saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…友人のFB 投稿記事を転載---OSHO の講話(抜粋)です。

エクスタシーは
人間が完全に
忘れてしまっている言葉だ。
彼はそれを忘れるように
強いられてきた。
彼はそれを忘れるように
強制されてきた。
社会はそれに対立し、
文明はそれに対立している。
社会は惨めさに
この上もない投資をしている。
それは惨めさに依存し、
惨めさを食糧とし、
惨めさによって
生き延びている。
社会は
人間のためにはない。
社会は人間を、
それ自体の手段として
利用している。
 
社会のほうが
人間よりも
重要になってしまった。
文化、文明、教会と
いったもののほうが
重要になってしまった。
それらは
人間のためのもの
だったはずだが、
いまや
人間のためにはない。
それらは
ほとんど全プロセスを逆行し、
いまや
人間がそれらのために
存在している。
 
子どもはみな
エクスタシーに満ちて
生まれてくる。
エクスタシーは自然なものだ。
それは
偉大な賢者たちにだけ
起こるものではない。
それは誰もが世界に
持ち込んでくるものであり、
誰もがそれと共に
生まれてくる。
それは
生のもっとも奥深い核だ。
それは
生きているということの一部だ。
生はエクスタシーだ。
子どもはみな
それを世界に持ち込んでくるが、
そこで
社会が子どもに飛びかかり、
エクスタシーの可能性を
破壊しはじめ、
子どもを惨めにし、
子どもを
条件づけするようになる。
 
社会は神経症的であり、
エクスタティックな人びとが
ここにあることを許せない。
彼らは社会にとっては危険だ。
その仕組みを
理解しようとしてみなさい。
そうすれば
ものごとは
もっと簡単になるだろう。
 
エクスタシーに満ちた人を
コントロールすることは
できない。
それはできない相談だ。
コントロールできるのは
惨めな人間だけだ。
エクスタシーに満ちた人は
いつも自由を失わない。
エクスタシーとは
自由であることだ。
彼を奴隷の境遇に
おとしめることはできない。
彼はそう簡単には
叩きつぶされないし、
彼を牢獄に住むように
強いることはできない。
彼は星々のもとで
踊りたがるだろうし、
風と共に歩きたがるだろうし、
太陽や月と話をしたがるだろう。
彼は広大なもの、
限りなきもの、
巨大なもの、
測り知れないものを必要とする。
彼を暗い独房のなかで
暮らすよう
誘うことはできない。
彼を奴隷にすることはできない。
彼は自分の人生を生きて、
自分のしたいことをする。
これは社会にとっては
じつに厄介なことだ。
多くのエクスタティックな
人びとがいたら、
社会は崩壊してしまう、
その屋台骨は
持ちこたえられないと感じる。
 
エクスタティックな人びとは
反逆者だ。
いいかな、
私はエクスタシーに満ちた人を
「革命家」ではなく
「反逆者」と呼ぶ。
革命家とは
社会を変革しようとする人だが、
彼はそれを別の社会で
置き換えようとする。
反逆者は個人で生きようとし、
世界に固定した
社会構造があることを望まない。
反逆者は
この社会を別の社会と
置き換えることを
望んではいない。
なぜなら、
社会というものが
すべて同じであることは
明らかだからだ。
資本主義者と共産主義者
全体主義者と社会主義者は
みな従兄弟の関係にある。
彼らのあいだに大差はない。
社会は社会だ。
教会というものはみな同じだ――
ヒンドゥー教であろうと、
キリスト教であろうと、
イスラム教であろうと。
 
構造が
いったん権力を握ってしまうと、
それは人びとが
エクスタシーに満ちることを
許さない。
なぜなら、
エクスタシーは
構造に反しているからだ。
よく聴いて、
この言葉に
瞑想してみるといい――
エクスタシーは
構造に反している。
エクスタシーは
反逆的であって、
それは
革命的ではない。
 
革命家は
政治的な人間だ。
反逆者は
宗教的な人間だ。
革命家は別の構造を、
自らが欲したものを、
自らのユートピアを望むが、
構造というものはみな同じだ。
彼は権力の座に就きたい。
彼は圧政者にはなりたいが、
しいたげられる人には
なりたくない。
彼は搾取者にはなりたいが、
搾取される側には回りたくない。
支配はしたいけれど
支配されたくはない。

反逆者は
支配したくはないし
支配されたくもない人だ。
反逆者とは
世界に
いかなる支配体制も
望まない人だ。
反逆者はアナーキーだ。
反逆者とは
人間がつくった構造ではなく
自然を信頼し、
自然なものが
損なわれなければ
あらゆるものは
美しくなると信じている人だ。
そして、
それはほんとうだ!
 
