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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

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ある男が仏陀のもとへ行った。
彼は人類のために
何かをしたかった。
彼は大金持ちだった。
彼は仏陀に尋ねた。
「人類のために
 私にできることを教えてください。
 私にはたくさんの金があります。
 子供もなく、
 妻は死に、
 独り身ですから、
 何でもすることができます」

仏陀はとても悲しげな目で
男を見つめて沈黙していた。
男は言った。
「なぜ
 黙っておられるのですか?
 なぜ
 話をしてくださらないのですか?
 あなたはいつも
 慈悲について語っておられます。
 私には
 何でもする用意があります。
 おっしゃってくだされば
 何でもします。
 大丈夫です――
 私には充分な金がありますから!
 どんな仕事でも
 与えてくだされば
 やり遂げます」

仏陀は言った。
「あなたが言っていることは
 わかるが、
 私は悲しいのだ。
 あなたは
 ものごとを為すことができない。
 なぜなら、
 あなたはまだ
 存在していないからだ。
 何かを為すことが
 できるようになる前に、
 人はまず存在するように
 ならなければいけない。
 問題は
 どれだけ金を
 もっているかではなく、
 あなた自身が
 いないことにある!」

慈悲心という質は
実存の影なのだが、
その実存が欠けている。

自我(エゴ)はけっして
慈悲心をもつことができない。
自我は非情だ。
慈悲のゲームを
演じているときでさえ、
自我は非情だ。

自我が消えてしまうと……
ときには自我のない人が
とても非情に見えることがある。
が、
そうではない。
彼は非情ではありえない。
彼のその非情さですら
深い慈悲にちがいない。

禅師が弟子の頭を
棒で打つのは非情ではない。
それは
とほうもない慈悲だ。

禅師が弟子に
飛びかかって殴るのは
非情ではない。
なぜなら、
ときおり師の一撃によって、
一瞬のうちに、
稲妻が闇を切り裂くように
弟子が
光明を得ることがあるからだ。

仏陀は言った。
「あなたには何もできない。
 金があることは知っている。
 あなたのことは耳にしていた。
 だが、
 あなたをのぞき込んだとき、
 私はひどく悲しくなった。
 あなたは
 何かをしたがっているが、
 何かを為すことができる
 要素が欠けている。
 あなたは
 夢を見ることしかできない」

だからヴィシュヌは言う。
「私が無償で与えたものに
 行為で報いることほど
 むずかしいことはない」

ゲオルギー・グルジェフ
弟子たちに言っていたのは
そのことだ。
彼がP・D・ウスペンスキー
最初に言ったことは
それ、まさにそれだった。
ウスペンスキー
偉大な探求者、
知識の探求者だった。
はじめて
グルジェフに会いに行ったとき、
彼はすでに世界的に有名な
数学者、思想家だった。
彼が書いた最も優れた本
『テルティウム・オルガヌム
はすでに出版されていた。

それは類まれな本だ――
著者がまだ
覚醒していなかった
という意味でもまれだ。
こんなに美しい作品を
どうして書くことが
できたのだろう?
覚醒した人間にしか
わからないような誤りが
二、三あるが、
ふつうの人間なら
まず気づかない。
それはまるで
ブッダが書いたかのように、
ほとんど完璧だ。

だが、
ゲオルギー・グルジェフ
その本に目を通すと、
あちこちの頁を
ぱらぱらとめくって、
それを部屋の外へ投げ捨て、
こう言った。

「まったくのたわごとだ!
 君は何もわかっちゃいない!
 そもそも君はいないのだ。
 その君にどうして
 知ることができるだろう?
 人はまず
 存在しなければならない。
 そこではじめて人は
 知ることができるようになる」

ウスペンスキー
師(マスター)を探して
東洋をくまなく旅した人物だった。
これは美しい物語であり、
まるで寓話のようだ。

彼はインドを旅した。
彼はセイロンやビルマへ行った。
彼は僧院やヒマラヤの洞窟で
暮らしたことがある。
ラマやスワミや
たくさんのヒンドゥー教
神秘家に会ったが、
誰も彼を満足させることが
できなかった。
なぜか?
それは彼らが語ったことは
みな経典の焼き直しに過ぎず、
ウスペンスキー
すでに学んでいたことだからだ。
彼ら自身の言葉は
ひとつもなかった。
失意のうちに、
彼は帰途についた。

