saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

質疑応答集「七日めの朝 --- 06 」by OSHO

愛を サダナ(修行)にしなさい。

とるに足らないつまらぬものに終らせてはならない。
頭の中の考えごとで終らせてはならない。
肉体的な満足感で終らせてはならない。

愛を 内なる探求にするがいい。
そして、相手を 助けとして 友人として捉えなさい。

もしあなたがたが タントラについて何か聞いたことがあるとしたら、タントラでは こう言っているのを知っていよう。
男でも女でも
もしあなたに パートナーか友人が見つかったら------
あなたとともに 内なる中心に向かって動く用意があり
あなたとともに 関係の絶頂にまで動いていく用意がある
そんな相手が見つかったら

そのときには その関係は 瞑想的なものになる。
そのときには その関係を通して
あなたは 究極の関係を達成するだろう。
相手は、そのための扉になるのだとーーー


もう少し説明しようかね。
もしあなたが 人を愛したら、少しずつ、その人の外面の部分が消えていく、その人の “ かたち ” が消えていく。

あなたは、かたちの無い内側のものに もっともっと接するようになる。
かたちは しだいにぼんやりとなり、消えていく。

そして、あなたが もっと深く入っていったら
そのときには この かたちの無い 個さえも消えはじめ、溶けはじめる。
と、“ 彼方なる世界 ” が ひらかれる。
そうなったら 相手のその個人は たんなる開口部、扉だったことを知る。

その愛する者を通じて あなたは〈神性〉を見出すのだ。

愛することができないために
私たちは これほどに多くの宗教儀式を必要とする。
儀式は 代用品、しかも非常に貧弱な代用品だ。


ミーラ (ヒンドゥ教の覚者)には寺院はいらない。
〈実在〉全体が 彼女の寺院だ。
彼女は 一本の樹の前で踊ることができる------と
その樹が クリシュナになるのだ!
彼女は 小鳥の前で唄うことができる------と
その小鳥が クリシュナだ!
彼女は 自分のクリシュナをまわり中につくりだす。

彼女の愛は
彼女が見るところ どこでも扉がひらかれ クリシュナが 愛する人が顕われるほどに 深いーーー

しかし最初のきらめきは かならず個を通して来る。
宇宙と触れ合うことはむつかしい。
あまりにも大きく、あまりに広大だ。
始まりも 終りもなく 無辺だ。

いったい どこから はじめればいい?
どこから入ったらいい?

愛の 相手の個が その扉になる。

恋に おちるがいいーーー
だが、それを葛藤にしないこと。

相手を 深く認め ゆるすこと、愛を招待状にすることだ。

そして相手が 無条件に あなたの内部に浸透することを ゆるすがいい。

と、 突然 相手は消え去り
〈神〉が そこに いる ーーー

もし あなたの愛する人が 神とならなかったら
そのときには この世の何一つ 神性を得ることはない。

だとしたら
あなたがたの宗教的な お話は ただのナンセンスだ。


これは 子供が相手でも起こりうる。
動物が相手でも、飼っている犬が相手でも起こりうる。
もしあなたが
自分の飼っている犬と深い関係に在ることができたら
これは 起こりうる、その犬は神性を得る!

したがって これは男と女だけのことではない。
これは、あなたに 自然にもたらされる〈神性〉のもっとも深い源泉の一つ

どこからでも それは起こりうる。


基本となる鍵は これだ。
あなたは、自分のもっとも内奥の核にまで、あなたの実存の基盤そのものにまで 相手が浸透するのを ゆるさなければならない ということ------


ところが 私たちは 自分を だましつづける。
私たちは 自分が 愛している と思っている。

もしあなたが、自分は愛している と 思っているとしたら
愛が起こる可能性は まったくない。
なぜなら もし それ が 愛だ と思っていたら、あらゆるものは 閉ざされてしまうからだ。

新たに 努力をしてみるがいい。
相手の 内深くに隠されている 本物(リアル)の存在を見つけだしてみなさい。
誰も当然こうあるべきだ などと捉えないこと。
どの個人も それぞれが 一つの深い神秘だ、内部に 入っていけばいくほど 底知れない。

