saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

OSHO「存在の詩」第十話 大いなる海ーー終わりなき旅の終わり

Pp580ー588     Pp593ー597

 

 マハムドラーの詩は続きます・・・

 

   『 至高の理解は

   かれこれの 一切を超越し

   至高の行為は

   執着なくして大いなる機知を抱く

   至高の成就とは

   望みなくして内在を知ることなり

 

   はじめヨーギは

   おのが心の滝のごとく転落するを感じ

   中ほどにてはガンガーのごと

   そはゆるやかにやさしく流れ

   ついに、そは大いなる海なり

   息子と母の光がひとつに溶け合うところーー 』

 

 

 誰もが 自由のもとに生まれ、にもかかわらず束縛の中で 死んでゆく。

生の はじめは完全に ゆったりと自然だ。

が、それから 社会が はいり込んで来る。

それから、ルールや規則や道徳や 掟という、いろいろな種類のトレーニングが はいり込んで来る。

そうして、その自由さや 自然さ、そして、その内発的な実存は失われてしまう。

人は 自分自身のまわりに 一種 よろいのようなものを かき集めだす。

人は だんだんと硬直しはじめる。

内なる やわらかさは もう見えない。

 

 自分の実存の 境界線のところに、人は要塞じみた現象を つくり上げる。

身を 守るために、傷つきにくいように、保身と安全のための反応が できるようにーーー。

そして、実存の自由は 失われる。

 

 人は 他人の目を 見はじめる。

彼らの是認、彼らの否定、彼らの認識が どんどんと 価値のあるものになってくる。

〈他人〉が 規準に なる。

そして、人は 他人を真似、従いはじめる。

他人と いっしょに生きるのは 避け難いことだからだ。

 

 そして、子供というのは とても柔軟だ。

子供は どのようにでも 形づくられ得る。

それを、社会が成型しはじめる。

両親、先生、学校ーーー。

そうして、少しずつ彼は 一個の〈人格〉に なってゆく。

実存じゃなくーーー。

彼は すべてのルールを 学ぶ。

保守主義者に なるか、それも束縛だ。

それとも反逆者になるか。

それも また別な種類の 束縛だ。

 

 もし 保守派、正統派、いわゆるスクエアに なるとしたら、それは ひとつの束縛だ。

彼は それに反発して ヒッピーになることもできる。

反対の 極端に走ることもできる。

しかし、それもまた 一種の束縛だ。

なぜなら 反発というのは、それが 反発する対象と 同じものに依存しているからだ。

 

 あなたは 世界の最果てまで 行くかもしれない。

が、心の奥深くでは その同じルールに逆らっているに すぎない。

ほかの人は それに 従っている。

あなたは それに 逆らっている。

しかし、焦点は 同じルールに当てられたままだ。

反動派であれ 革命派であれ、みな同じ舟に 乗っている。

彼らは 互いに対立し、背を向け合って 立っているかもしれない。

だが、乗っている舟は 同じだ。

 

 宗教的人間 というのは反動でも 革命家でもない。

宗教的人間というのは ただただ ゆったりと自然だ。

彼は 何かに賛成しているわけでも 反対しているわけでもない。

彼は ただ彼自身であるだけだ。

彼には 従うべきルールも 否定すべきルールも ない。

ただ単に、彼は ルールなど持っていないのだ。

 

 宗教的人間というのは、彼自身の 実存の内に自由なのだ。

彼は 習慣だの 条件づけだのという鋳型など 何も 持っていない。

彼は 文化に飼い慣らされた存在じゃない。

だからといって、文明化されてなくて 未開だ というのでもない。

彼は 文明や文化の 最高の可能性だ。

だが、文化づけされた存在じゃない。

彼は みずからの覚醒のもとに 成長したのであり、どんなルールも 必要とはしない。

ルールを 超越してしまったのだ。

 

 彼が 正直であるのは、それがルールだからじゃない。

ゆったりと自然で いたら、ただ正直であったというだけのこと。

たまたま 正直ということに なったのだ。

彼には 慈悲がある。

それは 彼が、「慈悲深くあれ」という教理に従っているからじゃない。

 

 それは 違う。

ゆったりと自然でいたら、彼は ただ慈悲が まわり中に あふれ出すのを感じるだけだ。

彼の側で 為されることなど 何もない。

それは 覚醒への 成長の副産物に すぎないのだ。

彼は 社会に 賛成でもなければ 反対でもない。

彼は ただ それを 超えているのだ。

彼は ふたたび子供になった。

完全に 未知の世界の子供。

新しい次元の子供。

彼は 生まれ変わったのだ。

 

