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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章「濃紫に染められた野辺」6️⃣

…( 対話は稀有な現象であり、美しい。 )

なぜなら 対話を通じて 双方が豊かになるからだ。
実際、あなたは話をする
それはディスカッションーーー対立し合って、私が正しい あなたがまちがっている と証明しあう 言葉の闘いか、それとは全く違う対話か のどちらかになる。


対話は、相手と対立するのでなく、むしろ互いに手を取り合い 助け合って、真理への道を見つけようと動き出すことだ。

それは、一体となること、協力し合うこと。
真理を見出すための 調和のとれた努力だ。
それは、どんなかたちであれ 絶対に闘いではない、それは友情だ。
真理を共に見出そうと 一緒に動き、真理を見出すために 助け合う友情だ。

誰も既に 真理を得ている者などいない。
だが、二人の人間が 共に真理を見出そう、探求しようと始めたら、それこそが対話であり、二人とも それによって豊かになる。

そして 真理が 明らかになったときに、それは 私のものあなたのもの ということにはならない。

真理が顕れるとき、 それは、探求に参加した二人より 大きく高く、二人とも それに包まれてしまう。
そして、それによって 二人とも豊かになる。



対話は 師と弟子の 関係の始まりだ。

それは 入り口で 起こらなければならないものだ。それなくして寺院の内に 入ることはできない。
“ 玄関にて ” という言葉があるのは このためだ。

門口で起こらなければ 意味がない。
最初が 対話なのだ。
もし それが 起こらなかったら、そのときには どんなかたちの入門も あり得ない。
そうだったら 一休は 玄関のその場で サヨナラを告げていただろう。

なぜなら、その人を 寺の内に 招き入れる必要は全くないからだ。
そんなことをするのは 全く無意味だからだ。

だからこそ、玄関で、玄関の上り口に坐って、 この対話は 起こったのだ。


一休は この男を感じ取ろうとした。
この男を感じ、その潜在する可能性や 能力を、また その姿勢を 感じ取らなければならなかった。

この男の求道は どのくらい深いのか?
求道の熱意は どのくらい強いか?
単なる 好奇心だけではないだろうか?

この男は ただの知識人だろうか?
それとも 本物の求道者なのか?


一休は 蜷川の 存在を 感じ取ろうとし、蜷川は それを受け容れた。
彼は 一休の試みに 参加し、それを共にした。

彼は それを怖れることなく、自分を守ろうともしなかった。
蜷川は、自分が自分以外の何者かであるような フリをしようとはしなかった。

彼は、自分のハートを 一休に対して 完全に開いた。
そして 一休が 自分の内側に入り、自分を感じることを 受け容れた。
なぜなら、師は このようにして、人が 偶然に ここを訪れたのか、それとも本当に訪れたのか、それを 知り定めなければならないからだ。

訪れは 偶然なされることもある。


7️⃣へ つづく

第八章「濃紫に染められた野辺」5️⃣

(…これは、ハートで生きる人たち、勇気があって、危険を冒せる人たちのためのものだ。
これはこの世で 最大のギャンブルだ。)

あなたは 自分の命の全てを賭けるのだから、自分自身を誰かに 差し出してしまうのだから。

あなたは、その人が どういう人か知らないし、知ることもできない。
何かを感じることは あるかもしれない。
だが、師に関しては はっきり納得いくことなどまるでない。

疑念は 常にとどまる。


しかし、疑念にも関わらず、人はジャンプして 踏み出さねばならない。
疑念が晴れることは けっしてない。
隠すことはできても、自分の内部の その疑っている部分を説得することはできない。
どうやって 説得する?

あなたは ただ師と共にいなければならない。
そうすることによってのみ、疑念は 消えていく。
それ以前は とても不可能だ。
体験だけが 疑念を消すのに役立つ。
だから、説得など できるものではないだろう?


マインドは 常にためらう。
私のところへは いろいろな人たちが来るが、自分は躊躇している、五分五分の感じだ と言う人たちがいる。
どうしたらいいでしょう?
サニヤスを受けるのは 待つべきでしょうか?


