が悪いなどとは思っていないことを示した とて
相手は 読みとっている------
あなたの眼、仕草、顔つきを通して 感じとっている。


たとえあなたが俳優であったとして
偉大な役者であったとして
顔付きを変えたり、仕草を あらためたりしても
それでもなお
無意識の領域では 絶えず信号(シグナル)が 送られている。
あなたが悪い、と------

そして、相手が悪いと あなたが言えば
相手もまた、あなたのほうが悪い と感じはじめる。
関係は この岩の上で壊されるーーー!

そうなると人々は 閉じこもる。
あの人が悪いんだ と言われたら
その人は自分を守護しはじめ、保護しはじめる。
そして 閉鎖が起こるのだ。


常に 憶えておくがいい。
愛にあっては
まちがっているのは かならず あなたのほうだ。

そうなって はじめて可能性がひらかれる。
相手もまた 同じように感じるだろう。

たがいに相手の内に その感じを生じさせるのだ。

恋人たちが近づき合うときには
考えていることが たちまちたがいに伝わってくる。
どちらも 何ひとつ 言わないのに
二人とも 沈黙しているのに
伝え合うことができる。

言語は 愛することのない人々の ためのもの
恋していない人たちのために あるものだ。

恋人たちにとっては 沈黙こそ充分な言語
ひと言も 言うことなくして彼らは語りつづける。

あなたが 愛をサダナと、つまり内面的な訓練紀律と見なすのなら
それなら 相手が悪いなどと言わないことだ。
ただ、あなたの内部のどこかで 何かが まちがっているのを見つけだしなさい。

そしてその まちがいを落とすがいい。

それは簡単にできることではないだろうよ。
なぜならそれは 自我(エゴ)に 反することになるからだ。

それは 簡単にできることではない、というのも それはあなたの誇りを傷つけるからだ。

それは 簡単にできることではない、というのも これは相手を 支配することにも 所有することにもならないからだ。

…相手を所有することで あなたがより強力になることはない。
これは あなたの自我(エゴ)を破壊する。
だからこそ 簡単にできることではない。


自我(エゴ)が 破壊されることこそ肝心なこと
それこそが 終着点(ゴール)ーーー

内なる世界へ どこからアプローチするにせよ
愛から、瞑想から、ヨーガから、祈りから------
どの道を選ぶにせよ、終着点(ゴール)は 同じだ
それは 自我(エゴ)が 破壊されること。
自我(エゴ)を 投げ棄てなさい。

愛を通じてやったら それはとても楽にできる。
それに まったく自然でもある。
愛とは 自然な宗教だ!
ほかのものはすべて ますます自然でなくなっている。
もしあなたに
愛を通して はたらきかけることが できないとしたら
ほかのどの道も あなたにとっては むつかしいことになるだろう。


それから
過去生 (前生)のことは あまり考えないでいなさい。
それにまた 未来のことも あまり考えないでいなさい。
現在で 充分ではないかね?



質疑応答集「七日めの朝 --- 09」by OSHO へ続く---

質疑応答集「七日めの朝 --- 07 」by OSHO

(…どの個人も それぞれが 一つの深い神秘だ、内部に 入っていけばいくほど 底知れない。
だが 私たちは たがいに退屈してしまう。
というのも ただ外側の縁(フチ)のところに、いつも その外面に とどまるからだ。)

こんな話を読んだのだがね-ーー
一人の男が ひどく病んでいた。
彼は あらゆる種類の いわゆる “療法”を試みたが、何も役に立たなかった。

そこで彼は 或る催眠療法をする人の許に行った。
その人は 彼に、 “私は病気ではない” と 何度も何度もくり返し言うマントラを、暗示を一つ 与えた。
朝 少なくとも十五分、そしてまた夜 十五分をくり返す。
“私は病気ではない、私は健康だ------”
日中も 思い出したらいつでもこれをくり返す。

すると、数日のうちに 彼は回復しはじめた。
そして数週間の後には 完全によくなっていた。
そこで彼は 妻に言う。
これは 奇跡だよ!
もう一つ別の奇跡を起こしてもらうために もう一度あの催眠術師のところへ行こうと思うんだがね。
私は最近 性欲がほとんどなくなっているんだ。
欲望が ないんだよ---
だから性的な関係が ずっとストップしている------

欲求不満におちいっていた妻は 喜んで言った。
ぜひ行ってらっしゃいよ!

