saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「Intuition」OSHO ②

P.17~
(…あなたのすべての業績は世間という外側の世界にある。)

 知性は 世間では役に立つ、そして あなたの教育システムのすべては ハートを避ける技法で、あなたのエネルギーを直接あなたの頭に持ってゆく。
ハートは 頭にとって問題を作るかもしれないからだーーハートは 倫理を何も知らないからだ。
ハートは 全く異なる機能センターを持っている、そしてそれが 直観だ。
それは 愛を知っている、しかし愛は 世間では使い道のない商品だ。
それは 美を知っている、しかし、あなたは市場で 美をどうしようとするのだね?

 ハートの人たちーー画家、詩人、音楽家、ダンサー、俳優たちーーは いずれも理性がない人たちだ。
彼らは 偉大な美を創造する、彼らは 偉大な恋人だ、しかし、彼らは 頭で支配されている社会の中では 全く適合性がない。
彼らは 社会からはほとんど部外者と思われている。
少しクレイジーで、正気ではないタイプの人間だ。
自分の子供に 音楽家や画家、ダンサーになってほしいと考える親は誰もいない。
誰もが 子供には医者か、エンジニアか、科学者になってもらいたいと思っている。
なぜならば、こちらの職業の方が お金になるからだ。
絵や、詩、ダンスは危険だ、リスキーだーーあなたは路上の乞食になり、笛を吹いて 一生をおわるかもしれないのだ。

 これまで、長く、ハートは 否定されてきたーーそして そのために、ハートの否定は 女性の否定になっていたのだと覚えておくことは役に立つだろう。
そして、ハートが受け入れられなければ、女性も受け入れられることはできないのだ。
もしハートに 頭と同じような成長の機会がなければ、女性は自由になることはできない。

女性は ハートであり、男性は頭だ。
その違いは はっきりしている。

 本能は 自然が その力を握っている。
そして、あなたが 本能を邪魔しようとすればいつも、あなたは倒錯を創造する。
すべての宗教が それをしてきたのだ。
つまり、すべての宗教は 身体に口出ししてきたーー身体には 全く罪はない、身体は何も悪いことはしていない。
もしあなたが 身体を完全に自然のまま受け入れれば、身体はあなたを とても助けてくれるだろう。
それはあなたの ハートを助け、あなたのハートに 栄養をあたえてくれるだろう。
それは あなたの知性を より鋭敏にしてくれる、なぜならば、知性の栄養は 身体からやってくるからだ。
そして、もしも、あなたの 頭とハートと身体のすべてが共鳴していれば、あなたの存在を見つけることは 世界で一番易しいことになるだろう。
しかし、それらが衝突しているので、あなたの生全体が その闘争で疲弊し続けている。
本能と 知性と 直観が 衝突しているのだ。

 賢い人間は 頭、ハート、そして 身体の三者に 調和を創造する。
この調和の中に 彼の生の源、彼の中心そのもの、たましいの啓示がやってくる。
そして それこそが この世に存在しうる最大のエクスタシーだーー人類にとってだけでなく、この全宇宙にとって、これ以上のことはない。

 私は何かに 反対しているわけではない。
私は 不調和に反対しているだけだ、あなたの頭が 最大の不調和を 作り出しているので、私は あなたの頭を ちゃんと正しい場所に持ってゆきたいのだ。

頭は 召使だ、御主人さまではない。
頭は 召使として、偉大であり、役に立つ。


pp. 17ー19

「Intuition 直観」OSHO

訳者/山川紘矢+山川亜希子

発行/株式会社KADOKAWA

「Intuition」OSHO 翻訳、山川紘矢*山川亜希子 ①

(P.14~)
 第1章 地図

理知とは 未知の世界を知ろうという努力だ。
そして、直観とは 不可知の世界に起こることだ。
不可知な世界に浸透することは可能だ、
しかし、それを説明することはできない。
感じることはできる。
しかし、それを説明することはできない。
身体が 自発的に機能するとき、それは本能と呼ばれる。
魂が 自発的に機能するとき、それは 直観と呼ばれる。
それらは似ている、しかし、それらは 全く違うものだ。
本能は 身体のものだーー粗雑なもの、
そして、直観は 魂のものだーー精妙なもの、
そして、その二つの中間にマインドがある、それは専門家であり、それは 自発的に機能することはできない。
マインドは 知識を意味する。
知識は 決して自発的になれない。
本能は 知性よりも深い、そして、
直観は 知性よりも高度だ。
両方とも 知性を超えたところにあり、両者とも良いものだ。


  頭、ハート、そして 存在

 あなたを理解するという目的のために、あなたという人間そのものを分別してみよう。
本来的には、あなたは 別々のものではありえない。
それは唯一の個であり、しかも、全体なのだ。
つまり、頭、ハート、そして、存在だ。

 知性は 頭の機能だ、本能は 身体の機能であり、直観は あなたのハートの機能だ。
そして、これら三者の背後に あなたの存在がある、その唯一の資質は 目撃することだ。

 頭は 考えるだけである、だから、それは決して結論するところまではゆかない。
それは言葉であり、言語的だ、しかし、現実に根ざしていないために 何千年にもわたる哲学的思考は 私たちに何一つとして結論を与えてはくれなかった。
哲学は これまでで最も無益な実習だったのだ。

知性は とても賢くて、質問を作ったり、答えを作ったりする。
そして、これらの答えの中から、さらに質問と答えを作り出す。
それは言葉の宮殿や、理論の体系を作り出すことはできるけれど、それらは ただの大ぶろしきにすぎない。

 身体は 知性を頼ることはできない、なぜならば、身体は 生きなければならないからだ。
身体の重要機能のすべてが 本能の手にまかされているのは そのためだーーたとえば、呼吸、心拍、食べ物の消化、血液の循環などだ。
あなたの身体の中の 非常に多くの作用が あなたのかかわりなしに活動している。
自然が あなたの身体に それ自体の賢さを与えていることはすばらしいことだ。

