saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…FBに OSHO の抜粋講話を友人がシェアしています---。

直接、
探し求めることの
できないものごとがある。
ものごとが
貴重になればなるほど、
その中に間接的に
入って行かなければならない。

あなたは
真理が起こりうるように…
自分のまわりの状況を整える
何か別のことを
しなければならない。

真理を探し求めていくことはできない。

どこにいくのかね?
カブール?
クル・マナリ?
カトマンズ
ゴア?
それから、
家に帰る…とでも。

真理の探求者は
みなこのルートを通って行くが、
前にもまして
バカな顔になって家に帰ってくる。
彼らは何も見いだしていない。

どこに真理を探しに行くのかね?
あなたは道を知らない、
地図はない、
方角の見通しは立たない。

真理とは何で、
どこで、いつ悟ることができるのか、
誰も知らない。

ほんとうに真理を探し求める者は、
けっして真理を求めない。

むしろ逆に、
真実ではないもの、
真正ではないもの、
不誠実なものをすべてなくして、
自分をきれいにしようとする。

そして、
ハートの用意が整ったら、
純化されたら、
客がやって来る。

その客を見つけることはできない、
客を追い求めることはできない。

客はあなたのもとにやって来る。
あなたはただ
準備を整えなければならない。
正しい態度でいなければならない。

私はあなたが
スピリチュアルということばから
理解するような意味で
スピリチュアルだったことは一度もない。

私は真理を見いだすために
寺院や教会に行ったり、
教典を読んだり、
何かの修行についたり、
あるいは神を崇拝したり…
祈ったことなど一度もない。

それは私の道ではなかった。
だから、
確かにあなたは、私が
「スピリチュアルなことを
 何もしていなかった」
と言ってかまわない。

だが、私にとっては、
スピリチュアリティには
まったくちがった含みがある。

それには
正直な個性が必要だ。
どんな種類の依存も許されない。

それはどんな犠牲を払ってでも、
自らの自由を創造する。

けっして群衆には組みさず、
独りだ。
群衆が…
何か真理を見いだしたことは
一度もないからだ。
真理は
人びとが独りの中でのみ
見いだされてきた。

だから、
私のスピリチュアリティには、
あなたの
スピリチュアリティという考えとは
ちがった意味がある。

私の子どもの頃の話は、
もしあなたがそれを理解できたらだが、
いずれにしてもすべて、
これらの同じ質を指し示す。

それを
スピリチュアルと呼べる人は
誰も…いない。
私はスピリチュアルと呼ぶ。

それらは、
人間が熱望するものを
すべて私に与えてくれたからだ。

私の子どもの頃の話を
聞いている間は、
その中に在る、
ある質を探そうとするべきだ。
ただ話だけではなく、
細い糸のように…
私のすべての記憶を貫いて
流れている本来の質を…。

そして、
その細い糸がスピリチュアルだ。
スピリチュアルとは、
私にとっては
自分を見いだすという意味だ。

私はこのワークを
誰かほかの人に代わって
やってもらうことは
けっして許さなかった。

あなたの代わりに
誰かほかの人が
このワークをすることは
できないからだ。

そして、
直接的に
それをすることもできない。

それが起こる
ある一定の環境を
あなたは創らなければならない。
それはハプニング…
解放、覚醒、悟りだ。

これらの言葉はみな
絶対的に
ひとつのことを指し示している。

そしてそれはハプニングだ。
それが多くの人びとの中に
恐怖を生み出す。
「もし“それ”がハプニングだとしたら、
 いったい私たちは
 何をしたらいいのだろう?
 起こるときは起こるのだ」

そうではない。
“それ”はハプニングだが…、
それが起こるスペースを整えるために、
あなたは多くをすることができるのだ。

理解しない者には、
場を整えるというのは
スピリチュアルには見えないだろう。

だが
エンライトメントが起こったのだから…
それはスピリチュアルにちがいない。

どのような手段を用いようとも
実質的に正しかったということは、
結果が証明する。

従ってきた道が正しかったことは、
ゴールが証明する。


Osho - The Transmission of the Lamp

…「汝自身で あれ!」友人がFBに 投稿している記事です。

(OSHO 講話の抜粋です)

