saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「友人のFB投稿記事---」

(…ソクラテスの 場合---)
 
人は死を
外側からしか見ない。
あなたは他の誰かが
死んでゆく姿は目にしても、
自分自身が死んでゆくのを
見たことはない。
誰も自分自身が
死ぬのを見た者はいない。

ソクラテス
毒を盛られたとき、
胸をときめかせていた。
弟子たちが
涙を流して悲しんでいると、
彼は言った。

「悲しんではいけない。
 まもなく
 私は逝ってしまう。
 そうしたら
 心ゆくまで
 悲しむがいい。
 今は、
 私に起こっている
 この大いなる実験を
 見るがいい。

 私は死というものに
 ひじょうに
 興味をそそられている―
 私はほんとうに
 死ぬのかどうか。
 この機会を
 逃してはならない。
 私のまわりに坐って
 見守りなさい」

師は
みずからの生を通して
教えるだけでなく、
みずからの死を通しても教える。
師はあらゆる機会を使う―
弟子に教えるためには
みずからの死さえも使う。

彼が大きな声を出し、
ひどく腹を立てながら
「涙を流したり、
 悲しむのはやめて、
 近くに来るのだ!
 この機会を
 逃してはならない!」
と言ったので、
弟子たちは目を向けた。
すると
ソクラテスは言った。

「待ちなさい、
 毒がまわってきつつある。
 さあ、
 私の内側で何が起こっているか
 話してあげよう。
 そうすれば、
 おまえたちも
 目に見えないものに
 気づくことができるだろう」

さらに彼は続けた。
「膝から下は死んでしまった。
 だが、
 私自身は少しも変わらず、
 前と同じように
 何も損なわれていない」

さらに彼は続けた。
「脚全体が死んでしまった。
 腰から下は何も感じない」

彼は弟子に足に触って、
つねってみるように言ったが、
何も感じることができなかった。

彼は言った。
「感覚がないのは、
 私の身体の半分が
 死んでしまったということだ。
 だが、
 私は今まで通り
 まったく損なわれていない。
 内なる感覚は、
 半死半生といった感じではない。
 私は今まで通り生きている!
 身体の半分が死んでしまったが、
 私の実存は影響を受けていない」

やがてゆっくりと
手が死にはじめ、
呼吸が止まりはじめると、
彼は最後の言葉を語った。
彼は言った。

「だんだん
 舌がまわらなくなってきたので、
 もうしゃべれない。
 だが、
 最後に
 言っておきたいことがある。

 身体のほとんど9割が
 死んでしまったが、
 私は十全に生きている。
 これから察するに、
 おそらく
 身体が死んでしまっても、
 私は生きているだろう。

 身体の9割が
 死んでしまっても、
 私は今まで通り
 何も損なわれていないからだ。
 だから最後の1割が
 死んでしまっても……。
 おまえたちは私の内側で
 何が起こっているのか
 見ることができないが、
 私は見ることができる」

ソクラテスは、
ギリシャの他の哲学者のような
凡庸な哲学者ではない。
彼の弟子のプラトン
アリストテレスでさえ……
アリストテレスは、
実のところ、
弟子ではなく敵だ。
彼はソクラテス
まったく理解していない。
彼が提唱したものは
完全にソクラテスに反している。

ソクラテスは神秘家だ。
彼の哲学は探求の方法にすぎない―
それは実に鋭い探求だ。
彼は死でさえもはずさない。
彼は死のなかを探ってゆく。
最後の瞬間まで、
彼はみずからの
探求の方法に忠実だった。

死は外側からしか
見ることができない。
あなたは他の人々が
死んでゆくのを目にする。
だが、
生きているというのは別のことだ。
生は内側から見ることができる。
生きていれば苦痛や快楽を覚え、
愛したり、
恐怖を抱いたりすることがある。
生きていれば
創造することができる―
ないものを考え出し、
それに形を与えることができる。

創造的な人が
もっぱら生の高次の姿を
知ってゆくのはそのためだ。
なぜなら、
創造するとき、
人はみずからのエネルギーを
最大限に発揮するからだ。
創造するとき、
人は神の一部になっている。

どうして人が
それを為しうるのかは神秘だ。
どうして人が
存在しうるのかは神秘だ。
結果には
すべて原因があるにちがいない。
私たちが
「因果の法則」と呼んでいるのは
まさにそれだ―
私たちはそう教えられてきた。
だが、
私を今ここにあらしめている原因を
私は見つけることができない。

私は奇蹟に運ばれているのを
自覚している。
私の理性は
私によくつくしてくれるが、
私という
存在(ビーイング)の神秘の前では
色を失う。
理性そのものが
この神秘の道具なのだ。
理性が神秘を知りえないのは
そのためだ。

あなたは
内側を見なければならない。
生が何であるかを見るには、
まず内側からそれを
感じ取らなければならない。
そして生を感じ取るための
最良の方法は
創造的になることだ。
そうすれば
最大限の力が
発揮されるからだ。

