saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「空の哲学」by OSHO (市民出版社)

3️⃣ Pp 273 〜 278

(…だから、瞑想しているときでも結果のほうを見ている。そして何が起ころうと、それに不満足だ。)


こんなことを言いに来る人々がいる、
「たしかに瞑想は成長しています。 進んでいます。
だんだん幸せに感じるようになり、また少しばかり静寂に、平安になりました。
でも、ほかに何も起こりません」。

いったい「ほかに何も」とは何か。
こうした人間は、後日 必ずやって来て、きっと こう言うだろう、
「たしかに私は、ニルヴァーナを感じます。
でも、ほかに何も起こりません。
私は 至福でいっぱいです。
でも、ほかに何も起こりません」。

「ほかに何も」とは何か。
こうした人間が 求めているのは、何らかの利益だ。
はっきり 目に見える利益を手に入れないかぎり------銀行に預けるようなものを手に入れないかぎり、満足しない。

静寂や幸福は、曖昧模糊としたものだから、所有するわけにはいかないし、他人に見せるわけにもいかない。


これは 毎日のことだ。
人々は 私のもとに来て、
「たしかに瞑想は進んでいます」と言う。
ところが その顔は 悲しげだ。
つまり 彼らは 何かを期待している。
商売(ビジネス)の中でさえ 期待できないようなものを 、瞑想の中で期待している。

ビジネス-マインドが 瞑想の中に入ってくるーーー相当に訓練されたものだーーー「さて、いったい何の利益が得られるか」と。
そこには 遊びがない。


遊びに満ちていないかぎり、瞑想的には なれない。
要は もっともっと遊ぶことだ。
もっと遊びに 時間を費やしてみる。
子供と 遊ぶのもいい。
誰も いなくても、部屋の中で 跳ねたり踊ったりして、遊び、 楽しむ。

ところが あなたの心は 絶えず言いたてる、
「いったい何をやっているんだ。
時間の無駄だ。
そんな時間があったら、何か 稼げるじゃないか。
何かできるじゃないか。
それなのに、跳ねたり、歌ったり、踊ったりしている。
いったい 何をやっているんだ。
気でも狂ったか」


だから、何とか時間を見つけ、ビジネスから抜け出して 遊んでごらん。
なんでもいい。
絵を描いてもいいし、シタールを弾いてもいいし、何でもいい。
でも 遊びでやってみる。

何の利益も、何の未来もなく、ただ 現在に居る。
すると、やがて 内側でも遊べるようになる。
自分の思考の上に乗って、それと 遊べるようになるーーー思考を あっちに投げ、 こっちに投げ、一緒に踊ったりする。
ただし、そのことで 深刻になってはいけない。


人間には 二種類ある。
ひとつは、自分の心(マインド)に関して 無意識な人間だ。
その種の人間は、心に 何が起ころうとも、それについて 無意識だ。
心の中に漂うばかりで、自分が どこに連れていかれるかを知らない。


心の道筋に気づけば、あなたは きっと奇妙に思うだろう。
心は 連想によって動く。

たとえば、通りで 犬が吠える。
その吠える声が あなたの心に届き、そして 事が始まる。

この吠え声が きっかけで、ときには 世界の果てまで連れていかれる。
たとえば、犬を持っている友人のことを思い出す。
すると 犬のことは忘れ去り、その友人が 心に現れる、そして、友人には妻がいて、その妻は 美人だ------こうして移っていく。
そして世界の果てまで達しながら、決してそれが「犬の仕業」だったとは思い出さない------決して「たんなる吠え声が 自分をレールの上に乗せ、そして 自分は動き出した」とは 思い出さない。


みなは きっと首を傾げるだろうが、科学者は 次のように言う。
このレールは 各個人の心の中に固定されている。
もし同じ状況下で 同じ犬が吠えたら、その人間は 同じレール上を進むーーー友人、犬、その妻 、美人妻------それを 再び繰り返す。


現在、電極を使って、人間の 脳のいろいろな実験が行われている。

たとえば、脳の ある一点に触れると、特定の記憶が出現する。
突如、五歳の自分が現れ、庭で遊び、蝶を追いかけている。
そして それに関連した全体が現れるーーー気持ちがいい、すべては快適だ、空気も、庭も、匂いもーーーこうした すべてが、よみがえってくる。
それは たんなる記憶ではない。あなたは それを再び生きる。
そして 電極が引き抜かれると、その記憶は 停止する。

そして再び その一点に 電極が触れると、同じ記憶が 再開するーーー五歳の自分、同じ庭、同じ蝶、同じ匂い、一連の 同じ出来事だ。


電極が 引き抜かれると、その 記憶は消え去り、また電極が当てられると、その記憶は 現れる。
まさに機械的に 記憶しているかのようだ。
いつも 同じところから始まり、同じところで終わる。
何度 行っても同じだ。
ちょうど テープレコーダーに録音してあるようなものだ。
人間の脳には 何百万もの記憶がある。
何百万もの細胞が記録をしている。
そして それは、みな機械的なものだ。