これほどの広大な宇宙が
いかなる政府もなしに
動いている。
動物たち、小鳥たち、樹々、
あらゆるものが
いかなる政府もなしに
動いている。
なぜ人間には
政府が必要なのか? 
なにかが
間違っているに違いない。
なぜ人間は支配者なしでは
生きられないほど
神経症的なのか?

いまや
それは悪循環になっている。
人間は支配者なしでも
生きられるが、
彼は一度も
その機会を
与えられたことがない――
支配者はあなたがたに
いかなる機会も
与えようとはしない。
ひとたび
支配者なしでも
生きられることを知ったなら、
誰が彼らの存在を望むだろう? 
誰が彼らを支持するだろう? 
たったいまあなたがたは
自らの敵を支持している。
あなたがたは
自らの敵に投票している。
二人の敵が
大統領選挙に立候補して、
あなたがたはそれを選ぶ。
どちらも同じだ。
それはまるで
監獄を選ぶ自由、
入りたい監獄を選ぶ自由を
与えられているようなものだ。
しかもあなたがたは
うれしそうに投票する――
僕はAかBの監獄に入りたいんだ、
私は共和党の監獄を信じる、
僕は民主党の監獄を信じる、
と。
だが、
どちらも監獄だ。
そしていったん
監獄を支持してしまうと、
監獄は独自のやり方で
働きかける。
そうなったら
監獄は
あなたが自由を味わうことを
許さない。
 
だから、
子どもはごく幼い頃から
自由を味わうことを許されない。
なぜなら、
いったん自由というものを
知ってしまったら、
彼は譲歩しようとはしないし、
妥協しようとはしないし、
暗い独房のなかで
暮らそうなどという気は
さらさら起こさなくなるからだ。
たとえ
死を選ばなければ
ならないとしても、
彼は誰かが自分を
奴隷の境遇に
おとしめることを許さない。
彼は自己を主張するだろう。
もちろん彼は
ほかの人びとに対して
権力を振るうことに
興味を持つことはない。
そういったものは
神経症的な傾向だ。
人びとに対して
権力を振るうことに
興味を持ちすぎていることは、
あなたは
深いところでは無力であり、
権力を持たない限り
ほかの人びとに
圧倒されてしまうのではないかと
恐れていることを示している。
 
マキャヴェリ
「攻撃こそ最大の防御なり」
と言っている。
自分を守るには
先制攻撃をしかけるのが
いちばんいい。
東洋であれ西洋であれ、
世界中のいわゆる政治家たちは
深いところでは
ごく弱い人びとであり、
劣等感にさいなまれており、
政治的な権力を持たない限り
誰かに
搾取されてしまうのではないか、
搾取されるぐらいなら
搾取するほうがましだと
考えている。
搾取される者も
搾取する者も、
どちらも
同じ船に乗っており、
どちらも
その船を助け、
その船を守っている。

子どもがいったん
自由の味を知ってしまうと、
彼は二度と社会の、教会の、
団体の、政党の一員にはならない。
彼はひとりの個人にとどまり、
自由なままでいて、
自分のまわりに
自由の躍動感をかもし出す。
彼の存在そのものが
自由への扉になる……。
 
いつであれ
子どもが幸せを感じていると、
なにをやっているときであれ、
かならず誰かがやって来て
彼を止めてしまう――
「そんなことをしてはいけない!」
と。
だんだんと子どもは
「僕が幸せを感じることは
 間違っているんだ」
と理解するようになる。
そしてもちろん、
彼は他人がしろと
命じたことをやっても
少しも幸せを感じない。
それは彼のなかから
自然に湧き起こってきた欲求では
ないからだ。
それで
彼は惨めと感じることが
正しいのであり、
幸せと感じることは
間違っているのだと
知るようになる。
そういった
深い連想が生まれてくる。
 
学校の教室の外で
ふいに一羽の小鳥が
歌いはじめたら、
もちろん、
子どもは一心に
その小鳥の声に耳をそばだてる――
醜いチョークを持って
黒板のそばに立っている
算数の教師ではなくて。
だが、
教師のほうが小鳥よりも力を、
政治的な力を持っている。
確かに、
小鳥には力はないけれど、
美しさがある。
小鳥は
「よく聞け!
 これに集中しろ!」
と頭を叩くことなしに
子どもを魅きつける。
単純に、自発的に、自然に、
子どもの意識は
窓の外へと流れ出してゆく。
それは小鳥のもとへと至る。
彼のハートはそこにあるが、
目は黒板のほうを
見なければならない。
見たいようなものなど
なにもないが、
そのふりを
しなければならない。
 