Osho - The Secret Of Secrets

…「人は最初から はじめなければならない---」OSHO,

…友人の FB 投稿記事をシェアします。



いにしえの寓話によると、
世界を創造していた神のもとに
四人の天使が近づいてきて、
こう質問した。

「どのようなやり方で
 創造なさっているのですか?」
と最初の天使が尋ねた。

二番目の天使は
「なぜそんなことを
 なさっているのですか?」
と尋ねた。

三番目の天使は
「仕事が終わったら、
 私にいただけますでしょうか?」
と尋ねた。

四番目の天使は
「お手伝いいたしましょうか?」
と言った。

最初の問いは
科学者のものだ。

二番目の問いは
哲学者のものであり、

三番目の問いは
政治家のもの、

四番目の問いは
宗教的な人物のものだ。

科学的な探求は、
万物を偏りのない目で観察する。
科学者は
客観的でなければならない。
客観的であるために
科学者は
身を引いたままでいる。
科学者は
参加することができない。
身を乗り出すと、
ただちに
巻き込まれてしまうからだ。
それゆえに科学者は
生命や<存在>の表層を
知ることしかできない。
内奥の中核は
科学には明かされずに残る。
科学的な手法そのものが
妨げになる。

哲学者は
憶測するだけであり、
けっして実験をしない。
哲学者は「なぜか?」と
際限なく問い続ける。
しかもその問いに
どんな答えが与えられても、
再び「なぜか?」と
問うことができる。
哲学を通しては
いかなる結論に到る
見込みもない。
哲学は
結論を下せないままでいる。
それは不毛な行為であり、
どこにも
行き着くことがない。

政治家は
ひたすら世界を手に入れ、
それをわがものにしたがる。
政治家ほど危険なものはない。
なぜなら、
彼は最も暴力的だからだ。
政治家が生に示す関心は、
生そのものに
向けられているのではなく、
みずからが握る権力に
向けられている。
彼は権力に飢え、
権力に狂っている。
彼は狂人であり、
破壊的だ。

生きているものを
所有したとたん、
あなたはそれを殺してしまう。
なぜなら、
何かが財産になったとたん、
それは生命を
失ってしまうからだ。

樹を所有すれば、
その樹は
もはや生きてはいない。
女や男を所有すれば、
あなたは相手を
殺してしまっている。
何かを所有すれば、
その結果は死でしかない。
というのも、
所有できるのは
死だけだからだ。

生は自由だ。
生は基本的に
自由であり続ける。
生を所有することはできない。
生を銀行に
預けることはできない。
生を線で
囲い込むことはできない。

「これは私のものだ」
などとは言えない。
そんなことを言うのは
敬意を欠いている。
そんなことを言うのは
自己中心的だ。
そんなことを言うのは
狂っている。

生こそが
私たちを所有している。
どうして私たちが
生を所有しえるだろう?

私たちはもっともっと
生の手中に
落ちていかなければならない。
ゲシュタルト
そっくり
変わらなければならない。
所有欲を抱くことから、
人は全体に
身をゆだねられるように
ならなければいけない。

政治家が
生の真実を知るということは
けっしてない。

宗教的な人は参加する。
彼は生とともに踊る。
彼は<存在>とともに歌う。
彼は生に手を貸す。

彼は<存在>に
明け渡しており、
身を引いていないし、
超然としてはいない。
彼は実際には
どんな質問もしない。
彼は知識を
追い求めていない。
彼の努力はすべて、
<存在>といかに
ひとつになりきるかに
向けられている。
それゆえに
東洋には
究極の体験を表すのに
「サマーディsamadhi」
という言葉がある。

それは
二つの言葉からきている。
まず sam ―
sam は
一緒になることを意味する。
同じ sam という語根が
英語にも入って、
sympathy(共感)
symphony(交響曲
という言葉のなかに見られる。
少し変化して
synthesis(統合)
synchronicity(共時性
という言葉のなかにもある。
sam は
一緒になることを意味する。

adhi は主、神を意味する。
「サマーディ」とは
神との合一、
神とひとつになることを
意味する。
そして宗教を表す
英語の
religion という言葉の意味は
まさにそれだ。
それは
<存在>とひとつになること、
分断されることなく、
分離したままでいずに
ひとつになることを
意味している。
この合一状態のなかで
はじめて、
人は知り、
気づき、
体験し、
在るようになる。

宗教は
大いなる実験でもある―
実のところ、
最大の実験だ―
が、
違いがある。
科学は客観的な事物を
対象に実験するが、
宗教は
主体そのものに働きかける。
宗教の関心は
「私は誰か?」
ということにつきる。

人は最初から
はじめなければならない。
自分自身を知らないかぎり、
私は他のことを
何ひとつ
知ることができない。
奥深くで
無知のままであったなら、
私の知識はすべて
がらくたにすぎない。
それは
無知に基づいている。
それは
無知に根ざしている。

まず
私の内側に光が
生まれなければならない。
そうなれば、
その光は
広がってゆくことができる。
そうすれば、
その光は<存在>の
まさに果てまで
到達することができる―
<存在>に果てが
あるとしたらの話だが。
だが、
まずそれは
私の内側で
生まれなければならない。
最初の炎は
私の主体から
発しなければならない。

