saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 01

Pp 268ー271
「あなたこそ〈道〉」
(質問)
バグワンーーー
御存知のように、古い禅の習わしとして、禅僧は自分自身 外に出て説法するようになるまでには 十年は その師の許にとどまらねばならないことになっています。
その十年を終えた一人の禅僧の話があるのですがーーーーーー或る雨の日のこと、その僧は 自分の師である南院(慧ぎょう)を訪ねました。
南院は、挨拶がすむと その僧に こう訊ねました。
玄関に はきものを脱いできたことには まちがいなかろうが、傘のどちら側に脱いできたかね?
一瞬の間 僧はためらいましたーーーーーーと、そのためらいを通じて彼は 自分が四六時中 禅の内にいなかったことに気がつきました。

あなたは〈生〉は脈動しているーーー吸い入れ、吐き出し、陰と陽とーーーと語られますが、私たちは 一瞬も欠かさず目覚めているように努めなければならないでしょうか?
それとも、〈生〉とともに脈打って、時にはその努力を解き放(レットゴー)しても かまわないのでしょうか?



まず第一に 理解しておかねばならぬことーーー
目覚めは 瞬間から瞬間へとつづかねばならない。
しかし それが在りうるのは
それが 努力なしで 可能になったときだけだ。

努力があったら あなたはそれとの接触を 何度も何度も失うことになる
努力があったら あなたは休息がほしくなる。


間断ない努力 ということはありえない、不可能だ。
絶えまなく努力することなど どうしてできよう?
あなたは疲れてしまって
リラックスしなければならなくなる。
どんな努力にも リラックスが必要だ。
したがって
もし目覚めていることが 努力をもってするものなら
そのときには その努力は
間断ない連続的な流れとはなりえない。
自覚心を失わなければならない瞬間がでてくる。


〈生〉は脈動するーーー
〈生〉は常に対極に向かって動く。
努力するーーーーーーと、そのあとは休まなければならない。
そしてまたふたたび努力する
そしてまた休息するのだーーーーーー
だが
〈生〉を超えたところにある目覚め
超越的なもの
それには脈動はない。
それには努力は いっさい無い
それは 臨機応変に自然発生する。


この南院の弟子、この禅僧には いったい何が起こったのだろう?
師は訊いた。
はきものは どこに置いたかね?
傘の 右側かね、左側かね?
弟子のほうは ためらった。
彼は、はきものを脱いだその瞬間 自分が自覚していなかったことに気がついた。
さもなければ、どこにはきものを置いたか、左側だったか右側だったか知っているはずだ

彼の意識には まだ連続性が なかった。
これは、彼の意識には まだ努力が要ることを示している。
彼は依然、意識的に努力しながら覚えていなければならないのだ。
その 心している状態には まだ緊張がある。
彼は まだ完全には心して目覚めていない。
ときには それに成功するが、ときには 失敗もするーーー


南院が訊ねていることはこれだ。
おまえの自覚心は 今では自然になったかね?
それを 操作する必要はなくなったかね?
それについて おまえがどうこうすることはないかな?

それは そこに在るーーー
そうなったかね? それとも
それを そこに在らしめるために おまえはまだ努力しなければならないかね?


もし努力しなければならないものならば、そこには緊張がある。
そして緊張があるものは当然ながら不自然だ。
不自然な目覚めは 本物の目覚めではない。
それは表面だけにとどまって、あなたの内側には無い。
それに もし内側に在るものなら、努力などする必要はもともとない。

私が伝えようとしていることは これだ。
努力とは 常に外面にあるもの。
努力を通して中心(センター)に 触れることはできない。
外面的なものごとに何かを為すことはできる。
ふるまいや態度を 変えることはできるし
いわゆる性格を変えることはできる。
外面的には、努力をもってしてできる。
悪い人間から善人になることもできるし
罪人から有徳の人となることもできる。
あなたは聖人になることさえできるだろう
外面的には、努力をもってしてーーー
しかし
努力をもってしては 中心(センター)には触れることはできない
そこまで浸透していくことはできない。
なぜなら どんな活動も “あなた” にまで導いていくことはないからだ。
“ あなた ” は すでに そこにいる!
何かを為す必要は まったくない。
あなたは ただ沈黙して、臨機応変であればいい。
そのときに中心(センター)が湧き出てくる。
それは 雲の中から出てくるのだ。
そこに裂け目が、すき間ができるのだ。
あなたは突然、自分の機に応じた自覚心に気がつく。
“ あなた自身が目覚めなのだ!”
それは あなたが為す 何かではない
それは 為されなければならない 何か ではない。
あなたの 本性そのものが 目覚め なのだーーー



マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 02 へ続く

マイ ウェイ「10日めの朝 (1974.5.19)」OSHO

P 292 抜粋ーーー

この話は 美しい。
西洋で 初めて禅が知られるようになったときには
人々は、禅師たちが あまりに馬鹿げたことを言ったり やったり、訊いたりするのが 信じられなかった。

そしてあなたの側から 質問する場合には、彼は “対応” する。
禅の導師(マスター)たちは けっして解答は与えない。
彼らは 対応する。



或る人が、もちろん哲学指向の求道者だが、睦州禅師のところにやって来て訊いた。

〈道〉とは 何でしょう?

と、睦州は近くの山を見て言ったという。
じつにきれいな山だねえーーー
ーーー馬鹿げている!

この人は、〈道〉とは何か? と訊ねているのに
睦州は、山はきれいだ!と 言っているのだーー

不満を抱いて その求道者は すぐさま離れて行った。

と、睦州は 大笑いをしたという。

弟子の一人が訊ねた。
師よ
あの男は あなたのことを 狂っていると思ったにちがいありません。

すると睦州は言った。
我々のどちらかは あきらかに狂っているさ。
あの男が狂っているかーーーーーー
ーーーなぜなら〈道〉は 問うことなどできない ものだ。
人は それを 旅しなければならない。
旅することによって〈道〉は 発見される。

それは既製品として できあがっているものではない。
だから私には それがどこにあるかは言えないーー

それは高速道路のように、既にできあがっていて
さあ、いらっしゃい と あなたを待っているものではない。
そんな〈道〉など あるものではない。
もしあったとしたら、皆 とうの昔に到っていたはずだ。
もし〈道〉が 既製品だったら
あらゆる人が 旅していたはずだ。

〈道〉は あなたが旅し 歩むことで創られる。
それは そこに在って あなたを待っているわけではない。
あなたが 一歩 進みはじめる瞬間 それは創られる。

それは あなたの内(ナカ)から出てくるもの
ちょうど蜘蛛の糸のように、あなたを通じて出てくる。
あなたが それを創るのだ
それから あなたは それを旅するーー
そしてそれを もっと創っていく。



憶えているがいい。
〈道〉は あなたとともに消えていく。
だからその上を旅できる者は ほかに誰もいない。
それは 借りることのできないもの。

だから この師(マスター)は 言ったのだ。
それは問うことなどできないーーと

愚かな人たちだけが そういった質問をする。
〈道〉とは何でしょう?
“あなた自身が”〈“道”〉“なのに”!

このとき弟子は言った。
それは解りますーーーーーーが
なぜあなたは 山のことなどもち出したのですか?

師は言った。
師は 山のことを語らねばならない。
なぜなら
山を越えて行かないかぎり〈道〉は 見つからないからだ。

山の彼方に〈道〉は在る

山は じつにきれいだ、美しい!
誰も それを越えたいとは思わない。
あまりにも魅惑的で、あまりにも催眠的だ。
誰も彼も 山の中で迷ってしまう。
ところが〈道〉は その彼方に在るのだ。



導師(マスター)は 対応するーー
彼は あなたがたが 真に必要としているものを当てる。
彼は あなたがたの問いなどに かかずらわない。

あなたがたの質問は 的を射ているかもしれないし、見当ちがいかもしれない。
“ あなた自身は常に見当ちがいだ ”!

