saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…「本当の親は、自由を与える・・・」OSHO,

…「友人の FB投稿記事を転載します」。


家族の問題とは、
子どもは小さい頃から
成長していくのに対して、
親は親であることから
決して成長しないということだ! 
人はいまだに、
親の立場というのは
永遠に
執着するべきものではない
ということを学んでいない。
子どもが成人になったら、
あなたの親の役割は終わる。
子どもにはそれが必要だった――
子どもは何もできなかったのだから。
母親、父親、彼らの保護が必要だった。
だが、
子どもが独り立ちできるようになったら、
親は子どもの生から
身を引くことを学ぶべきだ。
ところが、
親が決して
子どもの生から
身を引かないために、
親は自分に、
そして子どもに対しても
不安を抱きつづける。
彼らは破壊し、
罪悪感を作り出す――
彼らは許容限度を超えて
助けることはない。

親であるということは
偉大なアートだ。
子どもを産むのは
たいしたことではない――
どんな動物にもできる。
それは自然で、
生物的、本能的なプロセスだ。
子どもを産むのは
別に偉大なことではない。
特別なことでもないし、
ごく普通のことだ。
だが
親であるというのは
特別な何かだ。
ほんとうに
親になれる人は
ほとんどいない。
基準となるのは、
ほんとうの親は
自由を与えるということだ。
決して自分を
子どもに押し付けたりしない。
子どものスペースを侵さない。
そもそも最初から、
彼らの努力は
子どもが自分自身で
いられるように
手助けすることだ。
彼らは手助けするために、
勇気付けるために、
滋養を与えるために
いるのであって、
自分たちの考えを押し付け、
これをしろ、あれをするな、
と命令するために
いるわけではない。
彼らは
奴隷を作り出すために
いるわけではないのだ。

だがそれこそ
世界中の親が
し続けていることだ。
彼らの努力のすべては、
子どもを通じて
自分の野望を
かなえることだ。
もちろん誰一人
その野望を
達成したものはいない。
だから、
どの親も
不安に駆られている。
刻一刻と
死が近づいていることを
知っている。
死がどんどん大きくなり、
生が縮まっていくのを
感じることができる。
が、
自分の野望は
まだかなえられていない、
自分の欲望は
まだ現実のものと
なっていない。
彼は自分が
敗者だったことを
知っている。
自分はなにも得ることなく
死んでいくだろうということに、
はっきりと気づいている――
やって来たときと
まったく同じように
手ぶらで
逝ってしまうだろうと
いうことに。

今や、
彼の努力のすべては
どうやって
子どもに自分の野望を
植え付けるかだ。
彼は行ってしまうが、
子どもは彼に従って
生きるだろう。
彼にできなかったことは
子どもがやってくれるだろう。
少なくとも子どもを通して
彼はある種の夢を
かなえられるかもしれない。

それは起こらない。
起こることは、
子どもは親を
満足させることのないまま、
自分の子どもにも
同じことをやり続ける
ということだけだ。
これが一つの世代から
次の世代へと
引き継がれていく。
私たちは自分の病を
与え続け、
自分自身の人生で
価値を見出せなかった観念を
子どもたちに移し続ける。

ある人は
キリスト教徒として生きたが、
彼の人生を見れば、
それによって
至福に満たされることは
なかったことがわかる。
ヒンドゥ教徒として生きた人もいる。
彼の人生は
地獄だったことは明らかだ。
ところが彼は
自分の子どもが
ヒンドゥ教徒や、
キリスト教徒や、
イスラム教徒になることを望む。
人はいかに無意識でいることか!

聞いた話だが――
一人のとても悲しげで
陰気な男が、
ロンドンの医者を訪ねた。
待合室に座って、
むっつりしたまま
他の患者のことなど
そ知らぬ顔で
順番を待っていた。
やっと順番が来て、
医者が診察室に招き入れ、
入念な診察が終る頃には、
彼は以前にもまして
深刻で悲しげで惨めになった。
「とくに心配なさるようなことは
 ありませんねえ」
医者が言った。
「基本的にあなたは
 落ち込んでいるだけです。
 あなたがすべきことは、
 仕事や心配事を忘れることです。
 チャーリー・チャプリン
 映画でも見に行って、
 思い切り笑うことですな」
その小さな男の顔一面に
悲しそうな表情が浮かんだ。
「私がその
 チャーリー・チャプリンなんです」