彼はロシアに、
かつて暮らした
ペテルブルグにもどってきた。
ペテルブルグのある喫茶店で、
彼はグルジェフに会った。
その最初の出会いのとき、
師のまなざしを見て、
ウスペンスキーは悟った。
「この男こそ
 私が捜していた人物だ。
 私はこの町にずっと暮らし、
 この喫茶店に
 何年も通いつづけてきたが、
 探し求めていた人が
 この喫茶店に坐っている!
 セイロン、
 ネパール、
 カシミールなど
 遥か遠くの場所で
 探しつづけていたのに」

グルジェフは、
まず
ウスペンスキーにこう言った。
「自分が存在しないかぎり、
 君はものごとを
 知ることができない。
 自分が存在しないかぎり、
 君はものごとを
 為すことができない」

ところがパラドックスは、
自分が存在しなくなってはじめて、
「私」という言葉が
通用しなくなってはじめて、
人は存在するようになる
というところにある。


Osho - The Secret Of Secrets

…OSHO 抜粋講話---

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一般に
信じられているように、
欲望が
不安を
生みだすのではない―
不安が
欲望を生み出すのだ。
人は「不安」そのものだ。

先日、
私はあなた方に言った。
動物には不安がない、
と。
それは彼らが
何かになる(become)
必要がないからだ―
彼らはある(are)。

イヌはイヌであり、
トラはトラであり、
それで全く問題ない!

トラはトラに
なろうとしていない。
トラはある!
トラはすでにある!
いっさい
何かになる必要はない。

動物の世界には
不安というものがない。
ブッダの世界にも
不安というものがない。
彼らは到着しており、
なっているからだ。
彼らはシッダ、
存在(being)だ。
もはや
目標とするものはなく、
動きはない。
旅は完結した。
彼らは
<わが家>に
到着している…。

この二つの間に
人間がいる―
彼は半分は動物、
半分はブッダだ。
まさに
そこに不安がある。
不安とは
この緊張だ。

あなたの一部は
動物に
戻りたがっている。
それはあなたを
いつも引き戻そうとする。
それは言う。
「戻っておいで!
 あんなに
 すばらしかったじゃないか―
 どこへ行くつもりだい?」

もう一方の部分は
未来へ希望を抱き続ける。
何らかの間接的な形で、
あなたは
ブッダになることが
自分の天命であることを
熟知している。
種子はある!
そして、
種子はあなたに
言ってやまない。
「土を、
 正しい土壌を
 見つけ出せば、
 おまえは
 ブッダになるだろう。
 戻ってはいけない!
 前に進め…」

この綱引きが
「不安」だ。

「不安」は
理解されるべき
最も重要な言葉の
ひとつだ。
なぜなら、
それは単なる言葉に
とどまらないからだ。
それは、
まさに人が置かれている
状況だ。
これが人間の
ディレンマだ―

生きるべきか、
死ぬべきか?
これであるべきか、
あれであるべきか?
どこへ行ったらいいのか?
人は十字路で
立ち止まっており、
すべての可能性が
開かれている。
だが、
一つの可能性を選んだら、
ほかのすべての可能性を
捨てなければならない―
そこに恐れがある。

間違った選択を
したかもしれない。
右に行けば―
誰にわかるだろう?―
左に行く方が
正しかったかもしれない…。
これが「不安」だ。

どこへ行ったらいいのか?
何をしたらいいのか?
何をやるにしても、
不安がなくなることはない。

動物になってしまえば、
ブッダの部分が
それに反逆しようとする。
自分の動物の部分が
喜ぶことをやってみれば、
ブッダの部分が
あなたの中に
罪悪感をつくりだす…。
ひとつの部分に従えば、
もうひとつの部分が
罪悪感を感じさせる。

その逆もしかり。
これが「不安」だ。
この不安は
まさに実存的なものだ。
それに苦しむ者もいれば、
苦しまない者もいる
ということはない―
それはない。
それは実存的だ。
誰もがその中に
生み落とされている。

人類はその中に
生れついている。
人間は不安の中に
生れついている。
それが人間に
与えられた課題だ。
それは彼が
とかねばならない問題、
彼が越えなければならない
問題だ。

