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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

OSHO ジャパンの投稿記事をシェアします。

あなたが、信頼することができたら、つねに何かが起こり、あなたの成長を助けるだろう。

あなたは与えられるのだ。

ある特定の時期に必要なものは何であろうと、あなたに与えられる。

決してそれ以前にではない。

それが必要なときにしか得られない。
そして、一瞬の遅れすらない。

それが必要なときに、あなたはそれを得る、すぐに、即座に! 


それが信頼の美しさだ。

徐々にあなたは、存在があなたに与えつづけているやり方を、存在があなたの面倒を見つづけているそのやり方を学んでいく。

あなたは無関心な存在の中で生きているのではない。

それはあなたを無視しないのだ。


あなたは無用な心配をしている。

すべては与えられる。


信頼のコツを一度学んだら、心配はすべて消える。

Osho

…友人の投稿(OSHO 講話/抜粋)記事をシェアします。

自分の人格を
落とさないかぎり、
あなたは自分の
インディヴィジュアリティ
(個であること)を
見いだすことなどできない。

個であることは、
存在から与えられている。

人格は
社会が押しつけたものだ。
人格は
社会のなかでは都合がよい。
社会は
個であることに耐えられない。

個であることは、
羊のように追従しないからだ。
個であることには
ライオンの資質がある。
ライオンは独りで動く。
羊はつねに群れをなしている。
群れのなかにいると
楽で居心地がいいはずだと
期待している。
群れのなかにいると、
守られて安全な感じがする。
誰かが攻めてきても、
群れのなかにいれば、
自分を救える可能性が
いくらでもある。

だが、独りだと?
ライオンだけが独りで動く。
そして、
あなたがた一人ひとりが、
生まれつきのライオンだ。

だが、社会が絶えず
あなたがたを
羊として条件づけている。
あなたのマインドを
羊として
プログラムミングしている。
それがあなたに人格、
当たり障りのない人格、
素敵で、とても都合がよく、
ひじょうに従順な人格を与えるのだ。
社会は奴隷を望んでいる。

完全に
自由に身を捧げている人びとなど
望んでいない。

社会が奴隷を望むのは、
特権をもつあらゆる者たちが
従順さを望むからだ。

Osho - One Seed Makes the Whole Earth Green

「信心銘」Neither This Nor That by OSHO



「第二章 道は完全だ」(04)
(…だから、医学を学ぶには、西洋に行かなければならないし、瞑想を学ぶには、東洋に来なければならない。)


 だが、その両方が極端なのだ。
だから両方とも危険だ。

極端は 常に危険だ。
その危険とは、車輪が回転して、東洋が物質的になり、西洋が精神的になることもあり得るということだ。

それが起こりそうな可能性は 至る所に見える。
今や東洋は共産主義に転換しようとしているからだ。
これは物質主義の行きついたものだ。

一方 西洋は、精神主義に転換しようとしている。
そこに危険がある。

車輪は回転するかも知れない。

あなたたちは 外側の世界にあきあきしている。
内側に向かって動きたい。
内面の旅が必要なのだ。


 あなたたちは内面の旅に出かけるかも知れない。
ヒッピーを見なさい。
彼らは西洋の未来だ。
彼らは技術に反対している。
彼らは内向的だ。

全東洋を荒廃させ、東洋を崩壊の危機に陥れた、あの同じタイプだ。
技術に反対し、外側の清潔さに反対している。
ヒッピー以上に汚ない人間など見つからない。
風呂にも入らないし、着物も替えない。

連中は、そんなことは外側のことで、自分は内面の旅をしているのだと言う。
自分たちに興味があるのは瞑想で、衛生ではない、と。


 違う。
同じ愚劣さ、同じ極端、同じ対極だ。

魅力はある。
一方の極端に住みあきた思考(マインド)は こう言うからだ。
「あっち側へ行ってみろ。こっち側が うまくいかなかったのだから。
こっちの極端が失敗したのだから、あっち側へ行くべきだ」と。

