saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…友人のFB投稿記事です---。

 (OSHO 講話の抜粋)

例えば、
波は
大海に浮かんでいるが、
波のひとつひとつが、
自分は
大海から切り離されていると
誤って思い込んでいる。

波は
分離しているように見える。
波は
自分をごまかすことができる。
まわりには
ひじょうにたくさんの波があり、
ひとつひとつの波が違って見える。

私の波の方が
あなたの波より
高いこともあれば、
低いこともある。

どうしてそれが同じでありえよう。
波は
大海を
深く覗き込むことができない。
知っているのは表面だけだ。

あなたの波は消えつつあり、
私の波は若く、
うねりつつある。
あなたの波は
浜辺に辿り着いているが、
私ははるか沖にいる。

だとしたら、
二人が共に同じだなどと
どうして私に思えるだろう?

だが、
そう思おうが、思うまいが、
私たちは同じだ。

「私」として知られている波は
自我ではない。
それは自己ではない。
この波は
大海が
波であることを知った。
波はたんなるうわべの現象・・
見かけ、運動にすぎない。

私が「私」と呼ぶこの波は、
波のない状態、
波のない大海こそが
現実であることを知っている。
あなたの波ですら
切り離されていない。

私は、
すべてを結び合わせているものを
知った。
あなたはそれを「自己の自覚」と
呼ぶかもしれないが、
私は違う。

私はそれを「無自己の自覚」と呼ぶ。
なぜなら、
これこそが
あらゆる了解の本質だからだ。
これは無自己だ。

だが、
私が言おうとすることを、
あなたは理解していることだろう。

私は言いたいことを
伝えきれていないかもしれないし、
私が伝えたいのは、
私が言ったことでは
なかったかもしれない。

私の言葉を
私が指し示すものと
混同してはいけない。
常に私の言ったことを
深く覗き込みなさい。

語られたことではなく、
ほのめかされたことに
常に耳を傾けなさい。

語ることはできないが、
示し、
ほのめかすことのできる
事柄がある。

深遠なるもの、
究極なるものはすべて、
示すことができるだけで、
決して語ることはできない。

そして私は、
語ることのできないことを
語っている。
だから、
私の言葉について考えないこと。
常に言葉は
無意味なものとして
投げ捨てるがいい。
そうして、
言葉なき意味のなかへ、
沈黙の意味のなかへ
深く入ってゆきなさい。
それは常に言葉の裏にある。

言葉はいつも死んでいるが、
意味はいつも生きている。
あなたは、
言葉に対して
開くことはできるが、
知的な理解だけでは
決して開いてゆくことができない。

知性だけでなく、
自らの全存在をかけて
初めて
あなたは開くことができる。

ときおり知性が
理解を誤ることがある
というのではない。
むしろ
知性は誤解してばかりいる。

知性が
ときおり誤りを犯す
というのではなく、
知性は
過ちそのものだということだ。
それは
過ちを犯してばかりいる。

何が語られていても、
それに共感するがいい、
理解しようとしないこと。

それを
あなたの内側に深く入らせなさい。
それに対して
傷つけられやすく、
開いているがいい。

それを
ハートのなかへ深く入らせなさい。
知的な障壁を
つくりだしてはいけない。
あなたの全実存が
参与しているときに、
あなたは知るだろう。
あなたは
理解しないかもしれないが、
知るだろう。

理解するだけでは充分ではない。
知ることが必要だ。
ときおり理解したり、
理解したと思い込むことがある。
そうなったら、
知ることを妨げる障壁が
つくりだされる。

知性は理解するが、
実存は知る。
知性は部分にすぎない。
本物はあなたの実存だ。

知るときは、
自らの血で知る、
自らの骨で知る、
自らの鼓動で知る。

理解するときは、
マインドのメカニズムで
理解するだけで、
それほど深いものではない。
マインドとは装置、
生き延びるために必要とされる
実用的な装置にすぎない。

それは
他者と関わらねばならない場合には
必要とされるが、
「一なる境地」、
霊的な死と復活に対しては
障壁となる。
それは生き延びるために
自然が与えた装置にすぎず、
究極の真理を開示する
道具ではない。
隠された神秘を知る
道具ではない。
そして、
神秘は隠されている。

