saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

…「---決して 途中で止まってはいけない」OSHO

…友人の FB 投稿記事(講話/抜粋)を転載します。


また
人は数知れない
誘惑に惑わされては
ならない。
これが起こるのは、
静かな境地が
はじまった後、
突然
あらゆる
妄想のつながりが
続々と
現れてくるときである。
それを
打ち破ろうとしても、
どうにもならない。
その妄想を追うと、
気分が
軽くなったような
感じがする。

精神分析
道を誤ったのはここだ。
精神分析
自由連想の技法に
なってしまった。
あなたは
どこまでも
つづけてゆくことができる。
想念が
次から次へと現れ、
それが
無限につづいてゆく。

次から次へと
現れる想念から
身を引いたままで
いなければいけない。

想念はやって来て、
四方から
あなたを取り囲む。
想念は雲に似ている。
わずかに
顔をのぞかせていた
青空さえも消えてゆく。
そして
想念で
はち切れそうになると、
人は本能的に
闘いはじめる。
瞑想とは
無念無想の状態
であることを読んで
知っているからだ。
だが、
闘っても
けっして
無念無想にはなれない。
闘っても
負けるだけだ。
闘うことそのものが
敗北の原因になる。
影と闘うことはできない。
闘っても負けるだけだ。
自分の影と
闘おうとしたら、
あなたは
負けるしかない――
影が
とても強いからではなく、
影など
存在しないからだ。

存在しないものと闘って、
どうして
勝つことができるだろう?
想念は影だ。
闘ってはいけない。

闘わなければ、
もうひとつの道が
開かれる――
精神分析
選んだのはそれだ。
その場合には、
想念とともに動き、
想念を自由に漂わせ、
自由に連想を起こらせる。
ひとつの想念が
別の想念に結びつき、
またその想念が
別の想念に結びついて
次々と
連想が起こり、
それが
延々と果てしなく、
うんざりするほど
つづいてゆく。

これには
一種のくつろぎに似た
感覚がともなう。
精神分析が終わると、
人々が安堵し、
救われた気持ちになるのは
そのためだ。
救われたわけでもないし、
助かったわけでもない。
たんに闘いが
消えただけだ。

あなたが
緊張するのは
闘うからだ。
闘わなければ
緊張は消える――
そして
緊張が消えることで、
あたかも
救われたような気分になる。

ムラ・ナスルディンは、
2サイズも小さい、
きちきちの靴をはいていた。
彼は一日中不平をこぼし、
靴に腹を立てていた。
ある日、
私は彼に尋ねた。
「靴を変えれば
 いいじゃないか。
 どうして
 文句ばかり
 言っているんだい?
 誰もその靴をはけと
 無理強いしていないだろう。
 新しい靴を
 買えばいいじゃないか」
彼は言った。
「だめだ!
 絶対にいやだ!」
私は言った
「なぜだい?」
彼は言った。
「それが唯一の
 慰めだからだよ。
 一日中
 靴と格闘したあと、
 家に帰って
 靴を放り出し、
 ベッドに横になると、
 とても気分がいいんだよ!」

それは気分がいい。
想念と闘っても
勝ち目がないので、
闘うことをやめ、
想念を自由に漂わせ、
想念とともに動いてゆくと、
気分がよい。
精神分析の秘密は
ひとえにそこにある。
精神分析
まったく助けにならない。
闘いをやめさせるから、
気分がよくなるだけだ。

呂祖は言う。
「どちらも正しくない。
 闘う必要はないし、
 想念を野放しにして、
 その後を追う必要もない。
 あなたは見守る人、
 目撃者のままでいればいい」

これは
主人が
召使になってしまったことを
意味する。

想念の後を追えば、
主人が
奴隷になってしまう。

もし
このような状態に
長くとどまっていると、
幻想に満ちた
欲望の世界に入ってしまう。

主人の立場を
取りもどさなければならない。
あなたは奴隷ではなく
主人にならねばならない。
主人であるとは
どういうことだろう?