 あらゆる子供は みな自然に、ゆったりと生まれる。

ところが、そこに 社会がはいってくる。

ある一定の理由で はいり込んでこなければならないのだ。

それは 何も悪いことじゃない。

というのも、もし子供が 彼のまま、あるいは 彼女のままで 放っておかれたら、その子は 決して成長しないだろう。

そして、その子は絶対に 宗教的な人間にはなれない。

彼は ただ けものみたいになるだけだ。

 

 社会は はいり込んでこなければならない。

社会は 通過されなければ ならない。

それは 必要なのだ。

ただひとつ 覚えておかなくてはならないのは、社会とは 通り過ぎるべき通路に すぎないということだ。

そこに 自分の家を建てるべきじゃない。

 

 ただひとつ 覚えておかれねばならないのは、社会というのは 一度従われ、そして次には 超えられなければならないものだ ということだ。

ルールは 学ばれ、そして 忘れられなくてはならない。

人生に ルールは つきものだ。

世の中には 他人というものが いるのだから。

あなたは ひとりっきりじゃない。

 

 子供が 母親の胎内にいるときには、完全に ひとりっきりだ。

なんのルールも いらない。

ルールというのは 他人が関係してきたとき はじめて出てくる。

ルールというのは 関係と ともにやってくる。

それというのも、ひとりっきりじゃないからには、あなたは 他人のことも考えなくては ならないし、他人のことも 勘定に入れなくてはならないからだ。

 

 母親の胎内では 子供は ひとりっきりだ。

なんのルールも、なんの道徳も、なんの規律も いらない。

なんの秩序も いらない。

しかし、生まれ落ちた その瞬間からーーー最初の 一息ですら、それは 社会的なものとなる。

もし その子が 泣かなければ、医者は即座に 泣かせようとするだろう。

数分の間に 泣かなければ死んでしまうからだ。

子供は 泣かなくては ならない。

その泣き声が 呼吸を可能にする気道を 開くからだ。

それが 喉をきれいにする。

彼は無理にでも 泣かされなくてはならない。

最初の一息ですら 社会的なものなのだ。

そして、そこには〈他人〉が 待ち構えていて、もう成型が 始まっている。

 

 それには 何も悪いところは ない ! 

それは 為されなければならないのだ。

ただし、それは その子が 決して彼の覚醒を失わないように、彼が その教化パターンと 一枚になってしまわないように、内側の深いところでは 自由のままでいるように、ルールには 従わなければならないけれど、ルール自体は 人生じゃない ということが わかるように、そして、それでもルールは 教えられなくてはならないのだ ということが わかるように、そんなかたちで為されなくてはならない。

 

 それは〈良き社会〉というものが行うであろうことだ。

それは こう教える。

「こういうルールは いいものだ。 世の中には他人というものが いるんだから。 しかし、それは 絶対じゃないし、あなたは それに閉じ込められている義務が あるわけでもない。 ある日、あなたは それを超越しなくてはならないのだ」と。

 

 社会というのは、それがその成員に、文明と、そして超越の 両方を教える限りにおいて 悪いものじゃない。

そのとき、その社会は 宗教的な社会だ と言える。

もしそれが 全然 超越を教えない としたら、その社会は ただ単に 俗な、政治的な社会でしかない。

そこには 宗教のかけらもない。

 

 あなたは ある一定の範囲までは 他人の言うことに 耳を傾けなくてはならない。

そして、それから 今度は自分自身に 耳を傾けなくてはならない。

最後には、初源の状態に還って来るべきなのだ。

死ぬまでに、あなたは もう一度 無垢な子供になるべきなのだ。

ゆったりと 自然な子供にーーー。

なぜなら、死に おいて ふたたび、あなたは ひとりぼっちの次元に はいって行くからだ。

ちょうど 胎内にいたときと 同じように。

 

 死に おいて、もう一度 あなたは ひとりぼっちの領域に はいってゆく。

なんの社会も そこには存在しない。

そして、一生涯のうちに あなたは、ただ 目を閉じて 社会を超えてしまうスペース、自分自身の中へ、自分自身の胎内へと はいってゆく いくつかの空間(スペース)を、砂漠の中の オアシスのような いくつかの瞬間を、見出さなくてはならない。

これが 瞑想の何たるか だ。

 

