…「Intuition」OSHO ③

P. 20~
(…私は何かに反対しているわけではない。私は不調和に反対しているだけだ、あなたの頭が最大の不調和を作り出しているので、私はあなたの頭を ちゃんと正しい場所に持ってゆきたいのだ。
頭は 召使だ、御主人さまではない。
頭は 召使として、偉大であり、役に立つ。)


  過去、現在、そして 未来

 あなたには過去があり、現在があり、未来がある。
本能は あなたの動物的な過去に属する。
それは とても古く、確固たるもので、何百万年も受け継がれてきたものだ。
私がそれを 動物のようなものと言っても、それを 非難しているわけではない、動物という言葉は 宗教の聖職者が使えば、何らかの非難を連想させるーーしかし 私は ただ事実をのべているだけだ、非難は 一切していない。

我々の過去は 動物的な過去だった。
我々は すべての種類の動物を経過してきたのだ。
それは 人間にたどり着くまでの長い、長い旅路だった。

 知性が人間だ。それが我々の現在だ。
我々は 知性を通して機能しているということだ。
科学のすべて、ビジネスのすべて、職業のすべて、世間で機能しているもの すべてーー政治、宗教、哲学ーーそれらは すべて知性に基づいている。
知性こそが人間なのだ。

 本能は 的から外れることはない、なぜならば、それは非常に古く、非常に成熟し、完全に発達しているからだ。

あなたの目は 瞬きしているーーあなたは それを意識してそうしているかね?
それらは ひとりでにそうしているーーこれが 本能だ。

あなたの心臓は 鼓動している、あなたの息は 吸ったり、吐いたりし続けている。
つまり、これらの 生の基本的な作動の すべての面倒を見ているのは あなたの知性ではない。
それらは 本能の手の内にある。
なぜならば、本能は 絶対的に確実だからだ。
それは 息をするのを忘れたり、どんなことでも忘れたりということがない。

 知性は 誤りをおかしやすい、なぜならば、それは新しいからだ。
最近 到着したものだからだ。

 それは 暗闇で手探りをしているようなものだ。
今でも それが何者であり、どこに帰属しているかを探している。
そして、それは経験に基づいていないために、その経験を 信念、哲学、イデオロギーで 代用している。
それらが知性の 興味の中心になっている。
しかし、それらはすべて 誤りを犯しやすい。
なぜならば、それらは すべて人間の作であり、だれか頭の良い人間によって 作り上げられたものだからだ。
そのため、それらは どんな状況においても確実というわけではない。
それらは ある状況においては 正しいかもしれないが、他の状況においては、正しくないかもしれない。

しかし、知性は盲目だ。
それは新しいものに どう対処していいかわからない。
それはいつも 新しい質問に対して 古い答えを持ってくる。

 < 略 >

 知性は 偏見に囚われている、つまり公正ではない。
その性質そのものによって、公正ではありえないのだ。
なぜならば、それは経験がないからだ。
本能は いつも公正だ。
そして、あなたに 自然体そのものを見せてくれる、リラックスしたやり方だ、それに宇宙が従う。
しかし、おかしなことに、本能は すべての宗教から非難されてきた。
そして知性が 賞賛されてきたのだ。

 もちろん、もし誰もが 本能に従って生きているなら、宗教も必要なければ、神も必要ではない、聖職者も必要ではない。

動物は 神を必要としない、それでいても、彼らは 完全に幸せだーー彼らが 神を欲しがっているとは思えない。
どんな動物の1匹たりとも、、どんな鳥の1羽たりとも、どんな木の1本たりとも、神がいなくて さみしいというものはいない。

彼らはみんな 生の完全な美しさと純真さを楽しんでおり、そこに地獄が怖いとか、どうしても天国に行きたいなんていう欲張りな考えはない。
また哲学的な考えの違いはない。
カトリック信者のライオンもいなければ、プロテスタントヒンズー教徒のライオンもいない。

 存在全体が 人間や、人類に起こっていることを 笑っているに違いない。
もし、鳥たちが 宗教や教会やモスクや神社なしに暮らせるのなら、どうして人間は そうできないのだろう?
鳥たちが 宗教戦争をしたなんてことは聞いたこともない、動物や木だって同じだ。
しかしながら、あなたがイスラム教徒で、私がヒンズー教徒だったとしたら、私たちは 共存することができないーーあなたが 私の宗教に改宗するか、さもなくば、覚悟するがいい、お前を たちどころに天国に送り込むから!