彼は あなたの内部(ナカ)を見る。
彼は あなたを打つ!
しかし
知的な人々は かならずその種の答を取り逃がすーー




「マイウェイ⚪流れ行く白雲の道」
バグワンーシュリーラジニーシ

翻訳 = マーアナンドーナルタン
発行 = RPJ
発売 = 株式会社めるくまーる社

落ちるのは熟れた果実だけ------08

毎日のように起こっていることだが
或る人がサニヤスを受けに来るーーーーーーすると、その人の頭(マインド)が はたらき出してこんなことを言う。
オレンジ色を着ることは 私をもっとエゴイストにします。
自分は ちょっとちがっている、ちょっと特別だと感じてしまうだろうからです。
自分はサニヤシンだ、世俗を放棄した人間、だからオレンジ色を着るのだーーーーーー、こう考えることは私をますますエゴイスティックにするでしょう。

そこで私は言う。
そうなるがいい、エゴイスティックになりなさい!
しかし 意識しながらだーー
もし無意識のままだったら
もしあなたが それを無意識の層の中に隠すとしたら
自我(エゴ)とは 一種の病弊だ。

もしあなたが それについて 意識的であったら
自我(エゴ)は 一つのゲームになる。
あなたは それを楽しめる
あなたは それを遊べる。

意識的で在ることだ、心して在るがいい。
そしてこのゲームで 遊びなさい。
ゲームというのは 悪いことではない。
が、あなたが もし、それがゲームであることを 忘れて 深刻になったとしたら、そのときには問題が 起こってくる。

だから 私は
サニヤスとは 深刻なものではないと 言っているのだ。
それは 一つのゲームーーーもちろん宗教的なゲームだがね。

それには独自の ルールがある。
どんなゲームにも ルールがあるのと同じだ。
ルールなしでは どんなゲームも遊べはしない。

〈生〉は ルールなしで在りうるが
ゲームは ルールなしでは ありえない。
もし誰かが
私は このルールに従うつもりはない と言い出したら
そのゲームは もうできなくなる。

あなたがたは トランプをやるね
そしてそのルールにのっとって やるはずだ。
このルールは 任意なもの、人工的なものだ
なぜ変えてはいけない? などとはけっして言わない。

ルールを変えて いけないことはないが
変えたら そのゲームはむつかしくなる。
もしあらゆる人が それぞれ自分のルールに従ったら、そのときにはそのゲームをすることは不可能だ。

〈生〉は 可能だ!
〈生〉においては あなたは 好きなようにやればいい。
〈生〉は 絶対に ルールなど信じない。
それは ルールを超えている。
しかし ゲームに ルールはつきもの。
憶えていなさい。
ルールが見えたら それはゲームだ と すぐさま知るがいい。
ふむ?

これが 判断の基準だよ。
ルールが見えるところでは、すぐにも それはゲームだと知るがいい。
なぜならゲームはルールを通して 存在するものだからだ。

だからもし私が
オレンジ色を着て マラ(ロケット)をかけなさい、と言ったら、これは明らかに 一つのゲームだね。
できるかぎり 上手に遊ぶことだ。
そして、それに関して深刻にならないこと。
さもなければ 肝心な点を見落とすことになる。


エゴイストになりなさい。
完璧で、修養をつんだ、洗練されたエゴイストにーー
自分の自我(エゴ)に はたらきかけつづけるがいい。

そしてそれを 美しい “銅像” にしてしまうがいい。
ん?
なぜなら、神に返す前に、あなたがたは それを返すに価するものにしなければならないからだ。
贈りものにしなければならないからだーー




「落ちるのは熟れた果実だけ」ーーーーーー おわり

話者= バグワンーシュリーラジニーシ OSHO
訳者= マーアナンドーナルタン
発行者= スワミーアナンドーシャンタン
発行= RPJ
発売= 株式会社めるくまーる社

落ちるのは熟れた果実だけ------07

(…いわゆる聖人名士のところへ行ってみるがいい。
彼らは 謙虚さについて へりくだりについて 語る。
が、彼らの 眼の中を 見てごらん。
これほど洗練された自我(エゴ)は ほかには見られないことがわかるだろう。)

今や彼らの自我(エゴ)は、宗教やらヨーガ、高徳な境地やらのガウンをまとっているーーーーーー
が、自我(エゴ)は そこにある。

彼らは 富をかき集めてはいないかもしれない
しかし自分の信奉者をかき集めているーー
通貨が 変わっただけだ。
彼らは 信奉者が何人いるかをかぞえつづける。
彼らは この世間の俗事を追いかけはしないかもしれない
が、別の世界の物事を追いかける。