ところが もし待つとしたら、彼らは 永遠に待つことになる。
もし彼らが、マインドが 百パーセント納得できる時がきたら ジャンプしようと考えているとしたら、そんなジャンプは けっしてできない。
なぜなら、マインドには、何かを百パーセント肯定するなど 絶対にできないからだ。
それが マインドの機能や 性質だ。


マインドは いつも分割され、断片的だ。
全一 (トータル)ではありえない。

ハートと マインドの違いは ここにある。
ハートには 全一性が あるが、マインドは 常に分断されている。

マインドとは、あなたの存在の 別たれた部分であり、ハートとは 別たれていない 存在だ。


弟子として在ることは ハートから来るものだ。

マインドの方は だらだら話しつづけ、疑いつづけ、 そして邪推する。
それにも 関わらず、そのお喋りマインドにも関わらず、人は ジャンプして、 翔ぶ!


「にも関わらず」と私は言っている。
なぜなら これこそ唯一の方法だからだ。
マインドの言うことに 耳傾けないでいなさい。

マインドの下をくぐり、ハートまで行きつくがいい。
ハートに 訊ねるがいい。


弟子として在る というのは 恋に似ている。
ビジネスで パートナーを組むといったものでも、契約を交わす関係でもない。

あなたは ただ単に与える。
何かが起こるかどうか 知ることもなく。
お返しを もらえるかどうかは 分からない。
あなたは ただ単に 与えるだけだ。
だからこそ、 それは勇気なのだ。


蜷川は、 禅に関心を持っていただけではない。
彼は 禅に献身する者、禅を 熟愛する者だった。

関心、好奇心、詮索、これらは マインドの産物だ。

だが、献身は ハートのものだ。


“ 入門を望み ”

「弟子になる」とは どういうことなのだろうか?
それは 何を意味するのだろう?
それは こういうことだ。


私は やってみました、が、失敗した。
私は 探し求めました、が、見出だせなかった。

やれることは 全部やりましたが、同じ自分のままです。
変身は 私に起こっていない。
ですから私は、降伏して 全てを委ねます。
今は、導師(マスター)が 決めてください。
私が 決めるのではなく。


私は影のように 師に従います。
師の言うことは 何でもやります。
そして、なぜかとは問いません。
師は まず私を納得させるべきだ などと求めません。
反論することなく、ただ従っていきます。
深い信頼の内に。

マインドは 依然まくし立てるかもしれない。
「お前は 何をやっているんだ? これはうまくない。
こんなことが何になる。
バカげてる、狂っている! 」

マインドは こんなことを言いつづけるだろう。

しかし、ひとたび弟子として在ろうと決意したら、もうあなたは マインドに耳傾けることはない。
師の言うことに 耳傾けることだ。

今まで あなたは、自分のマインドに、エゴの言うことに耳傾けてきた。
これからは、師に 耳傾けるがいい。
今や師が あなたのマインドになる。
これが弟子たることの 意味だ。

あなたは自分自身を 脇に置き、師が あなたの存在の 最も深い中核にまで浸透するに任せなさい。

あなた という存在は もういない。
師 だけだ。
弟子として在るということは 影として在ることで、あなたのエゴは 完全に脇に置かれる。


“ 一休に入門を望み 京は紫野の大徳寺を訪れた

玄関にて問答があった ”


禅の逸話には 非常に深いものがある。
一語として 無駄な言葉は使われない。

“ 玄関にて問答があった ”

この 問答は 対話ということだ。
対話とは、単に 話をすることでも、話し合うことでもない。
議論でも、討論でもない。

対話には それらとは違う特質がある。
対話とは、二つの存在が 出会うことだ。
愛の内で 出会い、互いを理解しようとする 慈しみの内で 出会う。

議論するのでもなく、ディスカッションするのでもなく、ただ、きわめて思いやりのある姿勢をもった出会い、それが対話だ。

対話とは、相手の存在に参加して、存在を共にすることだ。
二人の友人どうし、二人の恋人どうしが、何の敵対心もなく、自分が正しい、相手は 間違っていると努力して証明しようとすることもなく、ただ 存在を 共にすることだ。


よくあることだが、人と 話をしている間、あなたは 微妙なやり方で、自分が正しいことを 証明しようと しつづける。
そして、相手もまた 自分の正しさを 立証しようとする。