私は一度も
マスターを
持ったことがない。
マスターを
持たなかったというのは、
幸運だ。
過去世において、
2,3の生きたマスターに
ついたことがある。
彼らはビューティフルで、
愛すべき人々だった。
しかし、
一つのことは
私のにとって
ずっとはっきりしていた。
それは、
誰も私のインスピレーションの
よりどころになることは
できないということだった。

というのも、
インスピレーションという言葉は
危険だからだ。
最初は
インスピレーションで、
次にそれは追従になり、
その次には
イミテーション(物まね)に
なってしまう。
そして、
とどのつまり、
あなたは
カーボンコピー で終わる。

だから、
誰かから
インスピレーションを
受ける必要はない。
必要ないというだけではなく、
危険でもある。

ただこう見ていて、
それぞれの個人が
ユニークであるということを、
私は知った。
誰も自分以外の誰かに
追従することなどできないのだ。
が、
ある人は
インスピレーションを受けようと
やってみることはできる・・
何百万という人間が
何千年にも渡って
そういうことをやってきた。
何百万という
クリスチャンたち、
何百万という
ヒンドゥー教徒たち、
何百万という
仏教徒たち。
彼は何をやっているのか? 

ゴータマ・ブッダからの
インスピレーションを
受けようとして、
何百万という人々が
仏教徒になった。
そして、今、
彼らはブッダの足跡を
追おうとしている。
が、
彼らはどこにも到達していない。
到達できないのだ。

あなたは
ゴータマ・ブッダではない。
彼の足跡は
あなたには合わないし、
ブッダが履いた靴も
あなたに合いはしない。
あなたは
自分にぴったり合うサイズの
靴を探さなければならない。

ブッダはビューティフルだ。
が、
それは、
あなたがブッダのように
ならなければならない
ということではない。
それが
インスピレーションという
言葉の意味なのだ。
インスピレーションとは、
あなたがある人物に
非常に感銘を受け、
その人物が
あなたの理想像になり、
あなたは
その人物のようになりたい、
ということを意味する。
それが
人類全体を
間違った方向に
導いていってしまったのだ。
インスピレーションが
祝福ではなく、
災いになってしまった。

私はあなた方に
あらゆるところから学び、
あなたが出会う
あらゆるユニークな存在を
楽しんで欲しい。
が、
決して誰にも
追従してはならない。
自分以外の誰かの
生き写しに
決してなってはならない。
それは
存在が許さない。
あなたは、
ただあなた自身であることが
できるだけだ。
私はマスターたちとともに
いたことがある。
私は彼らを愛した。

しかし、
彼らのようになろうとする
その願望そのものが
私にとっては醜い。
一人で十分だ。
その人のような
二人目の人間は
存在を豊かにしない。
二人の
同じ人間がいるということは
存在の重荷になるだけだ。
私にとって
個人のユニークさは
大いなる真実だ。
あなたが、
ある人物が
ある次元において、
真実で真正であり、
開花していることを
見つけたなら、
その人たちを愛するがいい。

が、
覚えておきなさい。
その人たちは
自己の真正性ゆえに、
オリジナリティーゆえに
開花したのだということを。
だから、
その人たちに
追従するという
トラップにはまることに
注意しなさい。
自分自身で在るのだ。
ソクラテスの有名な言葉に
「汝自身を知れ」
というのがある。
だが、
その言葉は完結されねばならない。
その言葉は不完全だ。
「汝自身を知れ」
という前に、
「汝自身であれ」
という言葉が必要なのだ。

  • Osho 

…FB に、友人が投稿している 記事です。

(OSHO 講話/抜粋)

人が絶対に確信できる現実は
たったひとつしかない。
それは内面の真実だ。
人は内側に動いて行ける。
人が確信できるのは、
自分自身しかない。
他には何もない。
だが、
ひとたび自分が存在するという、
この確かさを射抜けば…。
いいかね、
夢の中にさえ、
自分はいる。
蝶にはなっているかも知れないが、
自分はいる。
夢が存在するためにすら、
少なくとも自分が必要だ。
すべては夢かも知れないが、
自分はそうではない。
なぜなら、
自分がいなくては
夢もあり得ないからだ。
夢のためにすら、
意識が必要だ。