もしそうではなく、あなたの知性が 身体の面倒をみなくてはならないとしたら、あなたは 生きてゆくことができないだろう!
もしあなたが、夜中に、呼吸するのを忘れたらどうなるのだろうか?
寝ている間に、どうやって呼吸すればいいのだろう?
あなたは 考えることだけでもすごく混乱する。
この混乱の中で、だれが血液循環の面倒を見てくれるだろうか?
正しい量の酸素が あなたの細胞に達しているかどうか、誰が面倒をみてくれるだろうか?
あなたの 食べている食べ物を 要素ごとに選り分けて、必要な要素を必要な場所に送りこむなどということを誰がしてくれるだろうか?
このようなこと全体、ものすごい量の仕事が 本能によってなされているのだ。
あなたは 必要ではない。
あなたが 昏睡状態にいたとしても、それでもなお、肉体は機能し続けるだろう。

 自然は あなたの身体の 重要な機能すべてを本能に与えた。
そして、あなたの生を 意味のあるものにするすべてを そのままにした------なぜならば、ただ存在するだけ、ただ生きながらえるだけでは意味がないからだ。

あなたの生に 意味を与えるために、存在は あなたのハートに 直観を与えたのだ。

あなたの直観から 芸術、美学、愛、友情の可能性が生まれるーー創造性のすべては 直観的だ。

 しかし、市場は あなたの直観を必要としない。
市場は、愛や あなたの感性を扱わない。
それが扱うのは固形物、世俗的な物品だ。

そのために あなたの知性ーーもっとも表面的な部分ーーが機能する。
知性は市場で、あるいは、世間であなたを機能させることができるように、世俗的な生のためにあるのだ。
それは算数であり、地理であり、歴史であり、科学だーーすべての科学、すべての技術は あなたの知性によって創造されたものだ。
あなたの倫理、幾何学は 役に立つーーしかし、知性は盲目だ。
それは ものを作り続ける。
しかし、それらが 破壊のため使われるのか、創造のために使われるのかは知らない。
核戦争は 知性によって作り出される戦争になるだろう。


 知性にも用途はある、しかし、不幸なことに、それは あなた全体の 存在の主人になってしまったのだ。
それが 世界中で 膨大な問題を作っている。

 マスターは 身体、マインド、ハートの 三つの後方に隠れているーーそれが あなたの 存在なのだ。
しかし、あなたは決して、内側に入ってゆかない。
あなたの道は 外側に向かっている。
あなたの すべての感覚が 外側に向かっている。
あなたのすべての業績は 世間という外側の世界にある。


PP. 14ー17

「Intuition 直観」OSHO
2016年8月31日 初版発行

著者/OSHO

訳者/山川紘矢+山川亜希子

発行者/郡司 聡

発行/株式会社KADOKAWA

…友人が シェアしているFBの記事を ここに転載します。

 (OSHO 講話/抜粋---)


あなたは着物ではない、
心理的な着物ですらない。
モーゼのことを思い出してほしい。
モーゼが神に直面したとき、
山上で緑の茂みから
燃えあがる火のような神を見たとき....
茂みは燃えてはいなかった、
茂みはいつものように
青々として、鮮やかだった
モーゼは当惑した。
彼は我が目を疑った。
ありえない光景だった・・・
このような火が!
茂みは炎のように燃えているのに、
焼けてはいなかった。
と、
そのときモーゼは
茂みから声が響いてくるのを聞いた。
「モーゼよ、
 靴を脱ぎなさい。
 おまえは聖なる地にいるのだから」
これは最も美しい
ユダヤ教の寓話のひとつだ。

神は火だ。
あなたの人格はまさに茂みだ。
そして神は涼しい火であり、
あなたの人格を焼くことはない。
人格は緑の葉を
繁らせ続けることができる。
神はあなたに多くの自由を与えた。
あなたが偽者でいたいと望むなら、
それは許される。
神には何の支障もない。
あなたがまがいものでいたければ、
それは許される。
自由とは、
正しくあってもいいし、
間違っていてもいい....
それはあなた次第だということだ。

あなたの本質はそこにある。
その炎はそこにある。
そしてまた
あなたの人格もそこにある。
人格は偽者だ。

だから
「内なる火はどうして
 人格を焼かないのだろう?」
と思うのも無理はない。
その火は涼しい。
その火は
人格を焼くことがない。
あなたがその人格を
まとうと決めたら、
火はそれを許す。
あなたはその人格という
緑の葉をまとい続け、
人格はその葉むらを
もっともっと
繁らせ続けてゆくことができる。
あなたはますます
偽者になってゆき、
完全な偽者に
なってしまうこともある。
あなたは人格という
虚構のなかに
我を失うことができるが、
神はそれを
邪魔しようとはしない。

このことを、
神はけっして
邪魔をしないことを、
自由は
全面的なものであることを
覚えておきなさい。
それが人間の尊厳、
人間の栄光であり、
苦悶でもある。

自由が与えられていなければ、
あなたは偽者にはならない。
他の動物は偽者ではない。
動物は人格をもっていない。
ただし愛玩動物ペットは別だ。
彼らは人間とともに
生活することで、
破壊され、
人格をもちはじめるからだ。
飼い犬たちは
みずからの本質を忘れてしまう。
飼い犬は腹を立てていても
尻尾を振り続ける。
これは人格だ。
彼は主人が誰か知っている。
主人のエゴをどうやって
満足させるか知っている。
彼は
駆け引きを身につけている。
彼は
ニューデリーに住んでいる人々と
同じくらい駆け引きがうまい。
彼は尻尾を振り続ける。

ときどき犬が当惑しているのを
たことがあるだろうか?
見知らぬ人がやって来ると、
犬はどう振る舞えばいいのか、
見知らぬ人に
どんな顔をすればよいのか
わからなくなる。
わけがわからなくなって、
彼は吠えた...
たぶんそれが
一番いいやり方なのだろう
それでも尻尾は振り続けている。
犬は家に入ってきた人が
敵なのか味方なのか、
主人がそれとなく
示してくれるのを見守っている。
敵であれば、
尻尾を振るのをやめる。
味方であれば、
その人に吠えかかるのをやめる。
犬はしるしを、合図を、
主人がどう振る舞うのかを待っている。
犬は主人の影になってしまっている、
もはや本当の犬ではない。
人間とともに
生活することで影響を受け、
人間たちに損なわれてしまう。