だが 私たちは たがいに退屈してしまう。
というのも ただ外側の縁(フチ)のところに、いつも その外面に とどまるからだ。



質疑応答集「七日めの朝 --- 07」by OSHO へ続く

質疑応答集「七日めの朝 --- 05 」by OSHO

(…二つの中心が 出会うとき、 そこに愛がある。
そして愛とは、錬金術的な現象だ。)

ちょうど
酸素と 水素が 出会うと
新しい物質(もの)、水が創られるのと同じ。

あなたは 酸素を持ち歩くことができる
水素を持ち歩くこともできる------が
もし喉が渇いてきたら、どちらも無用の長物だ。
欲しいだけの酸素を持てるし 好きなだけの水素も持てる
しかし、渇きは消えはしない
二つの中心が出会うとき
一つの新しいものが創りだされるーーー
ふむ? その新しいものとは〈愛〉のこと。
それは まるで水のようなもの

何生にもわたってあった渇きが満たされるのだ。
突如として あなたは充足される。
それこそ目に見える愛のしるし
あたかも 何かを成就したかのように あなたが満足しているというそのことだ。

今や成就すべきものは何もない
あなたは 終着点(ゴール)に到達した
もうこれ以上ゴールはない
目的は充足された
種は花となった
全面的な開花に至ったのだーーー


深い充足感こそ、目に見える愛のしるしだ。
人が 恋におちているときには
彼(彼女)は 深い充足感の内にある。
愛自体は 目に見えない、が
そのまわりの充足感、その深い満足感
その呼吸の 一息一息、動きの 一つ一つ
その存在そのものが 満ち足りているーーー


愛は 人を無欲にする と 私が言ったら
あなたは驚くかもしれない。

欲望とは 不満にともなってあるもの

あなたがたは 自分に無いから欲する。
あなたがたは、もし 自分にこれがあったら きっと満足するだろうと考えて 欲する。

欲望とは 不満から生まれるものだ。

愛が あるときには
二つの中心が出会い、溶け合い、没入し合うときには
或る 新しい錬金術的な 質が生まれるーーー
そして そこには充足感がある。

それはあたかも〈実在〉全体が ストップして
動きが いっさいなくなったかのようだ。
そうなったら 現在の瞬間が 唯一の瞬間になる。
そうなったら あなたにも言える。
ああ、この菓子はうまい と------

死 さえ
愛の内にいる人にとっては 何の意味ももたない。
だから私は あなたがたに言う。
愛は あなたを無欲にするとーーー


怖れることはない。
怖れを落として、オープンでいてごらん。

他者の中心が あなたの中心に出会うのを ゆるすがいい。
あなたは それによって再び生まれかわる。
存在の新しい質が 創りだされるのだ。


存在の この質は言う。
〈神〉は在るーーーと。
〈神〉は論議ではなく、或る充足
充足を感じとる 感覚(フィーリング)のことだ。


あなたがたも観察したことがあるだろう。
不満を感じているときには きまって神を否定したくなる。
満足していないときには
あなたの存在全体が “ 神などいない ” と言いたがる。

無神論 というのは 論理から出てくるものではない。
それは不満から 出てくるものだ。
あなたはそれに理屈をつけるかもしれない。
------ それはそれで別のこと。
あなたは、自分は 不満だから 無神論者なのだ とは言わないだろう。
あなたは
神など存在しない、私には その証拠があるんだ
と言うかもしれない。
しかしそれは ほんとうのことではない。

もしあなたが 満足していたら
突如として あなたの存在全体が言いはじめる。
〈神〉は 在る!と。
不意に あなたは そう感じるのだ。
〈実在〉全体が 神性を得るーーー

もし愛が そこに在ったら
あなたは 生まれてはじめて、〈実在〉は 神性であり、あらゆるものは恵みであるという実感をもつことだろう。
しかし
これが起こるためには 多くのことが為される必要がある。
これが起こりうるためには、多くが壊されなければならない。
あなたは、自分の内部で 障害を生みだすようなものすべてを壊していかねばならない。



質疑応答集「七日めの朝 --- 06」へ 続く

質疑応答集「七日めの朝 --- 04 」by OSHO

(…あなたがたの愛の中には かならず怖れがある。
夫は 妻を 怖れ、妻は 夫を怖れている。
恋人たちには いつも怖れがある。
それなら それは 愛ではない。
それならそれは ただの取り決めにすぎない…)