 社会は そこにある。

が、あなたは ただ目を閉じて社会を忘れ、ひとりになる。

どんなルールも そこには 存在しない。

なんの人格も いらない。

なんの道徳も、どんな言葉も。

あなたは 内側で ゆったりと自然になることが できる。

 

 その ゆったりとした 自然さに向かって 成長してゆきなさい。

たとえ もし外的な規律の必要が あっても、内側では 野生のままでいるのだ。

もし人が、内側では野生のままでいながら、しかも社会の中で必要とされることは習い覚えることができたら、やがて彼は、すんなりと超越してしまえる あるポイントに 行きつけるだろう。

 

 (…略…)

 

 これが あなたの現状だ。

そして、もしあなたが 他人に耳を貸すばかりで 自分の内なる 中心(センター)に 耳を傾けなかったら、この事態は 引き続くだろう。

瞑想というものは すべて中心(センター)が据わるためにある。

エキセントリックに ならないため、あなた自身の中心(センター)に おさまるためだ。

 

 あなたの 内なる声を 聴きなさい。

それを 感じなさい。

そして、そのフィーリングと いっしょに動くのだ。

だんだんと あなたは、他人の意見など 一笑に付すことが できるようになる、あるいは、単に無関心になれるようになる。

 

 それに いったん中心(センター)が 据わってしまえば・・・あなたはパワフルな実存と化す。

そうしたら、もう誰もあなたを 小突きまわすことなんかできない。

そうしたら、誰にどこへ押しやられることもない。

ただ もう誰も あえてそんなことをしようとしなくなる。

 

 中心(センター)に 据わった あなたの力の前には、意見を持って やって来た人も、あなたのそばに来ると けろりとその意見を 忘れてしまうほどだ。

あなたを どこかへ押しやろうと やって来る人も、けろりとそれを忘れてしまうほどだ。

むしろ あなたの近くに来ただけで、その人は あなたに圧倒されそうになる。

 

 たったひとりの人間が、社会全体、歴史全体が 力をふりしぼっても、一寸たりとも動じないほど パワフルな存在になれるのは、そういうことなのだ。

それが 仏陀の存在であり、それが イエスの存在なのだ。

あなた方に イエスを殺すことはできても、彼を 動かすことはできない。

そのからだを 破壊することはできても、一寸たりとも 彼を 動かすことはできない。

 

 彼が 強硬だとか頑固だというわけじゃない。

違う。

ただ彼は 彼自身の実存に 据   わ   っ   て いるのだ。

そして、彼は 彼にとって何がいいことか、何が至福に満ちているかを 知っている。

 そ   れ   は すでに起こっている。

もう彼を それ以上 新しい目標に そそのかすことなどできない。

 

 いかなる商売上手でも、彼を ほかのどんな目標に おびき寄せることも できない。

彼は 彼の〈わが家〉を 見つけている。

彼は しんぼう強く あなたに耳を傾けることはできる。

が、あなたには 彼を動かせない。

彼は  据   わ   っ   て いる。

 

この 中心に  据   わ   る  ということこそ、自然でゆったりと していることへの 第一歩だ。

そうでないと、もしあなたが 自然でゆったりとしていようものなら、誰に どこへ連れて行かれるか わかったものじゃない。

 

 子供たちが、自然でゆったりとしていることを許されないのは そのためだ。

彼らは まだそこまで成熟していないのだ。

もし 自然でゆったりとして、そこら中 かけまわっているだけだったら、彼らの人生は 無駄になってしまう。

だからこそ、私は 社会というものは大事な役割を果たしていると 言う。

それが彼らを 守ってくれる。

細胞膜のような〈人格〉が、彼らの砦に なってくれる。

彼らには それが必要だ。

彼らは とても傷つきやすい。

誰に 壊されてしまうか わからない。

世の中には 数えきれない人間がいる。

子供たちは 自分の道を見つけることもできまい。

彼らには〈人格〉という よろいかぶとがいる。

 

 もし その人格かぶとが あなたの生の すべてになってしまったら、そのときも あなたは お終いだ。

あなたは その砦になってしまうべきじゃない。

あなたは あるじのままでいるべきであり、その砦から いつでも出られるままでいるべきなのだ。

さもなければ、それは 防壁じゃない、牢獄になってしまう。

 

あなたは、自分の〈人格〉から 抜け出す力を 持っていなくちゃいけない。

あなたは、自分の〈原則〉を 脇にのける力を 持っていなくちゃいけない。

もし 状況が それを要求したときには、まったく新たな応え方をできる力を 持つべきなのだ。

もし この能力をなくしたら、もう あなたは固まってしまう。

そうしたら、ゆったりとなど していられない。

もし この能力が なくなったら、そのときあなたは 不自然になってしまう。

そうしたら、あなたは 柔軟じゃない。

 