人間は生活をともにする
動物たちさえ破壊してしまう。
あなたは動物が
生まれながらにもつ
本質を許さない。
あなたは自分が
文化を身につけたように、
彼らに文化を教え込む。
あなたは本性が
自然の道すじをとることを
許さない。
あなたはタオが
みずからの
道すじを流れることを
許さない。

本質とは、
あなたがこの世に
もち込んでくるものだ。
人格とは、
世間がその本質の上に
押しつけるものだ。
世間は本質をひどく恐れている。
なぜなら、
本質はつねに
反逆的だからだ。
本質はつねに
個的なものだからだ。

そして世間は
いかなる<個>をも
必要としない。
それが必要とするのは羊だ。
世間は
反逆的な人々を必要としない。
世間は仏陀、クリシュナ、
老子のような人々を必要としない。
いや、
こういった人々は危険だ。
世間はおとなしい人々---
現状に従う、
既得権益に従う、
組織化された教会に従う、
国家や愚かな政治家たちに従う、
従順な人々を欲している。

社会は服従を求める。
社会は効率を求める。
あなたが
機械的になればなるほど
効率はあがる。
もっといきいきとしているときには、
あまり効率をあげられない。
機械は人間よりも効率がよい。
社会はすべての人間を
機械におとしめようと努力する。
人間を機械におとしめるには
どうすればいいか?
もっともっと
無意識にさせればいい。
もっともっと
ロボットのようにならせればいい。
人間の意識から本質を
完全に消してしまえばいい。
人間を完全なまがいものに
してしまえばいい。

夫にしたり、
妻にしたり、
使用人や、
社長や、
あれやこれやに
してしまえばいい。
が、
けっして本質的な自己に
ならせてはいけない。
それを許してはならない。
なぜなら、
その本質的な自己は
神以外の誰にも
従順ではないからだ。

それは他のものには
身をゆだねない。
それは源泉にしか
身をゆだねない。
それは他の主人を知らない。

こういったタイプの存在は、
現行の社会にとって
ひじょうに都合の悪いものになる。
なぜなら、
成長すればするほど、
あなたの自立は
いっそう高まるからだ。

成長が
遅れれば遅れるほど、
あなたの依存は
長びくことになる。
そして依存している人間は
うまく操ることができる。
なぜなら、
依存している人は
いつも恐れているからだ。
依存している人は
つねに寄りかかる相手を
必要としている。
かたときでさえ
寄りかかる相手なしでは
いられない。
彼は幼稚だ。
彼は両親に
よりかかっている。
彼は聖職者に
よりかかっている。
彼は政治家に
よりかかっている。
彼は自分の足で
立つことができない。
社会は、
ありとあらゆる着物を使って....
物質的な着物だけでなく、
心理的な着物も使って、
人間を覆い隠し続ける。

社会は
肉体があらわになることを
ひじょうに恐れている。
肉体があらわになれば、
心もあらわになってしまうからだ。
社会が裸の人を見ると
狼狽するのは、
それが口火を切るからだ。
肉体をさらけ出すなら、
彼は最初の一歩を踏み出している。
さあ、
彼が心理的に裸になるのを
誰が止められるだろう?

燃えあがる茂みから、
モーゼに呼びかけた声は
こう言った。
「靴を脱ぎなさい」

これはひじょうに象徴的だ。
それは
「着物をすべて脱ぎ捨てなさい」
と言っている。
「靴を脱ぎなさい」
靴はあなたの足を覆っている。
靴はあなたを覆っている。
「靴をはかず、
 裸足で地面に立ちなさい」
靴は人格を現し、
裸足は本質を表している。
「おまえは聖なる地に立っている。
 靴を脱ぎなさい」

みずからの本質、
みずからの内側で燃える茂みに
遭遇した瞬間、
あなたは靴を
脱がなければならない。
着物をすべて
脱ぎ捨てなければならない。
あなたの本質を隠しているものを
すべて脱ぎ捨てなければならない。
それが革命、
メタノイアだ。
それは生の転換点になる。
社会は消えて、
あなたは<個>になる。
そして<個>だけが
神と関わることができる。


Osho - The Secret Of The Secrets

…友人が、抜粋講話をアップしました---ここにシェアします。

 (OSHO 講話の抜粋です---)

ひとはみな、
根こそぎされて苦しんでいる。
あなたがそのことに
気づくときはいつでも、
脚にふらつきや、
頼りなさを感じるだろう。
なぜなら、
脚はほんとうに
ひとの根っこだからだ。
ひとは脚を通じて
大地に根づいている……。
いったん問題を
じかに理解すれば、
あなたはすでに
解決の途上にいる。
さて、
あなたは2、3のことを
やってみなければならない。

一つ目……
毎朝、
もしあなたが
海の近くにいたなら、
海岸へ行って
砂浜の上を走りなさい。
もし、
海の近くにいないのなら、
どこでもいいから
靴を履かないで、
素足で舗装していない
土の上を走りなさい。
そして足と土を接触させなさい。
まもなく、
2~3週間のうちに、
大きなエネルギーと
力強さを感じ始めるだろう。
だから、
走ることと、
素足になること……
それが一つ目のことだ。
 
二つ目に……
走る前と走った後に、
最初と最後に
次のことをしなさい……
両足を15~20センチ離して立ち、
目を閉じなさい。
それから、
片足で立っているかのように、
全体重を
最初右足にかけなさい。
左足には負担をかけない。
それを感じなさい……
そして次に
左足のほうに体重を移動し、
全体重を
左足にもってゆきなさい。
そして
右足は
まるでそこにないかのように
完全に解放してやりなさい。
その足は
地上のそこにあるけれども、
重さがかかっていない。
これを4~5回やりなさい.----
このエネルギーの
移り変わりを感じること-----
どんな感じがあるのかを
感じてみなさい。
それから次に、
左足でも
右足でもないように、
あるいは
その両方であるように、
ちょうど真ん中に立ちなさい。
どちらに傾くということもなく、
五分五分で、
ちょうど真ん中に。
その五分五分の感じが、
あなたをもっともっと
大地に根づかせるだろう。
このことを
走る前と後にやれば、
それは
大きな助けになるだろう。
 