だから、
私が何を言おうと、
そのことについて考えないこと。

家に帰り、
そのまま眠りにつきなさい。
ただそれを内側に入ってゆかせ、
自分のなかに浸透させるがいい。

自分を守らず、
開いていなさい。
自分を守るたびに、
知ることが妨げられる。

私が言っていることは、
それがあなたの内奥の実存に届いて
初めて、知られ、理解されるだろう。
これがシュラッダ、
「信」という言葉の意味だ。

「信」とは信仰ではない。
信仰は知的だ。
人は知的に
信仰することもできるし、
知的に
不信仰であることもできる。
どちらも知的だ。

「信」は
まったく知的なものではない。
それは全一なる神秘的な参与、
隠された神秘とひとつであること、
ジャンプだ。

だから、
何を語っていようと、
私は理論にはまったく関心がない。
哲学にはまったく関心がない。
私の関心は実存的な跳躍にある。

私が語るのは、
ただあなたを
語りえないものへと導くためだ。
私が言葉を使うのは、
ただあなたを沈黙へと導くためだ。
私があることを主張するのは、
ただ主張しえないものを
ほのめかすためだ。

私の言葉は、
何かを表現するというよりも、
表現しえないものを
ほのめかすためにある。

共感しながら聴きなさい。
共感のみが
開口部になりうるからだ。
何であれ私が言ったことを
自分の内側に落ちてゆかせなさい。

それは花を咲かせるだろう。
種子が深みに入ってゆけば、
やがて花が開く。

そして、
花が開くとき、
あなたは語らずして
語られたことを知るだろう。
あなたは語られながら
語られずに残されたものを知るだろう。


Osho - I Am The Gate

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 (OSHO 講話 抜粋)

あらゆる子供はみな自然に、
ゆったりと生まれる
ところが、
そこに社会が入ってくる
ある一定の理由で
入り込んで来なければならないのだ
それは何も悪いことじゃない
というのも
もし子供が彼のまま、
あるいは彼女のままで
放っておかれたら
その子は決して成長しないだろう
そして、その子は
絶対に宗教的な人間にはなれない
彼はただ獣みたいになるだけだ

社会は入り込んで来なければならない
社会は通過されなければならない
それは必要なのだ
ただひとつ
覚えておかれねばならないのは
社会というのは一度従われ
そして、次には
超えられなければならないものだ
ということだ
ルールは学ばれ
そして忘れられなくてはならない
人生にルールはつきものだ
世の中には他人というものがいるのだから
あなたは一人っきりじゃない

・・・

それには
何も悪いところはない!
それは
為されなければならないのだ
ただし、それは
その子が決して
彼の覚醒を失わないように
彼がその教化パターンと
一体になってしまわないように
内側の深いところでは
自由のままでいるように

ルールには
従わなければならないけれど
ルール自体は人生じゃない
ということが解るように

そして、
それでもルールは
教えられなくてはならないのだと
いうことが解るように
そんな形で
為されなくてはならない
それは、<よき社会>というものが
行うであろうことだ

それはこう教える
「こういうルールはいいものだ
 世の中には
 他人というものがいるんだから
 しかし、それは絶対じゃないし
 あなたはそれに
 閉じこめられている義務が
 あるわけでもない
 ある日、あなたは
 それをも超越しなければ
 ならないのだ」と

社会というのは
それがその成員に
文明とそして超越の両方を
教える限りにおいて
悪いものじゃない
そのときその社会は
宗教的な社会だといえる

もしそれが
全然超越を教えないとしたら
そのときは、
その社会はただ単に俗な、
政治的な社会でしかない
そこには宗教のかけらもない

あなたは、
ある一定の範囲までは
他人の言うことに
耳を傾けなくてはならない
そして、それから今度は
自分自身に
耳を傾けなくてはならない
最後には、
初源の状態に還って来るべきなのだ

死ぬまでに
あなたはもう一度
無垢な子供に戻るべきなのだ
ゆったりと自然な子供に

なぜならば
死において再びあなたは
ひとりぼっちの次元に
入って行くからだ
ちょうど
胎内にいたときと
同じように

死において
もう一度あなたは
ひとりぼっちの領域に
入って行く
なんの社会も
そこには存在しない
そして、
一生涯のうちに
あなたは
ただ目を閉じて
社会を超えてしまうスペース
自分自身の中へ
自分自身の胎内へと入って行く
幾つかのスペースを
砂漠の中のオアシスのような
幾つかの瞬間を
見出さなくてはならない
これが瞑想の何たるかだ

社会はそこにある
が、あなたは
目を閉じて社会を忘れ、
一人になる
どんなルールも
そこには存在しない
なんの人格もいらない
なんの道徳も
どんな言葉も
どんな言語もない
あなたは内側で
ゆったりと
自然になることができる

そのゆったりとした
自然さに向かって
成長してゆきなさい
たとえもし
外的な規律の必要があっても
内側では野生のままでいるのだ
もし人が、
内側では野生のままでいながら
しかも社会の中で
必要とされることを
習い覚えることができたら
やがて彼はすんなりと
超越してしまえる
あるポイントに
行き着けるだろう・・