私の中心が
光で満たされて、
そこではじめて
空疎な知識に
すぎなかったことが
すべて真に体験される。
自分自身を知らず、
知る者がそこにいないのに、
どうして他のものを
知ることができるだろう?
あなた自身が
深い闇のなかにいるなら、
あなたが
外につくりだした光は
すべてまやかしであり、
幻想だ。

Osho - The Secret Of Secrets

…「生は創造的になる機会だ---」OSHO,

…友人の FB投稿記事をシェアします。 (講話より引用)



惨めさに
才能は必要ない――
だれでもそれを
手に入れられる。
幸福には
才能、天分、創造性が必要だ。
創造的な人たちだけが
幸福だ。
 
これを
あなたのハートのなかに
深く沈み込ませなさい――
創造的な人たちだけが幸福だ。
幸福は
創造性の副産物だ。
なにかを創造すれば、
あなたは幸福になる。
庭をつくり、
その庭に花を咲かせれば、
あなたのなかで
なにかが花開く。
絵を描けば、
その絵が育っていくにつれ、

あなたのなかで
なにかが育ちはじめる。
その絵が完成にいたると、
その絵に
最後の一筆を加えていると、
あなたは自分が
もはや同じ人間ではないことに
気がつく。
あなたは自分のなかの
なにかとても新しいものに
最後の一筆を加えている。

詩をつくり、
歌をうたい、
ダンスを踊り、
そして見なさい――
あなたは幸せになっていく。

実在はあなたに
創造的になる機会を与えただけだ――
生は創造的になる機会だ。
 
あなたが創造的なら、
あなたは幸福になる。

あなたが山々の
最高の頂に登ろうとしたら、
それは困難を伴う。
そしてあなたが頂上に到達し、
横になって、
雲とささやきを交わし、
大空を見つめるとき、
あなたのハートを満たす歓び……
そのような歓びが
必ずやって来る、
あなたがなんらかの
創造性の頂に
到達したときにはいつも。

幸福になるには
知性が必要だ、
そして人びとは
非知性的でいなさいと
教えられる。
社会は
知性が花開くことを望まない。

社会は知性を必要としない。
実のところ、
社会は知性を
大いに恐れている。
社会は愚かな人びとを
必要としている。

なぜだろう?――
愚かな人びとは
扱いやすいからだ。

知性的な人びとは
必ずしも従順ではない。
彼らは従うかもしれない、
彼らは従わないかもしれない。
だが、
愚かな人は
逆らうことができない。
彼はいつでも
命令を聞こうとしている。
愚かな人には
命令してくれる人が必要だ、
なぜなら、
彼には自分ひとりで生きていく
知性がないからだ。
彼はだれかに
指図してもらいたい。
彼は自分自身の
圧制者を探し求めている。

政治家たちは
世界に知性が生まれることを
望まない、
聖職者たちは
世界に知性が生まれることを
望まない、
将軍たちは
世界に知性が生まれることを
望まない。
だれも本気で
それを望んではいない。
人びとはみんな
愚かなままでいてほしい、
そうしたら
だれもが従順になり、
体制に順応的になり、
囲いの外にけっして出ず、
つねに群衆のひとりでいて、
支配されやすく、
操作されやすく、
管理されやすい。

知性的な人は反逆的だ。
知性は反逆だ。
知性的な人は
ノーと言おうか
イエスと言おうか
自分自身で決める。
 
知性的な人は
因習的になることができない、
彼は過去を
崇拝しつづけることができない。
過去には
崇拝すべきものはなにもない。
知性的な人は未来を創造したい、
現在に生きたい。
彼は現在に生きることで
未来をつくりだそうとする。

知性的な人は
死んだ過去にしがみつかず、
死骸を持ち歩かない。
それらがいかに美しかったにせよ、
いかに貴重だったにせよ、
彼は死骸を持ち歩かない。

彼は過去との関係を断った。
それは去った、
永久に去ってしまった。
だが、
愚かな人は因習的だ。
彼は聖職者に喜んで従う、
どんな愚かな政治家にも
喜んで従う、
どんな命令にも
喜んで従う――
だれか権威者がいると、
彼は喜んで
その人に従おうとする。

知性がなければ
幸福はありえない。
人間は知性的であって初めて、
完全に知性的であって初めて、
幸福になれるのだ。

瞑想は
あなたの知性を解き放つ装置だ。
瞑想的になればなるほど、
あなたはいっそう知性的になる。
 
だが、
覚えておくこと、
私は知性という言葉で
知識を意味していない。
知識は愚かさの一部だ。

知性はまったく別の現象だ、
それは頭とはなんの関係もない。
知性はあなたの
まさに中心から来るものだ。

それは
あなたのなかにわき上がってきて、
それとともに
あなたのなかで
多くのものが育ちはじめる。

あなたは幸福になる、
あなたは創造的になる、
あなたは反逆的になる、
あなたは冒険的になる、
あなたは不安定を愛するようになる、
あなたは未知のなかへ
入っていくようになる。
あなたは危険な生き方を
するようになる、
というのも、
それが唯一の生き方だからだ。