さて、
それを超越する方法は
二つある。
ひとつは
世間的な方法で、
それを
「欲望」と呼んでもいい。
欲望は
この不安を隠すやり方だ。
あなた
は狂ったように
金を稼ぐことに奔走する。
金もうけに夢中になり、
実存的な不安のことは
すっかり忘れてしまう。
そうなれば
真の問題について
考える時間も、
手がかりもなくなってしまう。
あなたは
すべてを脇におしやって、
金、さらなる金の追求に
のめり込む。
そして
金を得れば得るほど、
さらに大きな欲望が
起こってくる。
この金や政治権力を
求める欲望は、
不安を隠すための
覆いにほかならない…。

欲望は
不安を避けるやり方だが、
ただ避けることしかできない。
避けることで、
それを打ち壊すことは
できない。

欲望は
人に小さな不安を
与えるが、
いいかな、
それは
ごく小さな不安であって、
実存的なものではない。
もちろん、
金を稼いでいる時も、
あなたはいくつかの
不安はあるだろう―
取引のことや
株式市場のこと、
あれやこれやのこと、
それから価格。
多くの金を注ぎ込んだが、
それで
もうけることができるか、
それとも損するか?
こういった
小さな不安がある。

それは
ほんとうの不安とは
比べものにならない。
それは
ほんものを避けるための
トリックだ。

欲望は不安の隠蔽だ。
それはトリックであり、
策略だ。
そして、
瞑想とは、
その覆いをはがすことだ…。

真の瞑想は
テクニックではない。
真の瞑想は
単にくつろいで、
静かに坐り、
あるがままに
ものごとを起らせることだ。

すべての不安が浮上して、
表面化するのを許しなさい。
そして、
それを見守り、
見守り続ける。
それを
変えることは何もしない。
目撃が真の瞑想だ。
その目撃の中で、
あなたの仏性は
さらにもっと
力強いものになる。
目撃は仏性の滋養だ。
そして、
仏性が
力強くなればなるほど、
不安はいっそう
少なくなってゆく。
あなたの
仏性が成就した日、
すべての
不安は去っている。


Osho

…あなたは「もっと 愛 しなさい---」OSHO,の講話を抜粋------

…友人が OSHO 講話抜粋記事をシェアしています---ここに転載します。


多かれ少なかれ
誰の生も
恐怖に
支配されている。
なぜなら、
生を生きるには
ふたつの道しか
ないからだ。

愛に
支配されるか、
恐怖に
支配されるか。
一般的には、
愛することを
学ぶまでは、
生は
恐怖に支配される
ことになる。
愛がないときには、
恐怖の存在は
避けがたい。
それは
愛の不在にすぎない。
愛することができれば、
恐怖は消え失せる。

だから、
私があなたに言いたい
ひとつのことは、
恐怖に
注意を払いすぎては
いけないということだ。
それは
自己催眠になる。

自分は
恐怖とともに
生きているのだと
考えつづけたら…、
あなたの生は
恐怖に
支配されるようになり…
それでおわってしまう。

それが
示しているのはただ、
恐怖を消し去るのに
充分なほど
愛が強くは
なっていない
ということだ。
恐怖は
ただの症状にすぎない。
それは病気ではない。
治療法もないし…
その必要もない。
それは
ただ症状でしかなく、
それでいて
極めて有用でもある。

つまり
それが示していることは、
もうこれ以上、
生を浪費しては
いけないということだ。
あなたは
“もっと愛しなさい”
と言われている。


Osho - Hammer on the Rock

…「---決して 途中で止まってはいけない」OSHO

…友人の FB 投稿記事(講話/抜粋)を転載します。


また
人は数知れない
誘惑に惑わされては
ならない。
これが起こるのは、
静かな境地が
はじまった後、
突然
あらゆる
妄想のつながりが
続々と
現れてくるときである。
それを
打ち破ろうとしても、
どうにもならない。
その妄想を追うと、
気分が
軽くなったような
感じがする。

精神分析
道を誤ったのはここだ。
精神分析
自由連想の技法に
なってしまった。
あなたは
どこまでも
つづけてゆくことができる。
想念が
次から次へと現れ、
それが
無限につづいてゆく。

次から次へと
現れる想念から
身を引いたままで
いなければいけない。

想念はやって来て、
四方から
あなたを取り囲む。
想念は雲に似ている。
わずかに
顔をのぞかせていた
青空さえも消えてゆく。
そして
想念で
はち切れそうになると、
人は本能的に
闘いはじめる。
瞑想とは
無念無想の状態
であることを読んで
知っているからだ。
だが、
闘っても
けっして
無念無想にはなれない。
闘っても
負けるだけだ。
闘うことそのものが
敗北の原因になる。
影と闘うことはできない。
闘っても負けるだけだ。
自分の影と
闘おうとしたら、
あなたは
負けるしかない――
影が
とても強いからではなく、
影など
存在しないからだ。