そして三つ目に、
もっと深い呼吸を
するようにしなさい。
あなたの呼吸は
浅いにちがいない。
浅い呼吸とともに、
あなたは
根こそぎにされているという
感じを持つようになる。
呼吸はまさに
あなたの根にまで
届かなければならない。
そして
その根はセックスセンターだ。
ひとはセックスから生まれる。
そのエネルギーは性的だ。
呼吸は入っていって
セックスエネルギーと
触れあわなければならない。
そうすれば呼吸を通じて、
つねにセックスセンターからの
メッセージを受けとることになる。
そのとき
あなたは根づいていると感じる。
もしあなたの呼吸が浅くて、
セックスセンターにまで
届かないのなら、
そのときはギャップが生じる。
そのギャップがあなたに
ふらつきや
頼りなさいや
混乱をもたらす-----
自分が誰なのかがわからず、
どこへゆこうとしているのかもわからず、
自分の目的は何かもわからず、
なぜ自分が存在するかもわからない……
ただ漂流しているだけだ。
 
そうなると
あなたは徐々に意欲がなくなり、
生気を失う-----
なぜなら、
目的がないとき
どうやって生が存在できようか? 
そして、
自分自身のエネルギーに
根づいていないとき、
どうやって
目的が得られるだろうか?
 
だから、
まず最初に、
大地に根をおろすこと------
大地はすべてのものの母だ。
次に
セックスセンターに
根をおろすこと-----
セックスセンターは
すべてのものの父だ。-----
ひとたび
大地とセックスセンターに
根をおろせば、
あなたは完全にくつろぎ、
落ち着き、
中心が定まり、
根づくようになる。
これらの
三つのことが大切だ。
そして可能なかぎり
深く呼吸しなさい。
走ることも、
またその助けになるだろう。

 
Osho

FBに 友人が投稿している記事です。

 (OSHO 講話/抜粋---)

もう一度、子供になりなさい
それであなたは創造的になれる
子供はみんな創造的だ
創造性には自由が必要だ―
頭からの自由
知識からの自由
偏見からの自由が……

創造的な人とは新しいことを
試みることのできる人だ
創造的な人間はロボットではない
ロボットは決っして創造的にならない
彼らは繰り返すだけだ
だから、もう一度、子供になりなさい

そうすれば
あらゆる子供が、
創造的であることに驚くだろう
どこで生まれようと、
子供はみんな創造的だ
だが、
私たちは子供たちの創造性を許さない
子供たちの創造性を
押しつぶし、殺し、激しく非難する
私たちは彼らに、
ものごとの正しいやり方を教え始める

いいかね
創造的な人は、
いつも間違ったやり方を試し続ける
いつも正しいやり方に従ってやっていたのでは
決して創造的にはならない
正しいやり方とは、
他人が発見したやり方だからだ
その正しいやり方をすれば
無論、それで
何かをつくることはできるだろう
生産者、製造者にはなれるだろう
技術者にはなれるだろう
だが、決して創造者にはなれない

生産者と創造者の違いとは何か?
生産者はものごとの正しいやり方
ものごとの
最も効率のよいやり方を知っている
最小の努力で、
より多くの結果を生み出すことができる
彼は生産する人だ

創造者は寄り道をする
ものごとをやるための
正しい方法など知らない
だから彼は何度も何度も
いろいろな方向を探求し探し求め続ける
何度となく誤った方向に進むが
どこに動いても、
そのたびに彼は何かを学ぶ
彼はどんどん豊かになる
彼はそれまで
誰もやったことがないことをする
ものごとの正しいやり方に従っていたら
そんなことはできなかっただろう


こんな話がある……
日曜学校の先生が生徒たちに
聖家族の絵を描かせた
手元に集まってきた
子供たちの絵の中には
何枚かのお決まりの絵があった
馬小屋の聖家族、
ロバに乗る聖家族、
といった具合だ

先生は
ひとりの小さな男の子を呼んで
自分の絵を説明させた
その絵は窓から四っつの頭が飛び出した
飛行機の絵だった
先生は言った
「あなたが描いた頭の三つまではわかるわ
 ヨゼフとマリアとイエスでしょ
 でもこの四つ目の頭は誰なの?」
「ああ、これは*ポンティウス・ピラトだよ!」
と男の子は答えた

エスが十字架にかけられた時のローマの総督

さて、これは素晴らしい
これこそが創造性というものだ
彼は何かを発見したのだ
だが、子供にしかこんなことはできない
あなたたちには、
恐ろしくてそんなことはできない
それでは馬鹿みたいだ
創造者には、
必らず馬鹿みたいに見えるところがある
創造者は、
いわゆる対面を危険にさらさなければならない

詩人、画家、舞踏家、音楽家が
あまり尊敬すべき人々に見えないのはそのためだ
そして、彼らが尊敬されるようになった時には
ノーベル賞が与えられた時には
もうその人は創造的ではない
その瞬間から創造性は消える

何が起こるのか?
これまでノーベル賞の受賞者で
受賞後価値のある作品を書いた者を
知っているかね?
名声を得た者が
何か創造的なことをしたのを
これまで見たことがあるだろうか?
彼は恐れるようになる
もし何か間違ったことをしたら
あるいは何かが上手くいかなかったら
自分の名声はどうなる、と
彼にはそんなことはできない
だから尊敬されるようになったら、
芸術家は死ぬ

自分の名声を、プライドを、世間体を
何度でも危険にさらす用意のある者だけが
誰も価値があるとは思わないようなことを
深く追求できる……
創造者は常に狂人だと思われる
世界は彼を認めはするが
それは、ずっと後になってからのことだ
世間は何かおかしいと考え続ける

創造者とは、常軌を逸した人たちだ
そして、子供は
ひとりひとり創造者になるための、
あらゆる能力を持って生まれて来る
このことを、
もう一度思い出しなさい
例外なく、
あらゆる子供は創造者になろうとする

だが、
私たちがそれを許さない
私たちは、
たちまち子供たちに
正しいものごとのやり方を教えはじめる
そして、
一度ものごとの正しいやり方を覚えたら
子供たちはロボットになる
そして彼らは何度も、何度も
何度も正しいことをやり続つづけ
また、そうすればするほど上手くなる
そして上手くなればなるほど、
彼らは尊敬される