愚かな人たちのためには、
群衆が移動する高速道路がある。
そして何世紀にも何世紀にも渡って、
彼らは移動してきた――
そしてどこにも行き着かない、
堂々巡りをしている。
そのとき、
あなたは自分は
大勢の人たちといるという、
自分はひとりではないという
慰めを得る。

知性はあなたに
ひとりでいる勇気を与える、
知性はあなたに
創造的になるための洞察力を与える。
創造的になりたいという大きな衝動、
大きな渇望が起こってくる。
そのとき初めて、
ひとつの結果として、
あなたは幸福になることができる、
あなたは至福に満ちることができる。

Osho - The Book of Wisdom,

…「愛は 流れなのだ---」OSHO,

…友人の FB 投稿記事を 転載しました。



問題は
マインドによって
生み出される。
エネルギーに
よってではない。
エネルギーのいうことに
耳を傾けなさい。
それはあなたに
正しい方向を
示しているのだ。
問題を生み出しているのは
セックスエネルギーではない。
それは
動物において、
木々において、
鳥達において
決して
どんな問題も
作り出したことがない。

セックスエネルギーが
問題を生み出すのは、
あなたのマインドが
間違った態度を
とっているからなのだ。
全宇宙は
愛のエネルギーという
素材でできている。
一番低い存在から、
一番高い存在まで、
一つのエネルギーなのだ・・
それが
様々な形で
現れているのだ・・
粗雑な形で、
また微妙な形で。
が、
それは
一つのエネルギーだ。

一番低い形態では、
電気として現れ、
一番高い形態としては
祈りとして現れる。
が、
それは一つのエネルギーだ。
いつであれ
エネルギーが
どこかで
ひっかかってしまったと
感じれば、
愛する対象を
見つけることだ・・
どんなものでもいい。
そのうちに、
段々と、
実際に
愛の対象を持つ
必要が無くなってゆく。

誰かを
愛するという
ただの思いつき。
それだけで
エネルギーは流れるだろう。
次に、
その思いつきでさえ
落とすことができる。
ただ愛深くあるだけで、
エネルギーは
流れていることだろう。
愛は流れなのだ。

  • Osho

…信仰は借り物であり、信頼は その人自身の体験だ。 OSHO,

友人の FB投稿記事を転載します (確認済み)。



すでに結論を出していながら、
どうして
問いかけることができるだろう?

キリスト教徒でありながら
宗教的であることはできない。
あるいは
ヒンドゥー教徒でありながら
宗教的であることはできない。
ヒンドゥー教徒でありながら、
どうして
宗教的でいることができるだろう?
ヒンドゥー教徒であるということは、
すでに結論を出していて、
何が真理か
決めてしまっているということだ。

そうだとすれば
問いかけてみても仕方がない。
何を問いかけるというのだろう?
あなたがやるのは、
すでに結論付けていることがらの裏付け、
論証を探し出すことでしかない。
だが、
その結論は
間違っているかもしれない―
わかりはしない。
その結論は
あなたのものではなく、
社会から渡されたものだからだ。

社会はしきりに
あなたに結論を与えようとする。
あなたが自分で結論に到れるよう
意識を与えようとはしない。
あなたが意識的になる前に、
少しでも問いかけがはじまる前に、
社会はありとあらゆる結論を
詰め込んで、
何がなんでも
その問いかけを阻もうとする。
なぜなら、
その問いかけは
社会にとって危険だからだ。

問いかけない人間は扱いやすい。
問いかけない人間は従順だ。
すなおに命令や指令を受け取り、
それに従う。
彼は法を尊重し、
因習を守る。

ひとたび誰かの心に
わずかでも信仰を吹き込めば、
薬物を飲ませたことになる。
信仰は麻薬だ。
彼はいったん信じ込むと、
どこまでもしゃにむに信じてゆく。
やがて徐々に、
彼はその信仰が
自分自身の体験であると
思い込むようになってゆく。

信仰というのは
催眠のシステムだ。
あなたは子供に
「おまえはヒンドゥー教徒だ。
 おまえはヒンドゥー教徒だ」
とどんどん暗示をかけてゆく。
子供を寺に連れてゆき、
宗教的な、
いわゆる宗教的な
儀礼、儀式を体験させる。
やがて子供は条件付けられ、
自分はヒンドゥー教徒であり、
ヒンドゥー教はすべて正しく、
それ以外の宗教は
すべて間違っていると
思い込むようになる。

そして、
同じことが
あらゆる社会で行なわれている。
あなたがたは
子供たちに麻薬を与えてきた。
子供の意識のまさに源が
毒されてきた。

そしてもし
何かを信じたら、
それは
真実のように見えてくる。
もし何かを信じはじめたら、
その裏付けとなるもの、
それを助ける証拠となるものが
続々と見つかるようになる。

あなたのエゴがからんでくる。
真実かどうかだけでなく、
奥深くで問題になっているのは
「どちらが正しいのだろう?
 私だろうか君だろうか?
 私が間違っているはずがない―
 私が正しいにちがいない」
ということだ。