これはとても奇妙な世界だ! 
あなたは人びとの
真の生活を知らない。
あなたが知っているのは
彼らの仮面だけ。
あなたは彼らを教会で見かける。
クラブで、ホテルで、
ダンスホールで見かける。
誰を見ても
みんなが楽しんでいて、
みんなが最高の生活を
しているかのようだ。
あなた一人を除いては……
言うまでもなく、
あなたは内側で
自分がどれほど惨めかを
知っているからだ。
が、
それは他のすべての人に
言えることだ! 
彼らはみな仮面をかぶり、
他人を欺いている。
だが、
自分自身を
どうやって欺けるだろう? 
仮面は自分の
ほんとうの顔ではないことを
あなたは知っている。

だが、
両親は
子どもの前で偽り続ける。
自分の子どもを
欺き続けるのだ。
彼らは
自分の子どもに対してでさえ
正直でいられない! 
彼らは自分たちの人生が
失敗だったということを
打ち明けないだろう。
反対に自分たちは
とてもうまくやってきたという
ふりをするだろう。
そして彼らは、
子どもたちにも
彼らが生きてきたのと
同じように生きてもらいたい。

あなたはたずねている。
「両親は私にとても失望していて……」

まったく心配することはない――
すべての親が
自分の子どもに失望している! 
そして私がすべてと言うのは、
いかなる例外もなしにだ。
ゴータマ・ブッダの親でさえ
彼にとても失望していたし、
イエス・キリストの親も、
当然、
彼にとても失望していた。

彼らはある
決った生活をしていた――
両親は正統派のユダヤ人だった――
ところが、
その息子、
そのイエスが、
多くの伝統的な観念や慣例に
反対しだした。
イエスの父ヨセフは、
自分も年をとってきたことだし、
息子が大工の仕事を、
自分の店を手伝ってくれることを
期待していたに違いない――
ところがこのバカ息子は、
神の王国について話し始めた! 
年老いた父親が喜んだと思うかね?

ゴータマ・ブッダ父親
とても年をとっていて、
たった一人の息子がいるだけだった。
しかも、
その子が生まれたのも
彼が年老いてからだった。
彼は息子が授かるように、
全生涯をかけて待ち、
祈り、礼拝し、
あらゆる宗教的儀式を
行なったのだ。
さもなければ、
彼の偉大な王国を
誰が見ていくというのかね? 
ところがある日突然、
その息子は王国から姿を消した。
彼が幸福だったと思うかね? 
彼はとても怒った、
怒り狂っていた。
もし見つけたら、
ゴータマ・ブッダ
殺したかもしれない! 
彼の警備隊、密偵たちが
王国中を隅々まで探し回った。
「どこに隠れているのだ? 
 息子をわしの目の前に連れて来い!」
ブッダはそのことを知っていた。
父親の官吏に捕まるであろうことを。
そこで彼が最初にしたことは、
父の王国の国境を越え、
他の王国に逃げることだった。
そして12年の間、
彼のうわさを聞くことはなかった。

光明を得た後、
彼は自分の喜びを分かち合うために、
「私は家に辿り着いた」と、
「私は悟った」と、
「私は真実を知った――
 これが道なのだ」と、
父親に伝えるために家に戻った。

だが父親はとても怒っていた、
怒りで体を震わせていた――
彼は年老いていた、
とても年老いていた。
父はブッダに向かって怒鳴った。
「おまえはわしに恥をかかせた!」。
彼はブッダを見た――
乞食の格好をして
托鉢碗を持つ彼が立っていた――
彼は言った。
「乞食のような格好で
 私の前に現れるなんて、
 どういうつもりだ?
 おまえは王の息子だぞ。
 我々の家族に乞食など
 いたためしはないのだ! 
 わしの父は王だったし、
 その父もそうだった。
 何世代にも渡って
 我々は王だった! 
 おまえはこの伝統を
 けがしたのだ!」

ブッダは半時間のあいだ
一言もしゃべらずに聞いていた。
父親のガスが切れて、
少し冷めてきたとき……
彼は涙をためていた、
怒りの、失意の涙。
そこでブッダは言った。
「一つ頼みを聞いてください。
 どうか涙を拭いて、
 それから私を見てください――
 私は家を去ったその人物と
 同じ人間ではありません。
 私はまったく変容したのです。
 でもあなたの目は涙でいっぱいで、
 見ることができないのです。
 そして、あなたはいまだに、
 もういない人に
 語りかけているのです! 
 彼は死んだのです」