7歳から14歳までのどこかで
子供に大きな変化が起こる
心理学者たちは、
その現象を研究しつづけている……
なぜそれが起こるのか、
何が起こるのか、を

人には二つの頭脳、
二つの脳半球がある
脳の左半球は非創造的だ
それは技術的には非常に有能だが
創造性に関する限り、
まったく無力だ
それは
自分が一度学んだことしかできない
そして、
それなら非常に巧みに、
完璧にできる
それは機械的

この左脳は、
推理の、論理の、数学の半球だ
それは計算の、巧みさの、
訓練の、秩序の半球だ
右半球はまさにその反対だ
それは秩序ではなく、
混沌の半球だ
それは散文ではなく、詩の半球だ
それは論理ではなく、愛の半球だ
そこには美に対する
大いなる感受性
独創性に対する
大いなる洞察力がある
だがそれは能率的ではない、
能率的ではあり得ない
創造者は能率的ではあり得ない
彼は実験し続つづけなければならない

創造者は
どこにも落ち着くことができない
創造者は放浪者だ
彼はテントを担いでいる
確かに一夜の宿をとることはある
だが、朝になれば彼はまた出て行く
私が彼を放浪者と呼ぶのはそのためだ
彼は決して家を持たない
落ち着くことはできない
落ち着くことは、
彼にとっては死を意味する
彼は常に、危険を冒す用意がある
危険が彼の恋愛となる

だが、これこそが右半球だ
子供が生まれたときは、
右半球が機能している
左半球は機能していない

それから、
私たちは子供に教え始める――
それと知らずに、非科学的に
いくつもの世代を通じて、
私たちは右半球から左半球への
エネルギーの移行のさせ方
右半球の止め方と
左半球の始動のさせ方の
巧妙なトリックを学んできた
それが、私たちの
学校教育の何たるかだ
それが、
幼稚園から大学まで
私たちが訓練しているもののすべてだ
それは右脳を破壊し、
左脳を支援するための努力だ
7歳から14歳までのどこかで、
私たちは成功し
かくて子供は殺され、
子供は破壊される

そうして、
子供はもはや野性ではなくなる――
彼は、市民になる
そうして、彼は
規律の、言語の、論理の散文のやり方を覚える
彼は学校で競争を始めエゴイストになり
社会に蔓延している、
あらゆる神経症的なものごとを学び始める
権力や金に興味を持ち始め
自分がより強力になるために
どうすれば、
もっと高い教育を受けられるのか
どうすれば、
もっと金が得られるのか
どうすれば、
もっと大きな家を持てるのか
そういったことすべてを考え始める

子供は変わる
そうなると、
右脳はますます機能しなくなる
夢の中で、
ぐっすり眠りこけているときにしか
機能しない
あるいは
ドラッグをやっているときにしか――

西洋世界でドラッグが
非常に魅力を持っているのは
西洋が義務教育によって
右脳を完全に破壊することに成功したからに
他ならない
西洋人はあまりにも教育を受けすぎた――
つまり度を越した
片側に寄り過ぎてしまったということだ
それは極端になってしまった
もうどんな可能性も残されていないようだ
小学校、中学校、高校、大学で
もう一度、右脳を復活させる
何らかの方法が導入されない限り
ドラッグは消えないだろう
法律だけでドラッグを
禁止できる可能性はない
内なるバランスが再び正常に戻らない限り
強制的にやめさせる方法はない

ドラッグの魅力は
それが直ちに
ギアを切り替えるということ――
エネルギーが左脳から
右脳へと移動するということだ
ドラッグにできるのはそれだけだ
何世紀にもわたって
アルコールがそれをやってきたが
今やはるかにましなドラッグ――
LSDやマリワナやシロシビン――
が、手に入るようになった
そして将来は、
もっといいドラッグが手に入るだろう
そして、悪いのは
ドラッグをやる人々ではない
政治家や教育者こそが犯罪者だ
悪いのは彼らだ
彼らが人間の心を
一方の極端に押しやった――
それはあまりにも極端で、
今や反逆が必要だ
しかもその必要性は極めて大きい
人々の生から詩は完全に消え失せた
美が消え失せ、愛が消え失せた……
金と権力とコネ、
そういうものが唯一の神となった

愛がなくて、
詩がなくて、
歓びがなくて
そして祝祭がなくて
どうして人間が
生き続けることができるだろう?
長くは生き延びられない

そして、
新しい世代は世界中であなたたちの
いわゆる教育の愚かしさを示すことによって
大変な貢献をしている
ドラッグをやる者が
ほとんど例外なく
ドロップアウトになるのは偶然ではない
彼らは大学から姿を消す
これは偶然ではない、
これは同じ反逆の一部だ

そして、
一度ドラッグの楽しみを覚えたら
それを捨てるのは非常に難しくなる
その人の中の詩を解放することのできる
もっといい方法が発見されない限り
ドラッグを捨てることはできない

瞑想はより良い方法だ――
他のどんな化学物質より、
破壊性がなく害が少ない
それどころか、
それにはまったく害はなく、益がある
瞑想も同じ働きをする
それはあなたたちの思考を
左脳から右脳へとシフトする
それは、あなたたちの
内なる創造的能力を解放する

現在世界中で
ドラッグによって発生しようとしている
大変な災厄を避けることができるものは、
たったひとつしかない――
それが瞑想だ
他に方法はない

瞑想がもっともっと
頻繁に行なわれるようになり
人々の生にもっともっと浸透していけば
ドラッグはなくなるだろう
そして教育は、
右脳とその機能の
全面的な否定を止めなければならない

もし子供たちが
その両方がマインドなのだということを
教えられ
また、その両方の使い方を
教えられたなら
どちらの脳をいつ使うべきかを
教えられたなら……

左脳だけが、
必要とされる状況というものがある
それは市場で、毎日の仕事の中で
計算をするのに必要だ
また右脳が、必要になるときもある
そして、
右脳こそが目的で
左脳は手段だということを、
いつも覚えておきなさい

左脳は、
右脳に仕えなければならない
右脳が主人だ――
なぜなら金を稼ぐのは
自分の生を楽しみ
生を祝うためにすぎないからだ
ある程度の預金を望むのは
ただ愛せるようになるためだ
働くのは、
ただ遊べるようになるため――
遊びがゴールだ
働くのは、
くつろげるようになるためにすぎない
あくまでもくつろぎがゴールだ
仕事はゴールではない

労働倫理とは、
過去の遺物だ
それは捨てられねばならない
そして、教育界は
真の革命を通り抜けなければならない
人は強制されるべきではない
子供たちは、
反復練習を強制されるべきではない
あなたたちの教育とは何か?
それを調べてみたことがあるかね?
それについて
考えてみたことがあるだろうか?

