第九章「これでもない、それでもない」07

(…「あるがまま」とは、仕方なくではなく、心から歓迎して受け容れることを言う。)

 
 “このような「如」の世界には、

 自己もなく、また自己でないものもない。”



 そして ひとたび溶け込めば、人は「あるがまま」の中に、タタターの中に、理解の中に 溶け込んでいる。

そこには、自分という者も いなければ、自分以外の者も いない。
自己も なければ、他者も ない。

「如」の中で、物事の本性の 深い理解の中で、境界は 消える。



 ムラ-ナスルディンは 病気だった。
医者が ムラを診察して言った。
「大丈夫だよ、ナスルディン。
とてもいい具合だ。 大分、回復しているよ。
なかなか よくやってるじゃないか。
まず何もかも順調だな。
ただ、まだ ほんのちょっとした事が残っている。
あんたの 遊走腎は まだよくなってない。
しかし、私は 何も心配していないよ」

 ナスルディンは 医者の顔を見、そして言った。
「そりゃあ、治ってないのが あなたの遊走腎だったら、私だって心配しないでしょうね」


 思考(マインド)は 常に、他人と自分に 分ける。
そして人が 自分と他人を 分けた瞬間、他人は 敵になる。

他人は 味方にはなれない。

これは 深く理解されるべき基本的なことの ひとつだ。
それを 見抜く必要がある。

他人は味方では あり得ない。
他人は 敵だ。
他人である というそのことで、敵なのだ。

 より敵対的な者もいれば、それほどでない者もいる。

だが、他人であるかぎりは 敵だ。

味方とは 誰か。
実のところ、それは 最小の敵のことだ。
それ以外ではない。

友達とは、自分に最も 敵対的でない者のことだ。

そして 敵とは、自分に最も 友交的でない者のことだ。
だが皆 同じ列に 並んでいる。
友達は より近くに、敵は 遠くの方に。
だが、それは皆 同じ敵だ。
他人は 味方ではあり得ない。

それは 不可能だ。
なぜなら、他人との間には、競争が、嫉妬が、闘いが、起こらずにはいないからだ。


 人は 友達とも闘っている。
もちろん、親しげに闘ってはいるが。
あなたは 友達とも競争している。
なぜなら、あなたの野心は その人達の野心と同じだからだ。

あなたは 権威と権力を求め、その人達もまた権威と権力を求めている。
あなたは 自分のまわりに、巨大な帝国を持ちたい。
その人達も そうだ。

あなた方は皆、同じもののために闘っている。
ところが、それを 手に入れることができる者は、ごく僅かしかいない。


 世間で 味方を得ることは 不可能だ。

覚者には 味方がいる。
あなた方には 敵がいる。

覚者に敵は あり得ない。
あなた方には 味方はあり得ない。

どうして覚者には 味方がいるのか。
それは 他人が消えたからだ。
もはや自分以外には 誰もいないからだ。


 そして この「他人」が 消える時、「自分」もまた 消えなければならない。
なぜなら、それは ひとつの現象の 両極だからだ。

こちらに、内側に、自我(エゴ)が 存在すれば、向こうには、外側には、他者が存在する。

それは ひとつの現象の 二つの極だ。
一極が 消えれば、「あなた」が 消えれば、それとともに「私」も消える。
「私」が 消えたら、「あなた」も消える。


 他人を 消すことはできない。
人に できるのは、自分自身を消すことだけだ。

もし、自分が消えたら、他者は いない。

「我」が落ちたら、「汝」は いない。

それしか 道はない。


 だが 私たちは ちょうどその反対をやろうとする。


…08に 続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所