目撃者でいることが
主人であることだ。

そこにある想念を
見守りなさい。
穏やかに、
静かに、
見守りなさい。
想念が
来ては去るに
まかせなさい。
想念が
現れては消えるに
まかせなさい。

あなたは
ただ気づいている――
想念が現れ、
とどまり、
去ってゆく――

すると、
まもなく
想念が現れる回数が
どんどん減ってゆく
ポイントが来る。
そしていつの日か、
すきまが現れ……
いっさいの想念が消えている。
そのすきまのなかで、
最初の神の体験が起こる。

最善の場合には、
天国に生まれ、
最悪の場合には、
野狐の世界に生まれる。
確かに、
こういった野狐の霊は
有名な山々に住み、
風や月、
花や果実を楽しみ、
珊瑚のような樹や
宝石のような草を
楽しんでいるが、
果報が尽きれば、
再び混乱の世界に
生まれ変わるのである。

瞑想がうまく進むと、
あなたは天国に、
永遠の至福のなかに
生まれる。
しくじり、
道をはずれると……
道家では、
そうして道を
はずれることを、
最悪の場合には、
野狐の世界に生まれる、
と表現している。

野狐とは
詩人のスピリットだ。
野狐とは
空想力に富んだ
精神のことだ。
瞑想の途中でしくじっても、
何かが得られる。
あなたは樹や花、
世界やその美しさを
前よりももっと
楽しむことが
できるようになる。

だが、
やがて
瞑想によって
つくりだされた
エネルギーは尽き、
あなたは
昔の混乱に
舞いもどらざるを
えなくなる。

いいかね、
瞑想がうまく進むと、
喜びは永遠に
あなたのものになる。
だが、
失敗しても
すばらしい喜びや
詩の瞬間が
いくつかは訪れる。
瞑想を
しくじった者は
詩人になる。
瞑想を
達成した者は
見者になる。

見者は
永遠の詩人であり、
詩人は
つかのまの詩人だ。

だから、
ときどき
こういうことが起こる。
あなたは瞑想を
少しかじるが、
気分が高揚すると
やめてしまう。
あなたは
すべてが達成されたと
思い込む。

緑の樹も
赤い薔薇も
鮮やかさを増し、
恋はすばらしく、
様々なことが
起こりはじめている――
もう
面倒なことはやめよう。
だが、
つくりだされた
エネルギーは
まもなく尽きる。
あなたは野狐になる。

世界中で
薬物(ドラッグ)によって
生み出されているものは
それだ。
薬物は
野狐しか生みださない。
だが、
瞑想も、
完結しなければ、
薬物と
変わらないものになる。

ひとたび
決意したら、
全身全霊で
関わらねばならない。
あなたは
何があっても
その果てまで
行かねばならない。

それは挑戦だ。
この挑戦を受け入れ、
内なる探求の
最も美しい旅に
出かけなさい。
そして到達するまで、
台風の目に入るまで、
けっして途中で
止まってはいけない。



Osho - The Secret Of Secrets 

…愛すること---

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愛だけが
我が家(home)だ。
家が
愛に満ちてるとき
我が家になる。
そうでなければ、
それは家のままだ。
愛が触れることで、
そのすべては変容する。
愛なしでは、
人は地上の
ホームレスな放浪者だ。
愛と共にあれば、
ただちに人は
地上に根づきはじめる。
人が根づきを
感じはじめると、
中心の定まりを
感じはじめると、
人は我が家に帰る。

愛するハートは
あらゆるところを
我が家にする。
そして、
愛さないハートには
どこにも我が家がない。
人がハートに
愛を築くことなくしては、
見知らぬ人、
部外者のままだ。
私たちは
外側に
大きな城を
築くことができるが、
それが
我が家になるとは
限らない。
たとえ
小さなコテージや
小屋であっても、
あなたのハートに
愛を築けば、
あなたが愛を放つと、
それは我が家になる。

愛こそが
存在の
我が家であることを
覚えておきなさい。
その他の家は
かわいそうな
代用にすぎない。
愛はあなたの
家であるだけではなく、
あなたが
それを築いたなら、
他者の家にもなる。
そして究極には
それは神の家となる。
人の愛は
最後には
神が滞在する
寺院となる。