人間の脳に対する こうした実験は、きわめて奇妙で、また きわめて示唆に富んでいる。
脳に蓄えられた記憶は、何度も何度も再生可能だ。
ある実験者は 三百回 試しているが、そのつど同じ記憶が現れる。
つまり 記録されているわけだ。
そして 何度も何度も実験していると、被験者のほうは、非常な とまどいを感じる。

なぜなら 自分が主体ではないからだ------自分では どうしようもない。
電極が その場所に触れると、その記憶が始まり、自分は それを見せられる。

この 三百回の間に、彼は だんだん観照者になっていった。
その記憶を見ているうちに、自分と その記憶は別物だと気づくようになった。
この実験は、瞑想者にとって、きわめて有用なものとなるだろう。
「マインドとは、自分を取り巻く機械的記録だ」と 気づくとき、もはや 自分とマインドは 分離している。


このマインドは 触れることもできる。
科学者たちは、そのうち 人間に苦悩を与える中枢を切断できるようになるだろうと言う。
これもまた同じことだ。
触れれば すべてが再生される。


私は今まで、たくさんの弟子たちを相手に いろいろな実験をしてきた。
ある特定のことをすると、彼らは 同じことを繰り返すーーー何度も何度も。
それが機械的だと 自分で気づかないかぎり。

たとえば、妻に向かって 毎週 同じことを言ってみる。
きっと妻は 反応するだろう。
七日たって、妻が忘れたころ、また同じことを言う。
彼女は 反応する。
それを 記録しておく。
その反応は 同じはずだ。

自分も知っているし、妻も知っている------パターンは固定化し、それが続いていく。
犬が吠えても パターンは始まるーーー何かが刺激される。
電極と同じだ。
そして 旅が始まる。


生活の中で 遊べれば、心の内側でも 遊べる。
そうすればもう、テレビの画面上で 何かを見ているようなものだ。
自分は 関わっていない。
ただの見物人だ。
傍観者だ。

それを見て、楽しめばいい。

良いとか 悪いとか言わない。

誉めたり 貶したりしない。

そんなことをしたら深刻になってしまう。

裸の女が画面に現れても、「これは悪い」とか「どこかの悪魔が 悪戯をしている」などと言わない。
別に 悪魔が悪戯をしているわけではない。
映画のスクリーンだと思って 見ていればいい。

そして 遊び心を持つ。

その御婦人に言うのだ、「どうぞ ご自由に」。
追い出そうとしてはいけない。
追い出そうと すればするほど 現れてくる。
御婦人方は 難しいものだ。
また 追いかけてもいけない。
追いかけたら 面倒なことになる。

追いかけてもいけないし、闘ってもいけない。
これが 規則だ。
ただ見て 遊ぶ。

快活に「やあ」とか「おはよう」とか 声をかけ、見ていればいい。
手出しは無用だ。
その御婦人の 好きにまかせる。
そうすれば 自分で去っていく。
現れたときと 同じように、自分から 去っていく。
彼女は あなたと関係ない。

記憶の中にある物だ。
それが 何かの状況に刺激され、そこに現れた というだけだ。ただの 絵だ。
遊んでいればいい。

もしマインドと 遊べたら、マインドは すぐにも落ちる。

マインドが存在できるのは、あなたが深刻なときだけだ。

深刻さこそが、その連結環、その橋だ。


“優美な者よ、遊べ。
宇宙は 空っぽの貝殻、
その中で あなたの心は 無限に戯れる。”



タントラ秘法の書 第10巻
「空(くう)の哲学」
講話 / OSHO
翻訳 / スワミ-アドバイト-パルヴァ (田中ぱるば)
発行者 / マ-ギャン-パトラ
発行所 市民出版社

「空の哲学」by OSHO (市民出版社)

2️⃣ Pp 270 〜 273


この第二の技法は言う、
“優美な者よ、遊べ。”
生を そっくり遊びとする。
“宇宙は空っぽの貝殻、その中であなたの心は無限に戯れる。”
あなたの心は 無限に遊び続ける。

すべては、空っぽの 部屋の中の、夢のようなものだ。

瞑想中に 心を見つめるーーー心の戯れを。
ちょうどそれは、子供が 溢れんばかりのエネルギーで、遊んだり 飛び回ったりしているようなものだ。

いろいろな思考が 跳ねたり戯れたりしている。
ただの 遊びだ。
それについて 深刻になってはいけない。
たとえ 悪い思考が現れても、罪悪感を持ってはいけない。
また、良い思考が現れてもーーーたとえば、自分は人類に奉仕したい、そして全世界を変容させたい、そして 地上に天国をもたらしたい云々ーーーエゴを膨らませてはいけない------自分が偉くなったと思ってはいけない。

それもまた 心の戯れだ。

ときには 下降し、ときには 上昇する。
ただ、溢れるエネルギーが、いろいろな形態をとっているだけだ。
心は、まさに 溢れだす泉にほかならない。


遊び 戯れよと、シヴァは言う。

“優美な者よ、遊べ。”

遊ぶ者の姿勢は、活動を楽しむということだ。
活動それ自身に 価値がある。
そこに 功利的な動機はない。
あれこれ 算段していない。
たとえば 商人を見てごらん。
何をするにも、つねに利益を算段しているーーーそこから 何が得られるか 考えている。