だが、いいかね、極端から極端へ動くことは易しい。
しかし、極端は 決して人を満足させない。

東洋を見なさい。
内面への極端も充足ではなかった。
これもまた失敗だった。

内側か外側かの問題ではない。
均衡の問題だ。
均衡が成功するのだ、不均衡は失敗する。


 外側と内側は 二つのものではない。

どこで外側が終り、どこから内側が始まるのか。

印を付けられるかね。

境界線を引けるだろうか。
「ここで外側が終って、内側が始まる」などと言えるだろうか。

いったい どこで分けるのか。
二つは、分けられてはいない。

その分割は 頭(マインド)の区別だ。

内側も外側も ひとつのものだ。

外側とは、内側の拡張したもの、内面とは浸透して来る外界に他ならない。
それは ひとつのものだ。

ひとりの人間の 両手、両足、両目だ。


 外界は神の外側なのだろうか。
そんなことは あり得ない。
何ひとつ神にとって よそごとではあり得ないし、何ひとつ 神の外側ではあり得ないからだ。

全体は 外界も含まなければならない。

全体は 内面も含まなければならない。

全体にとっては、外側も、内側もない。

これが 僧璨の言うことだ。
彼は言う。

 外側の もつれの中にも、

 内側の空無の中にも、住んではいけない。

 穏やかに、何を求めるでもなく、

 大いなる 一体性の中に とどまるがいい。

 そうすれば、誤った物の見方は 自ずから消えよう。

 略---


「信心銘」Neither This Nor That by OSHO

1993年 7月 1日 初版
著者 和尚(OSHO)
訳者 スワミ-パリトーショ
発行 (財) 禅文化研究所
    京都市中京区西ノ京壺ノ内町 花園大学
印刷所 大日本印刷株式会社

「信心銘」Neither This Nor That by OSHO



「第二章 道は完全だ」(03)

 いいかね、極端に走ってしまったのは、人間だけではない。
社会もまた極端に走ってしまった。

東洋は 内向的なままだ。
それゆえの貧困だ。

誰がそれに責任があるのか。

何百万という人間が 毎日死んでいる。
それに 生きている人間も、本当に生きてはいない。
半飢餓状態だ。

誰がこれに責任があるのか。

その内向的人間たち、神秘家、詩人、あまりにも内面を多く語り、外側の世界を批難した者たちだ。

「外の世界は自分にはいらない」と言った者、「外側は間違っている」と言った者、「外の世界は批難されるべきものだ。内側に生きなさい」と言った者たちのせいだ。


この人たちが 内面の世界を外側の世界よりも高く持ち上げた。

かくて平衡は失われた。


 東洋は 内向者達を生み出した。
しかし、外側の世界の 美は消え失せた。

あなたたちには 東洋一円に広がる汚なさが見えている。

西洋人にとって、インドのこの汚なさの中にやって来て住むのがどんなに難しいことか、私には分かっている。
実に 汚ない。

誰に責任があるのか

なぜ これほど 汚ないのか。

なぜ、これほど たくさんの病気ががあるのか。

なぜ これほど 不健康と飢餓があるのか。

それは、外界が無視されたからだ。


 我々は 内面の純化に 関心があった。
「なぜ、外側の汚なさなどにかかずらう。放っておけばいい。
物質のことに過ぎない、心配するようなことではない。
我々の関心は 内的な清らかさだ。
なぜ肉体のことなど心配する。
なぜ 他人のことに心をなやませる」と。


 その結果が、東洋は ある種の不均衡になり、西洋は 別の種類の不均衡になった ということだ。

西洋は 外向的だ。
彼らは、未だかつて存在しなかったような たくさんの富を作り上げた。

外側の清潔さと 皇帝も羨むほどの立派な衣服、うまい食べ物、よい衛生状態、美しい環境、なにもかもだ------
だが、外向的だ。

内面の存在は 貧しい。

内なる存在は 空っぽだ。


 だから東洋は、内なる存在について 西洋に教え続ける。

東洋の導師(グル)達は 西洋に瞑想の仕方を教え続け、西洋の先生(グル)達は、立派な技術者になる方法、立派な電子工学者になる方法、都市計画者になる方法、より大きな富の生み出し方、技術進歩のさせ方、生活水準の上げ方を東洋に教え続ける。