そうなったら、対話は 不可能だ。
対話とは、開かれた(オープン)マインドで 相手を理解しようとする、という意味なのだ。


対話は 稀有な現象であり、美しい。


6️⃣へ つづく

第八章「濃紫に染められた野辺」4️⃣

(…この英語の courage (勇気) という言葉は とても美しい。
それに 実に興味深い。
ハートを通して 生きる というのが その意味だ。)


詩人は ハートを通して生きる。

そして少しずつ、そのハートの内側で、詩人は〈未知〉の音を 聴き始める。

マインドには それを聴くことはできない。
マインドは〈未知〉からは 遠く遠く離れている。
マインドには 既に知られたものが いっぱい詰まっているのだ。


あなたの マインドにあるものは 一体何かね?

それは全て あなたがもう知ってしまったことだ。
それは 過去のこと、死んでしまったこと、もう消え去っていることだ。


マインドの中身とは、蓄積された過去、つまり 記憶以外の何ものでもない。

ハートは未来であり、ハートは常に 希望そのものだ。
ハートは いつも未来のどこかにいる。

マインドは 過去のことを考える。
が、ハートは 未来を夢見る。


あなたがたに はっきり言っておこう。
現在は 過去より未来に近いということを。
だからこそ私は、 詩人の方が宗教に近いところにいる と言うのだ。


哲学や論理、形而上学や 神学、そして科学、これらは 全て 過去に、既に知られているものに属する。

詩や 音楽、舞踏や 美術、こういった芸術の全ては 未来に属する。


宗教は 現在に属している。
そして、言っておくが、未来は、過去より現在に近い。
なぜなら過去は もう過ぎ去っているからだ。
未来は これから来るもの、やがては存在することになるものだ。
未来には まだ可能性がある。
それは 必ず来るものだし、すでに 来つつある。
どの瞬間も 現在に なっていく。
一瞬ごとに 未来は 現在になるし、現在は 過去になる。


過去には可能性は 全くない。
過去は もう使用済みだ。

あなたは 既に 過去から遠ざかっている。
もう使い尽くされたのだから。
過去とは死物、墓のようなもの。
だが、未来は 一粒の種にも似て、来つつあるもの、永遠に来つつある。
未来は 常に現在に到達し、現在と出会う。


あなたは 常に動いている。

現在は、 未来のなかに入っていく 一つの動きにほかならない。
それは、あなたがすでに踏み出した 一歩であり、その一歩は 未来のなかに向かっている。

そして詩は、可能性や 希望、夢に関わるものであり、現在の より近くに在る。


この男、蜷川は 偉大な詩人だったに違いない。
なぜ私は 偉大な詩人だったに違いない と言うのか?

私は 彼の歌を読んだこともないし、彼が何を書いたかも知らない。
それでも尚、私は、この男は偉大な詩人に違いない と言う。
それは 彼が 禅に関心を寄せたからだ。

それだけではない。
彼は、

“ 一休禅師に入門を望み ”

禅に 興味をもつだけでは 充分ではない。
弟子に ならないかぎり、不十分だ。

宗教に関心を寄せるだけでは足りない。
関心をもつことは 良いことだが、それだけでは深遠にはならない。
関心は好奇心として とどまり、マインドの産物で 終わる。
心身を投入するまでにジャンプしないかぎり、弟子にならないかぎり、マインドの産物として とどまるだけだ。


弟子になる ということは 一つの大きな 決断だ。
並みの決心ではない。
それは、非常にむずかしい、ほとんど不可能に近い決断だ。
私が いつも言っているように、弟子になる ということは、最も不可能な 革命だ。

なぜなら、人間が どうやって他者を信頼できようか?
自分の生命を どうやって他者の手に委ねられよう?
これは 最も不可能に近い革命だ。


だが、これは起こる。
そして、これが起こったときには 実に美しい。
他に 比べるものなどないくらいだ。

そして 並々ならぬ勇気をもった人たち、大胆不敵な人たち、そういう人たちだけが この一歩を踏み出せる。

これは 臆病者には向かない。
それに 頭でっかちの、マインド指向の人たちにも むずかしい。

これは、ハートで生きる人たち、勇気があって、危険を冒せる人たちのためのものだ。


これはこの世で 最大のギャンブルだ。

5️⃣へ つづく

第八章「濃紫に染められた野辺」3️⃣

(…愚か者だけが 知る人であり、知識を主張する。)