柔軟性こそ 若さだ。

硬さは 老いだ。

柔軟で あればあるほど それだけ若い。

硬ければ硬いほど 老いている。

死は 絶対的な 硬直だ。

生は 絶対的な自由であり、柔軟性だ。

これを 頭に置き、そうしてティロパを 理解しようとするがいい。

彼の 最後の言葉だーーー。

 

『 至高の理解は

   かれこれの一切を超越し

 

   至高の行為は

   執着なくして大いなる機知を抱く

   至高の成就とは

   望みなくして内在を知ることなり 』

 

 ( 以下略 )

 

 

 

OSHO「存在の詩」第九話 自分の靴ひもをひっぱって空に昇れるか ?

Pp520ー537  

「第九話 自分の靴ひもをひっぱって空に昇れるか ?」

 

 

 「マハムドラーの詩」は続きます・・・

 

   『 与えず、 また取らず

   人はただ自然のままにあるべし

   マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえにーー

   もとより阿頼耶(アラヤ)の生ずることあらざれば

   誰もそを妨げ汚すこと能わず

   不出生の境界にありて

   すべてのあらわれはダルマタへと溶解し

   自己意志と高慢は無の中に消滅せん 』

 

 

 並なる 心 (マインド)というものは、より多く、より多くを 世界から得ようと求める。

あらゆるところから、あらゆる方角と次元からーーー

 

 並なる心は 偉大なる侵略者だ。

それは 乞食だ。

そして、その物乞いは 満たされることができないほどだ。

それは 無限だ。

手に 入れれば入れるほど、より以上の 憧(あこが)れが 湧き上がる。

持てば持つほど 欲望がふくれ上がる。

それは 憑かれたような飢えとなる。

あなたの実存の中には それに対して なんの必要もありはしない。

それなのに あなたは取り憑かれ、そして どんどんと 不幸になってゆく。

満足させてくれるものが 何ひとつないからだ。

絶えず〈もっと〉を 求める心を 満たし得るものなど何もない。

その〈もっと〉は 熱病だ。

それは 健康なものじゃない。

そして、それには きりがない。

 

 並なる心は 隠喩的な意味において 絶えず  食   べ  続ける。

ものばかりでなく 人間までもーーー。

夫が妻を あまりにも 深く絶対的に所有したいばかりに、それは ある意味で彼女を食べることになってしまう。

彼は 彼女が自分の 一部になるように、彼女を食べて消化してしまいたい。

並なる心は 人喰い的だ。

妻も また同じことを求める。

その夫を あとかたも残らないほど 全面的に吸収することをーーー。

 

 彼らは 互いに殺し合う。

友人たちも 同じことをする。

親は 子に対して、子は 親に対して同じことをする。

並なる心の持つ あらゆる人間関係は、他人を完全に のみ込んでしまうことに ほかならない。

それは 一種の食い合いだ。

 

 さて、次に 並ならぬ心 というものがある。

並なる心の ちょうど反対だ。

そして、その並なる心が あればこそ、並ならぬ心が この世に存在をあらわした、いろいろな宗教が それを教える。

彼らは 与えよ、分かち合え、捧げ出せ、寄付せよ、と 言う。

一切の宗教が、基本的には 人間は取るべき ではなく、むしろ反対に 与えるべきだ と 教える。

慈善が 説かれる。

これが説かれるのは  並   な   ら   ぬ   心を つくり出すためだ。

 

並なる心は いつも みじめだ。

〈もっと〉に対する その憧れが満たされ得ないからだ。

その人は つねにふさぎ込んで 悲しげだろう。

一方、宗教が 培ってきたところの 並ならぬ心はといえば、いつも幸せで、一種 上機嫌な状態にある。

その人は〈もっと〉を 求めてはいないからだ。

 

 反対に 彼は 与え続ける。

だが、 奥深いところでは 彼は まだ 並なる心のままだ。

その機嫌の良さは 決して 最も深い実存では あり得ない。

それは 表面的なものでしかあり得ない。

彼は ただ完全に 一回転して、並なるものの 逆になったにすぎない。

彼は 逆立ちしているのだ。

シルシアサナーーーしかし、彼は 同じままだ。

 