客が ひとりやって来る。
でも 客は 人間ではない。
彼から どんな利益が得られるか------。
客は ただの手段だ。
どうやって利用するか------。
奥深くで 算段している。
どんなふうに語り、何をするか------。
相手を利用し、搾取するために すべてを計算する。

その関心は 相手の人間にない。
その関心は 取引そのものにない。
その関心は どこにもない。
その関心は、 ただ未来に、利益にあるのみだ。


東洋の村々では、いまだに、たとえ商人であっても、ただの利潤追求者ではない。
また、客も ただ物を買いにくるのではない。
互いに 楽しんでいる。
私は 祖父のことを思い出す。
祖父は 布屋だったが、私は 首を傾げた。
家中が 首を傾げた。
なぜなら、じつに楽しげだったからだ。

何時間も 客と 掛合いをしている。
ときには、実質 10ルピーほどのものを、50ルピーと言ったりする。
それが無茶なことは 自分でも知っている。
客のほうも 知っている------だいたい10ルピーくらいのものだろうーーー。
そこで客は 2ルピーから始める。
それから いつまでも値段の交渉をしている。
何時間もだ。

私の父や 叔父たちは腹を立てて言う、
「いったい何をやっているんだろう、始めから値段を言えばいいのに」


でも 祖父には顧客がいた。
顧客たちは 店にやって来ると言う、
「お祖父さんは どこにいる。
お祖父さんが相手だと、ゲームになる、遊びになる。
1ルピーや 2ルピー 得しようが損しょうが、そんなことはどうでもいい」


互いに それを楽しんでいた。
その行為そのものが、追求するに値していた。
ふたりの人間が、それを通じて 触れ合っている。
ふたりの人間が ゲームをしている。
互いに それがゲームだと知っている。
定価というものがない。


西洋では今、定価が付けられている。
それは 人々が計算高く、利潤指向になっているからだ。
時間の無駄だというわけだ。
そんなものは 瞬時にかたづく。
手間隙かける必要はない。
正確な値段を書いておけばいい。
どうして 何時間も争う必要がある。

ところが、そうするとゲームは失われ、すべては事務的になる。
機械にだってできる。
商人も いらないし、客もいらない。


こんな話がある。
ひどく多忙な 精神分析家がいた。
あまり 患者が多いので、ひとりひとりに接している暇がない。
そこで彼は、それぞれの患者向けに テープを吹き込んだ。
そのテープが 患者に向かって、必要なことを語る。


彼には 大金持ちの患者がいて、定期的に 彼の診察を受けていた。
あるとき、彼が ホテルに入っていくと、驚いたことにロビーに その患者が座っている。
そこで 彼は言った、
「いったい ここで何をやってるんです。
診察時間じゃありませんか」。
患者は言った、
「私も忙しいもんだから、テープに踏み込んでおきました。
テープレコーダーが 二台で語り合っていますよ。
あなたの言うことはみな、私のテープレコーダーが録音しているし、私の言うことはみな、あなたのテープレコーダーが録音している。
そうすれば 時間が節約できる。
それで ふたりとも自由だ」


あまり 計算ばかりしていると、人間は 消え失せ、どんどん機械的になっていく。

インドの村々では 今もなお、値段交渉が続いている。
それは ひとつのゲームであり、楽しむに値するものだ。

それは 遊びだ。
ふたつの知性どうしの 掛け合いであり、ふたりの人間の 深い触れ合いだ。

それは 効率を求めるようなものではない。
ゲームは、 決して 効率を求めはしない。
ゲームの中では、あなたは 時間を気にかけない。

そして 何が起ころうとも、起こることを その瞬間に楽しむ。

遊び心は、瞑想の いちばん基本的な事柄のひとつだと。

ところが 私たちは事務的だ。
そのように 訓練されてきた。

だから、瞑想しているときでも 結果のほうを見ている。

そして何が 起ころうと、それに不満足だ。



3️⃣に 続く

「空の哲学」by OSHO (市民出版社)

1️⃣ 第七章 (第二の技法) 活動の中で遊ぶ
Pp 266 〜 270

“優美な者よ、遊べ。
宇宙は空っぽの貝殻、
その中であなたの心は無限に戯れる。”


この技法は、「遊び」の次元に基礎を置いている。
次の点を 理解するように。

非活動的であるときには、もちろん 深い空(くう)の中に入るのがいいーーー内なる深淵の中に入るのがいい。
でも、一日じゅう 空虚であるわけにはいかないし、一日じゅう 受動的であるわけにはいかない。

きっと 何かをする必要がでてくる。
活動は、基本的に必要だ。
さもないと 生きていられない。
生は 活動を意味する。
だから 一日のうち、数時間は 非活動でいられても、残りの時間は どうしても活動的になる。

瞑想とは、生き方そのものと なるべきものであり、断片と なるべきではない。
さもないと 獲得と喪失を 繰り返すだけだ。


一時間のあいだ 非活動的であれば、二十三時間は 活動的になる。
すると 活動的な力のほうが 大きくなるから、非活動の中で 獲得されたものは、みな破壊されてしまう。