Osho - Tantra; The Supreme Understanding

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 (OSHO 講話---抜粋)


子供は腹部で呼吸する。
子供は腹部で生きる― 
頭でも、
ハートでもない。
だがやがて、
そこから
少しづつ離れ去っていく。
最初、
別のセンターを成長させる。
それは、
ハート、
つまり感情のセンターだ。
彼は愛を知る。
彼は愛される。
そして
このセンターが成長する。
このセンターは
真のセンターではない。
このセンターは副産物だ。
だからこそ、
心理学者が
「愛されたことのない子供は、
 愛すことができない」
と言うのだ。
もし子供が
愛のない環境に育ったら・・・
誰ひとり
愛やぬくもりを与えてくれない
冷たい環境に育ったら、
彼自身、
生涯誰も
愛することができない。
なぜなら、
そのセンターそのものが
成長しないからだ。
母の愛、
父の愛、
家族、
社会、
そういったもののおかげで、
センターは成長する。
このセンターは副産物だ。
生まれつきのセンターではない。
手助けがなければ、
このセンターは成長しない。
非常に多くの人々が
この愛のセンターを欠いている。
それでは
どうして愛せるだろう。
愛深い母を得ることは難しい。
そして
愛深い父を得ることは稀だ。
どの父親も、
どの母親も、
自分では愛していると
考えている。
だが
ことは
それほど簡単ではない。
愛を成長させることは難しい。
最初に愛がなかったら、
その子供自身も
また愛することができない。
だからこそ、
全人類は
愛なしで生きているのだ。
次々に子供をつくりながら、
どうやって
愛のセンターを与えるかを
知らない。
その逆に、
社会は文明化すればするほど、
第三のセンター、
つまり「知性」を
強制するようになる。
臍が元来のセンターだ。
子供は
それを持って生まれる。
それは副産物ではない。
それなしには生は不可能だ。
だから
それは元からある。
第二のセンターは副産物だ。
子供は愛を得れば応える。
このような応答の中で
センターが成長する。
それがハートセンターだ。
そして第三のセンターは、
理性、知性、頭だ。
教育、論理、
そして訓練が
第三のセンターを創り上げる。
これもやはり副産物だ。
我々は
第三のセンターに生きている。
第二はほとんど不在だ。
あるいは存在していても、
機能していない。
あるいは
たまに機能することはあっても、
その機能は不規則だ。
ところが、
第三のセンター、
つまり頭は、
生の基本的な力となっている。
生全体が
この第三のセンターに依存している。
このセンターは実用的だ。
推論、論理、
思考のために必要だ。
だから、
遅かれ早かれ、
誰もが頭指向になり、
頭の中で生きるようになる。
臍は生まれつきのセンター、
もともとの中心だ。
ハートは開発できる。
ハートの開発は、
いろいろな意味でいいことだ。
理性もまた
開発する必要がある。
だが、
理性を開発するにしても、
ハートを犠牲にしてはいけない。
もしハートを犠牲にして
理性を開発したら、
そのつながりは
失われ再び、
臍に戻ることができなくなる。
理性から
<存在>へというのが
発展の道筋だ。
次のように考えてみよう。
臍のセンターは
ビーイング(存在)の中にある。
ハートのセンターは
フィーリング(感じること)の中にある。
頭のセンターは
ノーイング(知ること)の中にある。
知ることは
在ることからもっとも遠い。
感じることの方が近い。
だから
感じるセンターを欠いたら、
理性と存在との間に
架け橋を創るのは
非常に難しい。
だからこそ、
往々にして、
愛深い人間の方が、
知性で生きる人間より、
たやすく
「我が家のくつろぎ」を
さとるのだ。
「頭」とは
知る能力のことで、
「ハート」とは
感じる能力のことだ。
そして
ビーイング」(在ること)とは、
ひとつになる能力のことだ。


OSHO-Vigyan Bhairav Tantra

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 (OSHO 講話 抜粋)


恐怖の代わりに
愛を生きなさい。
それらは
まったく正反対のものだ。
人々は普通、
愛と憎しみが
正反対のものだと考える。
それは誤りだ。
そうではない。
愛と憎しみは同じエネルギーだ。
愛憎はひとつのエネルギーだ。
愛は憎しみになり得るし、
それらは転換出来る。
だから、
それらは反対のものでなく、
補い合うものだ。

実際、
私たちは
同じ人を愛し、
憎む。
それらは
いつも一緒にある。
それらは敵ではない。
友人だ。

真の敵対は、
愛と恐怖の間にある。
それらは
決して一緒にはない。
もし、あまりにも
恐怖に囚われてしまえば、
愛は消え去る。
恐怖は
愛に転換され得ないし、
愛は
恐怖に転換され得ない。
それらは
転換出来るものではない。