 今度は もっともっと与えたい という 新しい欲望が 湧き起こる。

またしても それには きりがない。

彼は 上機嫌だろう。だが、その上機嫌の奥底には、ある種の悲しみを 探り出すことができる。

宗教的な人々の 中にはつねに その手の悲しみが見い出せる。

機嫌がいいのは もちろんだ。

与えるんだからーーー。

だが、 悲しい。

もっと 多くのものを 与えられないからだ。

機嫌は いい。

分かち合うのだからーーー。

だが、 悲しい。

それだけでは 充分じゃないからだ。

充分などということは 決してあるまい。

 

 だから、この世には 二種類の不幸が ある。

ひとつは 並なる不幸ーーー。

そういう人たちは まわり中いたるところに いるだろう。

全地球は そういう人でいっぱいだ。

なぜなら、彼らは〈もっと〉を求め、それは 満たされ得ないもの だからだ。

そして、上機嫌という顔をつけた もうひとつの 不幸がある。

 

 それは 牧師さんや 坊さんたち、僧院や アシュラムに いる、いつも ほほえんでいるように 見える人たちに見られるものだ。

だが、彼らの ほほえみは その内に、ある悲しみを帯びている。

もし 深く観察してみれば、彼らもやっぱり 不幸であるのが わかるだろう。

なぜなら、無限に 与えることなど できるものじゃないからだ。

あなたは そんなに 持ってやしない。

 

 この二種類の人たちには 簡単に 会える。

この手の宗教的人間は、キリスト教ユダヤ教ヒンドゥー教によって培われている。

それは 並なる心よりは ましだ。

が、 意識というものに関する 最終句ではあり得ない。

宗教的に不幸である のは 悪くない。

乞食のように 不幸であるよりは、王者のように不幸であるほうが ましだろう。

 

 ひとりの とても裕福な男が 死のうとしていた。

そして、彼は 臨終のまぎわに 私をそばに呼んだ。

そこで私は その場にいた。

最後の瞬間に、彼は 目をあけて 彼の息子に語りかけた。

そして、それは いつも彼の心にあって、彼が何度も私に 話していたことだった。

彼は その息子のことを とても心配していた。

道楽者で物質的なものが 大好きだったからだ。

まして この老人は宗教的な男だった。

 

 その彼が 息子に言った最後の言葉は こうだった。

「お聞き。

金は すべてじゃない。

そして、金では すべてを買えるわけじゃない。

世の中には 金銭を超えたものごともある。

それに、金だけでは 誰ひとり幸せにできやしないのだ」。

息子は それを聞くと言った。

「あなたは 正しいかもしれない。

でも、お金があったら 人は 自分の好みの悲しみを 選ぶことができます」。

 

 それで幸福を 買うことは できないかもしれない。

が、 自分の好きな悲しみを 選択することはできる。

あなたは 自分流のやり方で不幸になれるのだ。

貧乏人は なんの選択もなく 不幸でなくてはいけない。

金持ちは 自分の好みで不幸になれる。

それが ただひとつの 違いだ。

金持ちは 自分の不幸を選ぶ。

そこには 一定の自由が ある。

貧乏人の不幸は 宿命のように、ただ起こる。

彼には なんの選択もない。

 

 宗教的人間は 彼の不幸を選んだのだ。

彼の機嫌がいいのは そのせいだ。

そして、非宗教的な人間が その不幸をかこつのは、それを 自分で選んだわけじゃない からだ。

両方とも 同じ〈もっと〉の世界に生きているのには 変わりがない。

ただし、宗教的人間のほうは 帝王のように、分かち合い、与えながら生きる。

慈善ーーー。

 

 仏教、ジャイナ教、道 (TAO)。

彼らは 並なるものでも 並ならぬものでもない。

第三のタイプの心を 生み出した。

実際には、それは 全然 心じゃない。

あえて それに名前を つけるとすれば、無心と呼ぶのが いいだろう。

 

 そこで、この分類を 理解しようとしてごらん。

並なる心。

その正反対ではあるけれども、また同じ〈もっと〉の次元にある 並ならぬ心。

そして、仏教や ジャイナ教道教の生んだ 無心ーーー。

 

 この無心とは 何だろう ? 