あらゆるものが夢だと
証明することはできる。
だが、
夢を見いる人を
夢だと証明することはできない。
夢を見る者は、
実在でなければならないからだ。
さもなければ、
夢も存在できない。

確かなことはひとつしかない。
そして、
それは、自分だ。
たったひとつの事だけは
絶対に確かだ。
それは、
自分の内面という真実だ。
改心とは、
不確かな世界、
見かけの世界から、
その真実の世界に
向きを変えることだ。

ひとたび人が、
その内なる確かさを、
自分には
根拠があることを知ったら、
ひとたび
自分がいることを知ったら、
その確かさによって、
視界が変わる。
その質が変化する。
そうすれば外の世界を見ても、
別な世界が開示される。
その世界が神だ。

人がある確かな、
絶対に確かな実在に
根を下ろした時、
その人の眼差しは
それまでとは異なった質を持つ。
その時、
そこには信頼がある。
今や、
見ることができる。
すると、
全世界が変わる。

その時そこにあるのは、
そう見えるものではなく、
実在だ。
本当に真実であるものだ。

本当に真実であるものとは何か。
それは、
この目に見える形ではない。
形態は変わるが、
その形態を通して動くものは
変わらない。

あなたは子供だった。
それからあなたは若者だった。
今やあなたは老人になった。
形態は絶えず変化している。
あらゆる瞬間に、
肉体は変化している。
だが、
その内面を覗けば、
あなたは同じままだ。

あなたは、
母親の子宮の中での
小さな細胞だった。
肉眼では見ることもできなかった。
それから小さな子供になった。
それから、
夢多き青年になった。
そうして、
心破れ、
落胆した一人の 失敗者、
一人の老人になった。
だが、
もし 内側を見たら、
なにもかも同じままだ。
意識は決して変わらない。
内側を覗き込めば人は驚く。
自分の年令が感じられない。
意識には年令がないからだ。
目を閉じれば、
自分が二十歳なのか、
四十歳なのか、
六十歳なのか分からない。
年齢は肉体に、
殻に属するものだからだ。
本質は年齢を持たない。

生まれたこともなければ、
死ぬこともない。
ひとたび、
この永遠不変の、
不動の絶対に中心が決まったら、
あなたの質は変わる。
そうすれば、
人は見ることができる。
人は鏡になっている。
そして、
その鏡に、
実在が映る。
だが、
まず自分が
鏡にならなければならない。

今はあまりにも波立ち、
揺れ動き、
何ひとつ映し出すことができない。
あなたが歪んでいるのだ。
マインドは実在を歪める。
意識がそれを顕わす。


‘根源に帰れば、意味を見出す。
 だが見かけを追えば、源を失う。’

見かけを追い続ければ、
源を見失うことになる。
見かけとは外側だからだ。
ある時は富を追い、
ある時は女を、
あるいは男を追い求める。
ある時は
地位や権力を追い求める。
そうやって
見かけの世界を追い続ける。
そして、
その間ずっと、
自分自身を見逃している。
そのあいだはずっと、
夢の中に生きているのだ。

もし源を見失なったら、
人はすべてを見失なう。
外側の世界で多くのものを
手にするかも知れないが、
結局、最後には、
自分が何ひとつ
達成していなかった事が
分かるだろう。

すべての意味を担っているものを
見逃してしまったのだ。

臨終の床で、
あなたは大金持ちとして
死んでいくかも知れないが、
内面は、
貧しい 一人の乞食として
死ぬことになる。

死に際して、
あなたは
非常な権力者かも知れない、
一国の偉大な大統領、
あるいは首相かも知れない。
しかし内側深くでは、
自分が無力だということを
知っている。

死は、
その権力が
単なる見せかけに
過ぎなかったことを証明する。
その権力は、
死を前にして
無力で、
役に立たない。

死を越えて行くものだけが力だ。
他のすべては無力だ。
人は束の間それを
信じたかも知れないが、
死が真実をもたらすことになる。
死がやって来ていることを、
いつも思い出しなさい。

そして、
死こそが判断基準だ。
何であれ、
死が無効にするものは、
無効にされる。
何であれ、
死が承認するものが
承認されるのだ。

何であれ
死を越えて行けるものこそが、
何であれ
死より強力なものこそが
実在なのだ。

実在は死なない。
非実在
千とひとつの死を死ぬ。


‘内なる光明の時、
見かけと、
空を、
ともに越えて行くものがある。’