だからあなたは
自分を支えてくれるものばかりを
選び取る。
そして
生はひじょうに複雑であり、
そこでは
ありとあらゆるものを
見つけることができる―
あなたが選び取り、
決定したものは
何でも見つかる。

あなたが
悲観主義者であれば、
その悲観主義を裏付ける
ありとあらゆる論拠が
生のなかに見つかる。
あなたが
楽観主義者であれば、
ありとあらゆる論拠を
手にすることができる。

生は二元的であり、
生は逆説に満ちており、
生は多次元的だ。
この世に
これほど多くの哲学、
主義、神学が存在するのは
そのためだ。
そしてどの神学も
独自の結論の殻に閉じこもり、
自分が一番正しいと
信じている。

ようやく現代において
信奉者たちは
少しとまどうようになった。
これは大いなる祝福だ。
なぜなら、
彼らは他の信奉者たちの存在にも
気付きはじめたからだ。
今やヒンドゥー教徒
それほど得意になり、
自己満足してはいられない。
キリスト教徒の存在を
知っているからだ。
そしてキリスト教徒も、
自分たちだけが
真理の版権を手にしていると
信じ続けることはできない。
イスラム教徒もいるし、
道教徒もいるし、
仏教徒もいるということを
知っているからだ。
そして誰も当てにならない。
現代はひじょうに混乱している―
かつてなかったほど混乱している。

だが、
覚えておきなさい。
この混乱は大いなる祝福だ。
何かが途上にある。

何かとほうもなく重要なことが
起ころうとしている。
この精神の混沌(カオス)は
新しい夜明けのはじまりだ。

将来には、
人々は
イスラム教徒にも、
ヒンドゥー教徒にも、
仏教徒にもならないだろう。
人々は
問いかける者たちとなる。
信仰はなくなり、
信仰の闇は姿を消しつつある。
これからは誰も
信仰をもたなくなってゆく。
人々は問いかけ、
見いだしたときに
信頼するだろう。
信仰は借り物であり、
信頼はその人自身の体験だ。

私がここで
あなたがたに教えているのは、
この先、
ますます興隆してくる宗教だ。
私は現在のあなたがたに
未来をもち込んでいる。
私はあなたがたが純一な
探求者になるようにしむけている―
いかなる信仰体系ももたず、
何の結論も抱かずに、
みずから進んで実験を行なってゆき、
それが何であろうと
真実に心を開いて、
それを
受け容れてゆく用意のある探索者、
ひたすら真実を
受け容れてゆく用意のある者たちに。

Osho - The Secret Of Secrets

…「本当の親は、自由を与える・・・」OSHO,

…「友人の FB投稿記事を転載します」。


家族の問題とは、
子どもは小さい頃から
成長していくのに対して、
親は親であることから
決して成長しないということだ! 
人はいまだに、
親の立場というのは
永遠に
執着するべきものではない
ということを学んでいない。
子どもが成人になったら、
あなたの親の役割は終わる。
子どもにはそれが必要だった――
子どもは何もできなかったのだから。
母親、父親、彼らの保護が必要だった。
だが、
子どもが独り立ちできるようになったら、
親は子どもの生から
身を引くことを学ぶべきだ。
ところが、
親が決して
子どもの生から
身を引かないために、
親は自分に、
そして子どもに対しても
不安を抱きつづける。
彼らは破壊し、
罪悪感を作り出す――
彼らは許容限度を超えて
助けることはない。

親であるということは
偉大なアートだ。
子どもを産むのは
たいしたことではない――
どんな動物にもできる。
それは自然で、
生物的、本能的なプロセスだ。
子どもを産むのは
別に偉大なことではない。
特別なことでもないし、
ごく普通のことだ。
だが
親であるというのは
特別な何かだ。
ほんとうに
親になれる人は
ほとんどいない。
基準となるのは、
ほんとうの親は
自由を与えるということだ。
決して自分を
子どもに押し付けたりしない。
子どものスペースを侵さない。
そもそも最初から、
彼らの努力は
子どもが自分自身で
いられるように
手助けすることだ。
彼らは手助けするために、
勇気付けるために、
滋養を与えるために
いるのであって、
自分たちの考えを押し付け、
これをしろ、あれをするな、
と命令するために
いるわけではない。
彼らは
奴隷を作り出すために
いるわけではないのだ。

だがそれこそ
世界中の親が
し続けていることだ。
彼らの努力のすべては、
子どもを通じて
自分の野望を
かなえることだ。
もちろん誰一人
その野望を
達成したものはいない。
だから、
どの親も
不安に駆られている。
刻一刻と
死が近づいていることを
知っている。
死がどんどん大きくなり、
生が縮まっていくのを
感じることができる。
が、
自分の野望は
まだかなえられていない、
自分の欲望は
まだ現実のものと
なっていない。
彼は自分が
敗者だったことを
知っている。
自分はなにも得ることなく
死んでいくだろうということに、
はっきりと気づいている――
やって来たときと
まったく同じように
手ぶらで
逝ってしまうだろうと
いうことに。