幸せであることは
間違っている。
幸せになるたびに、
なにかが
間違っているのではないかと
子どもは恐れるようになる。
 
子どもが
自分の肉体と遊んでいたら、
それは間違ったこととされる。
子どもが
自分の性器と遊んでいたら、
それは間違ったこととされる。
それは子どもの生にとっては
もっともエクスタティックな
瞬間のひとつだ。
彼は自分の肉体を楽しむ。
それは
わくわくするような体験だ。
だが、
すべてのわくわくする感じは
切り捨てられなければならないし、
すべての歓びは
打ち壊されなければならない。
それは神経症的だが、
社会は神経症的だ。
 
両親たちにも
彼らの両親から
同じことがなされた。
彼らは子どもたちに
同じことをやっている。
このようにして、
ひとつの世代が
次の世代をだめにしてゆく。
このようにして、
私たちは神経症
ひとつの世代から
次の世代へと伝えてゆく。
地球全体が
精神病院になっている。
誰もエクスタシーというものを
知らないように見える。
それは失われている。
障壁に次ぐ障壁が
つくりだされてきた。


Osho - Ecstasy: The Forgotten Language

…友人の FB投稿記事です。

 
瞑想中、
少しの間。
数秒の間。 
思考作用の停止が
感じられる....
そんな隙間が現れる。 
しかし、
思考作用の停止を
感じるのもまた、
思考作用だ……。
非常に微妙な
思考作用だ。

つまり、
あなたは内側で
「思考作用は停止した」
と語っている。
しかし、
それはいったい何か? 
それは新たに始まった
二次的な思考作用だ。

あるいはまた
「これが空虚だ」
とか、
「いま何かが
 起ころうとしている」
などと語る。
それはいったい何か? 
それもまた
新たな思考作用だ。

たとえそれが起こっても、
思考の犠牲に
なってはいけない。
たとえ
沈黙が
降りて来るのを感じても、
それを
言語化してはいけない。
言語化したら、
沈黙を破壊してしまう。

だから、
待つのだ。 
何 か を待つのではなく、 
ただ待つ。

何もしない
「これは空虚だ」
などと言わない。 
そう言うやいなや、
沈黙は破壊されてしまう。

ただ、
それに目を向け、
観つめ、
面と向かい、
そして、
ただ待つ。

言語化はしない。
どうして
急ぐ必要があるだろう?
言語化すると、
マインドは再び
別の経路から入り込み、
あなたを欺く。
マインドの
この策略には
気をつけることだ。

最初のうち、
それはどうしても起こる。 
だから、
それが起こったら....
ただ待つことだ。 
罠にはまってはいけない....
何も言わずに、
沈黙を保つ。

そうすれば
あなたは、
その中に入り込み....
それは
一時的なものではなくなる。

いったん、
真の空虚を知ったら、
それは決して無くならない。
真は決して無くならない。 
それは真の本質だ。

いったん
内側の財宝を知ったら、
いったん
自身の最深の核に触れたら、
たとえ
外側の行動に向かおうとも....
好きな事をしようとも....
普通の現世的生活を
送ろうとも....
その空虚は
いつもあなたと一緒だ。

それを
忘れることは不可能だ。
それは内側で続いている....
その音楽が聴こえてくる。

何をしようと、
その行為は
表層上にとどまり、
内側で
あなたは空虚のままだ。

内側で
空虚のままとどまり、
行為を
表層上にとどめられたら....
すること全ては、
神的なものとなる。 
行為は全て、
神的な質を帯びる。

なぜなら、
それは、
あなたに
由来するものでは
ないからだ。
それは、
根源的な空虚から、
根源的な無から
直接やってくる。

何かを語っても、
その言葉は
あなたのものではない。

Osho - The Secret of Secrets

「友人のFB投稿記事---」

(…ソクラテスの 場合---)
 
人は死を
外側からしか見ない。
あなたは他の誰かが
死んでゆく姿は目にしても、
自分自身が死んでゆくのを
見たことはない。
誰も自分自身が
死ぬのを見た者はいない。