唯一、
愛だけが人を豊かにする。
恐怖は片輪にし、
麻痺させ、
麻痺すればするほど、
あなたは
さらに恐れるようになる。
だから、
それは悪循環だ。

愛はあなたに翼を与える。
あなたが生の中に
くつろぐのを助ける。
様々な生き方で
生を経験する勇気を与える。
愛は、
あなたに生の全範囲を与える。
それは多次元にわたるものだ。
それは虹のすべて、
生のあらゆる色彩だ。
だからまず、
恐怖を落とし、
もっともっと愛を受け容れ、
恐怖を愛に置き換えなさい。

そして第2には、
大空、
広大なもののことを
考えなさい。
自由、
無限のことを考えなさい。
小さなものごと、
くだらないことを考えない。
愛には
すべてを
犠牲にする用意がある。
愛は
ただ広大なもののことだけを
考える。
それは風に乗る鷲だ。
それは
未知なるものを探しに向かう。



Osho -「生・愛・笑い」

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 (OSHO 講話の抜粋---)


意識を
無意識の中に
墜落させるのはごく容易だ。
意識は、
無意識の
ほんの小さな断片に
過ぎないからだ。

人の実存の
十分の一が意識で、
その実存の
十分の九が無意識だ。
ほんの小さな断片が
意識になったに過ぎない。
それとても常に動揺している。
いついかなる瞬間にも
墜落しかねない。
いとも簡単だ。

酩酊の中で起こるのがそれだ。
酒を飲めば、
意識は無意識の中に墜落する。
だから、
あらゆる時代、
あらゆる風土、
あらゆる国々で
酒にあれほどの魅力があるのだ。
これは麻薬を飲んでも起こる、
意識が無意識の中に墜落する。

考えることが止まるのだから
それは素晴らしい。
眠りは素晴らしく、
人は実にたくさんの夢を見る。
また夢を見るのが上手なら、
麻薬は素晴らしい夢を見せてくれる。
どんな夢よりも
もっと空想的で色彩に富み、
もっと光輝やく夢を。
天国にも、
夢の国にも行ける。
だが、
実在には向かっていない。

LSD、 マリワナ、 メスカリン、
その他どんな麻薬も、
よい眠りを
与えてくれるに過ぎない。
そして
その素敵な眠りの中で、
人は夢を見る。
その夢は色鮮やかで、
それにひきかえ、
自分の〈生〉が
あまりにも貧しく、
あまりにも惨めなので、
人は
その惨めな〈生〉を生きるよりは、
その夢を生きたいとさえ思う。
もしそれしか
選びようがないものなら、
人は
この惨めな〈生〉を生きるよりは、
美しい夢の中に
生きることを選ぶだろう。

この〈生〉は、
悪夢のようなものだ。
たとえ
麻薬が与えようとしているものが、
光輝く、色鮮やかな、
三次元の夢に過ぎないとしても、
飲めばいい。
この人生に何があると言うのか。
〈生〉が あまりにも
泥にまみれているために、
人は夢の方を選ぶ。

麻薬、 アルコール、
その他さまざまな
人を酔わせるものが、
宗教的な人々によって
常に使われてきた。
だが
それらの薬物によって、
実在に入って行くことは
決してない。
それを使えば麻痺状態に、
昏睡に陥るだけだ。
その昏睡の中で、
夢を見ることもある。
あまり神のことばかり
考えていたら、
神を見ることもあり得る。
人は自分の夢を
投影することもできるからだ。
夢とは指揮し、
誘導することができるものだ。

あまり
キリストのことばかり
考えて来ていたら、
麻薬がきいている間、
キリストが自分の前に
現れることになる。
これは自分のマインドが
演じているゲームだ。

クリシュナに
あまり執着していたら、
唇に横笛をくわえた彼が歌い、
踊りながら
自分の前に立つことになる。
ヒンドゥー教徒
クリシュナの信者が
LSDを飲めば
クリシュナを見ることになる。
キリスト教徒なら、
イエスを見る。
そして仏教徒なら
仏陀を見るだろう。
これはマインドの投影だ。