Osho - Turn On, Tune In And Drop The Lot

…瞑想「正しい状況 & 正しい空間」OSHO

…友人のFB投稿記事です。



この静かな境地に
入っているときには、
正しい状況と
正しい空間を
つくらなければならない。

言うまでもないことだ。
薔薇の園を
つくろうとしているなら、
土をそっくり
入れ替えなければならない。
石を取り除き、
古い根を取り除き、
雑草を
取り除かなければならない。
あなたは外界から守られた、
新しい状況と
新しい空間を
つくりださなければならない。
あなたは周囲に柵を
設けなければならない。
薔薇を栽培するつもりなら、
こうしたことを
すべて整える必要がある。

瞑想は薔薇、
最もすばらしい薔薇、
人間意識の薔薇だ。
この書物
『黄金の華、
 黄金の薔薇の秘密』
と呼ばれているのは
そのためだ。
正しい状況とは何だろう?
正しい空間とは何だろう?

世事の只なかで
坐ってはいけない。

瞑想が深まる場所を
見いださなければならない。
例えば、
映画館に行って
最前列に坐ったり、
駅に行って
プラットホームに坐るよりも、
樹の下に坐るほうが
助けになる。

いまだに
タオがあたり一面に流れ、
その波動を放ち、
脈打ち、
ほとばしっている大自然、
山々のなか、
樹々のもと、
川のそばへ
出かけていったほうがいい。

樹は
絶えざる瞑想のなかにある。
樹の瞑想は静かであり、
無意識だ。
私は樹になりなさいと
言っているのではない。
あなたはブッダ
ならなければいけない!

だが、
ブッダと樹には
共通点がひとつある。
彼は樹のように青々と繁り、
樹のように樹液に富み、
樹のように祝っている。

もちろん、
違いもある――
ブッダには意識があるが、
樹は無意識だ。
樹は無意識な状態で
タオのなかにあり、
ブッダは意識とともに
タオのなかにある。
だが、
その違いは大きい。
天と地ほどの差がある。

だが、
樹のそばで坐っていると、
まわりで
美しい鳥たちが歌い、
孔雀が舞い踊り、
流れる川のせせらぎが
聞こえてくる。
あるいは
滝のそばで坐っていると、
そのすばらしい音楽が
聞こえてくる。

自然がまだ乱されず、
汚されていない場所を
見つけなさい。
そういう場所が
見つからなければ、
戸を閉めて、
部屋のなかで坐りなさい。
もしそれができるなら、
瞑想だけをする部屋を
用意するといい。
ほんの片隅でいいから、
瞑想だけに使うようにする。

専用にするのは、
どんな種類の行為も
独自の波動を放つからだ。
そこで瞑想だけをすれば、
その場所は瞑想的になる。
毎日瞑想をするたびに、
その場所は
あなたの瞑想の波動を
吸収する。
翌日部屋に入ると、
その波動があなたに
返ってくるようになる。
それは助けになる。
それはもどってくる。
それが応えてくれる。

寺院、教会、
モスクの背景には
そのような着想がある。
その着想はすばらしい。
みんなが
祈りや瞑想に使う部屋を
個別にもつことは
できないかもしれないが、
村で専用の部屋を
設けることならできる――
人がたむろせず、
俗事が行なわれることのない、
川岸の樹々に囲まれた寺院。
瞑想がしたくなれば、
その寺院にゆけばいい。
そして
寺院にいる人の
邪魔をしてはいけないことを
みんなわきまえている。

聖地とは
瞑想にふさわしい条件を
満たした
空間に他ならない。

激しい怒りを
感じているなら、
それは瞑想に
ふさわしい時ではない。
それでは
流れに逆らうことになる。
ひじょうに貪欲に
なっているなら、
それは瞑想に
ふさわしい時ではない。
なかなか瞑想に
入れないだろう。