だから、医学を学ぶには、西洋に行かなければならないし、瞑想を学ぶには、東洋に来なければならない。

OSHO

(04)に 続く---


信心銘 Neither This Nor That
著者  OSHO
訳者  スワミ. パリトーショ
発行所 (財)禅文化研究所

「信心銘」Neither This Nor That by OSHO



「第二章 道は完全だ」(02)


 そうなったら、解決されるべき問題など何もない。

〔生〕は もはや謎ではない。

それは 生きるべき、楽しむべき神秘、踊るべき舞踏だ。

そうなったら、人は〔生〕との どんな葛藤の中にもいない。

そうなったら、人は ここで何をやっているのでもない。

その時 人は ただ楽しんでいるだけだ。

その時、人は 至福に満たされている。


 これが 天国の意味するものだ---何をするようにも期待されていないところ、人が 至福をかせぎ出そうとはしないところ、至福が自然であり、人の上に降りそそいでいるところだ。

これは、今、そして ここで起こり得る。

それは 僧璨に起こった。

それは 私に起こった。

あなたにも 起こり得る。

もしそれが 一人の人間に起こり得るなら、それは すべての人に起こり得る。



“ 外側の物事のもつれの中にも、
 内側の空無の中にも、住んではいけない。
 穏やかに、何を求めるでもなく、
 大いなる一体性の中にとどまるがいい。
 そうすれば、誤った物の見方は自ずから消えよう。”


 外側と内側を 分けてはならない。
僧璨は、「自分は 外側に関心がある」と言ってはならない、と言う。


 二種類の人々がいる。
そして そのどちらも惨めになる。

C・G・ユング人間性を 二つのタイプに分けた。
そのひとつを 彼は外向的と呼び、もうひとつを内向的と呼ぶ。

外向的人間は 外の世界に関心がある。
行動的な世間的な人々だ。
こういう人たちは、富、名声、地位、権力を 追い求める。

彼らは 政治家になり、社会改革家になる。
偉大な指導者、大実業家になる。
物に、外側の世界に関心がある。

彼らは 自分自身には関心がない。


 他方、内向的な人々がいる。
彼らは あまり行動的な人達ではない。

何か しなければならないことがあれば、それをするが、そうでないかぎり、特に何かをしたい という欲求は持っていない。
目を 閉じたままでいたいと思う。

こういう人たちは 詩人、神秘家、瞑想者、思索家になる。
世間には関心がない。
自分自身にだけ興味を持っている。

彼らは 目を閉じて エネルギーを内に向ける。

だが 僧璨は、その両方が 間違っている、それは彼らが 二つに分かれているからだ、と言う。

外向的な人は いつも自分の内側で 何かが欠けているのを感じることになる。

非常な権力者になるかも知れないが、内面深くでは、自分が無能で、無力なのを 感じることになる。

外向的には 大変な富を蓄えたかも知れないが、内面的には 貧しさを感じることになる。

世間的には 偉大な成功者かも知れないが、よく見れば、本人は その内面の深くでは 自分が失敗者だと知っている。


 彼は 均衡がとれていない。
外側のものにばかり注意をはらいすぎた。

一方の 極端に行ってしまったのだ。

極端がある所には、必ず 不均衡がある。

そして 詩人、黙想家、神秘家であった人、いつも自分の 内側にとどまっていた人は、外側の 世間の中で豊かでないために、常に自分には 何かが欠けていると言う感じを持つことになる。

ところが、外側の世界もまた美しいのだ。

そこには 花があり 星がある。
日が昇り、川は流れ、滝はこだまする。

こういう人が貧しいのは、全宇宙を否定しているからだ。
一人で 洞窟の中に住んで来たのは 不必要なことだった。
その間に、動いて たくさんの神秘を、まわり中にある 無数の神秘を知ることができたのだ。

