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 (OSHO 講話の抜粋記事です)

普通、
無意識の人間には、
個性というものは存在しない。
無意識の人間には
人格しかない。
が、
人格というものは
他者から与えられたもの・・
親から、
先生から、
牧師から、
社会から与えられたもの・・
何であれそういう人たちが
あなたに言ってきたものが
人格となっている。
そして、
あなたは周りから
尊敬されるような人間になりたい。
尊敬を得ようと望んできた。

そこで、
人から評価されるようなことを
やり続け、
社会はより以上に
あなたを賞賛し、
尊敬を与え続けてきた。
それが社会が人間に
人格というものを
作り出す方法なのだ。

が、
人格というのは、
とても薄っぺらで、
皮膚一枚の厚みしかない。
それは
あなたの本性ではない。

子供は
人格を持たずに生まれてくる。
が、
子供は個性という
ポテンシャルを持って
生まれくる。
個性というポテンシャルの意味は、
彼は他の誰と比べても独特である・・
他の誰とも異にするということ。

そこで、
まずはじめに、
個性と人格は違うものだということを
心に留めておかなければならない。
あなたが人格を捨てたとき、
自己の個性を発見する。
そして、
個性のみが
悟ることができるのだ。

つくりものは
真実の
究極の顕現となることはできない。
真実だけが
真実と出会えるのだ。

同じものだけが出会える。
あなたの個性は
実存的なのものだ。
だから、
あなたの個性が花開いたとき、
全体と一つになる。

ここに、
一つの疑問がある。
もしあなたが
全体と一つになったとして、
どうして
個性のままでいられるか?・・
ということだ。

その疑問は、
理解のないところから来ている。
全体と一つのなる体験というのは、
意識に関することであって、
その意識の表現は
肉体を通して、
マインドを通してなされる。
全体と一つになるという体験は、
心身の構造を越えたものだ。
人が絶対なる静寂に至ると、
サマーディーに入ってゆき、
第四のステージに到達する。
その人は、
もう肉体ではない。
マインドでもない。
それらは全て鎮静している・・
彼はそれらを遥かに越えている。
彼は純粋なる意識だ。

その純粋なる意識は
宇宙的なものだ。
それは、
ちょうどここにある電球に
ともっている明かりが、
一つであるのと同じだ。
明かりは一つだが、
それらは別々に表現されている。
電球はブルーであり得る。
グリーンでもあり得る。
赤でもあり得る。
電気の形はそれぞれ
違うものであり得る。
悟った人間の肉体、
まだマインドはそこに存在する。
もし悟った人間が、
自分の体験したことを
表現したいとすれば、
心身を使わなければならない。
他の方法はない。
そして、
その心身はユニークなものであり、
その人しか
その心身を持っていない。
他の誰も彼のような
心身の構造を持っていない。

というように、
悟った人間は、
宇宙的な意識を体験し、
宇宙的存在になった。
が、
世間にとって、
他の人間にとっては、
彼はユニークな個だ。
彼の表現は
他の悟った人間とは異なるだろう。
それは、
彼が他の悟った人間と
同じでありたくないから
というのではない。
彼は他の人間とは
違うメカニズムを持っているのだ。
そして、
彼はそのメカニズムを通してのみ、
あなた方と関わることができる。

  • Osho

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(OSHO 講話/抜粋)

人が絶対に確信できる現実は
たったひとつしかない。
それは内面の真実だ。
人は内側に動いて行ける。
人が確信できるのは、
自分自身しかない。
他には何もない。
だが、
ひとたび自分が存在するという、
この確かさを射抜けば…。
いいかね、
夢の中にさえ、
自分はいる。
蝶にはなっているかも知れないが、
自分はいる。
夢が存在するためにすら、
少なくとも自分が必要だ。
すべては夢かも知れないが、
自分はそうではない。
なぜなら、
自分がいなくては
夢もあり得ないからだ。
夢のためにすら、
意識が必要だ。

あらゆるものが夢だと
証明することはできる。
だが、
夢を見いる人を
夢だと証明することはできない。
夢を見る者は、
実在でなければならないからだ。
さもなければ、
夢も存在できない。