リアリティーに向かう 第三のアプローチだ。

仏教やジャイナ教は 慈善を説かない。

彼らは 無関心を 説く。

彼らは 与えろなどとは 言わない。

なぜなら、与える というのは 取ることの一部にすぎないからだ。

同じ環(わ)だ。

取るときには 誰かから 取る。

与えるときには 誰かに 与える。

だが、それは 同じ 環(わ) だ。

次元は 変わらない。

ただ 方向が 変わるだけだ。

 

 仏教は 無関心でいることを説く。

無所有でいることだ。

力点は  無   所   有   にある、与えることじゃない。

あなたは  所   有  を すべきじゃない。

それが すべてだ。

あなたは 物や 人を 所有しようと すべきじゃない。

ただ その 所有の世界からドロップアウトするのだ。

取るか与えるか などという問題じゃない。

それは 両方とも 所有の世界に属するものにすぎないからだ。

 

 あなたが与えられるのは、あなたが 所有しているものだけだ。

どうして 自分が所有していないものを 与えられる ? 

あなたが与えられるのは、それ以前に分捕ったものだけだ。

あなたが与えられるのは、それ以前に取ったものだけだ。

そうでなかったら、どうして それをあげられる。

 

 あなたはこの世界に 何も持たずに やって来た。

無一物でーーー。

あなたは また無一物で この世界から去って行く。

この世であなたは これらのどちら側にもつける。

もっともっと と 求め、もっともっと と 取り、そしてもっともっと と 吸い込んで 自分を肥らせ続ける側か、それでなければ もう一方の、もっともっと と 与えに与え続け、痩せてやせて痩せきってしまう側かだ。

仏陀は 所有すべからず と言った。

あなたは そのどちらも選ぶべきじゃない。

ただ 無所有という 状態にいればいい、 と。

 

 この人種、この三番のタイプの人間、私が 無心の人と呼ぶところの人間は、第二の〈並ならぬ人〉のようには 幸福にも上機嫌にも ならない。

彼は もっと静かだろう。

彼は もっと穏やかだろう。

彼には 深い充足がある。

だが、それは上機嫌とは違う。

彼の顔には 笑いさえ見られないだろう。

 

 仏陀が ニヤニヤしている像や、マハヴィールが 笑っている像はあるまい。

それはない。

彼らは 上機嫌じゃない。

彼らは 幸福でもない。

彼らは 不幸ではない、もちろんだ。

だが、彼らは 幸福でもない。

彼らは 不幸と幸福の世界からドロップアウトしてしまったのだ。

彼らは ただ 安らいでいる。

ものや ものの世界に 無関心だ。

 

 無所有ーーー彼らは超然として、離れている。

これが アナシャクティ (Anashakti)=離脱、無関心だ。

こういう人間は、そのまわりに ある種の静けさを たたえているものだ。

その静けさは あなたにも感じ取ることができる。

 

 しかし、ティロパは その三つ すべてを乗り越える。

ティロパは その三つの全部を 乗り越える。さあ、そうなると 彼をどう分類するかが難しい。

より多くを求める〈並なる心〉。

より多くを与えようとする〈並ならぬ心〉。

与えも取りもしない無関心、無執着の〈無心〉ーーー。

 

 さて、 ティロパの心を なんと呼ぶか ? 

ティロパは 第四のタイプに はいる。

そして その第四は 最後にして最高のものだ。

もう それ以上のものは ない。

それは〈無心〉でさえもない。

それはもう まったく心ではないのだ。

〈無心〉の中には 否定的にとはいえ、やはり まだ 心が存在していた。

 

 そして 力点はなお、ものの や ものの世界に 無関心であることに 置かれていた。

あなたの焦点は ものの上にあった。

無関心、無執着でいることにーーー。確かに ものを所有してはいない。

だが、あなたは所有しないように 気をつけていなければいけない。

超然離脱していなければいけない。

何ものも 所有しないように、よくよく警戒怠りなく動かなければいけない。

 

 ここのところは はっきりとさせておきなさい。

力点は いまだ〈もの〉にある。

世間に無関心であることにーーー。

ティロパは、力点は あなた自身の上に あるべきだ と言う。

ものに ではなくーーーあなた自身の内に 安らぎなさい。

世間に無関心でいることすら無用だ。

なぜなら、その無関心が、 なおも世間との ごく微妙な 橋渡しに なっているからだ。

焦点は〈他〉に置かれるべきじゃない。

あなたの目を 完全に 内に転ずるのだ。

世間のことを 気に病むことはない。

それに無関心でいることすらもーーー。

 

〈もっと〉を 求めもせず、〈もっと〉を 与えようともせず、世間に無関心であることも しない。

世間は まるで ただただ 消え失せてしまったかのようだ。

あなたは 自分の中心 (センター)に据わり、何をするともなく 内に坐る。

焦点は 丸々転じた。

完全に 反転したのだ。まるで 世界が全く消滅してしまったかのようにーーー。

そこには 与えるものは 何もなく、取るものも なく、それについて 無関心でいるものも ない。

 

 ただ  あ   な   た  が いる。

 あ   な   た  は あなたの 意識の中に 住まう。

それは あなたの 唯一の世界だ。

ほかには 何も存在しない。

これが 心も 無心も 越えた境地だ。

これが〈理解〉の至上無比の境界だ。

それ以上のものは 何もない。

そして、私は あなた方に語りたい。

これに到達するまでは 決して満足しないこと。

なぜか ? 