現実は惨めだが、
夢を追ってはならない。
夢を追えば道はひとつしかない。
意識を再び無意識に戻す道しか。

ある小さな部分が
無意識から
浮かび上がって来たのだ。
そして、
これこそが人間の美しさだ。
苦悩と歓喜の共存、
だかそれこそが
人間の美しさなのだ……
広大な無意識の海の中で、
ひとつの島になったということが。
この島は高く高く成長し、
大陸にならなければならない。
麻薬を使えば、
それは再び水の中に
沈むことになる。
再び獣の、
あるいは樹木の生を
生きることになる。
それはそれで美しいが、
あなたたちが
そうなる価値はない。
それでは、
失うものがあまりに多すぎる。
あなたは、
実在に到達し得た
かも知れないのだ。
その島は、
大陸になり得たかもしれないのだ。

麻薬だけでなく、
他にも意識が無意識に戻るのを
手伝う微妙な手段がある。
それは
音楽によってもなされ得るし、
お経を唱えることでも
なされ得る。
絶えずひとつの呪文を
繰り返せば、
人は眠りに陥る。
単調なものは何でも
昏睡をもたらすからだ。

こういうものは微妙な手段で、
一見、麻薬には似ていない。
あらゆる寺院や教会で、
それは行われている。
そして、
寺院も教会も麻薬に反対している。
彼らは、
自分達が何をしているのか
知らないのだ。

彼らが使っているのも
微妙な麻薬だ。
LSDやマリワナほど
荒っぽくはないが、
やはり麻薬だ。
なぜなら、
一定の言葉を
絶え間なく唱えれば、
それは人を眠らせ、
それ以外にどんなものも
与えはしないからだ。

人は寛ぐ。
詠唱そのものがある
深い倦怠をもたらす。

同じ言葉を、
ラーム、ラーム、ラーム、と、
いつまでもいつまでも
いつまでも続ける。
人はどうなるか。
新しいことが起きていなければ
マインドは覚めていられない。
そうでないと、
マインドは眠ってしまう。
何か新しいことがあれば
マインドは目覚める。

何も新しいことが起こらず、
ただラーム、 ラーム、 ラーム、
ばかり唱えていたら、
しかもそれが
いつまでも、いつまでも、
永久に繰り返すばかりだと
知っていたら、
マインドは眠気を催す。

母親なら
誰でもこれを知っている。
子供が眠らない時は母親はいつも、
歌の 一節を、 極めて単純な、
ほんの二、三語からなる一節を繰り返す。
同じことを何度も何度も歌う……
子守り歌だ。
これが呪文になって、
子供は寝つく。
マインドは同じだ、
子供であろうと、
老人であろうと、
何の違いもない。
マインドは子守唄によって寝つく。
プロセスは同じだ。

考えることは
やめなければならないが、
無意識になることに
よってではない。
より意識的になること、
もっと油断なく
意識していることによって、
考えることを
やめなければならないのだ。
考えることに
流れ込んでいるエネルギーを
意識の中に注ぎ込み、
自分の中に〈見ている者〉が
立ち上がるように。

だから、いいかね、
考えることは
お経を唱えることによってではなく、
その思考過程を〈見ている者〉に
なることによって、
止めなければならないのだ。
それに目を向け、
それを見守っている者、
丘の上の見張り、
目をやり、
見ている者に…。
深く見て、
言葉を貫くなら、
言葉は消え始める。
ある切れ目が、
合間が来る。
雲が切れて、
青空が見える。
あなたは油断なく意識し、
感じている……
昏睡してはいない。
無意識が今まで以上に、
意識の中に引き上げられる。
炎はより大きく、
勢いよく燃え上がる。
そして、
あなたは
もっと多くを見、
もっと多くに触れ、
もっと多くの匂いを
嗅ぐことができる。
あなたの行為は、
ある新しい質を……
〈神聖なるもの〉の質を帯びる。
仏陀のような人が
人に触れる時は、
常にその接触の質が
他の人とは違う。
あなた方も触わるし、
時には違いを感じることもある。

偶然手が誰かに触れたとしよう。
そんな時、
あなた方の存在は
その手の中に流れてはいない。
その時その手は死んで、
閉じている。
死んだ手で
ただ 「やあ」と言っているだけだ。
手は差し出されたが、
実は差し出されてはいないのが
相手にも感じられる。
社交辞令だったのだ。
その手は生きておらず、
暖かくはなかった。
こちらと出会い、
解け合ってはいなかった。

また、
愛の中で
手が差しのべられることもある。
それは融合だ、
その中を エネルギーが流れている。
それは開口部だ。
その手を通して
その人の実存が会いに来ているのだ。
それは暖かく、生きていて、
あなたを信頼している。
仏陀のような人が人に触れる時は、
その接触はまったく別のものだ。
その質は違っている。
それは、
意識が全面的、
絶対的であれば、
あらゆる行為は常に
全面的なものになるからだ。