内なる光明が起こって初めて、
自分が内なる光に満たされて
初めて…。

光はそこにある。
あなたがそれを
外に投げ出しているのだ。
それは、
あなたの欲望とともに動く。
欲望こそが焦点だ。
光は動き続ける。
あまりにも
富に取り憑かれていたら、
全存在が
富に焦点をあわせる。
すると金以外には
何も見えなくなる。
たとえ人に会っても、
その相手は見えず、
金が見える。

相手が貧しければ、
あなたの思考には
どんな痕跡も残さない。
相手が金持ちだったら、
その時には跡が残る。
大金持ちだったら、
その人を覚え、
記憶が形成される。

あなたが権力を追求していて、
ヒットラー
スターリン
毛沢東に会ったとしたら、
その時は、
人に会ってはいても、
それは二の次、
あなたは
まず権力に出会っている。
ニクソンが大統領でなくなれば、
もうその相手が見分けられない。
ニクソン
自分の側を通り過ぎても、
それはもう人ではない。
人には何でも
自分の望むものが 見える。
自分の欲望が、
自分に見えるのだ。
そしてあなたの光は
常にあなたの欲望に
焦点を合わせる。

この光が向きを変える時、
転向する時、
内側を向く時、
そこに明知がある。
その時、
人は光に満たされている。
明りのともった家になる、
その内側はもう暗くない。


‘内なる光明の時、
見かけと、
空を、
ともに越えて行くものがある。’

突如として、
人は見かけと空虚を越えて行く。
そうなれば、
何ひとつただの見かけではないし、
何ひとつ空虚ではない。
すべてが〈神性なるもの〉で
満たされている。
あらゆるものが
〈神性なるもの〉でいっぱいになり、
溢れている。
あらゆる木、
あらゆる川、
あらゆる海が、
〈神性〉で 溢れる。
その時、
神は至る所にいる。

それを真理と呼んでもいいし、
あるいは自分の好きな
どんな呼び方で呼んでもいい。
ただその実在は至る所にある。
自分が真実であれば、
世界は真実になる。

自分が非真実の
欲望の中に住んでいれば、
人は、
見せかけの世界を創り出す。
どんなものにせよ
自分がそれであるもの、
それが、
その人の世界だ。
だから、
人と同じだけの世界があるのだ。

なぜなら、
誰もが
自分だけの世界に住んでおり、
自分だけの世界を
まわりに創り出しているからだ。
それはその人の投影、
その人の創作だ。


‘この空なる世界に現れる見かけの変化を、
ただ無知なるが故に現実と呼ぶ。’

誰かを年寄りだと言う。
老いを現実と呼ぶのは、
実在の何たるかを
知らないからだ。

それを知れば、
誰ひとり若くもなければ、
誰ひとり年老いてもいない。
誰ひとり子供でもない。
内側には年齢がない。
外側の形が変化するだけだ。

私の服が古いとする。
服が古いからと言って、
私を老人と言うだろうか。

私の服が新しいとする。
ニューブランドだ、
仕立て屋から
出来上がってきたばかりだ。
服ができたてだからと言って、
私を若いと言うだろうか。

肉体とは衣服に他ならない。
誰かを老人と呼び、
誰かを若者と呼び、
誰かを子供と呼ぶのは肉体のゆえ、
絶えず変化し続ける
その形態のゆえだ。

知るに到った人は皆、
真実は不動のもの、
動くことのないもの、
動き得ないものだと言う。
衣服が変化し続けるのだ。


Osho - Nither This Nor That

…FBに友人が投稿している記事です。

(OSHO 講話の抜粋)

「タオ」という言葉は、
本質的には”道”を意味する。
目的地については
何も語ることができない。
目的地はとらえがたく、
表現できず、
言語を絶している。
だが、
道についてなら
何かを言うことができる。
それゆえに道家の人々は
「神」
「真理」
ニルヴァーナ
という言葉を
一度も使わなかった。
いや、
彼らはたんに
「道」という言葉を使う。
仏陀は言う。
ブッダたちは、
 あなたがたに
 道を指し示すことしかできない。
 その道に従うなら、
 あなたがたは真理に到るだろう」