確かなことはひとつしかない。
そして、
それは、自分だ。
たったひとつの事だけは
絶対に確かだ。
それは、
自分の内面という真実だ。
改心とは、
不確かな世界、
見かけの世界から、
その真実の世界に
向きを変えることだ。

ひとたび人が、
その内なる確かさを、
自分には
根拠があることを知ったら、
ひとたび
自分がいることを知ったら、
その確かさによって、
視界が変わる。
その質が変化する。
そうすれば外の世界を見ても、
別な世界が開示される。
その世界が神だ。

人がある確かな、
絶対に確かな実在に
根を下ろした時、
その人の眼差しは
それまでとは異なった質を持つ。
その時、
そこには信頼がある。
今や、
見ることができる。
すると、
全世界が変わる。

その時そこにあるのは、
そう見えるものではなく、
実在だ。
本当に真実であるものだ。

本当に真実であるものとは何か。
それは、
この目に見える形ではない。
形態は変わるが、
その形態を通して動くものは
変わらない。

あなたは子供だった。
それからあなたは若者だった。
今やあなたは老人になった。
形態は絶えず変化している。
あらゆる瞬間に、
肉体は変化している。
だが、
その内面を覗けば、
あなたは同じままだ。

あなたは、
母親の子宮の中での
小さな細胞だった。
肉眼では見ることもできなかった。
それから小さな子供になった。
それから、
夢多き青年になった。
そうして、
心破れ、
落胆した一人の 失敗者、
一人の老人になった。
だが、
もし 内側を見たら、
なにもかも同じままだ。
意識は決して変わらない。
内側を覗き込めば人は驚く。
自分の年令が感じられない。
意識には年令がないからだ。
目を閉じれば、
自分が二十歳なのか、
四十歳なのか、
六十歳なのか分からない。
年齢は肉体に、
殻に属するものだからだ。
本質は年齢を持たない。

生まれたこともなければ、
死ぬこともない。
ひとたび、
この永遠不変の、
不動の絶対に中心が決まったら、
あなたの質は変わる。
そうすれば、
人は見ることができる。
人は鏡になっている。
そして、
その鏡に、
実在が映る。
だが、
まず自分が
鏡にならなければならない。

今はあまりにも波立ち、
揺れ動き、
何ひとつ映し出すことができない。
あなたが歪んでいるのだ。
マインドは実在を歪める。
意識がそれを顕わす。


‘根源に帰れば、意味を見出す。
 だが見かけを追えば、源を失う。’

見かけを追い続ければ、
源を見失うことになる。
見かけとは外側だからだ。
ある時は富を追い、
ある時は女を、
あるいは男を追い求める。
ある時は
地位や権力を追い求める。
そうやって
見かけの世界を追い続ける。
そして、
その間ずっと、
自分自身を見逃している。
そのあいだはずっと、
夢の中に生きているのだ。

もし源を見失なったら、
人はすべてを見失なう。
外側の世界で多くのものを
手にするかも知れないが、
結局、最後には、
自分が何ひとつ
達成していなかった事が
分かるだろう。

すべての意味を担っているものを
見逃してしまったのだ。

臨終の床で、
あなたは大金持ちとして
死んでいくかも知れないが、
内面は、
貧しい 一人の乞食として
死ぬことになる。

死に際して、
あなたは
非常な権力者かも知れない、
一国の偉大な大統領、
あるいは首相かも知れない。
しかし内側深くでは、
自分が無力だということを
知っている。

死は、
その権力が
単なる見せかけに
過ぎなかったことを証明する。
その権力は、
死を前にして
無力で、
役に立たない。

死を越えて行くものだけが力だ。
他のすべては無力だ。
人は束の間それを
信じたかも知れないが、
死が真実をもたらすことになる。
死がやって来ていることを、
いつも思い出しなさい。

そして、
死こそが判断基準だ。
何であれ、
死が無効にするものは、
無効にされる。
何であれ、
死が承認するものが
承認されるのだ。

何であれ
死を越えて行けるものこそが、
何であれ
死より強力なものこそが
実在なのだ。

実在は死なない。
非実在
千とひとつの死を死ぬ。


‘内なる光明の時、
見かけと、
空を、
ともに越えて行くものがある。’