それは単なる記憶の訓練に過ぎない
それによっては賢くはならない
ますます非知性的になるだけだ
人は愚かになる
子供はひとりひとり
非常に知的な存在として学校に入る
だが大学を出るときにも
なお知的である者は、極めて稀だ――
それは非常に稀なことだ
大学はほとんど常に成功する
確かに、
あなたたちは学位をもらって卒業する
だが、あなたは
そういう学位を
大変なコストで買い取っている
あなたは自分の知性を失う
自分の歓びを失う
自分の生を失う――
それは、
あなたが右脳の働きを失うからだ

そして、
あなたが学んだものとは何か?
情報だ
あなたの頭は記憶でいっぱいになる
あなたは、それを復唱し
それを再生産することはできる――
それが、
あなたたちの試験の何たるかだ

自分の中に投げ込まれたものを
すべて吐き出すことができれば
その人間は非常に知的だと思われる

まず彼は、のみこむように
のみこみ続けるように
強制されなければならない
それからテスト用紙が与えられ、
それに吐き出す
うまく吐き出すことができれば、
その人は賢い
与えられたものを
正確にそのまま吐き出すことができれば
その人は知性がある、というわけだ

さて、これは理解すべきことだが
その人が消化していないからこそ
同じものを吐き出すことができる、
ということだ
いいかね
消化していれば、
同じものを吐き出すわけにはいかない
何か違うものが出て来るだろう
血が出て来ることはあるかもしれないが
パンが、そのまま出て来ることはない
そうはならない
パンは消えてしまう

あなたは、それを未消化のままに
ただ、胃の中に
止めておかなければならないことになる
そうすれば、非常に賢いというわけだ
最も愚かな人間が、
最も知性的だと考えられる
これは非常に悲しいこと、
悲しむべきことだ
聡明な者は、適応できないかもしれない
アルバート・アインシュタイン
大学入学資格試験に
受からなかったことを知っているかね?

あれほどの創造的な知性が、だ
彼には他のみんながやっているような
愚劣な振る舞いは難しかったのだ

いわゆる学校時代の、
大学の優等生たちはすべて姿を消す
彼らは決して、何の役にも立たない
彼らの栄光は金メダルで終わりだ
それ以降、決して姿を現すことはない
彼らは生に何の貢献もしていない

こういう人たちはどうなるのか?
この人たちは破壊されたのだ
彼らは卒業証書を買い取り、
そして、すべてを失った
今や彼らは、
その免状と学位を持ち運び続けることになる

こういう教育は
全面的に改革されなければならない
教室には、
もっと歓びが持ち込まれなければならない
大学には、
もっと混沌が、
持ち込まれなければならない――
もっとダンスが、もっと歌が、
もっと詩が
もっと創造性が
もっと知性が持ち込まれなければならない

記憶力に対する、
これほどの偏重は
捨てられなければならない
人間は、もっと知性的になれるように
見守られ、援助されるべきだ
新しい方法で応答したときに
その人は評価されるべきだ

正解など、あるべきではない
そんなものは、ありはしない
愚かな解答と、
知性的な解答があるだけだ
正しいとか、間違っているとかいう
分類そのものが間違っている
正しい解答も、
間違った解答もない
それまでの繰り返しの愚かな解答か
あるいは創意に満ち打てば響くような、
知性あふれる解答があるだけだ

たとえ、
過去の繰り返しの解答が
正しいものに思えても
それまでの解答の反復なのだから
あまり評価されるべきではない
そして知性に満ちた解答が
完全に正しいものではないとしても
従来の考えと適合しないようでも
それは、
新しいということで評価されるべきだ
それは知性を明かしている

あなたは
「私は創造的になりたいと思います
 どうしたらいいでしょうか?」
と尋ねている
社会があなたにしたことを、
すべて取り去りなさい
両親や教師たちがあなたにしたことを
全部はずしなさい――
そうすれば、
あなたは再び創造的になる

再び最初の最初に持っていたあのスリルを
取り戻すことになる
それは抑圧されたまま、まだそこにある
それは、解き放つことができるのだ
そして、創造的なエネルギーが
自分の中に解き放たれたとき
その人は宗教的になる
私に言わせるなら
宗教的な人とは、創造的な人間のことだ
誰もが創造的に生まれてくるのに
創造的なままの人間はごくわずかしかいない

その罠から出るのは、あなたの仕事だ
あなたにはそれができる!
もちろん、大変な勇気がいるだろう
なぜなら、社会がしたことをぬぐい去り始めれば
あなたは尊敬を失うことになるからだ
あなたは立派な人とは思われなくなる
変わり者になり始めるだろう
あなたは人々には奇人に見えてくる
変人に見えてくる
人々は
「かわいそうに、あの男はどうかしてしまった」
と思うだろう
他人が奇人だと思うような生の中に
入っていくことこそが、最大の勇気だ
そこには困難が待ち受けている

創造的でありたかったら
人はすべてを賭けなければならない
だが、それだけの価値はある
小さな創造性には
全世界とその王国以上の価値がある
何か新しいものを創造することから来る歓びは……
それが何であろうと――
小さな歌、ちょっとした絵
どんなものであろうと……

何か新しいものを創造するとき
人は創造主に参加している
神こそ創造者だからだ
創造するとき、
あなたは神と同調している
本当に創造するとき
あなたを通して神が創造している――
大いなる歓びが沸き起こるのはそのためだ

過去のものを繰り返すとき
あなたは一人で繰り返している
そこには神はいない
あなたは砂漠だ、あなたは機械だ
あなたが創造するとき
神はただ、あなたのハートの中に入ってくる
あなたは中空の竹になり
神があなたを演奏しはじめる
そして、あなたは笛になる

大いなる歌が沸き起こる

誰もがその歌を持ち運んでおり
その歌が歌われない限り
人は、決して充足を感じることはない

私のサニヤスとは、
創造性への参入(イニシエーション)、
危険への参入
かつて教えられたことのない
それどころか、
これまで教えられてきたすべてと反対の
新しい生への参入に他ならない