彼は閉じて、自分の内面に閉じこもったまま、囚われ人になっていた。

この二つは 両極端だ。


 極端を 避けなさい。

外側と内側を 区別してはいけない。

そして ユングのタイプのひとつにならないことだ。

外向的にも 内向的にも なってはいけない。


 僧璨は、「流れていなさい。平衡をとっていなさい」と言う。

外側と内側は ちょうど左脚と右脚のようなものだ。
なぜ 一方を選ぶ必要がある。
一方を選んだら、動きは すべて止まる。

それは 二つの 目のようなものだ。
もし、目を ひとつだけ選んだら、見ることはできるだろうが、見える世界は 立体的ではなくなる、遠近感は失われる。

人は 二つの耳がある。
一方だけを 使うこともできる。

自分は 左耳のタイプだとか、右耳のタイプだとか という考えに取り憑かれることもあり得る。

だがそれでは、損をする。
それでは、あとの半分の世界が 閉じられてしまう。


 内側と外側は、まさに 両目、両耳、両足のようなものだ。
なぜ選ぶのか。
なぜ選ばずに 両方を使わない。

それに なぜ分けるのか、自分は 一人なのに---左足と右足は、ただ 二つに見えているに過ぎない。
その両方の中を 自分が流れている。

自分という 同じエネルギー、同じ存在が。

人は 自分の両目を通して見る。

なぜ 一方の極端に 動くのか。

OSHO


(03)に 続く---

「信心銘」Neither This Nor That by OSHO



「第二章 道は完全だ」(01)

 ニーチェは言う。
「人間は超えられるべきものだ。人間は、存在ではない。
動物には存在がある。神には存在がある。
だが、人間は まだ存在になっていない。
人間は ひとつの移行、過渡期だ。
ひとつの完全から 別の完全への移行。
人は 中間で引き裂かれている」と。


 僧璨は、戻れと言う。
そしてもし、あなたたちが尋ねるなら、私は 僧璨の方が パタンジャリより易しいと言おう。

結局は、同じことが起こる。

たくさんの努力が、あなたを 無努力に連れて行くことになる。

何も努力もしなくても、やはりあなたは 無努力になる。
なぜなら、努力は 決して目的地にはなり得ないからだ。

努力は 手段でしかあり得ない。
人は、どこまでも永遠に 努力し続けることはできない。

人は 無努力の状態に至るために 努力するのだ。


 パタンジャリにあっては 努力は通り路、無努力が終点だ。
努力は手段、無努力が目的だ。

僧璨の道では、無努力が 手段で、無努力が 終点だ。

僧璨では、最初の一歩は 最後の一歩だ。

僧璨にあっては、手段と目標の区別はない。
だが、パタンジャリには 区別がある。
人は たくさんの段階を 通り過ぎなければならない。


 だから、パタンジャリの道では、光明は 段階的に起こる。

僧璨の道では、光明は一瞬のうちに、まさに今の この瞬間にも、起こり得る。

それは 突然のものであり得る。

もしあなたが 僧璨を理解できるなら、それ以上に 素晴らしいものはない。
だが、理解できなければ、その時は パタンジャリが唯一の道だ。


“ 道は大いなる虚空のように完全だ。
 足りないものも、余計なものもない。
 しかり、いいとかいけないとか選り好みをするばかりに、
 本当の姿が見えないだけだ。”


 私達が 本当の姿を見ることができないのは、そのためだ。

受け容れたり、拒否したりするためなのだ。

人は 自分の考え、意見 偏見を持ち込む。
そして あらゆるものを色づけしてしまう。

そうでなければ、すべては完全だ。

人は、ただ見ればいいだけだ。
濁りのない目で、どんな考えも持たずに ただ見る。

どんな拒否も、あるいは 受容もなしに、ただ 純粋に見る。

まるで、自分の目の背後には 思考(マインド)などないかのように、あたかも 自分の目が ただの鏡に過ぎないかのようにだ。

鏡は「美しい」「醜い」を 言わない。


 鏡は、前に来たものを 何でもただ映すだけだ。

そこには どんな判断もない。

もし、あなたの目の背後に 思考(マインド)が なかったら、その目が ただ映し出すだけだったら、それがただ見るだけで、「これはいい、あれは悪い」などと 言わなかったら、非難したり、賞賛したりしなかったら、もしそうなら、あらゆるものは 申し分なく明瞭で、為されるべきことなど何もない。

この明晰性、意見も偏見も持たない この目---それで、あなたは 光明を得ている。

OSHO

(02)へ 続く---