内なる光明が起こって初めて、
自分が内なる光に満たされて
初めて…。

光はそこにある。
あなたがそれを
外に投げ出しているのだ。
それは、
あなたの欲望とともに動く。
欲望こそが焦点だ。
光は動き続ける。
あまりにも
富に取り憑かれていたら、
全存在が
富に焦点をあわせる。
すると金以外には
何も見えなくなる。
たとえ人に会っても、
その相手は見えず、
金が見える。

相手が貧しければ、
あなたの思考には
どんな痕跡も残さない。
相手が金持ちだったら、
その時には跡が残る。
大金持ちだったら、
その人を覚え、
記憶が形成される。

あなたが権力を追求していて、
ヒットラー
スターリン
毛沢東に会ったとしたら、
その時は、
人に会ってはいても、
それは二の次、
あなたは
まず権力に出会っている。
ニクソンが大統領でなくなれば、
もうその相手が見分けられない。
ニクソン
自分の側を通り過ぎても、
それはもう人ではない。
人には何でも
自分の望むものが 見える。
自分の欲望が、
自分に見えるのだ。
そしてあなたの光は
常にあなたの欲望に
焦点を合わせる。

この光が向きを変える時、
転向する時、
内側を向く時、
そこに明知がある。
その時、
人は光に満たされている。
明りのともった家になる、
その内側はもう暗くない。


‘内なる光明の時、
見かけと、
空を、
ともに越えて行くものがある。’

突如として、
人は見かけと空虚を越えて行く。
そうなれば、
何ひとつただの見かけではないし、
何ひとつ空虚ではない。
すべてが〈神性なるもの〉で
満たされている。
あらゆるものが
〈神性なるもの〉でいっぱいになり、
溢れている。
あらゆる木、
あらゆる川、
あらゆる海が、
〈神性〉で 溢れる。
その時、
神は至る所にいる。

それを真理と呼んでもいいし、
あるいは自分の好きな
どんな呼び方で呼んでもいい。
ただその実在は至る所にある。
自分が真実であれば、
世界は真実になる。

自分が非真実の
欲望の中に住んでいれば、
人は、
見せかけの世界を創り出す。
どんなものにせよ
自分がそれであるもの、
それが、
その人の世界だ。
だから、
人と同じだけの世界があるのだ。

なぜなら、
誰もが
自分だけの世界に住んでおり、
自分だけの世界を
まわりに創り出しているからだ。
それはその人の投影、
その人の創作だ。


‘この空なる世界に現れる見かけの変化を、
ただ無知なるが故に現実と呼ぶ。’

誰かを年寄りだと言う。
老いを現実と呼ぶのは、
実在の何たるかを
知らないからだ。

それを知れば、
誰ひとり若くもなければ、
誰ひとり年老いてもいない。
誰ひとり子供でもない。
内側には年齢がない。
外側の形が変化するだけだ。

私の服が古いとする。
服が古いからと言って、
私を老人と言うだろうか。

私の服が新しいとする。
ニューブランドだ、
仕立て屋から
出来上がってきたばかりだ。
服ができたてだからと言って、
私を若いと言うだろうか。

肉体とは衣服に他ならない。
誰かを老人と呼び、
誰かを若者と呼び、
誰かを子供と呼ぶのは肉体のゆえ、
絶えず変化し続ける
その形態のゆえだ。

知るに到った人は皆、
真実は不動のもの、
動くことのないもの、
動き得ないものだと言う。
衣服が変化し続けるのだ。


Osho - Nither This Nor That

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(OSHO 講話の抜粋---)

達成すべき唯一のものは、
意識だ。

そして意識は、
あなたが
瞬間を生きさえすれば
やってくる。
もしあなたが
臨機応変に、
今、ここを生きれば、
あなたは意識的になる。

今の今まで、
あなたに
意識はやって来ていない。
なぜなら、
あなたは
現在を生きたことがないからだ。
それは、
現在を生きることからくる結果だ。
それを
瞑想と呼んでもいい。
あり得る唯一の瞑想は、
現在を生きること、
今ここを生きることだ。

食べているなら、
ただ食べなさい。

歩いているなら、
ただ歩きなさい。

坐っているなら、
ただ坐りなさい。

注意深く! 
それを楽しんで! 

