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第八章 信を生きる by OSHO, (09)

(…真実を見ることが、人の内側深くに信頼を起こす。 その事実を見ることによって、「信」が起こる。)


 私が 生まれたものなら、私は いつか死ぬだろう。
単純な事実だ。

私がそれを受け容れるのではない。
どんな拒絶もないのだから。

私は ただ信頼する。

私が 生まれることを信頼した時、〈生〉は 私に誕生を与えた。
そして、私は信頼した。

〈生〉は 私に 死を与えるだろう。
そして私は信頼する。

誕生は 実に素晴らしいものだった。
どうして死が そうでないことがあろう。
それに そんなことを決める自分は何者か。
誕生が これほど多くのものをくれたのなら、どうして死が そうでないことがあろうか。


 未知なるものは 常にそこにある。
信頼とは、どんな要求もせずに 未知の中に入って行くことだ。

そうなれば 人は、惨めではあり得ない。
そうなれば、至福が 自分の上に降り続ける。
求めていないのに、どうして惨めであり得よう。
自分が要求していないのに、誰が自分を惨めにできよう。
〈生〉が 惨めに見えるのは、何を要求しても、〈生〉が その反対に向かっているように見えるからだ。

求めることをしなければ、〈生〉は至福になる。
何が起ころうとも それは美しい。
何が起ころうとも 素晴らしい。
人は ただ それとともに動く。


 荘子は正しい。「易しいことは正しいこと」、そして、「靴がぴったり合えば、足のことは忘れる」と。

そして、人が〈生〉と非常に深く適合した時、疑いと不信は消える。
この靴が ぴったり合うということが信頼だ。
その時、信念ではない「信」が生まれる。
信ずべき どんな神も必要としない「信」が生まれる。


 仏教徒が神について語らないのは このためだ。
仏教はまさに、宗教の 最も深い核に達した。
そして 僧サンのような人々こそ稀だ。
その理解は 完璧で 全面的だ。
その理解の中には 全体が入ってしまった。

この人たちは 神を必要としない。
というのも、彼らは こう言うからだ。
「なぜ神なのか。存在では足りないのか。
なぜ 人格化するのか。
それに、何を創ろうと、それは.創り手に似るだけだ---投影に過ぎない。
だから あらゆる神は 投影なのだ」と。


 ヒンドウー教徒は 神を創る。
その神を見てごらん。
それは単に ヒンドウー教徒の体型の投影に過ぎない。
鼻、目、背の高さ、何もかもだ。

日本の神を 見てごらん。
黒人の神を 見てごらん。

そうすれば、これらが、我々自身の思考(マインド)の 投影に過ぎないことが分かる。
もし、馬が 神を持つとすれば、それは人ではあり得ない。
馬に なるだろう。
人間のような神を持つ馬など 考えられるかね。
不可能だ。
馬は馬を 自分の神にするだろう。
もし木が神を持てば、その神は樹木になる。


 あなたたちの神とは 何だろうか。
それは あなたたちの投影だ。

そしてなぜ あなたたちは投影するのか。

それは、護ってもらいたいからだ。
神が いなくては、一人ぽっちで、孤独で、空しさを感じる。
誰か 自分を助けてくれる人が欲しい。

この助けを求めることによって、あなたは自分の惨めさを 創り出しているのだ。
今度は その反対が起こる。
あらゆる瞬間に、神が自分の言うことを 聴いてくれないと感じることになる。

自分は祈り、泣いているのに、神は 聴いてくれない、と。
自分は あらゆることをしているのに、それにふさわしい何ひとつも 与えられていない と絶え間なく感じることになる。

 聖者たちは、いわゆる聖者たちは いつも不平を言ってきた。
それは、この人たちが 世を捨てたにもかかわらず、至福が起こらなかったからだ。
独身を続けているにもかかわらず、まだ彼らの上には 花が降り注いでいない。


…(10) に続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所