覚者が触るときは、
ただその接触になる。
彼はもはや何者でもない。
その全存在が
その接触になるからだ。
彼はその中に流れ込み、
そこ以外のどこにもいない。
彼はその接触の中にいるのだ。

その瞬間、
彼はもはや目でない。
もはや耳ではない。
その瞬間、
彼の全存在が
その接触に変容している。
彼は全身全霊で接触になっており、
その一触れで
人は自分が輝くのを感じる。
エネルギーが自分の中に流れ込む。

用意ができていなければ、
衝撃を受けることさえあり得る。
用意ができていれば、
その人は歓び、
それに喜悦するだろう。
覚者が人を見る時、
彼はただただその目になっている。
そうでしかあり得ない。
その内面が、
分裂していないからだ。
あなた方が見る時は、
見る一方で、
他にもたくさんのことをしている。
思考が続き、
分裂し続ける。
その目は全面的ではない。

覚者が人を見る時、
それは全面的だ。
その目は燃える太陽のようになる。
相手をさし貫き、
その人の実存に穴をあけ、
直接相手のハートに進むだろう。
もし、
相手が それを許すなら、
その人は二度とふたたび
同じではいられない。

あるいは、
相手が閉じたままでいる
こともあり得る。
すると、
彼にはその人を
貫くことはできない。
たとえ触れても、
彼は死体に触れているのだ。
相手は 閉じたままだ。

そこに意識と行動があれば、
その意識と行動は
必ず全身全霊のものになる。


Osho - Neither This Nor That

…FBに 投稿された友人の記事を転載します。

(OSHO 講話-抜粋)

マインドとは
ほとんど海のようなもの、
波に次ぐ波だ。
ある波はより高く、
ふたつの波の中間には
抑鬱(よくうつ)がある。
この絶えざる上下運動から
抜け出るための方法が
ふたつある。
 
一番易しいのは、
自分が有頂天に
なっているときが
醒めているべき瞬間だと
いうことだ。
意気消沈の中に、
苦悶の中にあるときは、
醒めていることは
より難しくなる。

喜びとともに、
至福とともに
流れているとき、
それこそが
醒めているべき瞬間なのだが、
人びとは
ちょうどこの逆をやる。
幸せであるときには、
覚醒のことなど
誰が気にするというわけだ。
そして
苦悶の中にあるときは、
たしかに
醒めていることについて、
苦悶から出ることについて
考え始める。
だが未だかつて、
苦悶から直接
抜け出られた者はいない。
 
最初に、
人は有頂天から
外に出なくてはならない。
もしあなたが先ず最初に、
自分が嬉しい瞬間に
醒めていられたら、
意気消沈や
落ち込みは来ない。
外に出る扉は、
有頂天からだ。
だから
これが一番簡単な方法だ。

 幸福でいて、醒めていなさい。
 喜んでいて、醒めていなさい。
 愛していて、醒めていなさい。

「こんなのは邪魔っけだ。
 すごく嬉しいんだから」
と言って、
覚醒を
脇に押しやってはならない。
覚醒は邪魔になる。
が、
そうではない。
初めのうちは
そう見えるかも知れないが、
じきにそれがあなたの歓喜
より高い頂上に連れていくことが
分かるだろう。
究極的には
覚醒と歓喜はひとつになる。
すると落ち込み、
意気消沈の瞬間、
苦悶は消える。

 
ふたつ目は、
必要もないのに
少数の人びとが従っている方法で、
これは難しい。
だがドイツ人である
あなたにとっては、
もしかしたら
このふたつ目が
正しい方法かもしれない。
自分が苦しんでいるときに、
醒めていようとするのだ。
そしてあなただけでなく、
歴史を通じて
世界中のたくさんの人びとが
それを試みてきた。
苦しみがない場合には、
彼らは
ただ醒めているだけのために
苦しみを創り出した。
断食をすると、
それが苦しみを創り出す。
寒い冬に
服も着ずに裸で暮らす、
すると
それが苦しみになる。
人間は実にさまざまなものを
発明する。
いろいろな方法で
自分を痛めつける。
 
たまに、
そのような体験からも
人が覚醒することがある。
それは
無用に非人間的なことだが、
ほとんどすべての宗教が
それを説いてきた。
どんなことでも
難しいことが
人間のマインドにはアピールし、
何であれ
明らかで単純なことは
それを忘れる傾向がある。
 
だがここでは、
あなたは
ドイツにいるわけではない。
またたとえ
ドイツにいたところで、
あなたは
ドイツ人になろうと
しているわけではない。
私とともにいる以上、
ドイツ人であるとか、
インド人であるとか、
中国人であるとか、
そういう病をすべて
捨てなければならない。
ただ人間であれば
それで充分だ。