だが この世間であろうが あの世であろうが、両方とも世界であることに変わりない。
それに
彼らは 人並以上に貪欲であるかもしれないのだ。
なぜなら彼らは こう言うではないか。
これら一時的なもの、瞬間的なもの
この世は 瞬間的な快楽でできているとーーーーーー

そして彼らはといえば無限の快楽を求めているのだ。
彼らの貪欲さは この上ない。
彼らは 一時的な快楽では 満足できない。
彼らの欲しているのは 永遠の快楽だ。
永遠なものでないかぎり 彼らは満足しない。
その貪欲さは 根が深い
その貪欲さは 徹底している。

貪欲とは 自我(エゴ)に属するもの
自我(エゴ)の空腹感が貪欲だーー
だから ときには
聖人のほうが罪人よりも ずっとエゴイスティックだということが起こる。
そのときには賢人たちは 神性からほど遠いところに在る。
そして、ときには
罪人のほうが 聖人と呼ばれる人たちよりも ずっと楽々と〈神〉に達することができる。
なぜなら自我(エゴ)が障害になっているからだ。

私自身 経験したことだが
罪人たちは 聖人たちよりずっと簡単に自我(エゴ)を落とすことができる。
というのも 罪人たちは けっして自我に反対しないからだ。

彼らは それに餌をやってきた
彼らは それを楽しんできた
彼らは それを十全に生きてきた。

ところが 聖人たちは常に自我(エゴ)と 闘ってきて
それが 熟すのをけっして ゆるそうとしなかった!


したがって 私の姿勢はこれだーー
自我(エゴ)は もちろん 落とさなければならないーーーーーーが
それには 長い時間がかかるかもしれない。

そして それを落とすことができるのは

あなたが それを育成したときだけだ。

これこそ、この現象全体の中で 骨の折れることなのだ。

なぜなら 頭(マインド)が こんなことを言うからだ。
落とさなければならないものなら なぜ養う?
落とさなければならないものなら なぜ創る?

もし頭の言うことに 耳を傾けたら
あなたは 面倒にまきこまれる。

頭は常に 論理的だが
〈生〉は常に 非論理的だ。
この二つは けっして出会うことがないーー

これは単純な論理だね、ふつうの算数だ。

いずれ壊すことになる家なら なぜ建てる?
どうして そんな面倒なことする?
なぜ そんなに努力して 時間とエネルギーを浪費する?
家は まだそこには無い!
それなのに なぜ建ててまた それから壊すのだ?

家自体は 実は要点ではない。
肝心なのは “ あなた ” なのだーー

家を建てることで “ あなた ” は変わる。
そして それから その家を壊すことで
“ あなた ” は 完全に 変わることだろう。

あなたは もう同じではありえない。

家の建設、その全体のプロセスーーーーーー
それが あなたにとって成長であることが 判明するだろう。
そうなったら、その家が完成したときには あなたはそれを打ち壊す。
それは 一つの変革となる!


人間の思考(マインド)は 論理的だが、〈生〉は 弁証法的だ。
思考は 単純な線の上を動くーーーーーーが
〈生〉は 常に 一つの極から対極へと
一つのものから その正反対のものへと ジャンプする。
〈生〉は 弁証法的なものだ。
創造するーーーーーーと
〈生〉は 壊せ!と言う。
誕生するーーーーーーと
〈生〉は 死ね!と言う。
獲得するーーーーーーと
〈生〉は 失え!と言う。
豊かになるーーーーーーと
〈生〉は 貧しくなれ!と言う。

頂点(ピーク)となるがいい、自我(エゴ)の エヴェレストとなるがいい。
それから 深淵となるのだーー無我となるのだ!

そうなったら あなたは “両方” を知ることになる。
幻想と現実、マヤとブラーマをーーーーーー




落ちるのは熟れた果実だけーーー08へ つづく

落ちるのは熟れた果実だけ------06

(…自我(エゴ)は たしかに落ちる それはまた 自発的に落ちうるものだ。
もしあなたが それが成長することをゆるしさえしたら それが成長するのを助けさえしたら
そのときには それを “落とす” 必要は まったくない。
このことは きわめて深い奥行きがある。
なぜなら、もし “あなた” が 落とすとしたら
自我(エゴ)は 内側に とどまって残るからだ。)

いったい 誰が それを落とすのかね?
もし 自分が落とすのだ と考えているとしたら
その 自分 が エゴなのだよ!

