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OSHO: Creativity, Objective Art and Meditation - YouTube

…バナナに 貼られているシール---

http://macrobiotic-daisuki.jp/banana-kenkou-tabekata-19551.html

…FB「OSHO japanese」 の記事です。

人とは、観照しているあなたの自己だ。

痛みが来て、その後に楽しみが来る。
幸せがあり、惨めさがある。

そして、瞬間ごとに、何がやって来ようとも、
あなたはそれと同化してしまう。
あなたは客になる。

主人を覚えておくがいい。

客がいるときは、主人を覚えておきなさい。

客には実に多くのタイプがある——
気持ちよかったり、嫌な感じだったり、好きな客、自分の客であって欲しくない客、いっしょに住みたい客、避けたい客——

だが、すべて客だ。

主人を覚えておきなさい。
絶えず主人を覚えておきなさい。
主人に中心を据えているがいい。
自分が主人であるということにとどまりなさい。

そうなったら、分離がある。
そうなったら、隙間が、合い間がある——橋は壊されている。

この橋が壊されるやいないや、放棄という現象が起こる。

そうなったら、あなたはそのなかにいるが、その一部ではない。

そうなったら、あなたは客のなかにいても、依然として主人だ。

あなたは客から逃げる必要はない——必要がない。 Osho

https://m.facebook.com/OSHOjapanese/photos/a.178265625519463.43212.177517668927592/1122751254404224/?type=3

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(OSHO 講話/抜粋)

宗教に
クォンタムリープ(量子的飛躍)を
もたらした功績は、
ゴータマ・ブッダより
25世紀前の
アディナタにさかのぼる。
彼は初めて、
神のいない宗教を説いた。
神なしで宗教がありうるとは
世界のどこでも
思われていなかったので、
それは途方もない革命だった。
 
神はすべての宗教、
キリスト教ジャイナ教、回教の
不可欠な部分 ——
中心——
でありつづけてきた。
だが、
神を宗教の中心に据えると、
人間はただの周辺にすぎなくなる。
神を世界の創造主として思い描くと、
人間は操り人形にすぎなくなる。
だからこそ、
ユダヤ教の言語、
ヘブライ語では、
人間はアダムと呼ばれている。
「アダム」とは泥という意味だ。
アラビア語では、
人間は「アドミ」と呼ばれ、
それは「アダム」に由来しているが、
それもまた、泥という意味だ。
一般的にキリスト教の言語となった英語では、
ヒューマンという言葉は
「ヒューマス」に由来し、
ヒューマスとは泥という意味だ。

もちろん、
もし神が創造主であったら、
神はなにかで創らなければならない。
彫像のように、
人間を造らなければならない。
だから、
神はまず泥で人間を造り、
人間に命を吹き込む。
だが、
もしこれが事実であれば、
人間はすべての尊厳を失う。
そして、
もし神が人間と他の
あらゆるものの創造主だとしたら、
その思いつき全体が気まぐれだ。
というのも、
神は人間と宇宙を創造する前の
永劫のときを、
いったいなにをして
過ごしていたのかね?

キリスト教によると、
神が人間を創造したのは、
イエス・キリスト
わずか4,004年前にすぎない。
ということは、
彼はその永遠のときを、
いったいなにをしていたのか? 
だから、
気まぐれのように思えるのだ。
理由はなにもありえない。
というのも、
神が存在を
創造しなければならなかった理由が
あるということは、
神よりも高度な力がある、
神に創らせるだけの
理由があるということを
意味するからだ。
あるいは、
彼のなかで突然、
欲望がわいてきたということもありうる。
それもまた、
哲学的にみて、
それほど深遠ではない。
なぜなら、
永遠にわたって、
彼は無欲だったことになるからだ。
そして、
無欲であることは
あまりにも至福に満ちているから、
永遠の至福の体験から
世界を創造したいという欲望が
彼のなかでわいてくることなど、
思いも及ばない。
家を建てたかろうと、
首相になりたかろうと、
世界を創造したかろうと、
欲は欲だ。
そして、
神に欲があるとは、
思いも及ばない。
だから、
唯一残るのは、
彼は気まぐれ、
常軌を逸しているということだけだ。
そうだとしたら、
理由は必要ないし、
欲もいらない——
ただの出来心。