私はあなたたちに
易しいことを教える。
私はあらゆる種類の
無用な苦しみに賛成しない。
もしそれが
避けられないのであれば
別だが、
私たちはその不可欠の
苦しみさえも変容させようと
努力してきている。
 
私に言わせれば、
もっとも容易な扉とは
何であれ
あなたが楽しいと思うものだ。
踊ること、
歌うこと、
そして
踊ったり歌ったりしている間、
醒めていることだ。
 
我を失わず、
そして自己同化しないことだ。
 
マインドの古い癖は、
何事にも同化することだ。
どんなことが起こっていても、
マインドはすぐに
それに自己同化する。
マインドは
鏡のようには機能せず、
フィルムのように機能する。
何であれ前に来たものが
それに刷り込まれる。
鏡は空っぽのままだ。
人びとが来ては去り、
上がり下がりはあるが……、
鏡はどんなものにも
我を失って自己同化したりしない。
 
ここでは私は、
祝うことを、
楽しむことを教える。
それこそが
あなたの究極の目覚めに
もっとも近い扉であることを
知っているからだ。
喜びに溢れた人が、
存在に近い人だ。
彼の喜びが
大きければ大きいほど、
彼と宇宙のハートとの
距離は小さい。

苦悶の中では
あなたは独りだ。
宇宙のハートは、
はるかに離れている。
あなたの苦悩が
その距離を作ったのだ。
だから
自分が苦悩しているときは――
それは人間的なことであり、
ときたま起こることなのだが――
油断なく醒めていなさい。
そしてもしあなたが、
ダンスがあなたの上に降り、
花々があなたの上に降り注ぐとき、
醒めていられるようになったら、
何かがまずくいったときに
醒めていることは
まったく難しくなくなる。
あなたは
見張りであることができる――
脇に立って、
自己同化せずに。
 
これが鏡のやり方だ。
そしてこれは
あなた方のいわゆる宗教家や
精神分析者、
あるいはいわゆる賢い人びとと
言われる人たちよりも
深く人間の本性を
知った人たちの方法だ。
だが
それはあなた次第だ。
もしあなたが
自己虐待を楽しむのなら、
自分の覚醒の訓練に
惨めな瞬間を選ぶといい。
だがあなたが
理解しており知性があれば、
あなたはもっとも易しく
もっとも近い道を選ぶだろう。

いずれにせよ、
何を選んだところで
結果は同じだ。
覚醒はあなたを
自己同化から自由にする。
あなたは
両方をやってみることができる。
少数だが、
幸福であるときに
我を失う人びとがいる。
おそらくその人たちにとっては、
自分が幸せであるときに
醒めていることは難しい。
マインドは
「なぜ醒めている必要がある? 
 こんなに至福に満ちた幸せな瞬間に
 宗教を持ち込むことはない。
 お前は若いし、
 健康で恋をしているんだ、
 こんな瞬間に
 なぜ教会を持ち出すんだ?」
と言う。
たしかに、
年老いて、
棺桶に片足を突っ込んだところで
あなたは神を思い出す――
だがそれでは遅すぎる。
そうなってからあなたは神に祈る――
だがそれでは遅すぎる。

だが
私といっしょにいれば
神はいない。
あなたを許せる人など
誰もいないし、
祈ることに何の意味もない。
あなたが
変わらなくてはならない。
あなたは変容のメカニズムを
理解する必要がある。
そしてそれはごく単純だ。
 
早朝の散歩で
小鳥たちが楽しげにさえずり、
樹々が朝日に照りはえ
あなたが平安を感じるとき、
油断なく醒めていなさい。
どんなことも
無意識状態の中で
起きるべきではない。
といっても
「ごらん、
 小鳥たちがさえずっている。
 なんと樹々が
 幸せそうなことか。
 見てごらん、
 何という平和な様子だろう……」
と独り言を言いなさい
というのではない。
それでは
すべてぶちこわしだ。

 言葉にする必要はない。
 体験しなくてはならない。

そして
楽しむ価値があると思った
瞬間に出会ったら、
その瞬間に醒めていなさい。
ゆっくり、
ゆっくり醒めていることが
あなたの一部になるだろう。
そしてその
醒めているというワークが
自己同化を破壊するのだ。

ときには
あなたは落ち込むだろう――
暗雲が来て、
生命が無意味に見える……
何の意味もない。
喜びの瞬間に得られ、
強められ、
結晶した
あなたの油断のなさが、
あなたの応援に来てくれる。
あなたは遠く離れていて、
深い奥底を知ることになる。
「このすべては
 周りで起きているだけで、
 私に起きているわけではない ――
 しかも
 これは変化し続ける。
 私の意識は
 まさに鏡としてとどまり、
 映し出すだけで同化はしない」
と。
 