科学の研究の世界でさえ、道が 行き止まりになる瞬間がやって来る。
と、そこで突然 ジャンプが起こる。
だが、詩人は ジャンプなしで 宗教の世界に入っていける。
そっと滑り入るだけでいい。
二つの道は 繋がっているのだから。


科学者は ジャンプしなければならない。
三百六十度の 全面的な反転をしなければならない。
上から下へ、内から外へ、外から内へと トータルに回転しなければならない。

しかし詩人は ただ滑り移るだけでいい。
古い皮から滑り脱ける 蛇のように滑り移る。

だから私は、詩のほうが 宗教により近いと言うのだ。


この蜷川新左衛門という男は、非常に偉大な詩人だったにちがいない。
だからこそ禅に、瞑想に 心魅かれるようになったのだ。

もし、詩が、人を瞑想に 導くようなものでないとしたら、それは 詩ではない。
せいぜい 言葉の 巧みな構成ぐらいであって、その内部に 詩は入ってない。

有能な言語学者、言葉構成の名人、有能な文法学者か、あるいはまた、詩は どのように書くべきかの あらゆる法則を知っている人、そういう人では あり得ても、詩人ではない。

なぜなら、詩の最も奥深い中核に 在るものは、瞑想的な何か だからだ。


詩人は作詞家ではない。
詩人は ヴィジョンを掴む者であって、作詞構成などしない。


詩は、ある瞬間、詩人の内側に 起こる。
それは 瞑想的な瞬間だ。

実のところ、詩人が そこに い な い とき 詩は起こる。

詩人が まったく不在であるとき、突然、彼は、何か未知の、未だ かつて求めたことのない 何かに満たされる。
突然、何か、未知の世界の何かが 彼のなかに入ってきたのだ。

さわやかで新鮮なそよ風が 詩人の家に入っていく。
今や、彼は そのさわやかな風を 言語に翻訳しなければならない。
詩人は作詞者ではない。
彼は 翻訳家なのだ。


詩人は翻訳する。
彼の 存在の内部で 何かが起こり、彼は それを言語に、言葉に訳していく。

言葉でない 何 か が 詩人を内側から動かす。

それは 感じ(フィーリング)のようなものに 似ていて、考えたことではない。
それは マインドよりも、むしろハートのなかにある。


詩人は 勇気がある。
ハートで生きる ということは 深い勇気が要る。

勇気 (courage) という言葉は おもしろい。
これはラテン語の cor から来ているが、cor というのは ハートという 意味だ。
勇気 courage は cor に語源をもち、cor ハートを意味する。

だから勇気がある ということは、ハートで生きる という意味になる。


弱い人間、弱虫だけが マインドで生きる。
びくびくと 怖いものだから、自分のまわりに論理という 保護壁をこしらえる。

何もかも恐れているから、思弁や 概念、言葉や 理論、そういったもので 窓や戸口を全部 閉ざし、そのなかに 自分自身をを 隠しておく。


ハートの道は 勇気の道だ。
それは 無防備の内に 生きることであり 、愛と信頼の内に 生きること、未知なるものに向かって 進んでいくことだ。
過去に別れを告げ、 未来を 在らしめようとすることだ。


勇気とは、危険な路を 歩むこと。
生は 危険に満ちている。

臆病者は その危険を避けることも できようが、しかし それでは もう死んでいるも同然だ。

活き活きと 生きている人、本当に 生きている人、生気に あふれて生きている人、こういう人は かならず未知に向かって進む。

そこには 危険はある。
しかし、そういう人は 敢えて危険を冒す。


ハートには いつでも危険を冒す用意が できている。
ハートは ギャンブラーだ。

マインドは というと、これは ビジネスマン。
マインドは 常に計算している。
マインドは ずる賢い。

一方 ハートは、計算は 全然ダメだ。


この英語の courage (勇気) という言葉は とても美しい。
それに 実に興味深い。
ハートを通して 生きる というのが その意味だ。


4️⃣へ つづく

第八章「濃紫に染められた野辺」2️⃣

(…禅の詩人たちや スーフィーの神秘家たち、そしてヒンドゥの聖者たちは、みんな 詩の言語で話してきた。)