たがいに依存し合い、闘い、搾取し合い、操作しコントロールし合い、支配し所有し合っている怖れにみちた 二人の人間のあいだの取り決めーーー
それは 愛ではない。

もしあなたが 愛の起きるのをゆるせたら
祈りの必要は まったくなくなる。
瞑想の必要は まったくなくなる。
教会や寺院の必要は まったくなくなる。
もし愛することができたら
あなたは〈神〉のことなど まったく忘れられる。
なぜなら、愛を通じて
あらゆることが あなたに起こるからだ。
瞑想、祈り、神------
“ すべて ”が あなたに起こることだろう。

これこそイエス
“ 神は愛なり ” と言うときに意味したことだ。

しかし、愛は むつかしい。
怖れを まず落とさなければならない。

ところが これはなんとも奇妙なこと------、つまり
あなたがたは そんなに怖れてはいるものの
失うものは 何も無いのだ。


カビールが どこかでこう言っているーーー
私は 人々を内側まで見る
彼らはひどく怖れているが、私には なぜだかわからない
というのも彼らには 失うものは何も無いからだ。
カビールは言う。
彼らは、川に行って沐浴するのを怖れている 裸の人のようだ。
その人は、衣服をどこで乾かそうかと苦にしている------

これは あなたがたの陥っている状況だね
裸で、何も身にまとっていないのに
いつもいつも衣服のことを気にしているーーー


失うような いったい 何をあなたがたは持っているというのだね?
何も無い!
この肉体は 死によって 取り上げられる。
死が それを持ち去る前に
それに 愛を与えるがいい。
あなたが持っているものは 何であれ 取り上げられる。
取り上げられる前に、わかち合ったらどうかね?

それが “ 所有するための唯一 ”の 方法だ。
もし あなたに わかち合い、与えることが できたら
あなたは主人(マスター)だ。
あらゆるものは いずれ取り上げられる。
永遠に 保持できるものなど 何もない。
死は すべてを破壊するーーー

だから
もしあなたが まちがわず私の後についてきたら
葛藤は 死と愛のあいだにあることを知るだろう。

もしあなたに 与えることができたら、死はなくなる。
あなたから取り上げられる前に、あなたはすでに それを与えている。
あなたはそれを 贈り物にしたのだ------
そこには 死は無い。


愛する者にとっては 死は無い。
愛のない者には、一瞬ごとが死だ。
なぜなら、一瞬一瞬
何かが 彼(彼女)から奪い取られているからだ。
肉体は 消えつつある
一瞬ごとに 失われつつある。
そしてそうなったら死があらわれ
あらゆるものが 消滅してしまう。


恐怖は何なのだ
あなたは 何を怖れているのだ?
たとえあなたに関することは何でも知られていて
あなたは一冊のひらかれた本だとしても
それでも怖れるかね? なぜ?
どうして そのことが あなたに害を及ぼせよう。
それは まちがった捉え方だ。
社会によって与えられる教育、条件づけだ。
隠さなければならない
自分を護らなければならない
常に闘志を燃やしていなければならない
あらゆる人が敵だ
あらゆる人が あなたに反対している------

誰も あなたに反対している人などいない!

誰かが反対していると感じたとしても、それはその人が
あなたに 反対しているからではない。

誰も皆、自分自身のことに関わっているからだ。
あなたのことではない。

怖れるものは 何もない。
このことに 気がつかなければ、真の関係は 起こりえない
怖れるものは 何もないと------

このことに 瞑想してごらん。

それから 他者が あなたの内に入るのをゆるすのだ。
あなたの内部に入るよう 他者を招待するがいい。

そして どこにも障害をつくらないこと。
通路になりなさい
いつも 開放していることだ。
あなたの上には鍵もなければ扉もない。
閉ざされた扉は 一つもない。

そうなったら 愛は可能だーーー


二つの中心が出会うとき、 そこに 愛がある。
そして 愛とは、錬金術的な現象だ。




質疑応答集「七日めの朝 --- 05」by OSHO へ 続く

質疑応答集「七日めの朝 --- 03 」by OSHO

(…或る年老いた禅僧の話を聞いたことがあるのだが---)