活動的な力が それを破壊する。
翌日になっても 同じことだ。
二十三時間にわたって 行為者を蓄積し、一時間 それを捨て去る------それは難しい。

だから、仕事や活動についても その姿勢を変えることだ。
そこで この第二の技法がある。


要は、仕事を 仕事ではなく、遊びとみなすことだ。
仕事を 遊びとみなす。

ただの ゲームとみなし、深刻にならない。
ちょうど 子供が遊ぶように、意味もなく、達成すべきものもなく、その活動 そのものを楽しむ。

少し 遊んでみれば、その違いが 感じられるだろう。
働いているとき、あなたは深刻で、重荷を担い、責任を持ち、あれこれ心配している。
結果を追い求め、仕事それ自体は 楽しみに値しないーーー大事なのは、未来や結果だ。


遊びには 結果がない。
その過程が 至福に満ちている。
心配することもないし、深刻なものでもない。
たとえ 深刻に見えたとしても、見せかけだ。
遊びは 過程を楽しむ。

仕事は 過程を 楽しむものではなく、何よりも 結果だ。
その 結果を達成するために、とにかく過程を我慢することになる。
もし、過程となる 活動なしに結果に到達できるなら、きっとあなたは 活動を省いて 結果へ一飛びするだろう。


遊びの場合は そうではない。
遊びなしで 結果に到達できたとしたら、その結果は 意味がない。
結果が意味を持つのは、過程があるからこそだ。

たとえば、サッカーチーム同士が グランドにいたとする。
その勝ち負けを、コインを投げて 決めたらどうか。
どうして わざわざ苦労する必要があるーーーへとへとになってまで------。
コインを投げれば、まったく簡単に 決まるではないか。
その場で わかる。
一方が 勝ちで、他方が 負けだ。
なぜ がんばる必要がある。

でも、そうすると 意味がなくなってしまう。
結果には 意味がない。 過程こそが 大事だ。

たとえ勝ち負けが なかったとしても、その 試合に 意味がある。
その活動 そのものが 楽しまれる。


この 遊び という次元を、生の 全体に適用するのだ。
要は、何をしていようとも、その結果が どうでもよくなるくらい 全面的に、その 活動の中に入ることだ。

結果は 現れるかもしれない。
結果は 必ず現れる。
結果は きっと現れる。
でも、あなたの頭に それはない。
あなたの心に それはない。
ただ 遊ぶだけ、楽しむだけだ。


クリシュナが アルジュナに語る 言葉の意味も、そこにある、「未来は神の手に委ねよ------行動の結果は、神の手に委ねよ。 ただ行え」。

この、ただ行うことが 遊びとなる。

その点が、アルジュナには理解しがたい。
彼いわく、もしそれが ただの遊びだったら、なぜ 殺すのか、なぜ戦うのか (古代インドを二分した大戦争マハーバーラタに際し、 戦いをためらう大将アルジュナに対してクリシュナは戦いを勧める)

アルジュナの場合、仕事なら 理解できるが、遊びは理解できない。
ところが クリシュナにとっては、生が そっくり遊びだ。
これほど 深刻でない人間は どこにも見当たらない。
生涯が そっくり、ただの 遊び、ただのゲーム、ただの 芝居だ。

彼は すべてを楽しみ、そして それについて深刻にならない。
すべてを あくまでも楽しみ、結果については 心配しない。
何が どうなろうと、どうでもいい。


クリシュナを 理解するのは、アルジュナには難しい。
彼は あれこれ算段する。
結果から ものを考える。
ギータの冒頭で 彼はこう言う、
「これはまったく不条理だ。
私の友人や親戚が両陣営に分かれ、戦おうとしている。
どちらが勝とうと損失だ。
私の家族や、友人や、親戚が害を受ける。
たとえ私が勝ったところで、何の益があるだろう。
誰にその勝利を語るのか。
勝利に意味があるのは、友人や、親戚や、家族が喜ぶからだ。
ところが誰もいなくなってしまう。
その勝利のもとには死体がいっぱいだ。
誰がほめてくれるだろう。
誰が『アルジュナ、よくやった』と言ってくれるだろう。
だから、勝利しようと敗北しようと、どこに意味がある。
すべては不条理だ」。

彼は 俗世を去ろうとする。

まったく深刻だ。
あれこれ 算段する人間は、みな まったく深刻だ。


このギータの 状況設定は無類のものだ。
戦争とは、もっとも深刻な出来事だ。
遊びでは できない。
命に かかわるものだ。
何百万もの人々の 命にかかわる。
遊んでは いられない。

ところがクリシュナは、それにもかかわらず 遊べと言うーーー「結果がどうなるか考えずに、ひたすら 今ここに いなさい」と。
結末についての心配は無用だ。
結末は 神の手中にある。
いや、結末が 神の手中にあるかどうかは どうでもいいーーー大事なのは、それが 自分の手中にない ということだ。
あなたは それを背負っていない。
背負っていたら、その生は 瞑想的にならない。


2️⃣に続く

「覚醒の深みへ」by OSHO (市民出版社)3️⃣

Pp 44 〜

でも、これは社会にとって危険だ。
だからこそ、タントラは 抑圧された。
タントラは 危険だ!