これで新たな怒りが引き出され、
父親は言った。
「おまえは私に説教するつもりか? 
 わしを馬鹿にするのか? 
 自分の息子が
 わからないとでも言うのか? 
 わしの血が
 おまえの血管の中を
 流れているのだぞ――
 それなのに、
 わしが気がつかないとでも?」

ブッダは言った。
「どうか誤解しないでください。
 この体は確かに
 あなたからいただいたものです。
 でも私の意識はそうではありません。
 私の意識が私の現実であって、
 体ではないのです。
 確かにあなたがおっしゃるとおり、
 あなたの父親も、
 その父親も王でした。
 でも私が知りうる限り、
 私は過去生で乞食でしたし、
 その前の生でも乞食でした。
 なぜなら私はずっと
 真実を探し求めていたからです。
 私の体は
 あなたを介してやってきました。
 でもあなたは
 言わば通り道だったのです。
 あなたが私を創ったのではなく、
 あなたは媒体だったのです。
 そして、
 私の意識は
 あなたの意識とは無関係です。
 そして私が言っていることは、
 私はいまや
 まったく新しい意識を持って
 家に戻ったということです。
 私は再生を経てきました。
 よく私を見てください。
 私の喜びを見てください!」

そして、
彼の言ったことを
信じたわけではないが、
父は息子を見た。
だが、
一つのことは明らかだった。
自分がこれほど怒っているのに
息子はまったく
挑発されていなかった。
これはまったく
新しいことだった――
彼は自分の息子を知っていた。
もし彼が以前と同じ人間だったら、
父親と同じくらいに怒っただろう。
いやもっとかもしれない。
というのも彼は若かったし、
彼の血は父親よりも
ずっと熱かったからだ。
ところが彼はまったく
腹を立てていなかった。
彼の顔には完全な安らぎが、
大いなる静けさがあった。
彼は平静で、
父親の怒りにも
乱されることがなかった。
父親は彼を侮辱したが、
彼はまったく
どのような影響も
受けていないかのようだった。
父親は年老いた目から涙をぬぐい、
再び彼を見、
新しい優美さを見た……

Osho - I Am That

友人の FB投稿記事(OSHO:講話抜粋)を 転載---確認済み

あなた方はみな乞食だ。
しかも別の乞食に向かって、
ないものねだりをしている。
そして
それが手に入らないと
悲しみ、涙を流し、
自分は愛を得ることはできないのだと
惨めになる。
愛は外に獲得するものではない。
愛は、
あなたの存在の内なる調べなのだ。
だから
誰もあなたに
愛をあげることはできないし、
外側から
獲得することはできない。
愛は
あなたの内側に生まれるものだ。
愛は内なる開花であり、
それは
内側で眠っているエネルギーから生まれ出る。
にもかかわらず私たちはみな、
愛を外側に探す。
私たちはみな、
それを恋人のなかに探そうとする。
それは完全に間違いであり、
徒労でしかない。
愛を自分自身の内に探しなさい。
しかしあなたには、
自分の内に愛があろうなどと
想像もできない。
なぜなら
あなたが学んできた愛は、
常に恋人を連想させるからだ。
その愛は常にあなたの外側にあり、
外側の誰かを連想することでしかない。
だから愛が自分の内側に
どのように生まれ得るものなのか、
想像もできない。
あなたの内なる愛のエネルギーは
眠ったままであり、
すでに自らの内にあるものを、
あなたは外に求めていることに気づかない。
ゆえに外に求めている限り、
内側を見ることはない。

実のところ、
それは決して探索されることはない。
でもあなたは愛が欲しいから、
他人の扉の前で手を差し出して乞い続ける。
全世界に存在する欲望はただ一つ、
それは愛だ。
そして全世界にある不平もただ一つ、
自分は愛をもらってはいないということだ。
そして
自分が愛をもらっていないのは、
相手の責任で
相手に落ち度があるからだといって
他人を責める。
妻は夫に言う、
「私のことなんか
 ちっとも考えてくれない」。
夫は妻に言う、
「俺の身にもなってみろ」。

素晴らしい劇作家で、
しかも詩人であった俳優が亡くなった。
彼の葬儀には、
大勢の人々が火葬場へ集まった。
私も彼の葬儀に出席していた。
そして彼が勤めていた
映画会社の重役も出席しており、
彼は短い弔辞を述べた。
重役は言った、

「 私がこの男を俳優にしたのです。
 彼を裏道から見つけ出して連れ出し、
 出世街道へ乗せたのは私です。
 映画で最初に彼に役を与えたのは私で、
 彼の処女作を出版したのも私でした。
 彼が世界的に有名になったのは、
 私のおかげなのです!」

彼はそれだけを述べた。
あなた方の何人かも
そこにいたかもしれない。
重役がこれだけ述べ終えると、
突然、
みなの前に横たわっていた遺体が
起き上がって言ったのだ! 