存在しないものと闘って、
どうして
勝つことができるだろう?
想念は影だ。
闘ってはいけない。

闘わなければ、
もうひとつの道が
開かれる――
精神分析
選んだのはそれだ。
その場合には、
想念とともに動き、
想念を自由に漂わせ、
自由に連想を起こらせる。
ひとつの想念が
別の想念に結びつき、
またその想念が
別の想念に結びついて
次々と
連想が起こり、
それが
延々と果てしなく、
うんざりするほど
つづいてゆく。

これには
一種のくつろぎに似た
感覚がともなう。
精神分析が終わると、
人々が安堵し、
救われた気持ちになるのは
そのためだ。
救われたわけでもないし、
助かったわけでもない。
たんに闘いが
消えただけだ。

あなたが
緊張するのは
闘うからだ。
闘わなければ
緊張は消える――
そして
緊張が消えることで、
あたかも
救われたような気分になる。

ムラ・ナスルディンは、
2サイズも小さい、
きちきちの靴をはいていた。
彼は一日中不平をこぼし、
靴に腹を立てていた。
ある日、
私は彼に尋ねた。
「靴を変えれば
 いいじゃないか。
 どうして
 文句ばかり
 言っているんだい?
 誰もその靴をはけと
 無理強いしていないだろう。
 新しい靴を
 買えばいいじゃないか」
彼は言った。
「だめだ!
 絶対にいやだ!」
私は言った
「なぜだい?」
彼は言った。
「それが唯一の
 慰めだからだよ。
 一日中
 靴と格闘したあと、
 家に帰って
 靴を放り出し、
 ベッドに横になると、
 とても気分がいいんだよ!」

それは気分がいい。
想念と闘っても
勝ち目がないので、
闘うことをやめ、
想念を自由に漂わせ、
想念とともに動いてゆくと、
気分がよい。
精神分析の秘密は
ひとえにそこにある。
精神分析
まったく助けにならない。
闘いをやめさせるから、
気分がよくなるだけだ。

呂祖は言う。
「どちらも正しくない。
 闘う必要はないし、
 想念を野放しにして、
 その後を追う必要もない。
 あなたは見守る人、
 目撃者のままでいればいい」

これは
主人が
召使になってしまったことを
意味する。

想念の後を追えば、
主人が
奴隷になってしまう。

もし
このような状態に
長くとどまっていると、
幻想に満ちた
欲望の世界に入ってしまう。

主人の立場を
取りもどさなければならない。
あなたは奴隷ではなく
主人にならねばならない。
主人であるとは
どういうことだろう?

目撃者でいることが
主人であることだ。

そこにある想念を
見守りなさい。
穏やかに、
静かに、
見守りなさい。
想念が
来ては去るに
まかせなさい。
想念が
現れては消えるに
まかせなさい。

あなたは
ただ気づいている――
想念が現れ、
とどまり、
去ってゆく――

すると、
まもなく
想念が現れる回数が
どんどん減ってゆく
ポイントが来る。
そしていつの日か、
すきまが現れ……
いっさいの想念が消えている。
そのすきまのなかで、
最初の神の体験が起こる。

最善の場合には、
天国に生まれ、
最悪の場合には、
野狐の世界に生まれる。
確かに、
こういった野狐の霊は
有名な山々に住み、
風や月、
花や果実を楽しみ、
珊瑚のような樹や
宝石のような草を
楽しんでいるが、
果報が尽きれば、
再び混乱の世界に
生まれ変わるのである。

瞑想がうまく進むと、
あなたは天国に、
永遠の至福のなかに
生まれる。
しくじり、
道をはずれると……
道家では、
そうして道を
はずれることを、
最悪の場合には、
野狐の世界に生まれる、
と表現している。

野狐とは
詩人のスピリットだ。
野狐とは
空想力に富んだ
精神のことだ。
瞑想の途中でしくじっても、
何かが得られる。
あなたは樹や花、
世界やその美しさを
前よりももっと
楽しむことが
できるようになる。