真理は
あなた自身の
体験でなければならない。
真理は誰にも定義できない。
だが、
道を定義することはできる。
道を明らかにすることはできる。
師はあなたがたに
真理を授けることはできないが、
道を授けることならできる。
そしてひとたび
道が明かされたなら、
あと必要なのは
その上を歩くことだけだ。
それは弟子によって
なされねばならない。

私があなたの代わりに
歩いたり、
あなたの代りに
食べることはできない。
私があなたの代わりに
生きたり、
あなたの代わりに
死ぬことはできない。
こういったことは
自分の力で
やらなければならない。
だが、
私は道を示すことができる。
私は道を歩いたことがあるからだ。

タオとはまさに”道”を意味する。

それみずからによって存在するものは、
道(タオ)と呼ばれる。

この定義は美しい。

呂祖は言う---
「それみずからによって
 存在するもの、
 他の力を借りる必要のないもの、
 人がその上を
 歩いても歩かなくても、
 つねに存在しているもの----」
と。

誰かが
その上を歩くかどうかは
問題ではない。
<道>はつねに存在している。
実際、
全存在がそれとは知らずに
<道>に従っている。
もし心して
<道>に従うことができるなら、
あなたの生は
大いなる祝福となる。
それと気付かずに
<道>に従うなら、
あなたはつまずき続ける。
あなたは<道>の喜びを
こころゆくまで
味わうことができない。

ある人を庭に
連れてくることはできるが、
その人は無意識かもしれない。
酔っぱらっていたり、
昏睡状態に陥っていたり、
クロロフォルムの影響下に
あるかもしれない。
その人を庭に
連れてくることはできるが、
彼は無意識だ。
鳥の歌声を耳にしても、
彼はそれに気付かない。
太陽に照らされ、
光を浴びても、
彼はそれに気付かない。
大きな樹の下の
涼しい木陰に寝かせてみても、
彼はそれに気付かない。
それが人間のありようだ。

私たちは
つねにタオのなかにいる。
なぜなら、
その外などというものは
ないからだ。
生きるとは
<道>のうえにあることだ。
生きるとは
神のなかに生きることだ。
息をするとは
神のなかで息づくことだ。

だが
大海のなかに住む魚が
海のことなど
すっかり忘れているように、
私たちは
タオのなかで暮らしながら、
タオのことを
すっかり忘れている。
むしろそれが
あまりに明白だからこそ、
私たちはそれを
まったく気にとめずにいる。
魚は大海をよく知っている---
魚は海のなかに生まれ、
一度もその外に出たことがない。
魚は海はあるのが当然だと
思っているから、
それに気付いていない。

私たちは
まさにこの<道>の上にいる。
私たちは神の内にある。
私たちはタオを通して
タオのなかに生きている。
なのに
私たちは
それに気付いていない。

タオは存在する。
なぜなら、
タオなくして
樹々は成長せず、
星は動かず、
血液は循環せず、
息を吸うことは
できないからだ。
生命は
消え失せてしまうだろう。

生命は
それを維持する
基本的な法則があって
はじめて存在しうる。
生命は
それを支える何かがあって
はじめて存在しうる。
森羅万象のなかにある
計り知れない秩序を見るがいい。
それは混沌ではなく、
秩序をもった宇宙だ。
万物の秩序を
成り立たせているものは
何なのか?
宇宙はなぜこれほど
調和に満ちているのだろう?
調和を保ち、
それを脈々と
流れさせている法則、
あらゆるものを
ひとつにまとめている法則が
あるにちがいない。

だが、
私たちは
それについて知らない。
自分自身の実存に関して
何も知らないにもかかわらず、
私たちは
みずからの実存を通して
タオと結びついている。

タオには
名前もなければ形もない。
それはひとつの精髄、
原初の精神である。

それは
私たちを取り巻いている
生命の大陸だ---
内にも外にもある
純粋な精髄エッセンス。
それは存在であり、
原初の精神だ。
タオはどんな名前にも
おさまりきらない。
すべての名前が
タオの名だ。
すべての形が
タオの形であるから、
タオには特別な形がない。
タオは数限りない姿で
存在している。
それは
樹にあっては緑となり、
花にあっては赤となる。
人間にあっては人間となり、
魚にあっては魚となる。