だが、
簡単に
瞑想に入ってゆける
瞬間がある。

太陽が昇ってゆく。
日の出を見ていると、
突然、
内側が
ひっそりと静まり返り、
まだあなたは
騒がしい街の一部ではない――
これこそ
瞑想にふさわしい時だ。

今日は気分がよく、
健やかで、
誰とも言い争いをしていない――
これこそ
瞑想にふさわしい時だ。

友達がやってきて、
あなたは
愛に満たされている――
これこそ
瞑想にふさわしい時だ。

あなたは
恋人とともにいて、
二人は
このうえもなく幸せだ――
一緒に坐って瞑想するがいい。
恋人や友人と一緒に
瞑想することができたら、
あなたは
人生で最大の喜びが
生まれているのを
見いだすだろう。

正しい状況を
見いだせない者など
ひとりもいない。
二十四時間のうちには、
たやすく
瞑想に変容できる瞬間が
何度も訪れる。
そういった瞬間には、
あなたは自然に
内側に
入ってゆきつつあるからだ。

満天の星空の夜、
大地に身を横たえ、
星を眺め、調和を感じ……
そして瞑想するがいい。


Osho - The Secret Of Secrets

…FB より転載---

OSHO:主人とは、観照しているあなたの自己だ。
痛みが来て、その後に楽しみが来る。
幸せがあり、惨めさがある。
そして、瞬間ごとに、何がやって来ようとも、
あなたはそれと同化してしまう。
あなたは客になる。主人を覚えておくがいい。
客がいるときは、主人を覚えておきなさい。

客には実に多くのタイプがある——
気持ちよかったり、嫌な感じだったり、好きな客、自分の客であって欲しくない客、いっしょに住みたい客、避けたい客——
だが、すべて客だ。

主人を覚えておきなさい。
絶えず主人を覚えておきなさい。
主人に中心を据えているがいい。
自分が主人であるということにとどまりなさい。
そうなったら、分離がある。
そうなったら、隙間が、合い間がある——橋は壊されている。
この橋が壊されるやいないや、放棄という現象が起こる。
そうなったら、あなたはそのなかにいるが、その一部ではない。
そうなったら、あなたは客のなかにいても、依然として主人だ。
あなたは客から逃げる必要はない——必要がない。

OSHO

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成果は副産物だ。
成果のことは
考えなくてもいい。
それについて考えると、
それを
得られなくなる―
それが条件だ。
成果のことを
考えてはならない。
成果のことを
考えはじめたら、
あなたは
分裂してしまうからだ。

そうなったら
修行は
中途半端なものになり、
実質のある精神(マインド)は
未来に飛んでゆく―
「どうやって成果をあげよう」
と。
あなたは
すでに成功した自分の姿を、
ブッダになった自分の姿を
夢見はじめている―
どれほどの美が、
どれほどの恵みが、
どれほどの祝福が
あなたのものになるかを。

精神が
貪欲(どんよく)さの、
野心の、
エゴのゲームを
演じはじめている。
けっして
成果のことを
考えてはならない。
成果はおのずと生まれる
副産物だ。

本当に誠実に
自分自身に
働きかけていたら、
影があなたに
つきそうように、
成果はおのずと
ついてくる。
成果をあげることを
目的にしてはならない。
呂祖が
「成否のことは
 思い煩わず、
 静かに黙々と」
 働きかけなさい」
と言うのはそのためだ。

そして、
いいかね、
成果のことばかり
考えているということは、
失敗の恐れも
念頭から離れない
ということだ。
それらはともに
連れそっている。
それらは
ひとつの包みに
入っている。
成功と失敗は
切り離すことができない。

成果のことが
頭にあるかぎり、
どこか奥深いところに
恐怖もある。
あなたがそれを
なし遂げられるかどうか
誰にもわからない。
あなたは
失敗するかもしれない。

成果を思い浮かべると
未来に連れ去られ、
貪欲さというゲーム、
自我の投影、
野望が湧き起こる。
そして
恐怖もまた
あなたに動揺を与え、
身震いさせる―
あなたは
失敗するかもしれない。
しくじる恐れがあるために、
あなたはたじろぐ。

