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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…すてきな講話(抜粋)を友人がシェアしています。

(OSHO の講話/抜粋---)


これらの
呂祖師の言葉は
ひじょうに神秘的だ。
深い愛に満ち、
共感できる
ハートをもって
理解しようと
してみなさい。

聴き方には二つある。

ひとつは
内側で
絶えずあら探しをして、
とやかく口をはさみ、
ものの善し悪しを決め、
それが
自分に合致するかどうか、
自分の知識に
適合するかどうかを
判定している
批評家の聞き方だ。
批評家は
絶えずものを比べて、
品定めをしている。
それは
これらの美しい経文を
理解するに
ふさわしい態度ではない。
これらの経文は
批評の好きな
人の手にはおえない。

これらは
共鳴できる力を
そなえている人、
あるいは、
さらに言うなら
感情を
分かち合うことができる人、
波長を
合わせることができる人、
こころを開き、
全一に耳を傾けることが
できる人にのみ
開かれている。

そうすれば
肉体のハートだけでなく、
深いところに隠されている
霊的なハートまでもが
揺り動かされる。

呂祖師は言った。
四つの詩句は、
気(エネルギー)の空間に
精神を結晶させる。

あなたには
エネルギーがある、
あなたは必要とする
すべてのものを
もち合わせている。
それなのに
あなたは貧しく、
いまだに
乞食のままだ。
あなたは
自分のエネルギーを
使ったことがない、
自分の財宝を
まだ開けてみたことがない。
あなたは
神から授けられたものに
目を向けたことすらない。
あなたは
内側を見ずに
外に駆けだしてゆくせいで
惨めになる。

そして、
その惨めさは
つづいてゆく。
というのも、
あなたを
満足させるものは
外界には何ひとつ
見つからないからだ。
外の世界で
何かを見つけた者など
ひとりもいない。

アレクサンダー大王でさえもだ。
あなたはこの地球をそっくり
手中におさめることもできる。
あなたはこの七つの大陸、
全世界を支配する
天輪聖王(チャクラヴァルテイン)に
なることもできる。

以外に思うだろうが、
現代の地理学によれば
大陸は六つしかないのに、
古代インドの地理学では
大陸は七つあることに
なっている。
そこには
アトランティス大陸
含まれているにちがいない。
そして
七つの大陸すべてを
制覇した者は
「天輪聖王」と呼ばれている。
たとえ
天輪聖王になったとしても、
あなたは貧しいままであり、
何ひとつ得てはいない。

それどころか、
あなたは多くのものを
失っているだろう。
なぜなら、
あなたは一生をかけて
つまらないもの、
世俗的なもの、
意味のないもの、
無益なものを求め
格闘してきたからだ――
そういったものは
いつでも
死によって
取り去られてしまう。
内なる何かを
得ないかぎり、
あなたが
豊かになることはない。

内なる王国だけが
人を豊かにする。
死ですら
その豊かさを
取り去ることが
できないからだ。
それが
奪い去られることはない。
それが
破壊されることはない。
それが
取りあげられることはない。

ひとたびそれを知れば、
それは永遠に
あなたのものになる。

あなたには
内なる空間がある。
あなたには
内なるエネルギーがある。
すべてのものを
手に入れることができる。

あなたはまだ
それを
のぞき込んだことが
ないだけだ。
あなたは
すばらしいヴィーナ(弦楽器)を
手にしているのに、
まだそれに
触れたことさえない。
あなたはそのなかに
どんな音楽が含まれているのか
まだ見たこともない。
あなたはそれを
ほとんど忘れかけている。


Osho - The Secret Of Secrets

「源泉への道」

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第五章「実在との対面」Pp. 175~177

(…なぜなら直接的には なにもできないからだ。
なにか方便が必要だーーそれによって あなたは内側に投げ込まれる。
この「中心」に対しては 間接的な働きかけが必要だ。
直接的な働きかけは不可能だ。
ここが 肝心な点だ。
これは ごく基本的なことだ。)

 たとえば あなたが なにかをして遊ぶ、それから後になって、その大きな喜びを語るーー
「楽しかった。本当に幸せだった」。
微妙な幸福感が 後に残る。

誰かが それを聞く。
彼もまた幸福を追い求めているーー誰もがそうだ。
彼は言う。
「それなら ぜひ僕も遊ぼう。
もし 遊びで幸福になれるなら、僕も ぜひやってみよう」。