それは こういうことだ。

 

 人間は不幸だ。

並なる人間のことだよ。

彼は〈もっと〉を求める。

そして、それは 決して満たされ得ない。そこで、不幸は 絶えることがない。

それどころか、その不幸は どんどん、 どんどん、 どんどんひどくなり続ける。

 

 宗教が教えるところの〈並ならぬ心〉の人間は、機嫌はいいけれども 奥深いところでは 悲しい。

まさに その上機嫌そのものですら 悲しみの暗流を隠している。

彼は まるで笑おうと努めているかに見えるのに、笑いは やって来てくれない。

彼は ポーズを とりつくろっているように見えてしまう。

それは まるでカメラマンが そこにいて、それに向かって 実際にはありもしない、あるそぶりを とりつくろっているかのようだ。

 

 第一のタイプよりは ましだろう。

少なくとも あなたは笑える。

その笑いは あまり深いものじゃない。

が、少なくとも それはそこにある。

しかし、それは 長くは続くまい。

やがて、それがなんであれ あなたが与えられるものも 尽きてしまうだろう。

そうしたら、笑いも 上機嫌も 消えてしまう。

あなたは もっと 与えたい。

そうしたら、あなたは 第一の〈並なる人〉と 同じ穴のむじなだ。

 

 二番目の人は、その不幸を 理解し気づくのに、少しよけいに 時間がかかるかもしれない。

だが、不幸は やって来るだろう。

あなた方が モスクや寺院や僧院で 習得する上機嫌は、あまり深くは 達し得ない。

しかも、それは永続的な事態には なり得ない。

それは 永遠では あり得ない。

 

 あなたは それを失うだろう。

まさに その本性からして、それは 一時的なものでしかあり得ない。

なぜ 一時的なものでしかあり得ないのだろう ? 

なぜなら、持っていなくて あげられない という時点が来る。

やって来ざるを得ないからだ。

 

 この二種類の心を持った人たちが 妥協に落ち着くのは そのためだ。

〈並なる心〉と〈並ならぬ心〉は その質においては等しい。

彼らは 妥協に落ち着く。

そして、妥協はどこにでも ある。

まず、人は ものを 取り続け、それから寄付しはじめる。

あるいは、百ルピー稼いでから、そのうちの 一割を 寄付する。

それが可能な ただひとつのやり方だからだ。

 

 もし百ルピーを 全部 寄付してしまったら、もう 寄付しなくてよくなってしまう。

ものを 取り続け、そうしておいて その 一部を分配する。

回教は 収入の五分の一を 寄付すべきだと言う。

収入の五分の一で 慈善を施すべきだ、 と。

 

 なぜだろう ? 

これは 妥協なのだ。

さもなければ、あなたは 何も寄付しはすまいから。

そこで、まず貯め込み、それから寄付しろということになる。

分配するために 貯め込む。

慈善を施すために 金持ちになる。

人助けをするために搾取する。

これは 馬鹿げている。

 

 しかし、これが ただひとつの 可能な道なのだ。

〈並なるもの〉と〈並ならぬもの〉の間の かけ橋なのだ。

それに〈並なる心〉でさえ、彼が多くを持てるときには寄付しよう、人助けをしようと思い、そう信じ続けているものだ。

そして、もちろん彼は それを実行もする。

 

 充分なものを 持っているときには、病院に寄付し、ガン硏に寄付し、図書館や大学に寄付する。

最初に、まず搾取し、それから寄付する。

最初に あなたから盗んでおいて、それから あなたを助ける。

助っ人と 盗っ人は 別々なものじゃない。

実際には、彼らは 同じ人間だ。

右の手で 盗み、左の手で人助けをする。

彼らは 事態の 同じ次元に属している。

 

