saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章「死んではいません」8️⃣

(…解脱した人は もうすでに死んでいる。
なぜなら その人は存在していないのだから。)


ゴータマ仏陀は、解脱後、四十年にわたり旅してまわった。
その四十年の間、絶えまなく村から町へ町から村へと動いて、自らの覚(サトリ)得た全てを人々に説き与え歩いた。

一方では、彼はひとことも言葉を発したことはなく、 一歩も動きはしなかった ともいわれる。
これは どういうことだろうか?


彼が ひとことも話さなかったというのは 確かに正しい。
というのも、 彼はもう存在してはいなかったのだから、 い な い 人間が どうやって言葉を発することができる?


そこで説かれたのは 仏陀という人の言葉ではなく、〈実在〉そのものによって語られた言葉だ。
なぜなら仏陀は もう人ではなく、ただ名前が実用的 機能的なものとして残っていたにすぎない。

実用的な用途のため以外には、仏陀は もう名前など必要ではなかった。


一歩も 動きはしなかった、けれども、旅から旅へと動きまわった と言うことができる。

仏陀が歩いた地域は ビハールと呼ばれるが、ビハール全体が なぜその名前を得たかは、仏陀の流浪に由来する。
ビハールとは、旅、流浪の旅という意味だ。
そして、仏陀の その流浪の故に、その地域全体がビハールとして知られるようになった。


ところが、仏陀は 一歩として動きはしなかったーーーそう言われてきていることは まちがいではない。
全く正しい。
まさに、仏陀は 一歩として動きはしなかった。


あなたに 言っておこう。
私は こうしてあなたに語りつづけてはいるが、私は ひとことの言葉も発していない。
自我が 消えてなくなっているとき、一体誰が言葉を発することができよう?


では、私が あなたに語りかけるときには、何が 起こっているのだろう?

この語りかけは、樹々の間を抜けて通る そよ風のようなもの、河に向かって流れる泉の水のようなもの、静かにひらいていく花のようなものだ。
そこに 私は いない。


花は 自分が自分自身をひらいたと主張することはできない。
そよ風は、「私は樹々の間を抜けていきます」とは言えない。
そよ風に そう主張する自我はない。
河は、「自分は海に向かって流れている」とは言えない。


河は 流れる。
誰かが 流 し て いる わけではない。

私は あなたがたに語りかける。
だが、私 は ひとこととして言葉を発したことはない。

だが こういうことを 一体どう伝えたらいいのだろう?

解脱に達している人は すでに死んでいる。
過去は 消え去り、 自己という中心は もう存在していない。
今ではその「人」は どこにもいない。
そして あらゆるところに存在している。


今こそその人は、大いなる〈実在〉と 一体になっている。
波は 海のなかに消え去った。
だから、あなたが そこに覚者の立っているのを見るとき、 その肉体は ひとつの接触点にすぎない。
それだけのことだ。

それはちょうど 電気の差し込みのようなものだ。
エネルギーが動き出すための差し込み------エネルギーは どこにでも在る。
だから、覚者(ブッダ)が そこにいる場合、 彼は 宇宙との接触点になる。

彼自身は もうそこに存在していない。
ただ 一つの通路として在るにすぎない。

この世に降ろされた 一本の錨だ。
そして その錨の失われるときが、覚者の 肉体の消えるときだ。


あなたは「何が起こるか?」と訊くが、波が消えてなくなるとき 何が起こる?
彼は 消失して海になる。

一人の覚者が 消えるときには、ちょうど波が消えていくように肉体が消える。


覚者とは すでに死んでいる境地だ。
だからこそ覚者と 呼ばれるのだ。
同時に、覚者は けっして死ぬことはない。
なぜなら、ひとたび自我(エゴ)が失われたら、永遠の生命が得られるからだ。

覚者は どこにもいない、が、覚者は あらゆるところにいる。
自己という 中心をもたなくなると、〈実在全体〉が あなたの中心になる。



この問いは愚かしい。
理路整然として意味ありげだが、愚かしい質問だ。

だからこそ愚堂は こう応えている。


“ どうして私が知ってましょう ”


この応答には 多くの意味が こめられている。
愚堂が言っているのは こういうことだ。
「私」は存在していない、 だから私のなかの誰が そんなことを知っていよう。

波が海のなかに 消えていくとき、私が それをどう知りえようか。


上皇

どうしてかって?

そなたも解脱に達している師であろうが ”


人は 師(マスター)から 答をもらうことを期待する。
だが答とは 教師からもらうもの、師からは もらえない。

師は ただあなたのマインドを壊すだけだ。
たとえ 一見答えているようにみえても、師は けっして答えてはいない。


師は はぐらかすのがうまい。
あなたが 何かを訊く。
そうすると 師は 別のことを話しだす。

あなたが Aについて質問すると、師は Bについて話すのだ。
しかし師には 説得力があり、人を引きつける力がある。
だから Bについて話したとしても、あなたは 自分の質問が答えられたのだと納得することになる。

それに、あなたのする質問は 愚かしいものばかりで、答えようにも答えられない見当違いのものばかりだ。
だから 師はけっして答を与えはしない。


師は あなたに、あたかも答えをもらっているような感じを抱かせる。
だが 師が実際やっているのは、あなたの足もとの 地面を引きはがそうとすることだ。

その努力の全ては、あなたのマインドを潰して崩して落とさせてしまうことにある。


もしあなたが 師の近くにしばらくの間でもいることができたら、あなたは壊される。
師とは 一つの混沌(カオス)だ。
その近くにいるうちに、あなたは引き倒されてしまうだろう。

質問も答もなくなっていく。
そうなって初めて、沈黙が あなたの内に在るようになる。
と、師は あなたに関して 成功したことになる。


答は、あなたのマインドに 再び詰めこまれるだけだ。
だから、師は あなたに答などあげられない。
答は理論や 説明となって、あなたが〈現実〉のなかに入っていく邪魔をする。
師は、あなたの持ってくる質問を切り崩す。

そうするとあなたは、次第に問うのを やめるようになる。
そして、問いかけが 一切なくなるときがやって来る。
そのとき初めて、本当の答が 与えられる。


しかし、その答は 言葉によるものではない。
その答は、師の存在 そのものから与えられる。
そのとき師は、自分自身の存在を あなたの内に注ぎこむ。
師は パイプのような媒介役となり、大いなる全体は 師を通ってあなたの内に注ぎこまれる。


“ どうしてかって?

そなたも解脱に達している師であろうが ”


9️⃣へつづく