このたじろぎ、
この欲望、
この野心を抱えながら、
静かに
働きかけることなど
できない。
その実践は
混乱したものになる。
ここで
働きかけていながら、
目は向こうを見ている。
この道を歩きながら、
目はどこか
空の彼方を見つめている。

星の研究をしていた
ギリシャ
占星術師のことを
聞いたことがある。
ある満天の星空の夜に、
彼は井戸に落ちた。
星を見ながら
歩きまわっていたからだ―
星に夢中になるあまり、
彼は自分が
どこにいるのか
忘れてしまい、
どんどん
井戸に近づいていって、
とうとう落ちてしまった。

近所に住んでいた老女が
物音を聞いて駆けつけた。
彼女は井戸をのぞき込み、
縄をもってくると、
偉大な占星術師を
引きあげた。
占星術師は
大いに感謝した。
彼は老女に言った。
「ご存じでは
 ないでしょうが、
 私は国王から
 特別に任命された
 王宮の占星術師です。
 料金は安くありません―
 大金もちだけが
 未来を占うだけの料金を
 払えるのです。
 でも、
 あなたは
 私の命の恩人です。
 明日どうぞ
 私のもとにおいでください。
 あなたの手相を読み、
 出世図を調べ、
 星占いをしてあげましょう。
 そうすれば、
 あなたの未来が
 何から何まで
 はっきりとわかりますよ」

老女は笑いだして、
こう言った。
「そんなことは
 すべて忘れちまいな。
 おまえさんは
 目の前にある井戸さえ
 見えないくせに、
 私の未来を
 占おうって言うのかい?
 まっぴらごめんだね!」

あまり先を
見過ぎてはいけない。
さもないと、
目前の一歩を
踏みそこなうことになる。
呂祖は、
成果はおのずから
やって来ると言う。
成果のことは
放っておきなさい。

この<存在>は
実に気前がよい。

報われないものなど
何ひとつない。

これがインドの
カルマの哲学のすべてだ―
何事にも善い報いか
悪い報いが
必ずついてくる。
間違ったことをすれば、
悪い報いが
影のようについてくる。
正しいことをすれば、
必ず善い報いがやって来る。

報いの善し悪しを
気にかける必要はない。
少しも考える必要はない。
あなたの意識の一片すら
それにかかずらう必要はない。
それらはやって来る―
ひとりでにやって来る。

あなたは道を歩きながら、
影がついてきているか
どうかを
確かめるために
何度も何度も
振り返るだろうか?
何度も何度も振り返り、
影がついてきているかどうか
確かめている人がいたら、
あなたは彼は狂っていると
思うだろう。

影はついてくる。
必ずついてくる。
だから、
あなたの働きかけが
正しい方向を向き、
全身全霊で、
正しい努力をもって
行なわれていれば、
成果はひとりでにやって来る。


Osho - The Secret Of Secrets

…「呼吸法」

…友人の FB 投稿記事(OSHO 講話抜粋)を シェアします。



坐るときには、
瞼(まぶた)を下げて、
下げ振りをつるすように
視線を定め、
光を下方に向ける。
しかし、
下にうまく注意を
向けられないときには、
呼吸に耳を傾けるように
ハートを導く。
出入りする息の音が
聞こえるようではいけない。
聞こえるのは乱れた息である。
息が乱れると、
たちまち呼吸は荒く、
うわついたものになり、
伸びやかに広がってゆかない。
こころを
ひじょうに軽やかで
微細な状態に
しなければならない。
枷(かせ)を
解かれれば解かれるほど、
こころの働きは
微(かす)かになり 、
微かになればなるほど、
こころは静かになってゆく。

だから
呼吸に耳を澄ませなさい。
音が聞こえるのは、
息が荒いということだ。
乱れているのは、
息が荒いということだ。
感じるだけで
音がしなければ、
呼吸は穏やかで
静かになっている。

それが
<存在>と調和し、
自分自身と調和し、
実在と調和する正しい方法だ。
呼吸が静かになればなるほど、
あなたはさらに
深みへと入ってゆく。

ときどき呼吸が止まると……
呼吸は実際に
止まることがある!
それはここで
多くのサニヤシンに起こっている。
彼らは私に知らせにやって来る。
なぜなら、
彼らはひどく
おびえてしまっているからだ。
呼吸が止まると、
自分は死んでしまうという考えが
脳裏をよぎる。