今や、
彼の努力のすべては
どうやって
子どもに自分の野望を
植え付けるかだ。
彼は行ってしまうが、
子どもは彼に従って
生きるだろう。
彼にできなかったことは
子どもがやってくれるだろう。
少なくとも子どもを通して
彼はある種の夢を
かなえられるかもしれない。

それは起こらない。
起こることは、
子どもは親を
満足させることのないまま、
自分の子どもにも
同じことをやり続ける
ということだけだ。
これが一つの世代から
次の世代へと
引き継がれていく。
私たちは自分の病を
与え続け、
自分自身の人生で
価値を見出せなかった観念を
子どもたちに移し続ける。

ある人は
キリスト教徒として生きたが、
彼の人生を見れば、
それによって
至福に満たされることは
なかったことがわかる。
ヒンドゥ教徒として生きた人もいる。
彼の人生は
地獄だったことは明らかだ。
ところが彼は
自分の子どもが
ヒンドゥ教徒や、
キリスト教徒や、
イスラム教徒になることを望む。
人はいかに無意識でいることか!

聞いた話だが――
一人のとても悲しげで
陰気な男が、
ロンドンの医者を訪ねた。
待合室に座って、
むっつりしたまま
他の患者のことなど
そ知らぬ顔で
順番を待っていた。
やっと順番が来て、
医者が診察室に招き入れ、
入念な診察が終る頃には、
彼は以前にもまして
深刻で悲しげで惨めになった。
「とくに心配なさるようなことは
 ありませんねえ」
医者が言った。
「基本的にあなたは
 落ち込んでいるだけです。
 あなたがすべきことは、
 仕事や心配事を忘れることです。
 チャーリー・チャプリン
 映画でも見に行って、
 思い切り笑うことですな」
その小さな男の顔一面に
悲しそうな表情が浮かんだ。
「私がその
 チャーリー・チャプリンなんです」

これはとても奇妙な世界だ! 
あなたは人びとの
真の生活を知らない。
あなたが知っているのは
彼らの仮面だけ。
あなたは彼らを教会で見かける。
クラブで、ホテルで、
ダンスホールで見かける。
誰を見ても
みんなが楽しんでいて、
みんなが最高の生活を
しているかのようだ。
あなた一人を除いては……
言うまでもなく、
あなたは内側で
自分がどれほど惨めかを
知っているからだ。
が、
それは他のすべての人に
言えることだ! 
彼らはみな仮面をかぶり、
他人を欺いている。
だが、
自分自身を
どうやって欺けるだろう? 
仮面は自分の
ほんとうの顔ではないことを
あなたは知っている。

だが、
両親は
子どもの前で偽り続ける。
自分の子どもを
欺き続けるのだ。
彼らは
自分の子どもに対してでさえ
正直でいられない! 
彼らは自分たちの人生が
失敗だったということを
打ち明けないだろう。
反対に自分たちは
とてもうまくやってきたという
ふりをするだろう。
そして彼らは、
子どもたちにも
彼らが生きてきたのと
同じように生きてもらいたい。

あなたはたずねている。
「両親は私にとても失望していて……」

まったく心配することはない――
すべての親が
自分の子どもに失望している! 
そして私がすべてと言うのは、
いかなる例外もなしにだ。
ゴータマ・ブッダの親でさえ
彼にとても失望していたし、
イエス・キリストの親も、
当然、
彼にとても失望していた。

彼らはある
決った生活をしていた――
両親は正統派のユダヤ人だった――
ところが、
その息子、
そのイエスが、
多くの伝統的な観念や慣例に
反対しだした。
イエスの父ヨセフは、
自分も年をとってきたことだし、
息子が大工の仕事を、
自分の店を手伝ってくれることを
期待していたに違いない――
ところがこのバカ息子は、
神の王国について話し始めた! 
年老いた父親が喜んだと思うかね?

ゴータマ・ブッダ父親
とても年をとっていて、
たった一人の息子がいるだけだった。
しかも、
その子が生まれたのも
彼が年老いてからだった。
彼は息子が授かるように、
全生涯をかけて待ち、
祈り、礼拝し、
あらゆる宗教的儀式を
行なったのだ。
さもなければ、
彼の偉大な王国を
誰が見ていくというのかね? 
ところがある日突然、
その息子は王国から姿を消した。
彼が幸福だったと思うかね? 
彼はとても怒った、
怒り狂っていた。
もし見つけたら、
ゴータマ・ブッダ
殺したかもしれない! 
彼の警備隊、密偵たちが
王国中を隅々まで探し回った。
「どこに隠れているのだ? 
 息子をわしの目の前に連れて来い!」
ブッダはそのことを知っていた。
父親の官吏に捕まるであろうことを。
そこで彼が最初にしたことは、
父の王国の国境を越え、
他の王国に逃げることだった。
そして12年の間、
彼のうわさを聞くことはなかった。

光明を得た後、
彼は自分の喜びを分かち合うために、
「私は家に辿り着いた」と、
「私は悟った」と、
「私は真実を知った――
 これが道なのだ」と、
父親に伝えるために家に戻った。