それは
とてつもない贈り物だ。

息をしているなら、
息をしなさい。

そして
それを楽しみなさい! 
その光輝の中で! 

見ているなら、
見なさい。

寝ているなら
寝なさい。

もしあなたが
ブッダになりたかったら、
ただ普通でいなさい。
ただ単純に普通で、
自分自身のことをし、
他人のことは気にしないこと。
そして他の誰にも
追随してはならない。


Osho - Nirvana The Last Nightmare

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(OSHO 講話の抜粋)

「タオ」という言葉は、
本質的には”道”を意味する。
目的地については
何も語ることができない。
目的地はとらえがたく、
表現できず、
言語を絶している。
だが、
道についてなら
何かを言うことができる。
それゆえに道家の人々は
「神」
「真理」
ニルヴァーナ
という言葉を
一度も使わなかった。
いや、
彼らはたんに
「道」という言葉を使う。
仏陀は言う。
ブッダたちは、
 あなたがたに
 道を指し示すことしかできない。
 その道に従うなら、
 あなたがたは真理に到るだろう」

真理は
あなた自身の
体験でなければならない。
真理は誰にも定義できない。
だが、
道を定義することはできる。
道を明らかにすることはできる。
師はあなたがたに
真理を授けることはできないが、
道を授けることならできる。
そしてひとたび
道が明かされたなら、
あと必要なのは
その上を歩くことだけだ。
それは弟子によって
なされねばならない。

私があなたの代わりに
歩いたり、
あなたの代りに
食べることはできない。
私があなたの代わりに
生きたり、
あなたの代わりに
死ぬことはできない。
こういったことは
自分の力で
やらなければならない。
だが、
私は道を示すことができる。
私は道を歩いたことがあるからだ。

タオとはまさに”道”を意味する。

それみずからによって存在するものは、
道(タオ)と呼ばれる。

この定義は美しい。

呂祖は言う---
「それみずからによって
 存在するもの、
 他の力を借りる必要のないもの、
 人がその上を
 歩いても歩かなくても、
 つねに存在しているもの----」
と。

誰かが
その上を歩くかどうかは
問題ではない。
<道>はつねに存在している。
実際、
全存在がそれとは知らずに
<道>に従っている。
もし心して
<道>に従うことができるなら、
あなたの生は
大いなる祝福となる。
それと気付かずに
<道>に従うなら、
あなたはつまずき続ける。
あなたは<道>の喜びを
こころゆくまで
味わうことができない。

ある人を庭に
連れてくることはできるが、
その人は無意識かもしれない。
酔っぱらっていたり、
昏睡状態に陥っていたり、
クロロフォルムの影響下に
あるかもしれない。
その人を庭に
連れてくることはできるが、
彼は無意識だ。
鳥の歌声を耳にしても、
彼はそれに気付かない。
太陽に照らされ、
光を浴びても、
彼はそれに気付かない。
大きな樹の下の
涼しい木陰に寝かせてみても、
彼はそれに気付かない。
それが人間のありようだ。

私たちは
つねにタオのなかにいる。
なぜなら、
その外などというものは
ないからだ。
生きるとは
<道>のうえにあることだ。
生きるとは
神のなかに生きることだ。
息をするとは
神のなかで息づくことだ。

だが
大海のなかに住む魚が
海のことなど
すっかり忘れているように、
私たちは
タオのなかで暮らしながら、
タオのことを
すっかり忘れている。
むしろそれが
あまりに明白だからこそ、
私たちはそれを
まったく気にとめずにいる。
魚は大海をよく知っている---
魚は海のなかに生まれ、
一度もその外に出たことがない。
魚は海はあるのが当然だと
思っているから、
それに気付いていない。

