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OSHO「源泉への道」第五章-実存との対面 P.173~

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 人間の身体は 神秘のメカニズムだ。
その働きは 二面的だ。
外へ向かうとき、意識は感覚器官を通り、世界に出会う---物質に出会う。

だがそれは身体機能の一面にすぎない。
身体には また別の面がある。
身体は あなたを内へと向かわせる。

意識が 外へ向かうとき、あなたの知るものは すべて物質だ。

意識が 内に入るとき、あなたの知るものは すべて非物質だ。

 実在(リアリティー)には 分割は存在しない---物質と非物質は ひとつだ。
この実在 Xが、目を通して、感覚器官を通して見られると、物質として現れる。

この 同じ実在Xが、内側から見られると、つまり感覚器官を通してではなく、センタリングを通して見られると、非物質のように見える。

実在は ひとつだが、二通りの見方ができる。
一方は 感覚を通して、他方は 感覚を通さずに。
これらセンタリングの技法はすべて、感覚が働かない地点に、つまり感覚を超えていく地点に、あなたを導くためにある。

 技法に入る前に 理解しておくべき点が 三つある。
第一点。
あなたが 目を通して見ているとき、それは 目が見ているのではない ということ。
目とは ただ見るための窓だ。

“ 見る者 ”は 目の背後にいる。
目を通して 見る者は、その目ではない。
だからこそ 目を閉じても依然、夢や幻影や 心像が見えるのだ。

見る者は 感覚器官の後ろにいる。
見る者は 感覚器官を通して世界へ出る。
だが 感覚器官を閉じると、その見る者は 内側にとどまる。

 見る者、意識が中心を定めたら、突然 彼は自分自身に目覚める。
自分自身に目覚めたら、あなたは〈存在〉全体にも目覚める。
なぜなら あなたと〈存在〉は 別々ではないからだ。
だが自分自身に気づくには センタリングが必要だ。

センタリングというのは、意識が様々な方向に分かれていない ということ、意識が どこへも動かず、自分自身にとどまり、不動で、根づいていて、方向を持たず、ただそこに、内にとどまっている ということだ。

 内にとどまるのは 難しそうな感じがする。
というのも、我々のマインドにとっては「どうやって内にとどまるか」という考えでさえ、外に向かうことになるからだ。
我々は考え始める。
その「どうやって」が 思考を開始させる。

内側について考えることも、我々にとっては ひとつの想念だ。
想念とは すべて外側のものだ。
内側のものではありえない。

 もっとも内奥の中心では、あなたは ただの意識だ。
想念は 雲のようなものだ。
想念は あなたにやってくる---だが あなたのものではない。
想念はすべて 外側からやってくる。
あなたの内側では ひとつの想念も生まれない。
想念はすべて外側からやってくる。
内側で 想念を創り出すのは不可能だ。
想念とは、あなたにやってくる雲のようなものだ。
だから 考えているときには、あなたは 内にいない。

思考というのは、外にいるということだ。
たとえ、思考の対象が内的なものであろうと、魂についてであろうと、自己についてであろうと、あなたは 内にいない。

 このような「自己」や、内的なものや、内側についての想念は、すべて 外からきたものだ。
あなたのものではない。
あなたのものであるのは、ただ単純な意識だ---雲ひとつない空のような 意識だ。

 それではどうしたらいいか。
どうやって内側にある この単純な意識を獲得するのか。
そこで方便が使われる。
なぜなら 直接的にはなにもできないからだ。
なにか方便が必要だ---それによって あなたは 内側に投げ込まれる…意識へと投げ込まれる。

この「中心」に対しては 間接的な働きかけが必要だ。

直接的な働きかけは 不可能だ。

ここが 肝心な点だ。

これは ごく基本的なことだ。

 以下 略……

Originally published under the title
“ VIGYAN BHAIRAV TANTRA ” By Osho
訳者. スワミ-アドヴァイト-パルヴァ (田中ぱるば) 1994.
P.P 172-175