それは同じ法則だ。
「タオ」という言葉を
「神」に置き換えたとしても
同じことだ。
キリスト教徒や
イスラム教徒が
「神」と呼ぶものを、
道家の人々は「タオ」と呼び、
仏教徒は「ダンマ」と呼ぶ。
ユダヤ教徒はそれを
「ロゴス」と呼んでいた。
だが、
それらは
同じものを指している。
それはどんな名前にも
おさまりきらない。
あるいはどんな名前でも
言い表すことができる。

精髄(エッセンス)と生命は
見ることができない。
この二つは
天上の光のなかに含まれている。
天上の光は見ることができない。
それは両目のあいだに含まれている。

形は見ることができるし、
肉体は見ることができる---
肉体は形であり、
精髄を包み込んでいる物質だ。
だが、
精髄を見ることはできない。
精髄は目では見ることができず、
五感ではとらえることができない。
それは何も介さず、
直に感じ取らねばならない。

あなたは私の肉体を見ている。
私はあなたの肉体を見ている---
そこには器官が介在している。
私の目が、
あなたがここにいると告げている。
あなたの目が、
わたしがここにいると告げている。
だが、
本当にそうだろうか。
私たちは目に
だまされているのかもしれない---
目には時々だまされることがある。

夜、暗闇のなかで
一本の縄が蛇のように見える。
蛇だと思い込めば、
それは蛇と同じように作用する。
あなたは怖くなって走り出す。
あるいは、
砂漠のなかで、
ありもしないオアシスを
見ることもある。
それはたんなる投影による現象だ。
喉があまりに渇くので、
あそこにオアシスがあればいいという
願望が起こり、
その願望がオアシスを
そこにつくりだすからだ。
目はよく人をだます。
だから当てにはできない。

あいだにものを介在させて
知られる真理は、
つねに怪しく、
疑わしいままだ。
それは確実なものとはなりえない---
絶対に確かだとは言えない。
が、
絶対的な確証のない真理など
まったく真理ではない。
真理というものは
絶対に
確かなものでなければならない。
ほぼ確かでは通用しない。
となると
道はただひとつ---
真理はあいだに
ものを介在させずに
知られねばならない。
人はそれを直接、
端的に知らなければならない。
人はそれを
いかなる器官も介さずに
知らねばならない。
真理はまさに
そのようにして知られる。

生命を見ることはできないが、
それを感じ取ることはできる。
それは主観的な体験であって、
客観的な対象ではない。


Osho -The Secret Of Secrets

「Intuition」はしごの三本の横木 ⑪ OSHO

(…あなたは それを抑圧し続けなければならないのだ。
なぜならば、それは 何回も何回も浮上してくるからだ。)

それはボールが跳ねるようなものだ。
あなたが ボールを投げれば、それは あなたのもとに跳ね返ってくる。
あなたが それに大きな力をかけて 打ち付ければ打ち付けるほど、それは もっと大きな力で あなたの方へ返ってくる。

本能の場合も 同じことだ。
あなたが 本能を押さえつけるとき、あなたが大きなエネルギーを 使えば使うほど、それは あなたに より大きなエネルギーを返してよこす。

それらは どこからそのエネルギーを得るのだろう?

それは あなたのエネルギーなのだ。
しかし、あなたが 無意識から 完全に自由になり、囚われなくなると、それは きれいになり、沈黙する。
その時、あなたは あなたの全エネルギーを使えるようになる。

 エネルギーには 基本的な原則がある。
それは 静止することができない。
それは 動かなければならない。
動くこと、それが そのものの性格だ。

あなたがどこかに しまい込んだら、そこに じっとしているものではない。
いや、それは動かなければならないーーそれが いのちだ。
そこでそれが 下方へ動く理由がなければ、それは もう一つの方向へ動くしかないーー上方へだ。
そこしか動く場所はない。

それは あなたの超意識をつつき始める。
そして、超意識をつつくことは とても気持ちが良く楽しい、大きな喜びなので、あなたの 性的なオルガスムでさえ、色あせてしまう。