あなたが落とすものが 何であれ それは本物ではない。
本物は保存されることになり
あなたは まったく別物を 投げ出したのだ。
あなたは “ 自分で 自分を無我にする ” ことはできない。
誰が そうするのかね?

それは 起こることだ、為すことではない!

あなたがたは 自我(エゴ)の中で 成長していくーーーーーーと
全体が あまりにも地獄沙汰であるがゆえに
夢は 破れるよりほかないような時点がやってくる。

突然、あなたは ガチョウが外に出ているのを 見る!
それは 壺の中に入ったことは なかったのだ!


あなたは 自我(エゴ)であったことなどなかったのだーー
それは あなたを取り巻いていた 夢だった。
その夢は 必要だった、 と 私は言いたい。
私は それを咎めはしない。
成長のために必要な 一部なのだからーーーーーー


〈生〉にあっては、あらゆるものが 必要なものだ。
不必要なものなど何ひとつないし、不必要なものなどありえない。

どんなことが 起こるにせよ
それは 起こるべくして起こったこと
今 何が起こっているにせよ
それは 或る深い原因から起こっている。

あなたがたには それが必要なのだ、誤謬の中に ずっととどまっていられるようにーーーーーー
それは、あなたがたを助ける “まゆ” にすぎない。
あなたがたを保護し、生き延びるのを 助ける “まゆ” ーーーーーー
しかし
永遠に “まゆ” の中に入っている必要はない。
用意ができたら、“まゆ” を破って出てくることだ!

自我(エゴ)とは 卵の殻(カラ)、それはあなたを 保護する。
だが あなたに用意ができたときには
殻を破って 卵の中から出てきなさい。
エゴ(自我)とは その殻のことーー

待つことだ。
急いでも 大して役には立たない。
性急さは 助けにならない。
かえって 邪魔になるかもしれない。

時間をかけなさい。
そして それを咎めないことだ。
なぜなら いったい 誰が咎めることになるね?


いわゆる聖人名士のところへ行ってみるがいい。
彼らは 謙虚さについて へりくだりについて 語る。
が、彼らの 眼の中を 見てごらん。
これほど洗練された自我(エゴ)は ほかには見られないことがわかるだろう。



落ちるのは熟れた果実だけーーー07 へ つづく

落ちるのは熟れた果実だけ------05

(…ものにはすべて、成長のため成熟のための 大地に落ちて 溶け消えゆくための時がある。
自我(エゴ)にも自分の時がある。
それは成熟することが必要だ。)


だから エゴイストであることを 怖れることはない。
あなたは すでにそうなのだからーー!

そうでなかったら、あなたはもう とうの昔に 消えていたことだろう。
存在できなかったはずだーーーーーー
それが〈生〉の仕組み(メカニズム)だ。 つまり
あなたは エゴイストで あらねばならない
あなたは 自分の道を 闘い取らねばならない
あなたは 自分のまわりの 限りない欲望の数々と 闘わなければならない
あなたは 奮闘しーーーーーー、そして
生き延びていかねばならないーー



自我(エゴ)とは 生存のための手段
もし自我(エゴ)を もたずして生まれてくる子供がいたら
彼(彼女)は 死んでしまうだろう。
生き延びることはできない。
不可能だ。
というのも、たとえ空腹を感じても
“ 自分は空腹だ ” とは 感じないからだ。
空腹感がある とは感じても、それを自分自身とは関連づけないからだ。


空腹を感じる瞬間
子供は、 “自分” は お腹を空かせている と感じる。
そして泣きだしたりして 食べさせてもらおうと努力する。
子供は 自分の自我(エゴ)の成長を通じて成長する!