そして、たとえ仏陀やマハヴィーラや イエスが 詩の言葉で話さないとしても、その言葉の内には 詩情がある。
人は ある種の詩的な質のものを 彼らの言葉の内に感じとる。
彼らの言葉が 散文的であるのは表面だけだ。
かたちは散文的でも、その背後の精神(スピリット)は 詩の精神だ。


実際、解脱に達した人は、そう語る以外 語りようがない。
もし 普通の散文体で 語らなければならないなら そのように語ることもできる。

だが、それでも 詩情を避けることはできない。
詩は 表面のすぐ下に潜んでいる。
もしあなたに 少しでも洞察力があったら、その詩情が わかるだろう。

それは活き活きと 生気に満ちてそこに在る。


宗教と 詩は 同じ言語域の内にある。
使う言葉は ちがうが、どこかで 出会う点をもっている。
そして、この出会いの点こそ、この逸話の主題になっている。



ひとりの詩人が ひとりの禅師に 会いにくる。

この詩人は 非常に 偉大な詩人だったにちがいない。
なぜなら、
最も深遠なところにまで達した 偉大な詩人たちだけが、神秘家との 出会いの基盤を もっているからだ。
詩人だからといって 誰でもそれをもてるとは限らない。

詩が 究極の極みにまで至ったところに、神秘の世界の 第一歩がある。
詩の世界が 絶頂に達して 終焉(シュウエン)するところ、その頂点に、そのグリシャンカールに、そのエヴェレスト(最高の頂き)に 辿りついたところに、神秘の世界の 寺院への第一歩がある。

最も高遠な詩は、一番低いところの〈神秘〉だともいえる。
そこが 出会いの地点になる。

だから、最も深遠な詩人たちだけが、禅師に このように言わせるほどの 高みをかち得るのだ。


“ そなた 多くを学んできたものよ------ ”


さて、この逸話のなかに入っていこう。

連歌師であり 仏教の帰依者でもある蜷川新左衛門は
名高い 一休禅師に入門を望み 京は紫野の大徳寺を訪れた ”


これは私が いつも感じてきたことだが、詩人のなかでも 最も偉大な詩人たちは、宗教を 避けて通ることはできない。
宗教的な世界に入らざるをえない。
というのは、詩は ある点にまでは引っぱっていくが、そこを越えると 宗教の世界になるからだ。


詩人として在ることに 徹底すれば、人は 宗教的になっていく。

詩の世界の最果てまで 旅していなかったら、詩人は 詩人でありつづけることはできる。
だから、ちっぽけな詩人たち だけは、詩人としてとどまる。が、偉大な詩人たちは、宗教の世界に必ず 入っていく。
これは 避けられないことだ。

なぜなら 詩が終わり、宗教が始まる、そういう地点が来るからだ。
その限界点にまで至ったら、それから どこへ行く?


そこに至った瞬間、詩は、自身を 宗教に転向させる。
人は それに従わざるをえない。


同じことが論理家や 科学者たちにも起こる。
だが、その起こり方は ちょっと違う。
科学者にも、一貫して どんどん進みつづけ 徹底していくと、ある瞬間が やってくる。

道路が もうどこにも向かっていないような、袋小路に入ったような感じになる。
そこには 奈落が口を開けていて、前に進む道はない。


詩人の場合は これとは違う。
前に道が あることはあるのだが、それはもう 詩情の道ではない。
詩人の道は、自動的に 宗教世界の道に変身する。

しかし、科学者や 理論家、哲学者には、それは まったく異なった起こり方をする。
彼らは 行きづまり、道路は ただそこで終わるだけになる。
それ以上 もうどこにも行けない。
道が ないのだから。
そこは 崖っぷち、奈落だ。


