saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章 信を生きる by OSHO, (08)

(…その強調は、それと反対のものがどこかに隠れていることを示している。)

 誰かに「あなたを愛している。
あなただけを」と言う時、そこには 疑いが隠されている。
なぜ「あなただけを」と言うのだろう。
どうして、そんなことを言うのか。
なぜ、それを 強調したいのかね。

そこには、他の誰かを好きになる可能性が隠されている。
だから、その可能性を隠すために 強調するのだ。

隠さなければ、それは明らかになってしまうかも知れない、浮上して来るかも知れない、表面化するかも知れない。
そうなったらどうしよう。
それを隠すために できるだけのことをするより他ない。



 もし、「私は これの本当の信者です」と言うなら、本当でない信者もいることになる。

この 本当の信仰とは何か。

本当の信仰とは、誰も それを察知できないほどに、完璧に疑いを 覆い隠したが、自分はそれをよく知っている という意味だ。

そして、信者というものが、自分の信念に反する物事を 聞きたがらないのは そのためだ。
彼らは 聾になる。
それは、その人たちが 常に怖れているからだ。
人が怖れるのは 決して他人ではない。
他人が 言おうとしていることではない。
怖れているのは、他人が 自分の秘めた疑いに触れて、その疑いが解けて来るかも知れない ということだ。


 だから通常の 宗教的な人々は、無神論者の言うことを聞きたがらない。
彼らは「いやだ。 信仰が壊れるかも知れない」と言う。

だが、信仰とは 壊れ得るものなのか。
そして、もし信仰が 壊れ得るものだとしたら、そんなものに すがりつく価値があるのだろうか。
もし信仰も壊れ得るのだとしたら、それはいったい どんな種類の信仰なのか。

だが、それは 壊れ得る。
そこに 疑いがあるからだ。
疑いがその中に すでに浸透していたからだ。


 これは毎日 起こっている。
信者が 不信者になる。
不信者が 信者になる。
彼らは 入れ替わる。

なぜ彼らは そんなにも簡単に改宗できるのだろう。
それは、もう一方が そこに隠されているからだ。

信念は 疑いを携えている。
あたかも愛が 憎しみを携え、生が死を携えているように、信念は 疑いを携えている。

では「信」とは何か。


 僧サンには「信」が何であるかについての 本当の理解がある。
「信」は、二元性が落ちて 初めて起こる。

それは疑いに対する信念ではない。

信念と疑いが ともに消えた時、何かが 起こる。
それが「信」それが信頼だ。
神に対する信頼ではない。
そこに、自分と神 という二元性はないからだ。

自分が信頼するのではない。
もはや自分は いない。
というのも、自分が いたら、他者が 入って来るのだから。

一切が空になり、信頼が花開く。
その空が 信頼の開花そのものになる。
仏教で言う シュラッダ、信、信頼という言葉は、信念という言葉が持つ意味とは非常に違った、絶対的に違う意味を担っている。

信ずる者も、信じられる者も ともにいない。
あらゆる二元性は 落ちた。
その時 人は信頼する。

他に 何ができよう。
疑うことはできない。
信ずることはできない。

そうなれば、何ができよう。
人は ただ信頼し、流れの中に 流れて行く。

人は〈生〉とともに動き、〈生〉とともに休む。


 もし、〈生〉が 誕生をもたらすなら、誕生を信頼する。
自ら渇望することはない。

もし、〈生〉が 死をもたらすなら、死を信頼する。
これは よくないなどとは言わない。

もし、〈生〉が 花をもたらすなら、それで よし。
もし、〈生〉が 棘をもたらすなら、それで よし。

もし、〈生〉が 与えるなら、それでよし。
もし、〈生〉が 奪うなら、それでよし。


 これが 信頼だ。
自分が 選ぶのではなく、何もかも一切を〈生〉に委ねることだ。

望まず要求せず、〈生〉が導く所 どこへでも ただ動く。

なぜなら、要求した瞬間、今度は その反対の結果になることを知っているからだ。

だから永遠の生命を求めはしない。
自分が永遠の死を得ることになるのを知っているからだ。


 世界中で 永遠の生命のために祈るのは、キリスト教徒しかいないことを知っているかね。
キリスト教徒だけが「主よ、我らに永遠の命を与えたまえ」と祈り、キリスト教徒だけが 永遠の地獄を持っている。

これは 逆でなければならないはずだ。
他のどんな宗教にも 永遠の地獄などない。
地獄は あるが、一時的なものだ。
そこに 数日あるいは数ヶ月、あるいは数年いれば、出してもらえる。

なぜなら どんな罰も 永遠ではあり得ないからだ。
どうして そんなことがあり得よう。


 あらゆる喜びが 束の間のものだ というのに、どうして罰が永遠であり得よう。称賛が束の間の ものだというのに、どうして罰が永遠であり得るか。
〈生〉の中で 何ひとつ永遠のものなど得ることがない というのに、どうして そのために永遠に罰を受けることなどあり得よう。
それでは 不公平だ。


 だが、キリスト教は 永遠の生命を求め、そのために祈る。
そうなれば、平衡を とらなければならなくなる---永遠の地獄だ。

ひとたび罪を犯し、地獄に投げ込まれたら、決して そこから出て来ることはできない。
いつまでも永久に そこにいなければならない。
それは そのはずだ。
自分が永遠の命を 要求したのだから。


 仏陀の信頼とは、どんなものを要求しようと 間違うことになるという事実の、深い理解のことだ。

それを理解しようとしてごらん。

繰り返して言おう。
何を欲しようとも、それは必ず間違う。


 これを理解すれば、欲望は消える。
欲望が 消えた時、そこに信頼がある。

信頼とは、自分の側からの どんな期待も、欲望も、要求もなしに、〈生〉とともに行くことだ。

求めることなく、不平を 言うことなく---何であれ起こることを 受け容れる。


 そして いいかね、これは自分がしていることではない。

もし自分が それをしていたら、そこには拒否がある。

もし あなたが、「はい、私は受け容れます」と言ったら、それは 拒絶しているのだ。

あなた が、自分は起こることは 何でもを受け容れるつもりだ、と 言ったら、その背後には深く秘められた拒絶がある。
本当は 受け容れていない。

受け容れているのは、ただ自分が 無力だと感じているからに過ぎない。
何ひとつ できることはない。
だとしたら どうしようがあるか、受け容れるより仕方がない、と。

だが その受容は その中に深い抑圧を、拒否を秘めている。
もし 拒絶が可能だったら、拒絶を選んでいたに違いない。

だが それなら、それは信頼ではない。


 ただ真実を---至る所に その反対の物が含まれている という真実を---見ることによって、信頼が起こる と僧サンは言う。

「私は受け容れる」と自分が言う というのではない。

仕方なしに受け容れる というのではない。
それが〈生〉の本質だ というに過ぎない---反対の物が含まれているという そのことが。

その事実を、真実を見ることが、人の内側深くに 信頼を起こす。

その事実を見ることによって、「信」が 起こる。


…(09) に続く

NEITHER THIS NOR THAT by OSHO,
「信心銘」
(訳者) スワミ-パリトーショ
(発行所) (財) 禅文化研究所