だが父親はとても怒っていた、
怒りで体を震わせていた――
彼は年老いていた、
とても年老いていた。
父はブッダに向かって怒鳴った。
「おまえはわしに恥をかかせた!」。
彼はブッダを見た――
乞食の格好をして
托鉢碗を持つ彼が立っていた――
彼は言った。
「乞食のような格好で
 私の前に現れるなんて、
 どういうつもりだ?
 おまえは王の息子だぞ。
 我々の家族に乞食など
 いたためしはないのだ! 
 わしの父は王だったし、
 その父もそうだった。
 何世代にも渡って
 我々は王だった! 
 おまえはこの伝統を
 けがしたのだ!」

ブッダは半時間のあいだ
一言もしゃべらずに聞いていた。
父親のガスが切れて、
少し冷めてきたとき……
彼は涙をためていた、
怒りの、失意の涙。
そこでブッダは言った。
「一つ頼みを聞いてください。
 どうか涙を拭いて、
 それから私を見てください――
 私は家を去ったその人物と
 同じ人間ではありません。
 私はまったく変容したのです。
 でもあなたの目は涙でいっぱいで、
 見ることができないのです。
 そして、あなたはいまだに、
 もういない人に
 語りかけているのです! 
 彼は死んだのです」

これで新たな怒りが引き出され、
父親は言った。
「おまえは私に説教するつもりか? 
 わしを馬鹿にするのか? 
 自分の息子が
 わからないとでも言うのか? 
 わしの血が
 おまえの血管の中を
 流れているのだぞ――
 それなのに、
 わしが気がつかないとでも?」

ブッダは言った。
「どうか誤解しないでください。
 この体は確かに
 あなたからいただいたものです。
 でも私の意識はそうではありません。
 私の意識が私の現実であって、
 体ではないのです。
 確かにあなたがおっしゃるとおり、
 あなたの父親も、
 その父親も王でした。
 でも私が知りうる限り、
 私は過去生で乞食でしたし、
 その前の生でも乞食でした。
 なぜなら私はずっと
 真実を探し求めていたからです。
 私の体は
 あなたを介してやってきました。
 でもあなたは
 言わば通り道だったのです。
 あなたが私を創ったのではなく、
 あなたは媒体だったのです。
 そして、
 私の意識は
 あなたの意識とは無関係です。
 そして私が言っていることは、
 私はいまや
 まったく新しい意識を持って
 家に戻ったということです。
 私は再生を経てきました。
 よく私を見てください。
 私の喜びを見てください!」

そして、
彼の言ったことを
信じたわけではないが、
父は息子を見た。
だが、
一つのことは明らかだった。
自分がこれほど怒っているのに
息子はまったく
挑発されていなかった。
これはまったく
新しいことだった――
彼は自分の息子を知っていた。
もし彼が以前と同じ人間だったら、
父親と同じくらいに怒っただろう。
いやもっとかもしれない。
というのも彼は若かったし、
彼の血は父親よりも
ずっと熱かったからだ。
ところが彼はまったく
腹を立てていなかった。
彼の顔には完全な安らぎが、
大いなる静けさがあった。
彼は平静で、
父親の怒りにも
乱されることがなかった。
父親は彼を侮辱したが、
彼はまったく
どのような影響も
受けていないかのようだった。
父親は年老いた目から涙をぬぐい、
再び彼を見、
新しい優美さを見た……

Osho - I Am That

友人の FB投稿記事(OSHO:講話抜粋)を 転載---確認済み

あなた方はみな乞食だ。
しかも別の乞食に向かって、
ないものねだりをしている。
そして
それが手に入らないと
悲しみ、涙を流し、
自分は愛を得ることはできないのだと
惨めになる。
愛は外に獲得するものではない。
愛は、
あなたの存在の内なる調べなのだ。
だから
誰もあなたに
愛をあげることはできないし、
外側から
獲得することはできない。
愛は
あなたの内側に生まれるものだ。
愛は内なる開花であり、
それは
内側で眠っているエネルギーから生まれ出る。
にもかかわらず私たちはみな、
愛を外側に探す。
私たちはみな、
それを恋人のなかに探そうとする。
それは完全に間違いであり、
徒労でしかない。
愛を自分自身の内に探しなさい。
しかしあなたには、
自分の内に愛があろうなどと
想像もできない。
なぜなら
あなたが学んできた愛は、
常に恋人を連想させるからだ。
その愛は常にあなたの外側にあり、
外側の誰かを連想することでしかない。
だから愛が自分の内側に
どのように生まれ得るものなのか、
想像もできない。
あなたの内なる愛のエネルギーは
眠ったままであり、
すでに自らの内にあるものを、
あなたは外に求めていることに気づかない。
ゆえに外に求めている限り、
内側を見ることはない。