私の闘いのすべては
このいわゆる神経症的な社会に
反逆するものだ
私は、あなたたちにもう一度、
無学になってもらいたい


Osho - New Child

…FBで、友人が 投稿している記事です。

 (OSHO の講話/抜粋)

彼が言っているのは、
自分で見る以外に
それを知る方法はない、
ということだ。
他の誰からも、
聞くことはできない。
どんな覚者にも
説いてはもらえない。
どんな導師からも
教えてはもらえない。
そういう人たちみんなができるのは
身振りで教えることでしかない。
そういう人たちはみんな
月を指さすことしかできない。
だがその指は月ではない。
あなたはその指を見るのを止めて、
月そのものを見始めなければならない。

自分で月を見れば、
その美しさはわかる。
月をさす指を見ることで、
その美しさを知ることはできない。
 
知識はすべて
月を指し示すものだ。
あらゆる経文、
あらゆる経典は
月を指し示している――
月をさす指にすぎない。
ところが
人びとはその指にこだわり、
問題は指ではないことを
完全に忘れてしまう。

月は遥か彼方にあり、
指はその方向を
示しているにすぎない。
その指にこだわってはいけない。
指のことは忘れなさい。
あらゆる知識、
あらゆる経典を忘れ、
自分で自分の真理を見るのだ。
 
それは耳の問題ではない。
それはまさにあなたの眼、
あなたの内なる眼の問題だ。
自分の内を見ないかぎり‥‥
それを聞いたり、
それを読んだりすることによって
知ることはできない。
多くの知識をえることが
覚者になることではない。
そうではなく、
無垢の子どもになること、
どんな深刻さもなく、
嬉しげに、
上機嫌に踊りながら、
遊び心を持って
源にたどり着くことが‥‥。
自分のエネルギーを
源そのものに集めて、
そこにしばらく
開いてごらん。
そうすれば、
あなたは
新しい経験によって満たされ、
その経験は日毎に成長しつづける。
 
やがてあなたは
自分が光で
満たされていることに気がつく――
満たされているだけでなく、
光が自分の身体から放射し始める。
それがオーラと
呼ばれて来たものであり、
ウィルヘルム・ライヒ
科学的に証明しようと
試みていたものだ。
nだが人びとに
彼の語っていることが
理解できなかったために、
彼は気違い病院に強制収容された――
「何の放射のことを奴は言ってるんだ?」
と。
 
だが現在ではキルリアン写真が、
肉体のまわりにある
生命のオーラを
写真に撮ることができる。
健康であればあるほど、
その人のオーラは大きい。
幸せであるときには、
それは本人のまわりを踊り、
不幸であればそれは縮む。
キルリアン
不幸な人を被写体に使ったときには、
その写真に
どんなオーラも見つけられなかった。
オーラが内側に縮まってしまったのだ。
だが彼が、踊り、楽しみ、
嬉しげに野の花を摘み、
浜辺の石を集める子どもたちを
撮ったときには、
そのまわりに
途方もないオーラが出ていた。
 
その同じオーラが
覚者たちのまわりにあった。
そして、
仏陀やクリシュナの時代には
写真など
手に入らなかったにもかかわらず、
絵画や彫刻が
全部オーラを持っているのは
ほとんど奇跡と言える――
頭のまわりのあの光輪だ。
 
ひとたび自分の生命の源を見たら、
人は同じ光がこの世のあらゆる対象、
この世のあらゆる人から
放射しているのを見始める。
オーラを見れば、
その人が不幸なのか、
あるいは幸せなのかを
見て取ることができる。

 
導師の雲巌は彼に、
「嬉しいか?」と訊いた。
洞山は学者だったから、
覚者の話し方は知っていた。
そして今や彼は自分でそれを経験した――
そのことを彼の解答に見ることができる。

彼は言う。
「嬉しくないとは言いません。
 しかし嬉しいとは、
 あまりにも月並みなことばです。
 嬉しいと言ってみても、
 何も言ったことにはなりません。
 私が見つけたものはあまりにも大きく、
 それは『嬉しい』というようなことばでは
 言い表せません。
 もっとずっと大きいものです。
 だから、
 嬉しくないとは言いません。
 わかっていただきたい、
 それは嬉しいというようなことより
 大きなものです。
 ことばでは説明できません。
 言えるのは、
 私はゴミの山のなかに
 輝く真珠を見つけた、
 ということだけです」と。
 
彼が言っている「ゴミの山」とは、
彼の学問のことだ。
彼は必要もないのに
たいへんな知識を蓄積した。
ところがその知識は、
本来の存在――
存在に対する自分の根拠そのもの――
の上にただ積み上げられ、
それを隠していただけだった。
 
それはあたりまえの幸福ではない。
実際それを
説明できるようなことばはない。
「至福」ということばはやや近い。
「恩寵」ということばはもっと近い、
歓喜」ということばはもっと近い。
だがそれ以上は
どんなことばも存在しない。
その経験は、
歓喜そのものよりも遥かに深い。


Osho - The Zen Manifest : Freedom from oneself

友人のFB 投稿記事です。(講話 : 抜粋)

 (OSHO 講話/抜粋)