最後の日がやってきて 彼は死の床に就いていた。

彼は その夜、他界することを宣言したために
彼の信奉者、弟子、友人たちが集まってきた。
彼を愛する人たちは たくさんいたーーー
そういう人たちが 皆集まってきたのだった。
遠方から 国中から人々が 彼のもとにやってきた。

が、或る 古い弟子の一人は
師が死の床にあると聞いて 市場に駆けつけた。

師匠は御自身の家で 死のうとしていらっしゃるのに
なぜおまえは 市場になんぞ行くのかね?
或る者が訊ねると その古い弟子は言った。

師には大好きなお菓子があるのを 私は知っているんだ。
だから その菓子を買いに行くのさ。

その菓子を見つけるのは たいへんだった。
この種の菓子は もう流行(ハヤ)っていなかったからだ。
だが夜までには何とか彼は間に合わせることができた。
彼は 菓子をもって馳せつけたーーー


その頃 人々は いささか心配になっていた。
というのも
師に 誰かを待っているような気配があるからだ。
眼を開けて 見まわすと、また眼を閉じる------

と、例の弟子が 到着した。
師は 言う。
そうか、おまえが来たか
あの菓子は どこだ?

そこで弟子は 菓子を差し出した。
師が 菓子のことを訊いたことで 彼は非常に喜んでいた。


死にかかっていながら
師は その菓子を手に取った。
しかし その手は震えてはいなかった。
非常な高齢にもかかわらず その手は震えはしなかった。

誰かが 訊ねた。
あなたは たいへん年を取られているし、しかも今や 死の縁に立たれている。
すぐにも最後の息が 引きとられようというのに、あなたの手は 震えていませんね?

すると師は言った。
私は震えはしない、怖れがないからだーーー
私の肉体は年老いたが、私は まだ若い。
そして私は
たとえ肉体が消え去ろうと 若くありつづけるだろう。

それから彼は、菓子を一つ 口の中に入れると、もぐもぐ味わった。

誰かが訊ねる。
師よ、遺言は?
最後のメッセージは 何ですか?
もうすぐ私たちを離れていこうという今
私たちに 覚えていてほしいことがありましょう?
と、
師は微笑して 言ったーーー
ああ、この菓子は じつにうまい!


これこそ、“ 今 ここ ” に 生きる人だ。
“ この菓子は じつにうまい!”

死でさえ このときには場ちがいだ。
次の瞬間というのは 無意味なこと。
“ この ” 瞬間、この菓子は うまいのだ!


もしあなたがたが この瞬間の内に在れたら
この現在の瞬間に
この現在性ーーー、 この充実ーーー
このときに はじめてあなたがたにも 愛することができる。


愛とは稀有な開花だ。
愛は ほんの時折にしか起こらない。
何億という人々が、自分たちは 愛し合っているという偽りの姿勢の中で生きている。

彼らは 自分たちの愛を信じている------が
それは 彼らの 信じこみにすぎない。

愛とは 稀な開花ーーー
時折、それは起こる。
それが稀なのは、恐怖が なくなったときにしか起こらないからだ。
それ以前には けっして起こらない。
というのは
愛は、きわめて深い内面的(スピリチュアル)な 宗教的な人にしか 起こりえないという意味だ。

セックスは 誰にも可能なこと。
面識をもつことは 誰にも可能なこと。
が、愛は ちがう。

あなたが怖れていないとき
そのときには 何一つ隠すものはない
そのときあなたは 自らをひらくことができる。

そのときあなたは あらゆる境界線を引きはらって
あなたの内部(ナカ)に、あなたの核にまで浸透するよう他者(ヒト)を招くことができる。

しかし憶えておきなさい。
もし あなたが、自分の内部深くに浸透することを 誰かにゆるしたら、相手もまた あなたが彼の内に、彼女の内に入っていくことをゆるすだろう。
なぜなら
あなたが他者を 自分の内部に入ることを ゆるすときには
信頼が生まれるからだ。
あなたが怖れていないときには
相手からも また恐怖は 消えていく