彼がふたたび催眠術師を訪れて 戻ってきたとき妻が訊ねた。
どんな マントラですか?
どんな暗示を 今度はもらったの?

しかし夫は おしえようとしない。

だが数週間もすると 彼の性欲は戻りはじめた。
ふたたび欲望を感じるようになってきた。
妻のほうは 当惑してしつこく訊くのだが、夫は笑うばかりで 何も言おうとしない。

そこで彼女は或る日、彼が 朝、浴室の中で 例の瞑想、十五分間のマントラをやっているとき、何を言っているのか 立ち聞きすることにした。

と、彼は こう言っていたものだーーー
彼女は私の妻ではない
彼女は私の妻ではないーーー!


私たちは 他者をきめてかかる。
誰かが あなたの妻だ とする------と、そこで関係は終りになる。
誰かが あなたの夫だ とする------と、そこで関係は終りになる。
もはや そこには冒険がない。
ん?
相手は 一つの 物 に、日用品になったのだ。
相手は 今では探し求めるべき 一つの神秘として在るのではない。
相手は もう新鮮ではなくなっている。

憶えておくがいい。
どんなものも年輪とともに死んでいく ということを。
外面は 常に古く
中心は 常に新しい。
外面は 新しいままではいられない。
一瞬一瞬、古くなり かび臭くなる。
が、中心は 常に 新鮮で若々しい。


あなたの魂(ソウル)は 子供でも青年でも老人でもない。
あなたの魂は ただ たんに永遠に新鮮なのだ。
それには年令というものがない。
自分で 実験してみたらどうかね。
あなたは若いかもしれないし 年寄りかもしれない
ただ眼を閉じて 自分で知るがいい。
自分の中心(センター)が どうであるかを感じてみてごらん。
老いているかね?
若いかね?

あなたは、中心(センター)とは そのどちらでもないと感じることだろう。
それは 常に新しい
けっして 古くはならない!

なぜだろうか?

それは、中心は 時間に属さないからだ。

時間のプロセスの中では すべてが古くなる。
人間が 一人生まれるーーー
その肉体は そのときからすでに老いはじめる!

この子は 生まれて一週間ですよ と言うとき、私たちは
この子の中に 一週間分の 老いが沁みこんだのだ という意味で言っているのだ。
この子は すでに七日間も死に向かって時を過ごしている。
七日間の死路を すでに終えたのだ。
この子は 死に向かって進んでいる。
遅かれ早かれ 彼(彼女)は死ぬことになる------

時間の中で やって来るものは何であれ古くなる。
時間の中に入る瞬間、それはもう古く老いていく。
あなたがたの肉体は老いている
あなたがたの外面は老いる------
それを永久に恋することなどできない。

しかし
あなたがたの中心(センター)は 常にフレッシュだ。
それは 永遠に若々しい。
ひとたびあなたが それと接触しはじめたら
愛は 一瞬毎に 発見されてくる。

そうなったら ハネムーンは けっして終らない。

もし終るとしたら それはハネムーンではなかったのだ。
それは たんなる面識にすぎなかったのだ------



さて、憶えておいてほしい最後のことーーー
愛の関係にあっては
あなたがたは、何かが うまく行かないと きまって相手のせいにする。
もし何かが 思ったような起こり方をしなかったら、責任は相手にあることになる。

このことは、将来の成長の可能性を すべて破壊する。
憶えておきなさい。
責任があるのは 常に あなた自身だ、自分を変えるがいい。
ゴタゴタの元になる性質を落としていくことだ。

愛を 自己変容とあらしめなさい。



質疑応答集「七日めの朝 --- 08」by OSHO へ 続く---