ソクラテス
毒を盛られたとき、
胸をときめかせていた。
弟子たちが
涙を流して悲しんでいると、
彼は言った。

「悲しんではいけない。
 まもなく
 私は逝ってしまう。
 そうしたら
 心ゆくまで
 悲しむがいい。
 今は、
 私に起こっている
 この大いなる実験を
 見るがいい。

 私は死というものに
 ひじょうに
 興味をそそられている―
 私はほんとうに
 死ぬのかどうか。
 この機会を
 逃してはならない。
 私のまわりに坐って
 見守りなさい」

師は
みずからの生を通して
教えるだけでなく、
みずからの死を通しても教える。
師はあらゆる機会を使う―
弟子に教えるためには
みずからの死さえも使う。

彼が大きな声を出し、
ひどく腹を立てながら
「涙を流したり、
 悲しむのはやめて、
 近くに来るのだ!
 この機会を
 逃してはならない!」
と言ったので、
弟子たちは目を向けた。
すると
ソクラテスは言った。

「待ちなさい、
 毒がまわってきつつある。
 さあ、
 私の内側で何が起こっているか
 話してあげよう。
 そうすれば、
 おまえたちも
 目に見えないものに
 気づくことができるだろう」

さらに彼は続けた。
「膝から下は死んでしまった。
 だが、
 私自身は少しも変わらず、
 前と同じように
 何も損なわれていない」

さらに彼は続けた。
「脚全体が死んでしまった。
 腰から下は何も感じない」

彼は弟子に足に触って、
つねってみるように言ったが、
何も感じることができなかった。

彼は言った。
「感覚がないのは、
 私の身体の半分が
 死んでしまったということだ。
 だが、
 私は今まで通り
 まったく損なわれていない。
 内なる感覚は、
 半死半生といった感じではない。
 私は今まで通り生きている!
 身体の半分が死んでしまったが、
 私の実存は影響を受けていない」

やがてゆっくりと
手が死にはじめ、
呼吸が止まりはじめると、
彼は最後の言葉を語った。
彼は言った。

「だんだん
 舌がまわらなくなってきたので、
 もうしゃべれない。
 だが、
 最後に
 言っておきたいことがある。

 身体のほとんど9割が
 死んでしまったが、
 私は十全に生きている。
 これから察するに、
 おそらく
 身体が死んでしまっても、
 私は生きているだろう。

 身体の9割が
 死んでしまっても、
 私は今まで通り
 何も損なわれていないからだ。
 だから最後の1割が
 死んでしまっても……。
 おまえたちは私の内側で
 何が起こっているのか
 見ることができないが、
 私は見ることができる」

ソクラテスは、
ギリシャの他の哲学者のような
凡庸な哲学者ではない。
彼の弟子のプラトン
アリストテレスでさえ……
アリストテレスは、
実のところ、
弟子ではなく敵だ。
彼はソクラテス
まったく理解していない。
彼が提唱したものは
完全にソクラテスに反している。

ソクラテスは神秘家だ。
彼の哲学は探求の方法にすぎない―
それは実に鋭い探求だ。
彼は死でさえもはずさない。
彼は死のなかを探ってゆく。
最後の瞬間まで、
彼はみずからの
探求の方法に忠実だった。

死は外側からしか
見ることができない。
あなたは他の人々が
死んでゆくのを目にする。
だが、
生きているというのは別のことだ。
生は内側から見ることができる。
生きていれば苦痛や快楽を覚え、
愛したり、
恐怖を抱いたりすることがある。
生きていれば
創造することができる―
ないものを考え出し、
それに形を与えることができる。

創造的な人が
もっぱら生の高次の姿を
知ってゆくのはそのためだ。
なぜなら、
創造するとき、
人はみずからのエネルギーを
最大限に発揮するからだ。
創造するとき、
人は神の一部になっている。

どうして人が
それを為しうるのかは神秘だ。
どうして人が
存在しうるのかは神秘だ。
結果には
すべて原因があるにちがいない。
私たちが
「因果の法則」と呼んでいるのは
まさにそれだ―
私たちはそう教えられてきた。
だが、
私を今ここにあらしめている原因を
私は見つけることができない。

私は奇蹟に運ばれているのを
自覚している。
私の理性は
私によくつくしてくれるが、
私という
存在(ビーイング)の神秘の前では
色を失う。
理性そのものが
この神秘の道具なのだ。
理性が神秘を知りえないのは
そのためだ。

あなたは
内側を見なければならない。
生が何であるかを見るには、
まず内側からそれを
感じ取らなければならない。
そして生を感じ取るための
最良の方法は
創造的になることだ。
そうすれば
最大限の力が
発揮されるからだ。