あなたがたの愛の中には かならず怖れがある。
夫は 妻を 怖れ、妻は 夫を怖れている。
恋人たちには いつも怖れがある。
それなら それは 愛ではない。

それならそれは 愛ではない。
それならそれは ただの取り決めにすぎない



質疑応答集「七日めの朝---04」by OSHO へ続く

質疑応答集「七日めの朝 --- 02 」by OSHO

(…ただの面識------
ところが私たちは 愛が起こったのだとおもう。
外面が出会う---)

それを私たちは 出会いがあったのだ と考える。

あなたは あなたの 外面ではない。
ほんとうに
外面とは あなたが終りになる境界線のこと
あなたのまわりを 囲っているだけ。
外面とは あなたが終りになるところであり
そこから〈全体〉が始まるところーーー

たとえ 何年も一緒に暮らしてきた 夫と妻でさえ
ほんの面識の間柄でしかないかもしれない。
たがいのことを 知ってはいないかもしれないのだ。
誰かと 長く暮らせば暮らすほど、人は たがいの中心はまだ未知のままであることを忘れていく。

したがって 理解すべき第一のことは
ただ “ 知り合い ” の間柄を 愛と勘ちがいするな ということ。
あなたは その相手と一緒に寝るかもしれない。
その相手と 性的につながっているかもしれない。
が、セックスもまた 外面のものだ。
中心が 出会わないかぎり
セックスは 二つの肉体の出会いにすぎない。

そして 二つの肉体の出会いは
“ あなた ” が 出会うこととはちがう。
セックスもまた 面識の程度にとどまる。
物理的、 肉体的------だが 表面的に識(し)ることにすぎない。

自分の中心に到るほどに 他者が内部に入ることをゆるせるのは、あなたが怖れていないときだ。
あなたが 恐怖を覚えていないときだ。


だから私は あなたがたに言う。
生き方には 二つのタイプがあるとーーー

一つは 恐怖指向のタイプ
もう一つは 愛指向タイプ。
恐怖指向の生き方は、あなたを けっして深い関係に導いてはいかない。
あなたは 怖れつづけ
相手が あなたの核心にまで浸透することをゆるさない。
或る程度までは ゆるしはするが
その向こうには壁が現れてすべては止まる。

愛指向の人は 宗教的な人だ。
愛指向の人とは
未来を 怖れない人
成り行きや結果を怖れることのない人
“今 ここ” に生きる人------

これこそ クリシュナがギータの中で アルジュナに語っていることだ。
結果のために 心乱されるな。
それは恐怖指向の捉え方だ。

そこから何が起こってくるかなど 考えてはならない。
ただ “ここ” に在って、十全(トータル)に 行なうがいい。
計算してはならないよ。
恐怖指向の人は いつも計算している
計画して、いろいろ 取り決めて、安全を計るーーー
生全体が こうして失われていく。


或る年老いた禅僧の話を聞いたことがあるのだが---



質疑応答集「七日めの朝 --- 03」by OSHO へ続く

質疑応答集「エゴは落ちるーーーたった今!」06

「エゴは落ちる---たった今!」06=終回


〈覚醒〉に関しては 古来二派があって、一派は、〈覚醒〉は瞬間的に起こる とする突然の〈覚醒〉を語る派
〈覚醒〉を 非時間的にとらえる派だ。

もう一派は、最初の派とは正反対に、〈覚醒〉は漸次的に やってくるものという、徐々に起こる〈覚醒〉を語る派で、突然に起こるものは 何ひとつないと言う。

どちらも正しい。
なぜなら、両方とも現象の一部だけを選びとって見ているからだ。
“漸次”派は 最初の部分、理解の部分を選択している。
彼らは それには時間をかけなければならないのだと言い
理解は時間を通じて来るものだと言う。
そのとおり!
彼らは、 “突然のこと” については 心配することはないと言う。
ただ道順(プロセス)通り行けばそれでいい。
もし 水が正しく熱せられていたら いつか蒸発するだろう。

あなたはべつに 蒸発のことは心配しなくていい。
頭から そのことを完全に取り去ってしまいなさい。
あなたは ただ水を熱すればいいだけだ------


もう一つの派、まったく反対に〈覚醒〉は 突然のものだ と言っているこの派は、最後の部分を執っている。
この派によれば、最初の部分は 大して本質的ではないと言う。
大事なことは、あの時間を超えた間際の内で起こる爆発だ。
最初の部分は周辺のことにすぎない。
“ 本当のこと、 ” つまり二番めのことが中心になる------