アルバート-アインシュタインの晩年に このことが起こった。
これは 最も偉大な人たちにしか 起こりえない。

同じ道を 歩いたとしても、 ちっぽけなマインドは けっして袋小路にまでは 至らない。
道の途中で死んでいく。
その道路が どこかへ連れていってくれる と信じながら死んでいく。
道が まだ前に ずっとつづいて見えるからだ。


変身は、偉大な人たちにだけ起こる。
アインシュタインは その晩年に至って、自分の 一生は 無駄だったと感じ始めた。


ある人が 彼に訊いた。
「もし生まれかわるとしたら あなたは 何になりたいですか」
アインシュタインは答えた。
「けっして科学者にはならない。
配管工のほうがましだ。
もう二度と 科学者はごめんだね。
終わったんだ!」


その生涯の最後になって、彼は 神について 考え始める。
神ーーー生命の 究極的な意味、神秘のなかの神秘について 考えだしたのだ。
そして言っている。
「存在の神秘に 深く浸透していけばいくほど、私は ますます強く、その神秘は 永遠に終わりがなく、無限だと 感じるようになった。
知れば知るほど、私は 自分の知識について 確信がもてなくなった」


〈神秘〉は 広大無辺だ。
尽きるところを知らない。
これこそ 神の概念とは何であるかを語るものだ。
神秘的なるもの、広大なるもの、尽きるところを知らないものーーー


あなたは 知るということができるから、もっともっと 知っていく。
が、それでもなお、それは〈未知〉として とどまる。


あなたは その内側に入っていく。
内へ内へと 入っていく。
それでも あなたは 縁(フチ)を 動き回っているにすぎない。
そして、 内側に落ちこみつづけても そこに底などない。
あなたは、〈神秘〉の中心には けっして行き着くことはできない。

あなたが「私は全てを知った」と 言えるような瞬間は けっしてこない。
誰も そんなことを言ったことはない。
愚か者を除いては。

賢い人は ますます自分の無知を感じていく。
愚かな人々だけが 少しばかりのものを あっちこっちから寄せ集め、それで自分たちが 知っていると 思いこむ。


愚か者だけが 知る人であり、知識を主張する。


3️⃣へ つづく

第八章「濃紫に染められた野辺」1️⃣

「草はひとりでに生える」
The Grass Grows By Itself
OSHO
発行 / OEJ Books 株式会社


第八章 濃紫に染められた野辺
一九七五年 二月 二十八日 講話



連歌師であり 仏教の帰依者でもある蜷川新左衛門は
名高い 一休禅師に入門を望み 京は紫野の大徳寺を訪れた
玄関にて問答があった

一休 どなたかな?

蜷川 仏教帰依の俗にてござる

一休 いずれから?

蜷川 和尚と同国なり

一休 ふむ あちらはこの頃如何かの?

蜷川 烏はかあかあ 雀はちゅんちゅん

一休 そなた 今 何処にいるとお思いか?

蜷川 濃むらさきに染まる野辺に

一休 なにゆえ?

蜷川 桔梗 槿 萱草 紫蘭

一休 それらが去りし後は?

蜷川 宮城野 秋 花開きし野なり

一休 宮城野にて 何が起こる?

蜷川 水は流れ 風わたり申す


禅師は その禅風にいたく驚き
蜷川を奥間に通して茶をもてなした
その折詠まれた歌は

何をかな参らせたくな思へども
達磨宗には 一物も無し

蜷川 応えて詠む

一物も無きをたまはる心こそ
本来空の妙味なりけり

深く心動かされた禅師が 言った
そなた 多くを学んできたものよ------ ”



神学より、詩のほうが 宗教に近い。
理性より、想像のほうが 宗教に近い。

そして、当然のことながら、宗教は その両方を超越する。
そのどちらでもない。


論理を通して宗教の深淵に落ちていくことは いささかむずかしい。
論理は宗教に関して 堅苦しいからだ。
論理には 柔軟性がなく、閉じている。
ひらいていない。
論理には 窓がないし、自分自身のなかから出ていこうにも 戸口がない。
まるで 墓だ。