だが、
やがて
瞑想によって
つくりだされた
エネルギーは尽き、
あなたは
昔の混乱に
舞いもどらざるを
えなくなる。

いいかね、
瞑想がうまく進むと、
喜びは永遠に
あなたのものになる。
だが、
失敗しても
すばらしい喜びや
詩の瞬間が
いくつかは訪れる。
瞑想を
しくじった者は
詩人になる。
瞑想を
達成した者は
見者になる。

見者は
永遠の詩人であり、
詩人は
つかのまの詩人だ。

だから、
ときどき
こういうことが起こる。
あなたは瞑想を
少しかじるが、
気分が高揚すると
やめてしまう。
あなたは
すべてが達成されたと
思い込む。

緑の樹も
赤い薔薇も
鮮やかさを増し、
恋はすばらしく、
様々なことが
起こりはじめている――
もう
面倒なことはやめよう。
だが、
つくりだされた
エネルギーは
まもなく尽きる。
あなたは野狐になる。

世界中で
薬物(ドラッグ)によって
生み出されているものは
それだ。
薬物は
野狐しか生みださない。
だが、
瞑想も、
完結しなければ、
薬物と
変わらないものになる。

ひとたび
決意したら、
全身全霊で
関わらねばならない。
あなたは
何があっても
その果てまで
行かねばならない。

それは挑戦だ。
この挑戦を受け入れ、
内なる探求の
最も美しい旅に
出かけなさい。
そして到達するまで、
台風の目に入るまで、
けっして途中で
止まってはいけない。



Osho - The Secret Of Secrets 

…愛すること---

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愛だけが
我が家(home)だ。
家が
愛に満ちてるとき
我が家になる。
そうでなければ、
それは家のままだ。
愛が触れることで、
そのすべては変容する。
愛なしでは、
人は地上の
ホームレスな放浪者だ。
愛と共にあれば、
ただちに人は
地上に根づきはじめる。
人が根づきを
感じはじめると、
中心の定まりを
感じはじめると、
人は我が家に帰る。

愛するハートは
あらゆるところを
我が家にする。
そして、
愛さないハートには
どこにも我が家がない。
人がハートに
愛を築くことなくしては、
見知らぬ人、
部外者のままだ。
私たちは
外側に
大きな城を
築くことができるが、
それが
我が家になるとは
限らない。
たとえ
小さなコテージや
小屋であっても、
あなたのハートに
愛を築けば、
あなたが愛を放つと、
それは我が家になる。

愛こそが
存在の
我が家であることを
覚えておきなさい。
その他の家は
かわいそうな
代用にすぎない。
愛はあなたの
家であるだけではなく、
あなたが
それを築いたなら、
他者の家にもなる。
そして究極には
それは神の家となる。
人の愛は
最後には
神が滞在する
寺院となる。



Osho - Turn On, Tune In And Drop The Lot

…瞑想「正しい状況 & 正しい空間」OSHO

…友人のFB投稿記事です。



この静かな境地に
入っているときには、
正しい状況と
正しい空間を
つくらなければならない。

言うまでもないことだ。
薔薇の園を
つくろうとしているなら、
土をそっくり
入れ替えなければならない。
石を取り除き、
古い根を取り除き、
雑草を
取り除かなければならない。
あなたは外界から守られた、
新しい状況と
新しい空間を
つくりださなければならない。
あなたは周囲に柵を
設けなければならない。
薔薇を栽培するつもりなら、
こうしたことを
すべて整える必要がある。

瞑想は薔薇、
最もすばらしい薔薇、
人間意識の薔薇だ。
この書物
『黄金の華、
 黄金の薔薇の秘密』
と呼ばれているのは
そのためだ。
正しい状況とは何だろう?
正しい空間とは何だろう?

世事の只なかで
坐ってはいけない。

瞑想が深まる場所を
見いださなければならない。
例えば、
映画館に行って
最前列に坐ったり、
駅に行って
プラットホームに坐るよりも、
樹の下に坐るほうが
助けになる。

いまだに
タオがあたり一面に流れ、
その波動を放ち、
脈打ち、
ほとばしっている大自然、
山々のなか、
樹々のもと、
川のそばへ
出かけていったほうがいい。

樹は
絶えざる瞑想のなかにある。
樹の瞑想は静かであり、
無意識だ。
私は樹になりなさいと
言っているのではない。
あなたはブッダ
ならなければいけない!