だがあなたがたに言っておく、両方とも正しいのだと。
〈覚醒〉は突然 起こる。
それは常に 突然起こってきた。
しかし、理解には時間がかかるーーー
両方とも正しい。
が、両方とも またまちがった解釈をされることがある。
あなたがたは 自分自身に策略を弄することができる。
自分をだますことができるのだ。
もし あなたが 何もしたくないと思ったら
突然の〈覚醒〉を信じることは すばらしいことになる。
そうなったら あなたは こう言う。
何をする必要もない。
もし突然に起こるものならば
それは そのように起こるしかない。
自分に何ができよう? ただ待つだけだ------


このために、殊に日本では、宗教が消えてしまった!
日本には “ 突然の〈覚醒〉”の 長い伝統がある。
禅では〈覚醒〉は 突然起こる という。
このために、国全体が 非宗教的になってしまった。
徐々に徐々に、人々は、“ 突然の〈覚醒〉”こそ唯一の可能性であると 信じるようになっていった。
何もできることはないではないかーーー
それが 起こるときには起こるだろう
もし起こるとしたら きっと起こる。
起こらないとしたら、起こらないだけだ。
それに関して 何もできることはない
それなら、何も心配することはない------

東洋の中では 日本はいちばん物質的な国だ。
東洋の中にあって、日本は西洋の一部として存在する。
これは おかしなはなしだね。
というのも日本には 最高に美しい伝統の一つ
ディヤンからチャンそして禅へとなっていった伝統があるからだ。
なぜ それが消えてしまったのだろう?
それが消えたのは、この “ 突然の〈覚醒〉” という概念のためだ。
人々は 自らを欺きはじめたのだ------


インドでは もう一つ別な現象が起こっているーーー
だからこそ私は、人間の 頭(マインド)というのは まったく欺瞞的でずるがしこいと くり返しくり返し言いつづけるのだよ。
あなたがたは 絶えず用心していなければならない。
さもなければ だまされることになる。

インドには、もう一つ別の伝統があるが
それは、漸進的な〈覚醒〉の伝統だ。
それこそ “ヨーガ” の意味するところ、つまりあなたは
それのために はたらかなければならない。
何生にもわたって きびしい修行をしなければならない。
鍛錬が必要だし、作業が必要だ。
それに懸命な自己作業をしなければ、それは成就できるものではない。

したがって、それは長いプロセス、非常に長い道程だ。
あまりにも長いため、インドでは 一回きりの生涯ではとても足りないと言う。
たくさんの生が必要だと------

このことに どこもおかしいことはない。
理解に関するかぎり、これは真実だ。
ところが
そうなったらインドは、そんなに時間がかかるものなら
急ぐ必要はないと考えてしまった。
どうしてそんなに急ぐ必要がある?

それなら世の中を楽しむがいい。
急ぐ必要はないし、時間はたっぷりある。
そんなに長い道程なら 今日のうちに成就することなどできはしない。
もし今日中に成就できないとなると、関心は失われる。
何生も待つことができるほどに熱心な人は誰もいない。
ただもう忘れてしまうばかりだ。


漸進的なプロセスは インドを破壊し
突然起こるほうの概念は 日本を壊してしまった。


私にとっては
両方とも真実だーーー!
なぜなら 両方とも、一つのプロセス全体の半分ずつだからだ。
あなたがたは、自分自身をだまさないように 常に用心していなければならない。
いささか矛盾しているようにおもえるかもしれないが このことを、私は あなたがたに言っておきたい。

つまり
それ は、今の この瞬間にも起こりうる-------が
今のこの瞬間が来るためには何生もかかるかもしれない ということ。
それは 今のこの瞬間に起こりうる------が
あなたがたは、この瞬間が来るまで何生もかけて待たなければならないかもしれない。


だから
懸命にはたらくことだ
あたかもそれが 今この瞬間に起こるかのように------
それから 忍耐強く待つことだ。
なぜなら それは予知不可能なことだから。
誰も いつそれが起こるか言うことはできない。
あと何生も起こらないことだってありうる。