したがって 私にとっては
自我(エゴ)とは 自然の成長の一部である。
しかし
それは、あなたがたが永遠に それとともにあらなければならない という意味ではない。

それは一つの 自然な成長だーー、ということは
それが落ちなければならなくなるような 二番めの段階がある ということだ。

それもまた 自然なこと。

だが 二番めの段階には、一番めが その絶頂に、クライマックスに達したとき、 一番めが その頂点に到ったときに はじめて進むことができる。


したがって 私は 両方を教える。
私は “自我” を教え “無我” を教える。


まず エゴイストになりなさい。
完璧な エゴイストに
絶対無比な エゴイストになるがいい。
あたかも
〈実在〉全体が あなたのためにあるかのように
あなたが その中心であるかのように
夜空の星すべてが あなたのまわりを めぐるかのように
太陽は あなたのために昇るかのように
あらゆるものが あなたのために存在するかのようにーー
すべて あなたがここに在るための手伝いをしているのだ。

中心であるがいい、怖れてはならない。
怖れたら、そのときには 絶対 熟さなくなるからだ。
受け容れなさい!
それも 成長の一部。
そして それを楽しむがいい
頂点(ピーク)にまで もっていくがいい。
頂点にまで至ると
突然 あなたは 自分が中心ではないことに気づくーー
これは誤信だった
これは 子供っぽい捉え方だったとーーーーーー
しかし、あなたは実際 子供だったのだ、だから別に そのことにおかしな点はない。

今では あなたは成熟した
今ではあなたは自分が中心ではないことがわかる。
ほんとうに
自分が中心でないことが わかるときには
あなたは〈実在〉には中心(センター)など無いことも また知る
いや、あらゆるものが その中心であると 知るーー
〈実在〉には 中心など まったく無く、一つの全一性(トータリティ)として存在している、コントロールセンター的な中心など いっさい無い〈全体〉として存在しているーーーーーーか
あるいは、原子(アトム) 一つ一つが中心として在るーーーーーーか
その どちらかだ。



ヤコブベーメ(ドイツの神秘家)は こう言っている。
世界全体は中心でいっぱいだ、原子(アトム)の 一つ一つが中心になっていて、周囲というものなど存在しない。
あらゆるところが中心で、周囲というのはどこにもない。


この二つが 可能性だ。
両方とも 同じ意味のこと。
言葉づかいが 異なっていて矛盾しているだけだ。
しかし
まず 一つの中心になりなさい。
これは ちょうどこんな感じのことだーー
あなたは 夢を見ているーーーーーー
頂点(ピーク)にまでくると その夢は破られる。
それは いつもそうだ。

夢がクライマックスに至ると かならず破られる。

では夢のクライマックスとは 何だろう?

夢のクライマックスとは、これは現実だ という感覚だ。
あなたは、これは現実(リアル)だ、夢ではないと感じ
そのまま どんどんどんどん進行して 頂点にまで至る。
と、その夢は “ほとんど” 現実と同じになる。

実際 現実になるわけではない、“ほとんど” 同じなのだ。
それは、もうこれ以上は行けない というまで現実(リアリティ)に 近づいてくる。
もう一歩で その夢は現実になる という点ーーーーーー
が、それは 現実には なりえない
それは あくまで夢なのだ!
しかし それが そこまで現実に近づくと
眠りは破られ、夢は 粉々になるーー
あなたは すっかり 目を覚ます。


同じことが あらゆるタイプの誤謬に関して起こる。
自我(エゴ) というのは 最大の夢だ。
それにはそれの美しさがあり、苦悶が ある。
それにはそれの陶酔(エクスタシィ)があり、苦悶がある。

それにはそれの天国と地獄があるーーーーーー
両方とも そこに在る。

夢は ときには美しく、ときには悪夢となる。
だが 両方とも 夢なのだーー

だから私は、あなたがたに
その時が来ないのに 夢から出てこいとは言わないよ。
いや、その時が来る以前には けっして何もしないがいい。
ものごとを成長させなさい。
ものごとが 自身のその時を持つのをゆるしなさい。
すべてが 自然に起こっていくようにーーーーーー

自我(エゴ)は たしかに落ちる
それはまた 自発的に落ちうるものだ。
もしあなたが それが成長することをゆるしさえしたら
それが成長するのを助けさえしたら
そのときには それを “落とす” 必要は まったくない。


このことは きわめて深い奥行きがある。
なぜなら、もし “あなた” が 落とすとしたら
自我(エゴ)は 内側に とどまって残るからだ。



落ちるのは熟れた果実だけ ーーー 06へ つづく

落ちるのは熟れた果実だけ------04

(…謙虚な人々は たくさんいるかもしれないが、
彼らの その へりくだりの下には 微妙な自我(エゴ)がはたらいている。)