Osho - The Secret Of Secrets

…「人は最初から はじめなければならない---」OSHO,

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いにしえの寓話によると、
世界を創造していた神のもとに
四人の天使が近づいてきて、
こう質問した。

「どのようなやり方で
 創造なさっているのですか?」
と最初の天使が尋ねた。

二番目の天使は
「なぜそんなことを
 なさっているのですか?」
と尋ねた。

三番目の天使は
「仕事が終わったら、
 私にいただけますでしょうか?」
と尋ねた。

四番目の天使は
「お手伝いいたしましょうか?」
と言った。

最初の問いは
科学者のものだ。

二番目の問いは
哲学者のものであり、

三番目の問いは
政治家のもの、

四番目の問いは
宗教的な人物のものだ。

科学的な探求は、
万物を偏りのない目で観察する。
科学者は
客観的でなければならない。
客観的であるために
科学者は
身を引いたままでいる。
科学者は
参加することができない。
身を乗り出すと、
ただちに
巻き込まれてしまうからだ。
それゆえに科学者は
生命や<存在>の表層を
知ることしかできない。
内奥の中核は
科学には明かされずに残る。
科学的な手法そのものが
妨げになる。

哲学者は
憶測するだけであり、
けっして実験をしない。
哲学者は「なぜか?」と
際限なく問い続ける。
しかもその問いに
どんな答えが与えられても、
再び「なぜか?」と
問うことができる。
哲学を通しては
いかなる結論に到る
見込みもない。
哲学は
結論を下せないままでいる。
それは不毛な行為であり、
どこにも
行き着くことがない。

政治家は
ひたすら世界を手に入れ、
それをわがものにしたがる。
政治家ほど危険なものはない。
なぜなら、
彼は最も暴力的だからだ。
政治家が生に示す関心は、
生そのものに
向けられているのではなく、
みずからが握る権力に
向けられている。
彼は権力に飢え、
権力に狂っている。
彼は狂人であり、
破壊的だ。

生きているものを
所有したとたん、
あなたはそれを殺してしまう。
なぜなら、
何かが財産になったとたん、
それは生命を
失ってしまうからだ。

樹を所有すれば、
その樹は
もはや生きてはいない。
女や男を所有すれば、
あなたは相手を
殺してしまっている。
何かを所有すれば、
その結果は死でしかない。
というのも、
所有できるのは
死だけだからだ。

生は自由だ。
生は基本的に
自由であり続ける。
生を所有することはできない。
生を銀行に
預けることはできない。
生を線で
囲い込むことはできない。

「これは私のものだ」
などとは言えない。
そんなことを言うのは
敬意を欠いている。
そんなことを言うのは
自己中心的だ。
そんなことを言うのは
狂っている。

生こそが
私たちを所有している。
どうして私たちが
生を所有しえるだろう?

私たちはもっともっと
生の手中に
落ちていかなければならない。
ゲシュタルト
そっくり
変わらなければならない。
所有欲を抱くことから、
人は全体に
身をゆだねられるように
ならなければいけない。

政治家が
生の真実を知るということは
けっしてない。

宗教的な人は参加する。
彼は生とともに踊る。
彼は<存在>とともに歌う。
彼は生に手を貸す。

彼は<存在>に
明け渡しており、
身を引いていないし、
超然としてはいない。
彼は実際には
どんな質問もしない。
彼は知識を
追い求めていない。
彼の努力はすべて、
<存在>といかに
ひとつになりきるかに
向けられている。
それゆえに
東洋には
究極の体験を表すのに
「サマーディsamadhi」
という言葉がある。

それは
二つの言葉からきている。
まず sam ―
sam は
一緒になることを意味する。
同じ sam という語根が
英語にも入って、
sympathy(共感)
symphony(交響曲
という言葉のなかに見られる。
少し変化して
synthesis(統合)
synchronicity(共時性
という言葉のなかにもある。
sam は
一緒になることを意味する。

adhi は主、神を意味する。
「サマーディ」とは
神との合一、
神とひとつになることを
意味する。
そして宗教を表す
英語の
religion という言葉の意味は
まさにそれだ。
それは
<存在>とひとつになること、
分断されることなく、
分離したままでいずに
ひとつになることを
意味している。
この合一状態のなかで
はじめて、
人は知り、
気づき、
体験し、
在るようになる。