だが、
もしこの全存在が
気まぐれによるものだとしたら、
それはすべての意味、
すべての意義を失う。
そして、
明日には彼のなかで、
全宇宙を破壊しよう、
消滅させようという、
別の気まぐれが
わいてくるかもしれない。
だから、
私たちは、
すべての力をもってはいるが
正気ではない、
気まぐれな、
独裁的な神の手の内にある
操り人形にすぎないのだ。

このことを
5千年以上も前に思いつくとは、
アディナタはひじょうに深い
瞑想者、観照者だったにちがいない。
そして、
神といっしょだと、
世界に意味はないという結論に
達していたにちがいない。
もし私たちが世界に
意味があってほしいと思うのなら、
そうであれば、
神は始末されなければならない。
彼はすばらしく
勇気のある人にちがいない。
人びとはいまだに教会で、
シナゴーグで、寺院で祈っている。
それなのに、
あの人、アディナタは、
私たちより5千年も前に、
人間、そして、人間の内側と
人間の意識に起こるであろう
どんな革命よりも
高度なものはなにもないという、
ひじょうに明確な
結論に達していたのだ。

これが最初のクォンタムリープ——
神は始末された。

アディナタは
ジャイナ教の最初のマスターだ。
仏陀はアディナタの25世紀後に
登場するから、
功績は仏陀のものではない。
だが、
もうひとつ別の功績は
仏陀によるものだ。
アディナタは神を始末したが、
瞑想をしかるべき場所に
うまく置けなかった。
逆に、彼は苦行、禁欲、
体を痛めつけること、
断食、裸のままでいること、
1日1回の食事、
夜には飲みものをとらないこと、
夜には食べないこと、
ある一定の食べものしか
とらないということを生みだした。
彼はすばらしい哲学的結論に達していたが、
その結論は哲学的なものにすぎず、
瞑想的なものではなかったようだ。

神を始末したら、
どんな儀式もありえない、
どんな礼拝もありえない、
どんな祈りもありない。
なにかで
代用しなければならない。
彼は禁欲で代用した。
というのも、
人間はみずからの宗教の
中心になったのだから、
自分を浄化しなければならないからだ。
彼の概念における純粋さというのは、
人間は世界とのつながりを
絶たなければならない、
自分自身の体とのつながりを
絶たなければならない
ということだった。
これが事の全体を歪めてしまった。
彼はひじょうに意義のある
結論に達していたが、
それは哲学的概念に
すぎないままだった。

アディナタは神を始末したが、
真空状態を残し、
仏陀がそれを瞑想で埋めた。
アディナタは神のいない宗教をつくり、
仏陀は瞑想的な宗教をつくった。

瞑想は仏陀の貢献だ。
体を痛めつけることが
問題なのではない。
問題は、
もっと沈黙すること、
もっとくつろぐこと、
もっと穏やかになることだ。
それは、
意識の自分自身の中心に
行きつく旅であり、
自分自身の意識の中心は
全存在の中心だ。

再び25世紀が経った。
神のない宗教という
アディナタの革命的な概念が、
禁欲と自虐という砂漠に
まさに失われてしまったように、
瞑想——
なにか内なるもの、
自分以外の誰にも
見ることのできないなにか、
自分がどこにいるのかは
あなたにしか分からない、
自分が進んでいるのかどうかは
あなたにしか分からない——
という仏陀の考え方も、
もうひとつ別の砂漠に
失われてしまった。
それが組織宗教だった。