先日、
サグナが質問をした。
彼は死んでゆくような
気分になったという。
彼はおびえてしまった。
おびえてはいけない。
呼吸が止まったら、
そのままにして、
それを楽しみなさい。
あなたは
死んだりはしない。
そのまさに
呼吸が止まることで、
あなたは実在の
真の姿を知るだろう。
永遠の生を知るだろう、
死を知らないものを
知るだろう。

不意に
こころは
限りなく静かになって、
動きを止める。
そうなったら
真の呼吸が出現し、
こころの真の姿が
意識されるに
到ったのである。

そのままに
しておくことができれば……。
だから
私はサグナに言った。
「サグナ、馬鹿だね。
 君は取り逃がしてしまった!
 今度それが起こったら、
 取り逃がさないように」

呼吸が止まれば、
真の呼吸が出現し、
真の生命が現れる。
呼吸に依存しない生命、
永遠の生命、
肉体の一部ではなく、
肉体が崩れ、
塵(ちり)となって消えた後にも
残る生命が。

そしてその瞬間に、
意識が達成される。
人はブッダになる。
ブッダとは
完全に意識的になった、
目覚めた人のことだ。

ハートが軽やかであれば、
息も軽やかになる。
それは
こころのあらゆる働きが
気(呼吸エネルギー)に
影響を与えるからだ。
息が軽やかであれば、
こころも軽やかになる。
それは気のあらゆる動きが
こころに影響を与えるからだ。
こころを安定させるには
気を養うことから
はじめなければならない。
こころに
直接働きかけることは
できないからだ。
それゆえに
手がかりとして
調息法を用いる。
これが
「気の力を集中して保持する方法」
と呼ばれているものだ。
弟子たちよ、
おまえたちは"動き"の本性を
理解していないようだ。
動きは外界の事物によっても
引き起こされる。
それは支配される
ということに他ならない。
坐るだけで
こころが揺れ動くなら、
身動きしないことによって
それを鎮めることは
できないだろうか?
こころと気が
相互に
影響し合うことを知った
偉大な聖者たちは、
後世の人々に役立つよう、
より簡易な方法を
考案したのである。

あなたは
それを知っている。
走れば、息は激しく乱れ、
どんどん速くなってゆく。
ヨーガの各種の体位は
そのためにある―
例えば完全な蓮華座。
背筋をまっすぐ伸ばして坐り、
完全に沈黙して、
大理石の彫像に
なってしまったかのように、
不動の姿勢を保つ。
それはランニングとは
まったく逆の姿勢だ。

これは呼吸を静めるための
外的な手段にすぎない。
走ることで
呼吸を速めることができるなら、
仏像とそっくりな姿勢で
坐ることで、
それを鎮静させることも
できるはずだ。

身動きせず、
仏像のように坐っていれば、
確かに呼吸は
だんだんゆるやかになってゆき……
やがて止まる。
最初はほんの一瞬にすぎない。
心臓発作(ハートアタック)か何かに
襲われたのではないかと
恐れる必要はない。
それは
神の到来(ゴッド・アタック)だ。


Osho - The Secret Of Secrets 

…全面的な 明け渡し------

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純一なハートで
決然と実行しなければならない。
そうすれば成果は求めずとも、
おのずからやって来る。

もっとも重要なのは、
成果を求めている者は
すでに
分裂しているということだ。
そうなったら、
あなたのハートは働いていない、
すでに
成果に目を奪われている。

分裂していたら、
成果をあげることはできない。
成果をあげられるのは、
ことの成り行きや結果を気にせず、
旅そのものを
このうえもなく楽しみ、
目的地のことなどかまわずにいられる
分裂していないこころだけだ。