私たちは
まさにこの<道>の上にいる。
私たちは神の内にある。
私たちはタオを通して
タオのなかに生きている。
なのに
私たちは
それに気付いていない。

タオは存在する。
なぜなら、
タオなくして
樹々は成長せず、
星は動かず、
血液は循環せず、
息を吸うことは
できないからだ。
生命は
消え失せてしまうだろう。

生命は
それを維持する
基本的な法則があって
はじめて存在しうる。
生命は
それを支える何かがあって
はじめて存在しうる。
森羅万象のなかにある
計り知れない秩序を見るがいい。
それは混沌ではなく、
秩序をもった宇宙だ。
万物の秩序を
成り立たせているものは
何なのか?
宇宙はなぜこれほど
調和に満ちているのだろう?
調和を保ち、
それを脈々と
流れさせている法則、
あらゆるものを
ひとつにまとめている法則が
あるにちがいない。

だが、
私たちは
それについて知らない。
自分自身の実存に関して
何も知らないにもかかわらず、
私たちは
みずからの実存を通して
タオと結びついている。

タオには
名前もなければ形もない。
それはひとつの精髄、
原初の精神である。

それは
私たちを取り巻いている
生命の大陸だ---
内にも外にもある
純粋な精髄エッセンス。
それは存在であり、
原初の精神だ。
タオはどんな名前にも
おさまりきらない。
すべての名前が
タオの名だ。
すべての形が
タオの形であるから、
タオには特別な形がない。
タオは数限りない姿で
存在している。
それは
樹にあっては緑となり、
花にあっては赤となる。
人間にあっては人間となり、
魚にあっては魚となる。

それは同じ法則だ。
「タオ」という言葉を
「神」に置き換えたとしても
同じことだ。
キリスト教徒や
イスラム教徒が
「神」と呼ぶものを、
道家の人々は「タオ」と呼び、
仏教徒は「ダンマ」と呼ぶ。
ユダヤ教徒はそれを
「ロゴス」と呼んでいた。
だが、
それらは
同じものを指している。
それはどんな名前にも
おさまりきらない。
あるいはどんな名前でも
言い表すことができる。

精髄(エッセンス)と生命は
見ることができない。
この二つは
天上の光のなかに含まれている。
天上の光は見ることができない。
それは両目のあいだに含まれている。

形は見ることができるし、
肉体は見ることができる---
肉体は形であり、
精髄を包み込んでいる物質だ。
だが、
精髄を見ることはできない。
精髄は目では見ることができず、
五感ではとらえることができない。
それは何も介さず、
直に感じ取らねばならない。

あなたは私の肉体を見ている。
私はあなたの肉体を見ている---
そこには器官が介在している。
私の目が、
あなたがここにいると告げている。
あなたの目が、
わたしがここにいると告げている。
だが、
本当にそうだろうか。
私たちは目に
だまされているのかもしれない---
目には時々だまされることがある。

夜、暗闇のなかで
一本の縄が蛇のように見える。
蛇だと思い込めば、
それは蛇と同じように作用する。
あなたは怖くなって走り出す。
あるいは、
砂漠のなかで、
ありもしないオアシスを
見ることもある。
それはたんなる投影による現象だ。
喉があまりに渇くので、
あそこにオアシスがあればいいという
願望が起こり、
その願望がオアシスを
そこにつくりだすからだ。
目はよく人をだます。
だから当てにはできない。

あいだにものを介在させて
知られる真理は、
つねに怪しく、
疑わしいままだ。
それは確実なものとはなりえない---
絶対に確かだとは言えない。
が、
絶対的な確証のない真理など
まったく真理ではない。
真理というものは
絶対に
確かなものでなければならない。
ほぼ確かでは通用しない。
となると
道はただひとつ---
真理はあいだに
ものを介在させずに
知られねばならない。
人はそれを直接、
端的に知らなければならない。
人はそれを
いかなる器官も介さずに
知らねばならない。
真理はまさに
そのようにして知られる。

生命を見ることはできないが、
それを感じ取ることはできる。
それは主観的な体験であって、
客観的な対象ではない。


Osho -The Secret Of Secrets