だが、
ブッダと樹には
共通点がひとつある。
彼は樹のように青々と繁り、
樹のように樹液に富み、
樹のように祝っている。

もちろん、
違いもある――
ブッダには意識があるが、
樹は無意識だ。
樹は無意識な状態で
タオのなかにあり、
ブッダは意識とともに
タオのなかにある。
だが、
その違いは大きい。
天と地ほどの差がある。

だが、
樹のそばで坐っていると、
まわりで
美しい鳥たちが歌い、
孔雀が舞い踊り、
流れる川のせせらぎが
聞こえてくる。
あるいは
滝のそばで坐っていると、
そのすばらしい音楽が
聞こえてくる。

自然がまだ乱されず、
汚されていない場所を
見つけなさい。
そういう場所が
見つからなければ、
戸を閉めて、
部屋のなかで坐りなさい。
もしそれができるなら、
瞑想だけをする部屋を
用意するといい。
ほんの片隅でいいから、
瞑想だけに使うようにする。

専用にするのは、
どんな種類の行為も
独自の波動を放つからだ。
そこで瞑想だけをすれば、
その場所は瞑想的になる。
毎日瞑想をするたびに、
その場所は
あなたの瞑想の波動を
吸収する。
翌日部屋に入ると、
その波動があなたに
返ってくるようになる。
それは助けになる。
それはもどってくる。
それが応えてくれる。

寺院、教会、
モスクの背景には
そのような着想がある。
その着想はすばらしい。
みんなが
祈りや瞑想に使う部屋を
個別にもつことは
できないかもしれないが、
村で専用の部屋を
設けることならできる――
人がたむろせず、
俗事が行なわれることのない、
川岸の樹々に囲まれた寺院。
瞑想がしたくなれば、
その寺院にゆけばいい。
そして
寺院にいる人の
邪魔をしてはいけないことを
みんなわきまえている。

聖地とは
瞑想にふさわしい条件を
満たした
空間に他ならない。

激しい怒りを
感じているなら、
それは瞑想に
ふさわしい時ではない。
それでは
流れに逆らうことになる。
ひじょうに貪欲に
なっているなら、
それは瞑想に
ふさわしい時ではない。
なかなか瞑想に
入れないだろう。

だが、
簡単に
瞑想に入ってゆける
瞬間がある。

太陽が昇ってゆく。
日の出を見ていると、
突然、
内側が
ひっそりと静まり返り、
まだあなたは
騒がしい街の一部ではない――
これこそ
瞑想にふさわしい時だ。

今日は気分がよく、
健やかで、
誰とも言い争いをしていない――
これこそ
瞑想にふさわしい時だ。

友達がやってきて、
あなたは
愛に満たされている――
これこそ
瞑想にふさわしい時だ。

あなたは
恋人とともにいて、
二人は
このうえもなく幸せだ――
一緒に坐って瞑想するがいい。
恋人や友人と一緒に
瞑想することができたら、
あなたは
人生で最大の喜びが
生まれているのを
見いだすだろう。

正しい状況を
見いだせない者など
ひとりもいない。
二十四時間のうちには、
たやすく
瞑想に変容できる瞬間が
何度も訪れる。
そういった瞬間には、
あなたは自然に
内側に
入ってゆきつつあるからだ。

満天の星空の夜、
大地に身を横たえ、
星を眺め、調和を感じ……
そして瞑想するがいい。


Osho - The Secret Of Secrets

…FB より転載---

OSHO:主人とは、観照しているあなたの自己だ。
痛みが来て、その後に楽しみが来る。
幸せがあり、惨めさがある。
そして、瞬間ごとに、何がやって来ようとも、
あなたはそれと同化してしまう。
あなたは客になる。主人を覚えておくがいい。
客がいるときは、主人を覚えておきなさい。

客には実に多くのタイプがある——
気持ちよかったり、嫌な感じだったり、好きな客、自分の客であって欲しくない客、いっしょに住みたい客、避けたい客——
だが、すべて客だ。

主人を覚えておきなさい。
絶えず主人を覚えておきなさい。
主人に中心を据えているがいい。
自分が主人であるということにとどまりなさい。
そうなったら、分離がある。
そうなったら、隙間が、合い間がある——橋は壊されている。
この橋が壊されるやいないや、放棄という現象が起こる。
そうなったら、あなたはそのなかにいるが、その一部ではない。
そうなったら、あなたは客のなかにいても、依然として主人だ。
あなたは客から逃げる必要はない——必要がない。

OSHO