質問---------「OSHO, 瞑想の途上で、08

(…瞑想は、一時間やって、その後は忘れていい という類いのものではない。)


本当は、生の すべてが 瞑想的でなければならない。
そうなって 初めて、何かを感じ始める。

私が「生のすべてが瞑想的でなければならない」と言うのは、二十四時間、目を閉じて 座って瞑想する ということではない--- そうではない。

どこにいようと、あなたは 敏感でいられる。

そして敏感であれば、それだけのものが返ってくる。

そうしたら「私は進歩しているでしょうか?」と 聞く必要はない。
あなたは 目が見えないかのようだ。

自分で 一度として何かを感じたことがないために、道を 感じられないのだ。

そして、社会が教えているやり方、教育、しつけは、鈍感であるためのものだ。



子供が 泣いているとする。
すると、家族全員が その子供を非難する。
「泣くんじゃない!
お客さまが いらっしゃるんだから」と。
お客が とても重要で、子供が泣くのは、まったく重要ではない。

あなたは その子の 一生を台なしにしている。
叱られれば、彼は 泣くのを止めるだろう。
が、泣き止むのは、深刻なことだ。

身体の 代謝全体を変えてしまうことになる。
泣き止むには、緊張しなければならない。
すると彼は リラックスできない。

彼は、沸き上がってくるものを 押し殺さねばならないし、呼吸を変えなければ ならなくなくなる。

実際、子供は そういう時、息を止める。
呼吸が楽だと、一緒に泣いてしまうからだ。
彼は 胃に引っ込めなければならない。

そうすれば、身体のすべてが 乱れてしまうことになる。

彼は 泣かないだろうが、笑うこともまたできない。
あなたは、彼の 一生を駄目にしてしまう。



すべての人間が 駄目にされ、感性を麻痺させられている。

我々は、感性の麻痺した社会に 生きている。

今や、耐えざる抑圧が 社会に存在する。
その子供は 笑えない、彼は泣けない、踊れない。
ジャンプできない。

自分の身体が したいと思うことを、何もできない。

自分の身体のが 何か食べたい と思う時に、それを食べることができない。

そうしたら、その子供に 遊ぶことを許しても、その遊びは 自然ではないだろう。

その子の遊びでさえ、偽物になる。

あなたは言う。
「さあ、遊んでもいいよ」と。
全身が 遊ぶ用意がある時に、彼は 遊ぶことを 許されなかった。
なのに今更「遊んでもいい」と 言う。

しかし今や、遊ぼうとしても、彼にとって遊ぶことは 一つの仕事なのだ。

究極的に、我々は 多かれ少なかれ、機械のような人間を作ってしまった。



あなたは泣けるだろうか?

自然に 笑えるかね?

自然に踊れるだろうか。

自然に 愛せるだろうか。

もしできないなら、どうして瞑想できるだろう。

あなたは遊べるかね?
それは難しい!
すべてが 難しくなってしまった。

人間は 鈍感になってしまった。

だから、自分の感性を 呼び戻しなさい。
それを 取り戻すのだ!

少し遊びなさい!

そして遊び心でいることが、宗教的であることだ。



笑い、泣き、歌いなさい。
あふれ出る心を もって、自発的に 何かをしなさい。

身体を リラックスさせ、呼吸をリラックスさせ、まるで、もう一度 子供になったかのように 生きなさい。


そうすれば、あなたが瞑想しても「何が私に 起こっているのですか? 私は進歩しているでしょうか、どうでしょうか?
それとも、円の中を動いているのでしょうか?」というようなことを聞かないだろう。

自分で わかるはずだ。


が、私には あなたの困難がわかる。
今や、あなたは その感覚を失ったがゆえに、それを感じられない。

その感覚を 取り戻しなさい。

考えることを 少なくし、もっと 感じるようにすることだ。

もっと ハートで生きなさい。


…09に 続く

「究極の錬金術 Ⅱ 」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る  by OSHO,

(翻訳者) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行所) 市民出版社