「 失礼ですが、
 これから埋葬されるのはあなたですか?
 それとも私でしょうか? 
 あなたは誰のことを話しているのですか?」

その重役は、
「私が」彼を有名にし、
「私が」彼の本を出版した。
「私が」映画で彼に役を与えた・・・
「私が」そうしたと言った。
この「私が」という騒音には、
遺体ですら耐え切れなかったようで、
遺体は起き上がって言ったのだ。
「 失礼ですが、一つ教えてください。
 この葬式で埋葬されるのはあなたですか? 
 それとも私ですか?・・・」
と。
そして人は常に、
この「私が」という
騒音を生み出し続けている。

あなたの中には
二つの声しかあり得ない。
つまり、
「私」という声でいっぱいの人の中には、
「愛」という声はない。
そして
「愛」という声に満ち溢れている人の中には、
「私」という声はない。
しかもその二つは、
決して同時には見つからない。
それは
闇と光が同時に存在するのと同じくらい
不可能なことだ。

同じように、
エゴと愛は共存できない。
エゴとは闇のようなものであり、
それは愛の不在だ。
あなたの内側には愛が欠如している。
だから内側で
「私」という声が鳴り響いているのだ。
この「私」という声を
強めて大きくしていけばいくほど、
内に愛を見出す可能性は
なくなっていく。
エゴが強くなればなるほど、
愛はますます存在しなくなっていく。
そしてエゴがすべてになるとき、
愛は完全に死ぬ。

あなたは言う。
これは「私」の服だ。
これは「私」の家だ。
これは「私」の地位だ。
これは「私」が寄付したものだ。
あれは「私」の援助によるものだ。
「私」は○○大学出身だ。
「私」の家柄は・・・、
「私」の経歴は・・・。
この「私」という周りに築かれた塔は、
決して愛を知ることはないだろう。
あなたの「私」がいかに強く、
どれほど根深いものであるかを
しっかり理解することだ。
またそれを毎日さらに強め、
さらに根深くさせようとしているかどうかを、
はっきり見極める必要がある。
そうしたものが必要で
さらに強めようとしているなら、
内側に愛が生まれる望みは
捨てることだ。

エゴから生まれる愛は、
完全に偽りだ。
だから私は
あなたの愛はすべて偽りだと言う。
なぜなら
それはエゴから生まれたものであり、
エゴの影だからだ。
そして、
良く聞きなさい、
エゴから生まれた愛は
憎しみよりも危険だ。
なぜなら
憎しみは明快で直接的で、単純だが、
偽りの顔を装った愛は
それとは違って見分けにくいからだ。

エゴから生じた愛によって
恋人から愛されているなら、
やがて
あなたは優しい手の代わりに、
鉄の鎖で繋がれているような感じが
してくるだろう。
釣りに行くと、
人々は釣り針に餌を付ける。
エゴが主人になっている人は、
他人を所有したがる。
釣り針に愛という餌を付け、
彼らをプスリと突き刺すのだ。
こうして愛という幻想のゆえに、
最終的には
実に多くの人が
傷みと苦しみに陥るはめになる。

地獄でさえ、
こんなに大勢の人々が苦しむことはない。
そしてこの愛という幻想のゆえに、
全世界が、
全人類が苦しんでいる。
しかしそれにもかかわらず、
あなたはエゴから出た愛は
偽りであることを未だに理解しない。
だから
こんな地獄が生まれてしまったのだ。

嫉妬は、
エゴを伴う愛の一つの形だ。
だから恋人たちほど
嫉妬する者はいないのだ。
エゴを伴う愛は、
他者を所有しようとする
陰謀であり策略だ。
ゆえに
「あなたを愛している」
と言う者ほど、
人を息苦しい思いにさせる者はいない。
こうした状況は、
エゴから生まれた愛から生じるものであり、
愛とエゴには何の関係もない。


Osho - インナー・ジャーニー