ゴールのことなど
まったく気にかけない者だけが
たどり着く―
彼らのマインドは
少しも分裂しておらず、
旅の一瞬一瞬が、
旅の一歩一歩が
ゴールになるからだ。
どこいいようと、
自分がいるところが
ゴールになる。
成果のことなど
まったく気にかけない
スピリチュアルな道の上にいる人々が
成果をあげる。

成果を気にかけていたら、
成果をあげることはできない。
思考が未来のどこかにあって、
あなたは
現在で働いていないからだ。
そして、
仕事が現在において
全一に為されてはじめて、
成果をあげることができる。

この瞬間が
次の瞬間を生んでゆく。
この瞬間が
全一に生きられたなら、
次の瞬間は必ず
より深い全一性を、
より高い全一性の質を
おびるようになる。

だが
人々は分裂したままだ。
この問題は考察するに値する。
なぜなら、
これは
すべての人の問題だからだ。

先日、
アショカが手紙を書いてきた。
彼はここにいるが、
まだ部屋に
サティヤ・サイババの写真を
飾っているそうだ―
部屋に
誰の写真を飾ってもかまわないが、
それはたんなる部屋の問題ではない。
さあ彼は悩んでいる。

私は彼に言った。
サティヤ・サイババのところへ
 行きなさい。
 そして、
 どうか向こうでは
 私の写真を
 部屋に飾らないでほしい。
 そうしないと、
 あなたはまたもや
 取り逃がしてしまうからだ。
 ここにいてもいいし、
 あちらにいてもいいが、
 大切なのは純一なハート、
 まとまりをもったこころだ。
 半身でいるくらいなら、
 私とともにいるよりも
 サティヤ・サイババのもとに
 いるほうがいい」

だが、
私には彼の問題がわかる。
彼は向こうでも
私の写真を離さないだろう。
だから、
彼がしくじるのは
目に見えている。

人は選ばなければならない。
人は決断しなければならない。

人生の旅路を一歩進むごとに、
人は岐路に立たされ、
選ばなければならなくなる。
すべての道を
わがものとすることは
できないし、
すべての道を歩くことは
できないからだ。
私はものごとの善し悪しを
云々しているのではない。
何であれ、
あなたが全身全霊で選んだものが正しい、
と私は言っているのだ。

ときには
全面的な明け渡しがあったがゆえに、
光明を得ていない師のもとですら
弟子が光明を得たことがある。

そして
申し分のない師のもとにいながら
何ごとも起こらないということも
往々にしてある。

師が完全であるか否かよりも、
弟子の全一性のほうが問われる。

間違った人物のもとにいても、
あなたは変容を遂げうる。
その間違った人物でも
あなたを変容させられる
というのではないが、
あなたに
全一な決断があれば、
そのあますところのない決断が
あなたを変容させる。
そのことのほうが
はるかに重要だ。

それがなかったら、
仏陀のような人と
ともにいることができても、
あなたが半身にとどまり、
分裂しているなら、
何ごとも起こらない。
いかなる分裂も―
未来と現在、
目的地と旅、
この道とあの道、
この師とあの師―
分裂はどれもみな危険だ。
そうなったら
あなたのエネルギーは
無駄に費やされ、
あなたは責任を
他人に転嫁するようになる。

たとえば、
ここでアショカに
何も起こらなかったら―

こんなやり方では
何ひとつ起こるまい―
当然、
彼は間違った場所にきてしまったと
結論づけるだろう。
彼は自分が分裂しているという
ポイントを見ようとしないだろう。
彼には、
間違った場所にきてしまった、
「この場所は私には向いていない」
ということだけしか見えない。
だが、
自分が分裂しているかぎり、
どこにいても、
同じことが何度も何度も
くり返し起こるだろう。

勇気を奮い起こしなさい。
私はマインドが
ずる賢く振る舞いたがるのを
知っている。
頭は言う。
「両方
 とっておけばいいじゃないか。
 何が起こるかわからないぞ。
 どちらも選べるように
 しておくんだ。
 こっちがうまくゆかなくても、
 あっちがうまくゆくかもしれない」

だが、
生はそのようには動かない。
ケーキを食べながら
取っておくことはできない。
それは不可能だ。



Osho - The Secret Of Secrets