人は そのなかで 死ぬことはできるが、生命的な流れの方向に 進むことはできない。
論理を通して 生き生きとなることはできない。
論理は 縞模様の囚人服、獄舎だ。


詩は 宗教に より近いところにある。
なぜなら 詩には もっと柔軟性があり、液体のように流動的だからだ。

詩は 宗教そのものではない。
だが、論理と くらべると、ずっと簡単に抜け出せる。
戸口や 窓のような開口部が 詩にはある。

そしていつでも、さわやかな風が、詩人の 心の内奥の深みにまで そよぎ渡ることができる。


詩には 固苦しさがが ないから、あなたが もしそう望むなら いつでもそこから抜け出せる。
しがみつくことはない。

そして想像力が豊かだから、知らず知らず 未知なるものに出喰わすこともある。


詩は 暗闇を 手探りしながら行く。
暗闇での手探りが 詩だとも言える。
詩は その手探りを、暗中模索を ずっとずっとつづけていく。
だから常に、どんな新しい次元の内にも 入っていく用意ができている。


論理は抵抗する。
論理家以上に 正統(オーソドックス)的な人たちを あなたは見つけることができない。

彼らは、新しい次元が開かれるのに 耳を傾けようとしない。
それを 見ようとさえしない。
彼らは簡単に、 そんなことは不可能だ、と言って片づける。

可能なことは全て、既に知られているではないか と彼らは考える、起こり得ることは全て既に起きているではないか、と考える。
論理の人たちは、いつも 未知に対して疑いぶかい。


詩人のハートは常に〈未知〉と 恋に落ちている。
詩人は、いつでも、何か新しいものを求めて 暗闇を手探りしていく。
何か 独創的なもの、何か今までに味わったことのないもの、何か 今までに遭遇したことも経験したこともないようなもの、 詩人は それを求めて手探りする。

そして時折〈未知〉にぶつかり、宗教の深淵に落ちていくこともある。


詩は 暗示的だ。
詩は 比喩や 暗示を通して生きる。
同じことが 宗教の言語にも言える。
もちろん、比喩が 詩的な方法で使われるときには、何か あ る こ と を暗示し、宗教的に使われるときには 全く別な 何かを暗示する。

しかし両方とも 比喩を用いることに変わりはない。
だから、そこには 二つが出会う地盤があるのだ。
それぞれが 暗示する意味はちがっていても、その手法は 同じファミリーの 一員で、双子のようなものだ。
しかし、その内側にある違いは とてつもなく大きい。


だが少なくとも、表面的なかたちの上では、二つの間には、論理と宗教の間にあるほどの隔たりはない。
この類似のために、宗教は今まで 詩人のようなやり方で話をしてきた。
ウパニシャッドヴェーダ、カヴィールや ミーラ、そして禅の詩人たち みんなそうだ。


禅の人たちは 美しい俳句を残している。
俳句のなかでは、その深い凝縮のゆえに、広大な詩の世界が 一粒の種のようになる。

時には非常に単純になっているから、すぐには その意味を掴むことはできない。

だが 句を熟考し、瞑想していけば、少しずつ、その小さな句が 一つの扉となっていく。


二、三日前 、 私は 芭蕉の有名な俳句を読んだ。
とても小さな詩だ。
が、 この句について瞑想すれば、あなたにも 扉が突如 開かれるだろう。
その俳句というのは これだ。

古池や 蛙飛びこむ 水の音

この情景を 眼に浮かべてみてごらん。
古い古い池------ 蛙が 一匹ぽーんと 飛び込む------その、 水の音------ これで終わりだ。
ほかに 何も言うことはない。
その状況 全体が ここに凝縮されている。


あなたも この句について瞑想すれば、知らない間に、静けさが、沈黙が、自分を取り巻くのを感じるだろう。

何かが あなたの内部で変化していく。

これは 客観芸術なのだ。


禅の詩人たちや スーフィーの神秘家たち、そしてヒンドゥの聖者たちは、みんな 詩の言語で話してきた。


2️⃣へ つづく

第七章「死んではいません」9️⃣

“ どうしてかって?