宗教は
大いなる実験でもある―
実のところ、
最大の実験だ―
が、
違いがある。
科学は客観的な事物を
対象に実験するが、
宗教は
主体そのものに働きかける。
宗教の関心は
「私は誰か?」
ということにつきる。

人は最初から
はじめなければならない。
自分自身を知らないかぎり、
私は他のことを
何ひとつ
知ることができない。
奥深くで
無知のままであったなら、
私の知識はすべて
がらくたにすぎない。
それは
無知に基づいている。
それは
無知に根ざしている。

まず
私の内側に光が
生まれなければならない。
そうなれば、
その光は
広がってゆくことができる。
そうすれば、
その光は<存在>の
まさに果てまで
到達することができる―
<存在>に果てが
あるとしたらの話だが。
だが、
まずそれは
私の内側で
生まれなければならない。
最初の炎は
私の主体から
発しなければならない。

私の中心が
光で満たされて、
そこではじめて
空疎な知識に
すぎなかったことが
すべて真に体験される。
自分自身を知らず、
知る者がそこにいないのに、
どうして他のものを
知ることができるだろう?
あなた自身が
深い闇のなかにいるなら、
あなたが
外につくりだした光は
すべてまやかしであり、
幻想だ。

Osho - The Secret Of Secrets

…「生は創造的になる機会だ---」OSHO,

…友人の FB投稿記事をシェアします。 (講話より引用)



惨めさに
才能は必要ない――
だれでもそれを
手に入れられる。
幸福には
才能、天分、創造性が必要だ。
創造的な人たちだけが
幸福だ。
 
これを
あなたのハートのなかに
深く沈み込ませなさい――
創造的な人たちだけが幸福だ。
幸福は
創造性の副産物だ。
なにかを創造すれば、
あなたは幸福になる。
庭をつくり、
その庭に花を咲かせれば、
あなたのなかで
なにかが花開く。
絵を描けば、
その絵が育っていくにつれ、

あなたのなかで
なにかが育ちはじめる。
その絵が完成にいたると、
その絵に
最後の一筆を加えていると、
あなたは自分が
もはや同じ人間ではないことに
気がつく。
あなたは自分のなかの
なにかとても新しいものに
最後の一筆を加えている。

詩をつくり、
歌をうたい、
ダンスを踊り、
そして見なさい――
あなたは幸せになっていく。

実在はあなたに
創造的になる機会を与えただけだ――
生は創造的になる機会だ。
 
あなたが創造的なら、
あなたは幸福になる。

あなたが山々の
最高の頂に登ろうとしたら、
それは困難を伴う。
そしてあなたが頂上に到達し、
横になって、
雲とささやきを交わし、
大空を見つめるとき、
あなたのハートを満たす歓び……
そのような歓びが
必ずやって来る、
あなたがなんらかの
創造性の頂に
到達したときにはいつも。

幸福になるには
知性が必要だ、
そして人びとは
非知性的でいなさいと
教えられる。
社会は
知性が花開くことを望まない。

社会は知性を必要としない。
実のところ、
社会は知性を
大いに恐れている。
社会は愚かな人びとを
必要としている。

なぜだろう?――
愚かな人びとは
扱いやすいからだ。

知性的な人びとは
必ずしも従順ではない。
彼らは従うかもしれない、
彼らは従わないかもしれない。
だが、
愚かな人は
逆らうことができない。
彼はいつでも
命令を聞こうとしている。
愚かな人には
命令してくれる人が必要だ、
なぜなら、
彼には自分ひとりで生きていく
知性がないからだ。
彼はだれかに
指図してもらいたい。
彼は自分自身の
圧制者を探し求めている。

政治家たちは
世界に知性が生まれることを
望まない、
聖職者たちは
世界に知性が生まれることを
望まない、
将軍たちは
世界に知性が生まれることを
望まない。
だれも本気で
それを望んではいない。
人びとはみんな
愚かなままでいてほしい、
そうしたら
だれもが従順になり、
体制に順応的になり、
囲いの外にけっして出ず、
つねに群衆のひとりでいて、
支配されやすく、
操作されやすく、
管理されやすい。

知性的な人は反逆的だ。
知性は反逆だ。
知性的な人は
ノーと言おうか
イエスと言おうか
自分自身で決める。
 
知性的な人は
因習的になることができない、
彼は過去を
崇拝しつづけることができない。
過去には
崇拝すべきものはなにもない。
知性的な人は未来を創造したい、
現在に生きたい。
彼は現在に生きることで
未来をつくりだそうとする。