だから
がまん強く待ちなさい。

あたかも道程全体が 一つの長い段階的な展開であるかのように------

そして 心身をこめて これにはたらきかけることだ。
可能なかぎり頑張ることだ。
あたかもそれが 今 この瞬間に起こるかのように------



質疑応答集「エゴは落ちるーたった今!」 終わり、
(質問---)
「バグワンーーー
あなたは、自我(エゴ)は今この瞬間にも落ちることができると言いましたね。
少しずつ落とすことはできないのですか?」



「マイウェイ 流れ行く白雲の道」
バグワン-シュリ-ラジニーシ 質疑応答集
翻訳=マ-アナンド-ナルタン
発行= RPJ
発売=株式会社めるくまーる社

質疑応答集「エゴは落ちるーーーたった今!」05

「エゴは落ちる---たった今!」05

あなたがたは何かに従事していたい。
だから エゴを落とすことはできないでいる。
空っぽで、何も従事することのない状態でいられる用意が あなたがたにできないかぎり
あなたがたに、“ 誰でもない存在 “ として在る用意ができないかぎり
たとえ必要とされなくっても、それでもなお〈生〉を楽しみ祝福する用意ができているようにならないかぎり エゴが落ちることはありえない。

あなたがたは “ 必要とされる必要 ” がある。
誰かがあなたを必要とするーーー、と、あなたは いい気分になる。
もし、もっともっと多くの人が あなたを必要としたら
あなたは ますます いい気分になっていく。
だからこそ指導的地位というのは あれほどまでに楽しめるものになる。
多数の人がそれを必要とするからだ。
指導者(リーダー)というのは 非常に謙虚になることができる。
彼は 自分のエゴを 押し出す必要はまったくない。
そのエゴは すでに深く満足している。
なぜなら
大勢の人たちが 彼を必要としているからだ
大勢の人たちが 彼に依存しているからだ。
彼は 多くの人々の生きがいとなっている。

            • 彼は 謙虚になることができる。

彼には謙虚になれる余裕が充分ある。


この事実を 憶えておかなければならない。
つまり自分のエゴを あまり押し出しすぎる人たち というのは
きまって 他者に影響を及ぼせない人たちだ ということを。
そういう人たちは 自己主張する。
それが、自分は ちょっと特別な誰かだ! と言うための 唯一の言い方だからだ。
もし彼らが 人々に影響をもてたら
もし彼らに 説得力があったら
彼らは けっして自己主張などしはしない。
彼らは きわめて謙虚になる------少なくとも表面では
エゴイスティックになど見えはしない。
というのも
微妙なかたちで 多くの人々が彼らを頼りにしているからだ。
彼らは重要人物になったのだ。
その人生は彼ら自身にとって意義深いものに見えてきたのだーーー


もし
あなたの自我(エゴ)が あなたにとって意味あるものだったら
もし
あなたのエゴが あなたにとって意義あるものとなったら
どうやって それが落とせよう?

私の話を聴きながら
あなたがたは エゴを 落とそうと考えはじめる。
しかし 考えただけではエゴは 落とせるものではないよ!
あなたがたは その根を理解するようにならなければならない。
それが どこにあるか?
どこに 存在するのか?
なぜ 存在するのか------?

これらは あなたがたの内部にあって、あなたがた自身 感知することなしに はたらいている無意識の力だ。
それを 意識の上に のせなければならない。
エゴの根っこを 地中から 土の中から取り出して
じっくり見なければならない。

“もし” 何にも従事せずにとどまることができたら
“もし”、必要とされることがなくても 満足していられたら
エゴは 今の この瞬間にでも 落ちることができる。
が、この “もし” は 大きな “もし” だ。
これら たいへんな “もし” のために、瞑想が あなたがたの用意をととのえさせる。
このハプニングは 瞬間のうちに起こるもの。

しかし、それを理解するには時間が かかるだろう。
これはちょうど 水を熱するときと同じだ。
だんだん、だんだん、だんだん熱くなっていって
と或る点に達すると、百度にまで 達すると
蒸発が はじまるーーー
この蒸発は 一瞬のうちに起こる。
これは 段階的には 起こらない、突然 起こる。
水から蒸発へと、一つのジャンプがある。
突如として、水は 消えてしまう------が
そこには “時間” が 関わっている。
なぜなら水は、沸騰点に達するまで熱せられなければ
ならないからだ。
蒸発は 突然起こるが、熱するには 時間がかかる。