そなたも解脱に達している師であろうが ”


人は、 師に とても知識があると思っている。
師は 何でも知っているに違いないと思っている。

ところが 実のところ師は 何一つ知ってはいない。
師は 完全な無知を会得している。
なぜなら無知だけが 純真無垢になれるからだ。
知識は そうではない。
知識は 常にずる賢い。
純真には けっしてなりえない。

完全な 無知ーーー

師は 何一つ 全く知らない。
知識は 落ちてしまっている。
師は 在る、存在する。
しかし、「知る人」ではなくなっている。

そして、何であれ 師の言うことは、その純真さから話される。
知識を通して話されるものではない。
純真さのもつ その豊かな力強さのゆえに、師は どんなことでも語ることができる。

そして、何年でも語りつづけることができる。


ゴータマ仏陀は こうして四十年も語りつづけたが、今日では学者たちが、 一人の人間が そんなことをするのは不可能だ、四十年にわたって、しかも あんなに多くを語るなんて とても不可能だと言い出している。

確かに 学者たちには むずかしいことだろう。
なぜなら彼らは、純真さとは 尽きることのない疲れを知らないものだということに 盲目だからだ。


知識は いつかは尽きる。
もし私が 何かを知っているのだったら、それには限界がある。
そうだったら、私は こうも語りつづけることは とてもできない。

だが、あなたに言っておこう。
もし、あなたのほうに用意があるのだったら、私は 永遠にでも語りつづけることができる。
なぜならそれは、 知 る こ と から出てきているのではなく、完全な無知から出てくるものだからだ。

完璧な無知は、あなたの無知とは違う。
あなたの無知は 完璧ではない。
あなたは 知っている。
実際、 知り過ぎているくらいだ。

本当に全く知らない という無知な人は 見つからない。
無知な人が いたとしても、かならず 多かれ少なかれ 知 っ て い る 。
とにかく 何かは 知っている。
正確に知っているか まちがって知っているか、それはともかく、知っているのだ。

愚者でさえ知っている。
そして、ちゃんと知っているのだと 主張する。


ただ、解脱にいたっている人だけが、知っていることを否定する。

ソクラテスは こう言った。
「私は若い頃 たくさんのことを知っていた。
実際 何でもかんでも知っていたと 言える。
だが、少し成熟してくると、私は 自分があまり知っていなかった と感じるようになった。
そして、非常に 年をとってみると、初めて全体が見え、ようやく分かってきた。
今では 私は 一つのことしか知らない。
それは、私は知らない、ということだ」

若い頃のソクラテスは いろいろなことを知っていた。

若さというのは 傲慢だ。
未成熟な人たちだけが 知識のある人たちであって、成熟 というのは無知に似ている。
成熟している人は、「知らない」と言う。
あるいはまた、 知らない ということだけを知っているのだともいえる。


“ 愚堂は応える

どうして私が知ってましょう


上皇

どうしてかって?

どなたも解脱に達している師であろうが ”



答を与えられるのが、ここでは当然のように期待されている。
彼なら 知っているに違いない。

もし彼も知らないとしたら、一体ほかに誰が知り得よう?

この情景の愚堂は 実に美しい。


彼は言う。

“ その通りです

が まだ死んではおりません ”


確かに 私は師ですが、しかし、死んではいません。
しばらく お待ちいただきたい。
死にましたら、そのときには、解脱した人間が死んだらどうなるか お話しできましょう。

ですが、私は まだ生きていまして、それなのに死んだときのことを お訊きになる。
まだ死は 起こっていませんのに、どうして知っていましょうか?

私が死んだときに あらためて御報告いたします。


死は、解脱した人間には けっして起こらない。
愚堂の応えは ここでは本当に賢い。

死は 解脱者には けっして起こらない。
無知な人たちだけが 死ぬ。
自我(エゴ)だけが 死んでいく。


内側に 中心がなくなっていたら、一体 何が死ぬのだね?
死が どう可能なのだ?

死は、エゴに対して、自己に対してのみ あり得る。
自己のないところに 死が どう起こりえよう?

いつの時代にも、解脱した人たち皆が 言いつづけてきたのは、このことに尽きる。

エゴを死なせることで、永遠なるものを得よ、 このことだ!

自我(エゴ)を 死なせなさい。

そうすれば あなたにも 死は ありえなくなる。

あなたは 死のない存在となる。



第七章 死んではいません 終


「草 は ひ と り で に 生 え る」 by OSHO
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