知性的な人は
死んだ過去にしがみつかず、
死骸を持ち歩かない。
それらがいかに美しかったにせよ、
いかに貴重だったにせよ、
彼は死骸を持ち歩かない。

彼は過去との関係を断った。
それは去った、
永久に去ってしまった。
だが、
愚かな人は因習的だ。
彼は聖職者に喜んで従う、
どんな愚かな政治家にも
喜んで従う、
どんな命令にも
喜んで従う――
だれか権威者がいると、
彼は喜んで
その人に従おうとする。

知性がなければ
幸福はありえない。
人間は知性的であって初めて、
完全に知性的であって初めて、
幸福になれるのだ。

瞑想は
あなたの知性を解き放つ装置だ。
瞑想的になればなるほど、
あなたはいっそう知性的になる。
 
だが、
覚えておくこと、
私は知性という言葉で
知識を意味していない。
知識は愚かさの一部だ。

知性はまったく別の現象だ、
それは頭とはなんの関係もない。
知性はあなたの
まさに中心から来るものだ。

それは
あなたのなかにわき上がってきて、
それとともに
あなたのなかで
多くのものが育ちはじめる。

あなたは幸福になる、
あなたは創造的になる、
あなたは反逆的になる、
あなたは冒険的になる、
あなたは不安定を愛するようになる、
あなたは未知のなかへ
入っていくようになる。
あなたは危険な生き方を
するようになる、
というのも、
それが唯一の生き方だからだ。

愚かな人たちのためには、
群衆が移動する高速道路がある。
そして何世紀にも何世紀にも渡って、
彼らは移動してきた――
そしてどこにも行き着かない、
堂々巡りをしている。
そのとき、
あなたは自分は
大勢の人たちといるという、
自分はひとりではないという
慰めを得る。

知性はあなたに
ひとりでいる勇気を与える、
知性はあなたに
創造的になるための洞察力を与える。
創造的になりたいという大きな衝動、
大きな渇望が起こってくる。
そのとき初めて、
ひとつの結果として、
あなたは幸福になることができる、
あなたは至福に満ちることができる。

Osho - The Book of Wisdom,

…「愛は 流れなのだ---」OSHO,

…友人の FB 投稿記事を 転載しました。



問題は
マインドによって
生み出される。
エネルギーに
よってではない。
エネルギーのいうことに
耳を傾けなさい。
それはあなたに
正しい方向を
示しているのだ。
問題を生み出しているのは
セックスエネルギーではない。
それは
動物において、
木々において、
鳥達において
決して
どんな問題も
作り出したことがない。

セックスエネルギーが
問題を生み出すのは、
あなたのマインドが
間違った態度を
とっているからなのだ。
全宇宙は
愛のエネルギーという
素材でできている。
一番低い存在から、
一番高い存在まで、
一つのエネルギーなのだ・・
それが
様々な形で
現れているのだ・・
粗雑な形で、
また微妙な形で。
が、
それは
一つのエネルギーだ。

一番低い形態では、
電気として現れ、
一番高い形態としては
祈りとして現れる。
が、
それは一つのエネルギーだ。
いつであれ
エネルギーが
どこかで
ひっかかってしまったと
感じれば、
愛する対象を
見つけることだ・・
どんなものでもいい。
そのうちに、
段々と、
実際に
愛の対象を持つ
必要が無くなってゆく。

誰かを
愛するという
ただの思いつき。
それだけで
エネルギーは流れるだろう。
次に、
その思いつきでさえ
落とすことができる。
ただ愛深くあるだけで、
エネルギーは
流れていることだろう。
愛は流れなのだ。

  • Osho

…信仰は借り物であり、信頼は その人自身の体験だ。 OSHO,

友人の FB投稿記事を転載します (確認済み)。



すでに結論を出していながら、
どうして
問いかけることができるだろう?

キリスト教徒でありながら
宗教的であることはできない。
あるいは
ヒンドゥー教徒でありながら
宗教的であることはできない。
ヒンドゥー教徒でありながら、
どうして
宗教的でいることができるだろう?
ヒンドゥー教徒であるということは、
すでに結論を出していて、
何が真理か
決めてしまっているということだ。

そうだとすれば
問いかけてみても仕方がない。
何を問いかけるというのだろう?
あなたがやるのは、
すでに結論付けていることがらの裏付け、
論証を探し出すことでしかない。
だが、
その結論は
間違っているかもしれない―
わかりはしない。
その結論は
あなたのものではなく、
社会から渡されたものだからだ。