何も不道徳ではなく、何も道徳的ではない。
何も純粋ではなく、何も不純ではない。
物事は あるがままだ。

真のタントラ行者は「泥棒は 悪い」とは言わない。
ただ こう言う、「この人間は 泥棒だ」------それがすべてだ。


そして「泥棒」という言葉を使っても、彼の 心の中には、それに対する 非難がない。
この「泥棒」とは たんなる事実だ。
非難ではない。

もし誰かが「この人は 偉大な聖者だ」と 言ったとしても、彼は言うだろう「なるほど!彼は聖者だ」。

でも そこには 何の価値判断もない。

彼は「この人間は良い」とは 言わない。
その代わりに、「なるほど!彼は聖者であり、あの男は泥棒だ」と 言う。
それはちょうど、「これはバラで、あれはバラではない」、「この木は高く、あの木は低い」、「夜は暗く、昼は明るい」と 言うようなものだ。

何の 比較も ない。


しかし、それは危険だ。
社会 というものは、一方を非難し 他方を称賛することなしには 存在できない。
社会は存在できない!

社会は 二元性の上に存在する。
だからこそ タントラは抑圧されたのだ。
タントラは 反社会的だ と思われた。

でもそれは 違う! 絶対に!
この 非二元的態度は 超越的なものであり、反社会的ではない。

超越的であって、社会を超えている。


試してごらん。
価値判断をせず、ありのままの 事実とともに、世界に向かうのだ。

誰々は かくかくで、誰々は しかじかだ。

それによって あなたは少しずつ、内側に 非分割を 感じるようになる。
あなたの両極は 一緒になる。
あなたの「善」と「悪」は 一緒になる。
両者は溶け合って ひとつになる。

そしてあなたは ひとつの統一体となる。

もはや 純粋なもの、不純なものはない。
要は 真実を知ることだ。


他の教えの純粋は、我々にとって不純だ。

タントラは言う------「他の教えの根底にあるものは、我々にとって害毒だ」。

たとえば この世には 非暴力を基本とする教えがある。
それによると、暴力は悪で 非暴力は善だ。

でも タントラによれば、非暴力は 非暴力であり、暴力は 暴力だ。
何が良く、何が悪い ということはない。


また、性的禁欲 つまりブラフマチャリヤを基本とする教えがある。
それによると ブラフマチャリヤは良く、セックスは悪い。

でも タントラによると、セックスは セックスだ。
ブラフマチャリヤは ブラフマチャリヤだ。
禁欲者である人間もいれば、そうでない人間もいる。
それは たんなる事実だ。
タントラには どんな価値づけもない。
タントラは けっして「ブラフマチャリヤは良い。 禁欲は良い。
そしてセックスをする人間は悪い」とは言わない。
タントラは 事実を ありのままに受け容れる。
なぜか。
それは 内側に 統一を作り出すためだ。


この技法の 目指すところは、内側に統一を 作り出すこと------トータルで 非分割的で 無葛藤で 無対立な存在を 内側に作り出すことだ。

そうして初めて 沈黙は可能となる。

何かに敵対し、どこかへ向かおうとしている人間に、けっして 平安はありえない。
どうして平安が ありうるだろう。
自分自身の内側で分割され、自分自身と 闘っている人間に、どうして勝利が 得られるだろう。
それは 不可能だ。
自分は その両方だ、だとしたら 誰が勝つのか。
誰も 勝ちはしない。
損害を こうむるばかりだ。
無用な闘いの中で エネルギーを 浪費してしまう。


この技法は 自分自身の中に 統一を作り出すものだ。
要は 谷を 消え去らせることだ。
裁いてはいけない。


エスは どこかで言っている、「裁くことなかれ、さすれば裁かれることなからん」。

しかしこれは ユダヤ人にとって 理解不可能だった。
そもそも ユダヤ的な観念というのは、「これは良く、あれは悪い」といった 道徳指向のものだ。

「裁くことなかれ」という イエスの教えは、タントラ的な言葉だ。
もし彼が殺されたとしたら------磔にされたとしたら、それは このせいだ。
彼は タントラ的姿勢をとっていた ---「裁くことなかれ」


だから「娼婦は悪い」と 言ってはいけない
どうして そんなことがわかるだろう。

また「純潔な人間は良い」と 言ってはいけない
どうして そんなことがわかるだろう。
どちらも 究極的には ひとつのゲームの 一端だ。

どちらも 相手の存在に基礎を置いている。

エスの「裁くことなかれ」という言葉は、このスートラの意味するものと同じだ。
「裁くことなかれ、さすれば裁かれることなからん」


もし裁くことなく、どんな道徳的立場もとらず、ただ真実を ありのままに観察し、自分の解釈を 押しつけることがなかったら、もはや 裁かれることはない。

完全な変容が到来している。
もはや どんな神的な力にも 裁かれることはない。
その必要がない!
もう 自分自身が 神的存在だ。
もう 自分自身が 神だ。
要は、裁き手ではなく、観照者に なることだ。