 もし、本能が賞賛されていたら、これらの宗教は 理論的根拠を失ってしまう、存在理由が なくなる、だから彼らは知性を尊ぶのだ。

 そして、第三のものは、それはあなたの 未来であるが、直観だ。
だから これらの三つの言葉を理解されなくてはならない。

 本能は 身体的なものーー何百万年の経験に基づいた あなたの過去であり、信頼できるもの、決してミスを犯すことがなく、あなたが気づいていない奇跡をおこなっているものだ。
あなたの食べた食物は どのようにして血液になるのだろうか?
あなたはどうして眠っている間も、呼吸し続けていられるのだろうか?
あなたの身体の中でどうやって、酸素が窒素から分離するのだろうか?
あなたの 本能の世界では あなたの身体のすべての器官に どうやって必要なものを届け続けるのだろうか?
あなたのマインドが働く為に、あなたの頭脳は どれだけの酸素を必要とするのだろうか?

ちょうど正しい量の血液が あなたの身体中を流れ、新鮮な酸素を それぞれに分配し、古くなって死んだ細胞を取り込んで、新しい細胞と取り換える、そして、古い細胞を それを処分してくれる場所へと運んでいるのだ。

 科学者も言っている、本能が 人間にしてくれていることを 私たちはすることができないと。
小さな身体の中で、本能は 本当に沢山のことをしてくれているのだ。

もし、将来、科学が一人の人間の身体を生かすための仕事をしようと思うならば、たった一人の人間のために 少なくとも1マイル四方の大きさの工場を必要とするだろう。
とんでもない大きさの機械だ!
それでも、まだ絶対だとはいえない。
機械は 壊れる可能性がある。
止まってしまうかもしれない、停電だって起こりうる。
しかし、本能は70年間ものあいだ、場合によっては長生きする少数の人間のためには100年間、絶え間なく完璧にうまく働き続けてくれるのだ。
電気が切れる ということもない。
一つの間違いも犯さない。
すべては 計画通りだ。
その計画は あなたの すべての細胞の中に備わっているのだ。

人間の 細胞の中の暗号が読めるようになる いつの日にか、我々は 子供が生まれる前から、彼の 一生のすべてを予言できるようになるだろう。
その子供が 母親の子宮で 育つ前であってもだ。

両親の細胞は プログラムを持っている。
そのプログラムの中に あなたの生きる年齢、あなたの健康、あなたが どんな病気になるか、あなたの天分、あなたの知力、あなたの才能、あなたの すべての運命が含まれている。

 本能と同じように、あなたの存在の もう一方の極が 直観の世界だーーそれは 知性の世界でもあるマインドを超えたものだ。

 直観は 瞑想によってそのドアが開く。
瞑想は ただ、直観のドアを ノックするだけだ。

直観の方もまた 完全に用意が整っている。
それは 成長するたぐいのものではない。
あなたはそれを 存在からすでに受け継いでいるのだ。
直観は あなたの意識であり、あなたの存在である。

 知性は あなたのマインドだ。
本能は あなたの身体だ。
そして、本能が身体のために 完璧に働くように、直観は あなたの意識にとって完璧に働く。

知性は これらの二つの中間にあるーー通り道であり、わたるべき橋だ。
しかし、多くの人、何百万人という人たちは この橋を決して越えることはない。
彼らは ただ、橋の上に座り、自分は自分の家に 帰り着いたと思っている。

 自分の家は もっと遠くの岸にある、橋の 向こう岸だ。

その橋は 本能と直観を つないでいる。
しかし、すべては あなた次第なのだ。
あなたは 家を橋の上に建て始めるかもしれないーーその時、あなたは 道に迷っている。

 知性は あなたの家にはなりえない。
それは小さな道具にすぎず、本能から直観に行くために 使われるものだ。

知性を 橋を越えてゆくために使う人のみが 聡明な人と呼ばれる。

 直観は 存在にかかわる。
本能は 自然なものだ。
知性は 暗闇で模索しているだけだ。

知性を超えるのが 早ければ早いほどいいことだ。
つまり、知性は、知性を超えたところには何もない と考える人にとっては 障害物となりうる。

知性は、知性を超えたところに 何かが存在する と理解する者にとっては 美しい通路となりうる。

PP. 20ー26

「Intuition 直観」OSHO

訳者/山川紘矢+山川亜希子

発行/株式会社KADOKAWA