あなたには 想像もできないだろう、なぜならば、それは 量的な違いではないからだ、
たとえば私が「1万倍も大きい喜びだ」などと 表現できるものではない。

その違いは、質的なものだ。
だから、それを 想像する方法がない。
それを性的なオルガスムと どうやって比較できるだろうか?
しかし、あなたの生の中では 何かより高いものがあるということを示唆する唯一のものだ。

 あなたのエネルギーが あなたの上部世界、あなたが いままで、そんな世界があるとは 気づきもしなかった世界、そこと接触し始めると、あなたは 常に喜びのシャワーをあびるようになる。


Pp. 47-48
「Intuition」 OSHO

訳者/山川紘矢+山川亜希子

発行/株式会社KADOKAWA

「Intuition」はしごの三本の横木 ⑩ OSHO

(…まるで、私がセックスを広めているとでもいうかのごとくだ。)


 もし、誰かがセックスというものを広めているとしたら、それはあなたの神にちがいない。
私は それには何の関係もない。
神が子供たちに セックスホルモンを提供しているのだ。
神が やめるべきなのだーー神が法王の言うことをきくべきなんだよ!
しかし、これらの雑誌は 神にも反対していない。
なぜならば、神が マーケット全体を与えてくれているからだ。
法王とポルノ製作者たちは 深い陰謀でつながっているのだーーそして 彼らは一緒になって 私に反対する、なぜならば、私が 単に彼らが演じているゲームを台無しにするからだ。

 これら両方のタイプの人間たちは 抑圧を利用しているのだ。
そのために 彼らがなんとしてでも私に反対するのは理にかなっているーー彼らは双方とも 私に反対だ。
私が セックス国を作ったということであれば、少なくとも『シュテルン』誌は 私に反対すべきではない。
彼らは幸せのはずだし、彼らは私に 賛成すべきだ。
しかし、違うのだ、彼らは完全に怒っている。
彼らは 自分たちがなぜ私に怒っているのか自分でも気が付いていないのかもしれない。
彼らは 全く無意識的にそうしているのかもしれない。
しかし、無意識だととしても、それもまたそれなりの理由がある。

 何かを抑圧すると、それは 価値のあるものになる。
抑圧すればするほど、それはもっと価値があがる。
抑圧しなければ、それは 価値を全く失う。

 表現しなさい、それは蒸発する。

 私は 世界に言うことができる、私のコミューンは セックスが何の意味も持たない唯一の場所だとね。
セックスに何の価値もないのだ。
誰もセックスになどかまっていない。
誰も セックスを夢見てなんかいない、そして、誰もセックスに ファンタジーを描いたりしない。
実際のところ、みんなは 私にいつも書いてくるのだ。
「和尚、どうしたらいい?
僕のセックスライフは全く消えてしまった」と。
 私は言う。
「どうしろだと?
そんなものは消えさせてしまえ。
何もする必要はない。
それが ここでの目的だからだ。
つまり、それは消えるべきなのだ!
それを消すために何の努力もしなくてよい。
しかし、それが消え始めたら、それをとめようとしてはいけない。
さよならをしなさい。
それが消えることはただ、すばらしいことだ」
しかし困ったことに、セックスの欲望が消えてゆくと、彼らはもう何にも残っていないと思うのだ、なぜなら、セックスこそが、彼らの興奮であり、エクスタシーであり、喜びの すべてだったからだ。

 だが、それは 違う。
本当は もっとたくさんのことが待っているのだ。

セックスの欲望を なくしてごらん、そうすれば、あなたのエネルギーを もっと高い種類の興奮、もっと高度なエクスタシーのために使うことができるのだ。

 無意識のなかに 抑圧されたものがなければ、あなたの中の 無意識と意識が出会うーーそれは 会合と合併の瞬間だーーまさに その瞬間、もう一つの 偉大なチャンスが あなたに開かれる。

あなたは もはや、低次元のものに かかわらないから、あなたの 全エネルギーが より高次のものに使われるようになる。

 あなたは今、中間の階にいる。
意識的なマインドだ。
しかし、無意識も そこにあるから、あなたはまだ それを抑圧することに かかわっている。

あなたはそれを 抑圧し続けているーーそれを抑圧することができたとしても、それで終ったわけではない。
あなたは それを抑圧し続けなければならないのだ。
なぜならば、それは 何回も何回も 浮上してくるからだ。