タントラ秘法の書 第六巻
「覚醒の深みへ」by OSHO
第一章 タントラ的覚醒の技法
(第二の技法) 裁かない

翻訳 スワミ-アドヴァイト-パルヴァ (田中ぱるば)
発行者 マ-ギャン-パトラ
発行 株式会社 市民出版社

「覚醒の深みへ」by OSHO (市民出版社)2️⃣

Pp 41 〜 44

もし誰かが ここで煙草を喫い始めたら、意識的には何も感じなくとも、あなたは すでに非難している。
奥底で、すでに それを非難している。
あなたの目に 非難の色があってもなくても、その人間のことを 見ていなくても、すでに そのことを非難している。


この習慣は 非常に深い根を持っている、だからきっと難しいだろう。
あなたは いつも、身振りによって、座り方によって、立ち方によって、非難し、称賛している。

そして自分のやっていることを 意識さえしない。
あなたは 誰かに微笑みかけたり 微笑みかけなかったりする、あるいは、誰かを見たり 見なかったり、あるいは 無視したりする。

それは いったい何か、それは 自分の姿勢を強いることだ。
「何々は 美しい」と言うためには、何かを醜いと言って 非難することが必要だ。

そして この二元的姿勢は 同時に あなたを分割し、あなたの中には ふたりの人格が 存在するようになる。


もしあなたが「誰々は 怒っている。 怒りは良くない」と 言ったとしたら、自分が怒りを感じたときには、いったい どうする。
きっと「これは良くない」と言うだろう。
すると 問題が生じる。

「これは良くない、 私の中の怒りは悪い」と言うことは、自分自身を 内側で ふたりの人格に分割することになる ---つまり「悪い人間、 邪悪な人間」と「良い人間、 聖者」だ。


もちろん、あなたは必ず 内側の聖者に同化し、そして内側の悪魔や サタンや鬼を非難する。
あなたは ふたつに分割される。
そこには 不断の闘いが、葛藤がある。

もはやあなたは 一個人ではなく、群衆だ------内部で対立抗争する 一軒の家だ。
もはや そこに平安はない、静寂はない。

あなたの感じるものは、緊張と苦悩だけだ。
これこそが あなたの感じているものだ。
でもあなたには その理由がわからない。


分割された人間は 平安でありえない。
どうして平安でありえよう。
自分の悪魔は どうする。
あなたは それを破壊したいのだが、それは自分だ。
だから 破壊するわけにはいかない。

あなたは ふたつではない。
〈存在〉は ひとつだ。
でも自らの 分割的な姿勢のせいで、あなたは 外側の存在を 分割している。
その瞬間、内側もまた それに従って分割される。
誰もが 自分自身と 闘っている。

それはまるで 一方の手と闘っているようなものだ------左手で 右手と闘っているようなものだ。
でも そのエネルギーは ひとつだ。
私は 左右両手の中にいる。
私は その両方の中に流れている。
でも私は、
その両方を 敵対させる------右手と左手を敵対させ 闘争を創り出す ---偽りの戦いを。

そして ときどき自分自身をだまして、「右手が勝ち、 左手が敗けた」と 言う。
でもそれは 欺瞞だ、なぜなら私は 知っている ---その両方の 手の中にいるのは 私であり、いつでも私は 左手を勝たせ 右手を負かすことができる。
私 は その両方の中にいる。
手は 両方とも 私のものだ。


いかにあなたが、「自分は聖者を讃え、 悪魔を踏みつぶす」と 思っていても、いつそれを ひっくり返して聖者を下にし 悪魔を上にするかもしれない。
それによって 恐怖や 不安が生まれる。
あなたにとっては、何も確実ではない。

たとえば 今このとき、あなたは とても愛情深くて、内側の憎しみに打ち勝っているとする。
でも いつ何時、憎しみが頭をもたげ 愛を打ち負かすかわからない。
あなたは それが恐い。
それは いつ起こるかわからない。
なぜなら あなたは その両方の中にいるからだ。


タントラいわく、分割するな、非分割であれ。
そうして初めて 勝利は近い。

どうやって 非分割を保つか。
それは、非難しないことだ。
「これは良い、 あれは悪い」などと 言わない。


純不純の概念を すべて引っ込める。
何も言わずに 世界を見る。
無知になる ---あまり賢くならない。
レッテルを 貼らない。
ただ沈黙し、非難も称賛も しない。

もし世界について 沈黙していられたら、少しずつ その沈黙は 内側を貫くようになる。
もし 外側の分割がなくなれば、分割は 内的意識からも 消え去る。
なぜなら 両者は共存するもの だからだ。


3️⃣に つづく

「覚醒の深みへ」by OSHO (市民出版社)1️⃣

第一章 タントラ的覚醒の技法

Pp 37 〜 41
「裁かない」(第二の技法)

他の教えの純粋は、我々にとって不純だ。
真実においては、純粋でも不純でもない。


これは タントラの根本的な教えのひとつだ。
これを思い描くのは とても難しい ---なぜなら、これはどこまでも無倫理的、無道徳的だからだ。
私は「不道徳」とは言わない。
なぜなら タントラは 道徳や不道徳とは関係がないからだ。