伝えられるところによれば、或るとき
ディオゲネスソクラテスを訪れたという。

ディオゲネスは乞食のように暮らしていた。
いつも穴だらけ、つぎはぎだらけの汚い衣を 身にまとっていた。
たとえ誰かが 新しい衣を贈ったとしても、彼は それをそのまま着ようとはしない。
まず汚したり裂いたり古ぼけさせたりして、それからはじめて袖を通そうというのだ。

彼は ソクラテスに会いに来て、無我について話しはじめた------が
ソクラテスの鋭い眼は、この男が 無我の人ではないことを見通したにちがいない。
彼が 謙虚さについて話している その話し方は
非常に エゴイスティックだった。

ソクラテスは このように言ったという--
あなたのその汚れた衣を通して 私に見えるものは
衣の その穴を通して 私に見えるものは
自我(エゴ)以外の何ものでもない。
あなたは謙虚さについて語る------が
その言辞は 深いところにある自我(エゴ)の核からきている--



これは よく起こることだ。
ん? 偽善とは このようにして起こる。
あなたがたには自我(エゴ)がある。
が、あなたがたは 正反対のもので それを隠す。
あなたがたは 表面で謙虚になる。
この表面的な へりくだりは誰もだませない。
それはあなた自身を だましはするかもしれない。
だが ほかの誰をも だますことはできない。
汚れた穴のあいだから
あなたの自我(エゴ)が のぞいている------
それは 常にそこにいる。


これは自己欺瞞、それだけのこと。
ほかの誰も これによって だまされることはない。
これは、もし熟していない自我(エゴ)を 投げ出そうとしたら起こってくることだ。


私が教えること、私の教えは 矛盾して見えるだろう。
だがこれは〈生〉の上では真実なのだ。
矛盾は生命に固有のもの
だから私は あなたがたに、エゴイストであれと 教える。
そうであることによって
あなたがたが無我になれるように

私はあなたがたに、完全なエゴイストであれ と教える。
自我(エゴ)を 隠してはならないよ!
隠したら 偽善が生まれてくる。

それに、熟していない現象を相手に 奮闘してはならない。
まず それを熟させなさい
熟すのを 助けなさい。
それを 頂点(ピーク)にまで もっていくがいい!
怖れることはない、怖れることなど何もない。

これこそあなたがたが 自我(エゴ)のもたらす苦悶に目覚めるようになる方法だ。
それが頂点(ピーク)に達するときには
そのときには あなたがたは、自我(エゴ)とは地獄だと教える覚者(ブッダ)も私も 要らなくなるだろう。
あなたがたは 自分で それを知る--!

なぜなら 自我(エゴ)の頂点は、あなたがたの 地獄のような経験の頂点となるからだ。
それは悪夢となるーーーーーー

そしてそのときには あなたがたは、それを教えてもらう必要はなくなっている。

ただ 落とすだけ!

それを持ち歩くことは むつかしいことになるだろう。



人は
苦しみを通してのみ “知識” に 到達することができる。
論理的な議論だけでは 何ひとつ棄てられはしない。

何かを棄てることができるのは、あまりにも苦痛が大きくて もう持って歩くことが できなくなったときだけだ。

あなたがたの自我(エゴ)は
まだその痛みにまで到ったことがない。
だから あなたがたは 依然持ち歩くーー
が、それは ごく自然なこと!

私はあなたがたに それを落とせとは 説得できない。
たとえ説得されたように感じても
あなたがたはそれを隠すだろうーーそれだけのことだ。


熟していないものは
どんなものでも投げ出すことはできない。
熟していない果実は 樹にしがみつく。
そして 樹もまたその熟していない果実に執着する。

もし 無理やり この二つを分かとうとしたら
傷があとに残るだろう。
その傷あとは ずっと残るーー
その傷は 常に青い果実のままで残り
あなたは 常に痛みを感じることだろう。



憶えておきなさい。
ものには すべて、成長のため 成熟のための
大地に落ちて 溶け消えゆくための 時がある。
自我(エゴ)にも 自分の時がある。
それは 成熟することが必要だ。




落ちるのは熟れた果実だけ ーーー 05へ つづく