Pp. 45-47
「Intuition」OSHO

訳者/山川紘矢+山川亜希子

発行/株式会社KADOKAWA

「Intuition」はしごの三本の横木 ⑨ OSHO

(……このことを35年間も言い続けてきたので、私は世界で最も悪名高い人間になってしまったのだ。)


 ほんの先日のことだ、ドイツの雑誌、『シュテルン』は 私の共同体を15ページにわたり特集記事として取り上げた。
そして、これは単なる、シリーズの始まりに過ぎなかった。
それは その雑誌の5回続きの記事になったのだ。
記事のタイトルの冒頭には「セックスの国」と書かれていた。
私は それで大いに結構だ!
そして 最も奇妙なことは次のことだ。
この 15ページ特集の.もっと先をよく見てみれば、あなたは 驚くだろう。
誰がセックスの国に住んでいるというのだね?
『シュテルン』の記者たち、編集者たち、彼らの編集委員たちだろうか、それとも 私たちなのだろうか?

 その雑誌には ヌードの女性の写真が載せてある、彼女たちは全裸ということではない、なぜなら 全裸の女性は あまり魅力がないということなのだ。
その裸の女性を もっと魅力的に見せるためには セクシーな布をつけさせなければならないのだ、それは 一方では身体を隠すということによってなのだ。
あなたたちは ここでも かくれんぼのゲームをまたやっている。
あなたは この水着の向こう側は どうなっているのか 夢想し始めることができるのだ。
彼女は 水着がなかったら、そんなに美しくないかもしれないーー実際のところ、もし、明かりを消してしまえば、どの女性の身体も みんな同じだ、そして どの男性の身体も みんな同じだ、色も、それぞれの違いも消えてしまう。
暗闇は すべてを平等にする。
非常に共産主義的だ、だから、暗闇でなら、あなたは 自分の妻とでさえ、セックスができるんだよ。

 その雑誌は 全体がセックスのことばかりなのに、我々のことを「セックスの国」だなんて。

 あの『プレイボーイ』でさえ、私に反対する記事を書いているーー私たちの住んでいる世界は 本当に変な世界だなと思ってしまう!

しかし、私には『シュテルン』や『プレイボーイ』のような 人々のセックスを食い物にしている三流の雑誌が、なぜ、何百万部も売れているのか、その理由は わかっている。
『シュテルン』は およそ200万冊売れている。
1冊が 少なくとも8人に読まれていると計算すると1600万人の読者がいることになる。

 彼らは どうして私に反対するのだろうか?
彼らは もう何年にもわたって 私に反対しているのだ。
その理由は、もし私の言っていることが 成功してしまったなら、こうした雑誌はつぶれてしまうからだ。
彼らは 抑圧を基盤として成り立っているのだ。
彼らが 私に反対するのは、きわめてもっともなことだ。

セックスに反対している僧侶たちも 私に反対する、そしてセックスを搾取の道具に使っている人びとーー『プレイボーイ』や『シュテルン』や その他世界中の何千という雑誌ーーもまた 私に反対する。
彼らが 法王に反対しないということは奇妙なことだ。
法王に反対する記事は 一つもない、『プレイボーイ』は 法王に反対する記事を書くべきだ、法王は いつもセックスを非難しているのだから。
しかし、誰も そうはしない。

 そこには 本質的なロジックがある、つまり、法王が セックスを非難すればするほど、彼がセックスを 抑圧すればするほど、『プレイボーイ』は もっとよく売れるということだ。
私のコミューンでは 誰も『プレイボーイ』や『シュテルン』に 興味を示さないーーだれがそんなものを読むだろうか?
もし、私の言っていることが 成功を収めたなら、これらのポルノ雑誌や、ポルノ文学、ポルノ映画は ただ消えてゆくだろう。

ポルノの背後には 多大な投資がなされている、だから みんな私に反対するのだーー彼らは 私に反対し、私をセックスの名のもとに非難する。
まるで、私がセックスを広めているとでもいうかのごとくだ。

Pp. 43-45

「Intuition」OSHO

訳者/山川紘矢+山川亜希子

発行/株式会社KADOKAWA