実のところ、
それは決して探索されることはない。
でもあなたは愛が欲しいから、
他人の扉の前で手を差し出して乞い続ける。
全世界に存在する欲望はただ一つ、
それは愛だ。
そして全世界にある不平もただ一つ、
自分は愛をもらってはいないということだ。
そして
自分が愛をもらっていないのは、
相手の責任で
相手に落ち度があるからだといって
他人を責める。
妻は夫に言う、
「私のことなんか
 ちっとも考えてくれない」。
夫は妻に言う、
「俺の身にもなってみろ」。

素晴らしい劇作家で、
しかも詩人であった俳優が亡くなった。
彼の葬儀には、
大勢の人々が火葬場へ集まった。
私も彼の葬儀に出席していた。
そして彼が勤めていた
映画会社の重役も出席しており、
彼は短い弔辞を述べた。
重役は言った、

「 私がこの男を俳優にしたのです。
 彼を裏道から見つけ出して連れ出し、
 出世街道へ乗せたのは私です。
 映画で最初に彼に役を与えたのは私で、
 彼の処女作を出版したのも私でした。
 彼が世界的に有名になったのは、
 私のおかげなのです!」

彼はそれだけを述べた。
あなた方の何人かも
そこにいたかもしれない。
重役がこれだけ述べ終えると、
突然、
みなの前に横たわっていた遺体が
起き上がって言ったのだ! 

「 失礼ですが、
 これから埋葬されるのはあなたですか?
 それとも私でしょうか? 
 あなたは誰のことを話しているのですか?」

その重役は、
「私が」彼を有名にし、
「私が」彼の本を出版した。
「私が」映画で彼に役を与えた・・・
「私が」そうしたと言った。
この「私が」という騒音には、
遺体ですら耐え切れなかったようで、
遺体は起き上がって言ったのだ。
「 失礼ですが、一つ教えてください。
 この葬式で埋葬されるのはあなたですか? 
 それとも私ですか?・・・」
と。
そして人は常に、
この「私が」という
騒音を生み出し続けている。

あなたの中には
二つの声しかあり得ない。
つまり、
「私」という声でいっぱいの人の中には、
「愛」という声はない。
そして
「愛」という声に満ち溢れている人の中には、
「私」という声はない。
しかもその二つは、
決して同時には見つからない。
それは
闇と光が同時に存在するのと同じくらい
不可能なことだ。

同じように、
エゴと愛は共存できない。
エゴとは闇のようなものであり、
それは愛の不在だ。
あなたの内側には愛が欠如している。
だから内側で
「私」という声が鳴り響いているのだ。
この「私」という声を
強めて大きくしていけばいくほど、
内に愛を見出す可能性は
なくなっていく。
エゴが強くなればなるほど、
愛はますます存在しなくなっていく。
そしてエゴがすべてになるとき、
愛は完全に死ぬ。

あなたは言う。
これは「私」の服だ。
これは「私」の家だ。
これは「私」の地位だ。
これは「私」が寄付したものだ。
あれは「私」の援助によるものだ。
「私」は○○大学出身だ。
「私」の家柄は・・・、
「私」の経歴は・・・。
この「私」という周りに築かれた塔は、
決して愛を知ることはないだろう。
あなたの「私」がいかに強く、
どれほど根深いものであるかを
しっかり理解することだ。
またそれを毎日さらに強め、
さらに根深くさせようとしているかどうかを、
はっきり見極める必要がある。
そうしたものが必要で
さらに強めようとしているなら、
内側に愛が生まれる望みは
捨てることだ。

エゴから生まれる愛は、
完全に偽りだ。
だから私は
あなたの愛はすべて偽りだと言う。
なぜなら
それはエゴから生まれたものであり、
エゴの影だからだ。
そして、
良く聞きなさい、
エゴから生まれた愛は
憎しみよりも危険だ。
なぜなら
憎しみは明快で直接的で、単純だが、
偽りの顔を装った愛は
それとは違って見分けにくいからだ。

エゴから生じた愛によって
恋人から愛されているなら、
やがて
あなたは優しい手の代わりに、
鉄の鎖で繋がれているような感じが
してくるだろう。
釣りに行くと、
人々は釣り針に餌を付ける。
エゴが主人になっている人は、
他人を所有したがる。
釣り針に愛という餌を付け、
彼らをプスリと突き刺すのだ。
こうして愛という幻想のゆえに、
最終的には
実に多くの人が
傷みと苦しみに陥るはめになる。

地獄でさえ、
こんなに大勢の人々が苦しむことはない。
そしてこの愛という幻想のゆえに、
全世界が、
全人類が苦しんでいる。
しかしそれにもかかわらず、
あなたはエゴから出た愛は
偽りであることを未だに理解しない。
だから
こんな地獄が生まれてしまったのだ。

嫉妬は、
エゴを伴う愛の一つの形だ。
だから恋人たちほど
嫉妬する者はいないのだ。
エゴを伴う愛は、
他者を所有しようとする
陰謀であり策略だ。
ゆえに
「あなたを愛している」
と言う者ほど、
人を息苦しい思いにさせる者はいない。
こうした状況は、
エゴから生まれた愛から生じるものであり、
愛とエゴには何の関係もない。


Osho - インナー・ジャーニー