だが古い習慣は、
なかなか死なない。
おおいなる努力が必要だ。
私たちは最初の最初から
それらを教え込まれてきたからだ。
これまでに
別の生涯があったのだとすれば、
科学者の計算によると私たちは
少なくとも
千万年にわたる
条件付けを担っている。
そして
目覚めに関する限り、
光明に関する限り、
もっとも危険な条件付けは
自己同化だ。
 
ほんの一瞬のうちに
あなたは自己同化してし、
それもまた過ぎ去ることを
忘れてしまう。
ほんの一瞬待っていれば……。
前のボーイフレンドが
離れていったのかね? 
喜んだらいい、
「すごいチャンス」と。
それが
私が教えていることだ。
新しいものが
やって来ているのだから、
古いものは
去るに任せたらいい。
それには
少し時間がかかる。
そのスペースの中で、
惨めでいるか
油断なく醒めて
待機しているかは
あなた次第だ。
 
だが毎日それは続く。
朝、あなたの気分は悪く、
そんな気分を
以前何度も味わったことを
知っている。
それは
そのままではいないのだから、
気にすることはないのだ。
悪いままにしておきなさい。
なぜ気にする? 
なぜそれに
注意を払うのかね?――
というのは、
注意はすべて
それを養うからだ。

ただ見守っていなさい、
その古い気分に
ショックを受けさせなさい……。
 
「それがどうしたの? 
 あなたは
 いつでも歓迎してきた……、
 何かが変化した。
 彼女は静かに坐っていて、
 古い嫌な気分があることを
 気にかけてもいない」と。
 
だがあなたは自分の生と
そのパターンを覚えてはいない。
それらの上がり下がりは
あなたに起こっているのではない。
それらはただマインドの中で
起こっているに過ぎない――
そして
あなたはマインドではない。
あなたは脇に立って、
そのゲームのすべてを
見守っていることができるのだ。
何か道を選ぶがいい、
だが何度も何度も同じ罠に
落ち込む古い癖を捨てなさい。
一度なら、
未知の領域を動いているのだから
許されるだろうが、
ニ度も同じ罠に落ちるとなったら、
そして三回、
また千回となると……! 
それではまるで何が起ころうと
同じ罠に落ちることに
決めてしまったみたいだ。
それは罠ではない、
それはあなたの決断だ――
あるいはもしかしたら、
あなたにはまったく意識がなくて、
夢遊病者のように
闇の中を歩いているだけ
なのかもいれない。
むしろ彼らの方が
上手く歩くかもしれない。
だがこの古い習慣は
変えなくてはならない。
しかもそれを変えるための
努力というような問題はない。
「私は変えよう」
と決断することはない。
単純な理解、
全状況に対する
単純な明晰性があれば、
古いものは変わる。
だが年輩の人間でさえ
まったく未熟な
子どものようにふるまい、
自分が本当は
一人前ではないことを証明している。
どうやら彼らは
年齢を重ねただけで
成熟してはいないらしい。

小さなアーニーの両親は
恐慌状態だった。
彼らの4歳の息子が
流暢に話し始めたところで、
それは可愛かったのだが、
ほとんどあらゆる言葉の中に
「くそったれ!(ファッキング)」
という単語を使うのだ――
これは実に下品なことだった。
何とか子どもにそれを
止めさせようとしてみたが、
どれも効き目がなく、
ついに彼らは買収することにした。
 
両親はアーニーに、
もし罵り言葉を止めたら
ジャネットの誕生パーティに
連れていってやれるのだがと言った。
父親はジャネットの母親に、
もし下品な嫌な単語を聞いたら
すぐにアーニーを
家に送り返してくれと頼んだ。
 
土曜日の2時半に
アーニーは出かけたが、
3時になると泣きながら戻ってきた。
 
「下品な言葉を
 使わないようにって
 言ったじゃないか」
と父親は叫んだ。
「くそったれ言葉なんか
 使わなかったよ」
とアーニーは叫んだ。
「くそったれパーティは、
 次のくそったれ土曜日までないんだ」

自分の振る舞いを見たら
大して違わないことが
分かるだろう。
同じことがずっと継続している。
理解し始めなさい――
単純な理解だ。
この沈黙に
ただ気づきなさい。
内側で
言葉を使ってはいけない。
裁いてはいけない。
 
何であれ起こっていることが
ただ映されているようにしなさい。
そしてそれが、
私たちが
上がり下がりに同化せずに、
自分の生に
バランスをもたらす方法に
ならなければならない。


Osho - Om Shantih Shantih Shantih