タントラにとって、それは どうでもいい。
この教えのポイントは、純粋と不純、分割、二分法、二元性を超えて 人を成長させることにある。


タントラいわく、〈存在〉は 非二元的だ。
〈存在〉は ひとつだ。

いっさいの区別は 人為的なものだ。
区別 というのは 人為的なものだ。
い っ さ い の 区 別 がだ、区別 というのは人為的なものだ ---善悪、純不純、道徳ー不道徳、美徳ー悪徳、こうした概念は すべて人為的なものだ。

こうしたものは 人間の姿勢であって、真のものではない。
何が不道徳で 何が道徳か、それは あなたの解釈次第だ。


ニーチェはどこかで、「あらゆる道徳は解釈だ」と言っている。
ある国で 道徳的なことが、別の国では 不道徳になる。
イスラム教徒には 道徳的なことが、ヒンズー教徒には 不道徳になる。
キリスト教徒には 道徳的なことが、ジャイナ教徒には 不道徳になる。
あるいは、古い世代には 道徳的なことが、新しい世代には 不道徳になる。
それは 人間次第であり、ひとつの姿勢だ。

根本において、それは ひとつの虚構だ。

事実は ただひたすら事実だ。
裸の事実は ただひたすら事実だ。
道徳的でもなければ 不道徳でもなく、純粋でもなければ 不純でもない。


人類のいない地球を 考えてごらん。
そこでは いったい何が純粋で 何が不純か。

いっさいは 在 る 、ただ 在 る 。

何も純粋でなく、何も 不純でない。

何も良くなく、何も 悪くない。

人間と ともに、マインドが介入する。
マインドは 分割する。
「これは良い、あれは悪い」と マインドは言う。

この分割は、世界の中に 分割を生み出すばかりでなく、当の 分割者の中にも また分割を生み出す。

もし あなたが分割すれば、あなたも またその分割によって 分割される。
だから、自分の 内側の分割を 超越するためには、この外側の分割を 忘れ去ることだ。

つまりあなたは、世界に対してすることを、自分自身にも また行なっている。


シッダーヨガの もっとも偉大な師のひとり、ナロパは言う、
「ちょっとでも分割すれば、天国と地獄を作る」。
ちょっとの分割でだ!

でも私たちは いつも分割する。
私たちは いつもレッテルを貼り、非難し、また称賛する。


〈存在〉の あるがままの事実を見る。
それに レッテルを貼ったりしない。
そうして初めて タントラの技法は理解できる。

良いとか 悪いとか 言ったりしない。
事実に対し 自分のマインドを持ち込まない。
事実に対し 自分のマインドを持ち込んだとたん、そこにはすでに ひとつの虚構がある。
もうそれは 事実ではない、真実ではない。
それは 自分の投影だ。
このスートラはいう、


他の教えの純粋は、我々にとって不純だ。
真実においては、純粋でも不純でもない。


他の教えの純粋は、我々にとって不純だ。
タントラいわく、「他の教えにおいて きわめて純粋で、美徳だとされるものは、我々にとっては罪だ。
なぜなら彼らの 純粋の概念は 分割するからだ。
彼らの場合、何かが 不純なものとされる」


もし誰かを 聖者と呼んだら、それによって 罪人が生まれる ---どこかで 誰かを罪人にしてしまう。
聖者は 罪人なくして存在しない。

私たちのしている不条理を見てごらん ---私たちは 罪人を根絶しようと 努めている、そして罪人のない世界、聖者だけの世界を心に描き、夢に見る。
これは まったく馬鹿げている。
なぜなら 聖者は 罪人なしに 存在できないからだ。

両者は 同じコインの片面だ。
一方の面だけ破壊しようとしても無理な話だ。
両者は ともに存在する。
罪人と聖者は、切っても切れない仲だ。
罪人を根絶すれば、聖者もまた この世から消え去る。
でも気にすることはない。
聖者なんか消えるままにしておけばいい。
聖者であることに価値があったためしは 一度もない。


私たちは、「これは良い、あれは悪い」という具合に、世界に対して ひとつの姿勢、ひとつの解釈をとる ---罪人も聖者も その解釈の一部分だ。
「あれは悪い」と 言わないかぎり、「これは良い」と 言うことは不可能だ。
「悪い」は「良い」を定義するための 必要物だ。
だから「良い」は「悪い」に 依存している。

あなたの聖者は 罪人なしには ありえない。
存在できない。


聖者は罪人に 感謝しているにちがいない
罪人がいなかったら、存在できないのだから ---罪人との関係、罪人との 比較があればこそだ。

聖者が いかに罪人を 非難したところで、両者は 互いに 同一の現象の一部だ。
罪人が この世から 消え失せるのは、聖者が消え去って初めてだ。
また、罪悪がなくなるのは、美徳の概念が なくなるときだ。

タントラいわく、事実は真であり、解釈は偽だ。
解釈してはいけない。


真実においては、純粋でも不純でもない。

なぜか。
なぜなら、純粋や不純は、真実の上に押しつけられた 私たちの態度だからだ。
これを試してごらん。
この技法は 骨が折れる。
簡単ではない。
なぜなら私たちは 二元的思考に 慣れきっているからだ。
私たちは 二元的思考に基礎を置き、根づいている。
それで 私たちは、自分たちの 非難や称賛を 意識してさえいない。