彼も また遊ぶ。
彼は 直接、幸福に 喜びに 楽しみに 向かっている。

だが幸福は 副産物だ。

すっかり遊びに夢中になっているとき、結果として 幸福が生じる。
だが 絶えず幸福を 追い求めていたら なにも起こらない。
遊びが そのきっかけだ。


 あなたが 音楽を聴いている。
誰かが言う「これほどの至福はない」。
だが 絶えず直接に至福へと向かっていたら、聴くことさえ できなくなる。

至福への 関心や 執着が 障害となる。
至福は 副産物だ。
直接つかむことはできない。

あまりに繊細な現象だから、間接的に 近づくしかない。
ほかのことをしていると、それが起こる。
直接には つかめない。


 美しいもの すべて、永遠なるもの すべて、それは あまりに繊細なため、直接つかもうとすると 壊れてしまう。

だからこそ 技法や方便があるのだ。

これらの技法は しきりになにかをせよと言う。
その「すること」は 重要ではない。
結果として生じるものこそが重要だ。

あなたの マインドに必要なのは、「すること」つまり技法に向かうことだーー結果ではない。
結果は起こる、必ず 起こる。
だが、いつも間接的に起こる。

だから 結果に向かわずに、技法に向かうのだ。

可能なかぎり トータルに向かい、結果のことは忘れる。
それは 起こる。
しかし あなたが その障害となりかねない。


 結果だけに向かったら、それは 起こらない。

そして ひどくおかしなことになる。

人々は 私のところへ来て言う、
「お話によれば、瞑想すれば これこれが起こるそうですが、瞑想しているにもかかわらず これこれは 一向に起きません」。

たしかに そのとおりだ。

だが、彼らは その条件を忘れている。
結果のことは 忘れるのだ。
そうして初めてそれは 起こる。


 大事なのは、全面的に その行為に入ることだ。

その行為の中に全面的に 入れば入るほど、その結果は 早く起こる。

しかも それはいつも 間接的だ。
結果に対して 攻撃的であってはいけない。
暴力的であってはいけない。
それは ごく繊細な現象なので、攻撃には耐えられない。

結果が現れるのは、あくまで あなたが 別のことに没頭していて 内的空間が空っぽになっているときだけだ。

これらの技法は すべて間接的だ。

精神的(スピリチュアル)な出来事について、直接的な技法はない。

OSHO

…「 人 間 」

…友人のFB投稿記事です。

(OSHO 講話/抜粋)


人間の二元性
その苦しみと可能性
人間とはジレンマだ。
エスとノーの両方だ。

あなたが
そのように感じるのは、
あなたが
異常だからではない。
それは人間の
あたりまえの状態だ。

人間は、
半分は地から、
半分は天から
できている。
人間は、
物質と意識から
できている。
塵と、
神聖なるものから
できている。
人間とは緊張だ。

ニーチェの言葉を
借りれば、
「二つの無限の間に
 張られたロープ」だ。

・・・

人間は、
その自然な状態で、
分裂した存在だ。
分裂は
病気ではない、
症状ではない。
それは、
人間としての
正常な状態だ。

エス
ノーが極端に分離し、
"and"という言葉によって
結ぶことさえ
できなくなったときにだけ、
それは
病気のように見える。

エス
ノーの間に
橋を架けられなくなった
ときにだけ、
それは
病的なものとなる。

さもなければ、
あらゆる人間は、
つねに
二元性のなかにある。
「あれでもない、
 これでもない」
という状態にある。

どのような動物も、
けっして
そのような状態にはいない。
犬は犬、
ライオンはライオンだ。
木は純粋に木であって、
岩も純粋に岩だ。
それらのなかには
二元性がない。
分裂がない。

人間とは
二元的な存在、
二重の存在、
分裂した存在だ。
これは
人間にとって
不運なことだが、
大きな喜びの可能性を
約束するものでもある。

これは
人間にとって
苦しみだが、
その苦しみのなかから、
大きな喜びが生まれる。
どんな動物も、
人間に可能なほどの
喜びを感じることはない。

・・・

空を飛ぶ鳥は
自由に見えるが、
自由について何も知らない。
ただ人間だけが、
たとえ
牢獄のなかにいても、
自由について知っている。

だから
人間は苦しむのだ。
一方では
自分の束縛に
気づきながら、
一方では
自由の可能性に
気づいている。
一方では
現実を、
みじめな現実を
自覚しながら、
一方では
とほうもない
光に輝く可能性に
気づいている。

・・・

人間は、
どんな動物よりも
不幸せになれる。
嘆き悲しみ、
涙を流し、
自殺したりする動物が
いるだろうか。
また、
腹の底から
大笑いする動物が
いるだろうか。
それらは、
人間だけに
可能なことだ。
そこに
人間の偉大さがある。
だが、
その偉大さは、
不安の源でもある。

Osho - The Book of Wisdom