宗教は、
一個人は信頼できないと言う。
瞑想していようと、
していまいとだ。
彼らには、
いっしょに暮らすことのできる共同体、
マスター、僧院が必要だ。
意識のより高いレベルにある者たちが
他の者たちを上から監視し、
彼らを助ける。
宗教は個人の手に
ゆだねられてはならない、
個人は組織されるべきもので、
瞑想の高い地点に行きついた者たちの
管理下に
置かれなければならないということが、
不可欠になった。

最初のうちはそれでよかった。
仏陀が生きていた間は、
自己実現
エンライトンメントに
行きついた人びとがたくさんいた。
だが、
仏陀が死に、
そうした人たちも死ぬと、
人びとの瞑想を助けるはずの
組織そのものが
聖職者たちの手に落ち、
彼らは瞑想を助けるどころか、
仏陀の像のまわりに
儀式をつくりはじめた。
仏陀
もうひとつ別の神になったのだ。
アディナタは神を始末し、
仏陀は神が存在することを
けっして認めなかったが、
この聖職者たちは、
神なしでは存在しえなかった。
そこで、
創造主である神はいないだろうが、
仏陀が神の地位についたのだ。

他の者にとっては、
仏陀を崇拝し、
仏陀を信仰し、
仏陀の信条に従い、
彼の教義に合わせて
人生を生きるしかない。
そして、
仏陀は組織、
模倣のなかに失われた。
だが、
彼らはみな、
基本的なことを忘れてしまった。
それが瞑想だったのだ。
私の全努力は、
宗教のない瞑想を創ることだ。
神が中心にいる宗教はどうなったか、
私たちは見てきた。
アディナタの革命的な概念、
神のない宗教がどうなったか、
私たちは見てきた。
仏陀——
神のいない、
組織化された宗教がどうなったか、
私たちは見てきた。

いま、
私の努力は——
まさに彼らが
神を消滅させたように——
宗教も消滅させることだ。
どのような意味でも
忘れ去られることがありえないように、
瞑想だけを残す。
それに置き換わるものは、
他になにもない。
神もいないし、
宗教もない。
宗教ということで、
私は、
組織化された教義、信条、聖職のことを
言っている。
そして、初めて、
私は宗教が完全に
個人的なものであってほしい。
というのも、
組織化されたすべての宗教が、
神がいようといまいと、
人類を誤った方向に導いてきたからだ。
そして、
唯一の原因は、組織にある。
組織には瞑想性に逆らう
独自のやり方があるからだ。
組織は、
実際には政治的な現象だ。
宗教的ではない。
それは権力と権力欲の、
もうひとつ別の道だ。


Osho - The Last Testament

"中野信子◆おばあちゃんが髪を紫に染める理由と黒い服を好む人の心理" を YouTube で見る

… (音声のみ---)

中野信子◆おばあちゃんが髪を紫に染める理由と黒い服を好む人の心理 - YouTube

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(OSHO 講話/抜粋)

ただ
自分自身でいなさい。
自分自身でいる
だけでいい。
そして、
自分が誰なのかを
あらかじめ
知る術はない。
内側に入り、
自分が何者かが
わからなければ、
どうやって
自分が誰なのかを
決められるだろう?

だからまず
必要なのは、
変えようとする
努力ではない。
最初に必要なのは、
自分の実存を
よく知ろうとする
努力だ。
あなたのなかにいるのは
誰だろう?

あなたを訪れた、
この客に
目を向けなさい。
あなたの身体は、
客をもてなす主人だ。
その身体には、
見知らぬ客が
滞在している。
彼方からの客が、
身体に降りてきている。
それがあなただ!

ただ目を向け、
見守り、
瞑想し、
それに
気づいていなさい。
自分を
変えようとする努力を
すべて落としなさい。
あなたの全エネルギーを、
自分自身を知ることに
注ぎなさい。

すると
その知ることから
成長が生じ、
その成長が
あなたの本来の面目
(オリジナル・フェイス)
をもたらす。

自分自身で
いるだけでいい。
あなたはすでに
自分であるもので
いればいいだけだ。
                       

  • Osho

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