2️⃣に つづく

「信心銘」第五章 空の世界 by OSHO

(第五章 空の世界, P. 214~抜粋)

欲望(マインド)とは、自己破壊過程だ。

欲望(マインド)が 消えないかぎり、人は いつまでも乞食のままだ。

何を獲得できても、それは、無益に終わる。

人は 満たされぬままだろう。


 だから、もし この欲望(マインド)を解体したら、空虚によって、初めて人は満たされる。

もはや自分はいない、全体になったのだ。
自分がいる間は、いつまでも乞食だ。
いなくなれば、人は 皇帝になる。


 インドで、乞食のことを「スワミ」と 呼んで来たのはそのためだ。

「スワミ」とは、主人、帝王を意味する。
サニヤシン(雲水)のために これ以上の言葉は見つけられない。

新しいサニヤシンに どんな名前を付けるか考えていた時、私は、これよりいい言葉を見つけられなかった。
どうも「スワミ」が 一番いいようだ。


「スワミ」とは、自分自身を完全に投げ出した人を意味する。

彼は もういない。

彼は 全世界に なった。
あらゆるものの主人になったのだ。

そうでないかぎり、皇帝でさえも乞食のままだ。
欲望し続け、求め続け、苦しみ続ける。



 “ もし粗いと細かいの区別をしなければ、
 偏見にも、意見にも、誘われることはない。”


 もし 粗さと 細かさとの間に、善と悪の間に、美しさと醜さの間に、これとあれとの間に 区別を設けなければ、区別し、差別しなかったら、人はすべてを ただあるがままに受け容れる。

自分の判断(マインド)を差しはさまない。
裁判官にならない。

ただ「そうなっている」と、言うだけだ。


 そこに 刺があれば、「そうなっている」と言う。
薔薇があれば、「そうなっている」と言う。

聖人がいれば、「そうなっている」と、罪人がいれば、「そうなっている」と言う。

そして 全体だけが知っている。
他の誰にも、なぜ罪人が存在するのかなど知り得ない。

そこには、何か理由があるに違いない。
だが、それは 全体が心配すべき神秘だ。

自分が心配するようなことではない。


 全体は、聖人も、罪人も、刺も、薔薇も誕生させている。

その理由は 全体しか知らない。

人はただ、全体の中に落ちて行くだけだ。

そして どんな分け隔てもしない。

自分にも、その理由が分かる時が来る。
だがそれは、自分が全体になった時だけだ。

神秘は、本人が神秘そのものになった時、初めて解かれる。


 あなたが あなたでありながら、それを解くことはできない。

もし、今の あなたのままでいるなら、あなたは、大哲学者になることになる。
たくさんの答えを持つだろうが、それは 答えではない。

たくさんの理論を持つことにはなっても、決して真実は得られない。

だが、もし あなたが 神秘そのものになったら、その時は分かる。

だが その知識は あまりに微妙で、言葉にすることはできない。
その知識は あまりに逆説的で、あらゆる言語的制約を無視してしまう。

その知識は あまりにも矛盾していて---対極が その境界を失って、二つが一つになってしまっているからだ---どんな言葉も それを言い表わすことはできない。


 形態とは 言葉を意味し、背景とは 沈黙を意味する。

その知恵の中では、形態と背景は ひとつになる。
沈黙と言葉は ひとつになってしまう。
どうして それを言葉にできよう。

だが、それでもそれは言われなければならない。

なぜなら、渇くようにそれを求めている人が たくさんいるからだ。
それについて 聞いただけで、ある者のハートは、旅立つかも知れない。

だからこそ僧璨は、これらの言葉を語っているのだ。


 僧璨は、それが言葉になり得ないことを知っている。
なぜなら、それを言葉にすれば、どうしても区別せざるを得ないからだ。

何かを言う時には、どうしても、言葉を選ばなければならない。

何かを言うとなれば、どうしても、あれではなく、これを言わなければならない。
すると思考(マインド)が入って来る。


 だが、誰も僧璨ほど上手にやった者はいない。
比較を絶している。

これほど見事に 沈黙を言葉の世界に もたらした者を、他に見つけることはできない。
仏陀でさえ嫉妬を感ずるだろう。

この僧璨は 真の導師だ。

沈黙の師であり、言葉の師でもある。

この世ならぬものを、この世にもたらした。

一語一語を 自らの経験の 深い沈黙で貫いた。


 僧璨の言葉に耳を傾けなさい。
ただ聴くだけでなく、摂り入れてごらん。

自分のハートに 融け込ませるのだ。
記憶してはいけない。

自分の血流の中に流しこみ、自分の 血と骨にするのだ。

摂り入れ、それを食べ、消化し、そして忘れてしまいなさい。

そうすれば、それには 途方もない変容の力がある。

Pp. 214ー217


「信心銘」Neither This Nor That by OSHO

著者 和尚(OSHO)
訳者 スワミ.パリトーショ
発行 (財)禅文化研究所