理解ということには 熱するのと同様、時間がかかる。
エゴが 落ちること自体は 蒸発のように起こるもの
それは突如として起こる

だから
エゴを “ 落とそう ” とすることはやめなさい。
それよりも
自分の 理解を深めるようにすることだ。
水を蒸発に “ 変えよう ” とはしないこと
ただ 熱せばいい。
二つめのことは 自動的についてくる。
それは 起こってくる。

あなたは理解ということの内(ナカ)に成長していくのだ。
その理解を もっと強烈に
もっと焦点を合わせたものにしなさい。
あなたのエネルギー全部を、その現象
あなたの存在の、エゴの、思考の、意識のその現象を理解するためにつぎこみなさい。

もっともっと注意深くなることだ。
そして 何が起ころうと、それもまた理解のための 手がかりにするがいい。

誰かが あなたを侮辱したら、あなたは 腹を立てる。
その機会を逃さないことーーー!
なぜ この怒りが 出てきたのか理解してみなさい。

だがそれを 哲学的な作業にしないこと。
図書館へ行って 怒りについて調べようなどとしてはならないよ。

怒りが あなたに “ 起こっている ”ーーー
それは一つの経験、生きた体験だ!
焦点を全面的に それにあてて、なぜそれが あなたに起こっているかを理解してみるがいい。

これは哲学的な問題ではないんだから、それについて相談するのにフロイドはいらない
その必要はない!

怒りが起こっているのは あなただというのに、他者に相談するなんてじつに馬鹿げている。
あなたは それに触れることができる。
あなたは それを味わうことができる。
あなたはそれで 燃やされてしまう------


なぜ それが起こっているか理解してみなさい。
どこから それがやってくるか?
どこに その根っこがあるか?
どのように それは起こるのか?
どのように はたらくのか?
どのようにして それは あなたを圧倒するのか?
怒りの中に入ると どうしてあなたは狂ってしまうのか?

今までにも怒りが起こったことがあったろう。
今また その怒りが起こっている------
だが 今回は それに新しい要素を付け加えてみるがいい。
理解 という要素をーーー

そのときには質的な変化が見られよう。
そのうちに だんだんと
怒りは 理解すればするほど起こらなくなってくるのが わかるだろう。
そして、それを 完璧に理解したときには
それは消え去っていく。

理解とは 熱のようなもの
熱が 或る温度まで達したらーーー百度に達したらーーー
水は 消えていく。


セックスということがあるーーー
これを “ 理解 ” してみなさい。
そこに 理解があればあるほど、あなたは性的ではなくなっていく。
そしてその理解が 完全になった瞬間、セックスは消える。

これが 私の規準だ。
何であれ、内的なエネルギー現象があって、それが 理解を通じて消えるようなものだったら、それは “罪”だ。
もし理解することで 深まるようなものだったら、それは “徳” だ。

理解が深まれば深まるほど
まちがっているほうは消えていき
正しいほうは ますますしっかり根を下ろす。

セックスは消え、愛が 深まる。
怒りは消え、慈愛が深まる。
貪欲さは消え、わかち合いが深まるーーー

したがって 何であろうと、理解することで消えていくものは まちがいだ。
ますます しっかりと根づいていくものは正しい。

これが私の 善と悪の、徳と罪の定義のし方だ。

聖なる人というのは 理解の人 ということ
それ以外の何ものでもない。

罪人とは、理解のいっさい無い人のこと、それだけのことだ------!

聖人と罪人とのあいだを区別するものは、罪とか神聖さではなく、理解しているかどうかだ。

理解は、加熱のプロセスに似たはたらきをする。
或る瞬間が やってくるーーー
加熱が 沸騰点にまで達すると、まさに適切な瞬間がくる。

突如として エゴが落ちていくーーー

あなたは それを 直接 “ 落とす ” ことは できない。

あなたにできることは それが起こるような情況を用意することだ。
その情況を整えるには 時間がかかる。



「エゴは落ちる---たった今!」06 へ つづく---