古池やかわず飛び込む水の音

これは松尾芭蕉
最も有名な俳句のひとつだ。
この俳句には、
目覚めた人々だけが
気づくことのできる
格別の味わいがある。

その美は
たんに審美的なものではなく
実存的なものだ。
そのかぐわしい香りは
悟りの境地から放たれる。

タオとは ひとえに
何の但し書きもない、
形容もつかない、
ありのままの姿を指している。

タオとは ただ
「そのようにある」
ということだ。

古池や かわず飛び込む 水の音

俳句はふつうの詩ではない。

ふつうの詩は
空想から生まれる。
ふつうの詩は
マインドの産物だ。

俳句は
ただありのままの姿を映しだす。

意識は鏡になって、
目の前にあるものを映しだす。

鏡は映るものに影響されない。

その前を醜い人が通りすぎても、
鏡が醜くなることはない、
鏡には何の変化も起こらない。

美しい人が通りすぎても、
鏡が美しくなることはない。

映す相手が誰もいなくても、
鏡は前と同じで変わらない。

映しても映さなくても、
善いものを映しても
悪いものを映しても、
鏡は 清らかなままだ。

目覚めた人の意識もそうだ。

芭蕉
仏頂禅師の弟子だった。

このとてつもなく美しい
俳句が生まれたとき、
芭蕉
古池のほとりにある
小さな庵で暮らしていた。

ある日のこと、
にわか雨があがると、
仏頂禅師は 芭蕉のもとを訪れ、
「近頃のおまえの
 見解(けんげ)はどうかな?」
と尋ねた。

いいかね、
師は
「どんな知識を身につけたかな?」
と尋ねるのではなく、
「見解はどうかな?」
と尋ねている。

見解(けんげ)というのは
知識とは まったく別のものだ。
知識は借り物だが、
見解は自分自身のものだ。
知識は外からくるが、
見解は内側から生まれてくる。

知識は
手垢にまみれているので醜い。
そして知識は
けっしてあなたの
実存の一部にはなりえない。
それはいつまでたっても
異質なもの、
よそよそしいものであり、
あなたのなかに
根をおろせない。

見解は
あなたのなかから育ってくる。
それは あなた自身の開花だ。
それはまぎれもなく
あなたのものであり、
それゆえに美をそなえ、
解き放つ力を宿している。

真理はけっして誰からも
借りることができない。
そして借りてきた真理は
もはや真理ではない。
借りてきた真理は
すでに虚偽だ。
語られるやいなや、
その真理は たちまち嘘になる。

真理とは
体験されるべきものであり、
聞いたり、
読んだりするものではない。

真理はたんに
あなたが蓄えてきたものの一部に、
あなたの記憶の一部に
なるものではない。

真理は実存的なもので
なければならない。
あなたの実存の毛穴の
ひとつひとつが
それを感じなければならない。

そう、
それはひとつの
フィーリングでなければならない。

ひと息ひと息が
真理で
満たされていなければならない。

それはあなたのなかで脈動し、
あなたのなかを
血のように巡らなければならない。

真理が体得されると、
あなたは それになる。

だから仏頂は弟子に向かって、
芭蕉
 近頃のおまえの
 見解(けんげ)はどうかな?」
と尋ねた。

そしてこの「近頃の」という
美しい言葉を忘れてはいけない。

真理はつねに成長している。
真理は動いている。

それは静的ではなく、
ピチピチと躍動している。
それは踊りだ。
それはそびえゆく樹々、
流れゆく川、
まわりつつける星々のようだ。

真理はけっして
いかなる意味でも
静的な現象ではない。
それは停滞したものではなく、
実にダイナミックに、
勢いよく動きまわっている。
いきいきとしているためには
動きつつけていなければならない。

死だけが静止し、
死だけがよどんでいる。
だから死んでいる人々も
うわべは生きているように
みえるかもしれないが、
真理がもはや成長していなければ、
彼らは死んでいる。
彼らの魂は
もはや成長していない。

真理とは観念ではなく、
あなたの実存そのもの、
あなたの魂そのものだ。

それゆえに師は
「 近頃のおまえの
 見解(けんげ)はどうかな?」
と尋ねた。
彼は過去のことを
尋ねているのではない。

知識はつねに過去に関わり、
空想はつねに未来に関わっている。

彼は現在のことを尋ねている、
現に目の前にあるもののことを
尋ねている。


芭蕉は答えた。

雨過ぎて青苔を流す

つい先程まで雨が降っていた。
雨はあがり、
青い苔がみずみずしく輝いている。

悪くはないが、
まだ充分ではない。
それはすでに
過ぎ去ったことであり、
現に目の前にあるものの
ことではない。

それは
すでに記憶になっていて、
今まさに
体験していることではない。

仏頂は満足しなかった....
悪い答えではなかったが、
まだまだだった。

そして絶妙な答えが出るまで、
意にピタリとかなった答えが出るまで、
師はけっして満足しない....

芭蕉のように
大きな力量を秘めた人物を前にしては
なおさらだ。

もはや芭蕉の師、
仏頂のことを知る者はいない。
彼はただ
芭蕉のおかげで知られている。

この弟子には
無限の力が秘められていた。
師はそうたやすく
満足することはできない。

それを覚えておきなさい!

器が大きければ大きいほど、
あなたには
困難な課題 (ワーク) が課せられる。

師はあなたに
きびしい態度を取るだろう。
彼はあなたを
少しも容赦しないだろう。

芭蕉ほどの器を
そなえていない者の答えならば
それでもいい。
師はうなずいて
同意したかもしれない....が、
芭蕉はだめだ。

数分の間があいても、
ずれていることに変わりはない。
すでに雨はあがり、
空は晴れ、
太陽が顔をのぞかせ、
その光を
古池や、庵や、
あたり一面に投げかけている。

師は
「まだ言葉が足りない!」
と言った。

師が
「まだ言葉が足りない!」
と言うのは、
もっと言葉を加えなさい
という意味ではない。

彼は言葉の数が足りないと
言っているのではない。

彼はこう言っている....

もっと深みのあることを言いなさい、
もっと力強いことを言いなさい、
もっと実存的なことを言いなさい、
もっと内実のあることを言いなさい!

まさにそのとき、
蛙が池にポチャンと
飛び込む音が聞こえた。
彼はこう詠んだ。

かわず飛び込む水の音

さあ、これが タオだ....
現に目の前で、
あるがままに、
息づき、
脈動している、
まさにこの瞬間。

タオは 過去を知らず、
未来を知らない。
タオはただひとつの時制
しか知らない....

それは 現在だ。
タオは 今ここしか知らない。

みずからのマインドを
消えてゆかせれば、
過去もないし、
未来もない。

過去と未来は思考の産物だ。

実際に存在するのは現在だけだ。

そして過去もなく、
未来もないとしたら、
どうしてそれを
「現在」と呼べるだろう?

現在は過去や未来と照らし合わせて
はじめて意味をもつ。

現在は
過去と未来のあいだに
はさまれている。
過去と未来を取り去れば、
現在もまた消え失せる。

それがタオの瞬間だ....

時間が消え、
人はありありとその場にいて、
完全に今ここにいて、
過去の亡霊のあいだを
さまようこともなく、
まだ生まれていない未来の
心像のなかを
さまようこともない。



Osho - The Secret Of The Secrets