社会はしきりに
あなたに結論を与えようとする。
あなたが自分で結論に到れるよう
意識を与えようとはしない。
あなたが意識的になる前に、
少しでも問いかけがはじまる前に、
社会はありとあらゆる結論を
詰め込んで、
何がなんでも
その問いかけを阻もうとする。
なぜなら、
その問いかけは
社会にとって危険だからだ。

問いかけない人間は扱いやすい。
問いかけない人間は従順だ。
すなおに命令や指令を受け取り、
それに従う。
彼は法を尊重し、
因習を守る。

ひとたび誰かの心に
わずかでも信仰を吹き込めば、
薬物を飲ませたことになる。
信仰は麻薬だ。
彼はいったん信じ込むと、
どこまでもしゃにむに信じてゆく。
やがて徐々に、
彼はその信仰が
自分自身の体験であると
思い込むようになってゆく。

信仰というのは
催眠のシステムだ。
あなたは子供に
「おまえはヒンドゥー教徒だ。
 おまえはヒンドゥー教徒だ」
とどんどん暗示をかけてゆく。
子供を寺に連れてゆき、
宗教的な、
いわゆる宗教的な
儀礼、儀式を体験させる。
やがて子供は条件付けられ、
自分はヒンドゥー教徒であり、
ヒンドゥー教はすべて正しく、
それ以外の宗教は
すべて間違っていると
思い込むようになる。

そして、
同じことが
あらゆる社会で行なわれている。
あなたがたは
子供たちに麻薬を与えてきた。
子供の意識のまさに源が
毒されてきた。

そしてもし
何かを信じたら、
それは
真実のように見えてくる。
もし何かを信じはじめたら、
その裏付けとなるもの、
それを助ける証拠となるものが
続々と見つかるようになる。

あなたのエゴがからんでくる。
真実かどうかだけでなく、
奥深くで問題になっているのは
「どちらが正しいのだろう?
 私だろうか君だろうか?
 私が間違っているはずがない―
 私が正しいにちがいない」
ということだ。

だからあなたは
自分を支えてくれるものばかりを
選び取る。
そして
生はひじょうに複雑であり、
そこでは
ありとあらゆるものを
見つけることができる―
あなたが選び取り、
決定したものは
何でも見つかる。

あなたが
悲観主義者であれば、
その悲観主義を裏付ける
ありとあらゆる論拠が
生のなかに見つかる。
あなたが
楽観主義者であれば、
ありとあらゆる論拠を
手にすることができる。

生は二元的であり、
生は逆説に満ちており、
生は多次元的だ。
この世に
これほど多くの哲学、
主義、神学が存在するのは
そのためだ。
そしてどの神学も
独自の結論の殻に閉じこもり、
自分が一番正しいと
信じている。

ようやく現代において
信奉者たちは
少しとまどうようになった。
これは大いなる祝福だ。
なぜなら、
彼らは他の信奉者たちの存在にも
気付きはじめたからだ。
今やヒンドゥー教徒
それほど得意になり、
自己満足してはいられない。
キリスト教徒の存在を
知っているからだ。
そしてキリスト教徒も、
自分たちだけが
真理の版権を手にしていると
信じ続けることはできない。
イスラム教徒もいるし、
道教徒もいるし、
仏教徒もいるということを
知っているからだ。
そして誰も当てにならない。
現代はひじょうに混乱している―
かつてなかったほど混乱している。

だが、
覚えておきなさい。
この混乱は大いなる祝福だ。
何かが途上にある。

何かとほうもなく重要なことが
起ころうとしている。
この精神の混沌(カオス)は
新しい夜明けのはじまりだ。

将来には、
人々は
イスラム教徒にも、
ヒンドゥー教徒にも、
仏教徒にもならないだろう。
人々は
問いかける者たちとなる。
信仰はなくなり、
信仰の闇は姿を消しつつある。
これからは誰も
信仰をもたなくなってゆく。
人々は問いかけ、
見いだしたときに
信頼するだろう。
信仰は借り物であり、
信頼はその人自身の体験だ。

私がここで
あなたがたに教えているのは、
この先、
ますます興隆してくる宗教だ。
私は現在のあなたがたに
未来をもち込んでいる。
私はあなたがたが純一な
探求者になるようにしむけている―
いかなる信仰体系ももたず、
何の結論も抱かずに、
みずから進んで実験を行なってゆき、
それが何であろうと
真実に心を開いて、
それを
受け容れてゆく用意のある探索者、
ひたすら真実を
受け容れてゆく用意のある者たちに。

Osho - The Secret Of Secrets