 第三の 人間、無心の人は、これら はじめのふたつより ましな状況にいる。

その静寂は もっと長持ちできる。

だが、至福に 満ちてはいない。

彼は 至福を 感じてはいない。

不幸じゃない。

惨めじゃない。

けれども、その境界は 否定性という本性を帯びている。

彼は、病   気   で   は   な   い  という人間に 似ている。

ん? というのも、医者は どこも悪いところを見つけられない。

そして、なんの快調感も 感じないからには 健康でもない。

 

 彼は 病気でもなく、健康でもない。

ちょうど中間に いる。

彼は 不幸でもなく、幸福でもない。

ただ 無関心だ。

そして、無関心は 静けさを 与えてくれるかもしれない。

が、静けさだけでは 足りない。

 

 それはいい。ビューティフルだ。

しかし、あなたは それに満足できるものじゃない。

遅かれ早かれ それに退屈してしまう。

山に行くと 起こるのが それだ。

あなたは 街の生活に あまりにも退屈していた。

ムンバイ、ロンドン、ニューヨークーーー

 

 あなたは 飽き飽きしていた。

その騒音、車ーーーそして、その狂気全体が どこまでもどこまでも続いていく。

あなたは たまらずヒマラヤに 逃げ出す。

だが、数日たつと・・・三日か四日か 五日、よくて せいぜい七日。

あなたは その静けさに 退屈を感じ出す。

山々は静か、樹々も静か、谷も静かーーーなんの興奮もない。

あなたは 街の生活に あこがれはじめる。

クラブ、映画館、友人たちーーー。

 

 静寂だけでは駄目だ。

それは 静寂というものが、生ではなく 死の性質を持っているからだ。

それは休日としてなら いい。

ピクニックと してなら いい。

過剰な人生との かかわりあいから、数日間、数週間、脱けだして 静かになるのは いいことだ。

あなたは それを楽しむことだろう。

 

 しかし、それを 永久に楽しむことはできない。

すぐに それに食傷してしまうだろう。

すぐに これだけじゃ足りない と感ずるだろう。

これは滋養に ならない、 と。

静寂は 不幸や幸福や 興奮から 守ってはくれるだろう。

だが、 その中には なんの滋養もない。

それは 消極的 (ネガティブ)な 境界(きょうがい)なのだ。

 

 第四の境界ーーーティロパが 指し示している それ。

言葉では 表わし得ないけれども、彼が ナロパと、その信頼と愛と信仰のために 言おうとしている それは、至福に満ちた境界だ。

静かで、そして 至福に満ちている。

それは その内に積極性を秘めているのだ。

 

 それは ただ静か なのじゃない。

生に対する無関心から 来るのではない。

むしろ反対に、それは その人自身の実存の 最も深い体験から来る。

それは 世を捨てることによって 引き出されたものじゃない。

「ゆったりと自然」であることによって 花開いたものなのだ。

 

 その違いは 微妙だ。

だが、もしあなたが その違いを理解し、それに瞑想しようとするなら、あなたの 生の道筋は 丸ごとクリアに なるだろう。

そうしたら、あなたは とても楽に 旅することができる。

 

 決して第四の境界 以前に 満足してしまわないこと。

なぜなら、たとえ満足してみたところで、遅かれ早かれ 不満が湧き上がってくるだろうからだ。

あなたが サッチダーナンダ (Sat-chit-ananda)ーーー絶対の真理、絶対の意識、絶対の至福に到達しない限り、まだ〈わが家〉には 帰り着いていない。

あなたは まだ  路  上にいる。

 

 OK。

ときには道端で休むのも いい。

だが、それを 住みかに してしまっては 駄目だ。

旅は 続行しなくてはならない。

あなたは また 立ち上がり、そして、歩を進めなくてはならないのだ。

第一の 心の境地から第二へ。

第二から 第三へ。

そして、第三から  か   な   た へとーーー。

 

( 以下略 )

OSHO「存在の詩」第八話 鏡になる

Pp458ー461  (以下略)

「第八話 鏡になる」

 

詩は また続きます・・・

『 木の根を断たば葉は枯れん

   汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん

   いかなる灯(ともしび)の光も 一瞬にして

   長きカルパの闇を払う

   心の強き光ただ一閃なれど

   無知なるヴェールを焼かん

 

   心に執着せる者の

   心を越えたる真理を見ることなく

   ダルマを行ぜんと求むる者の

   行を越えたる真理を見出すことなし

   心と行をふたつながら越えたるものを知らんには

   人はきっぱりと心の根を断ち切りて

   裸眼をもちて見つむべし

   しかして人は 一切の差別を打ち破り

   くつろぎにとどまるべし 』

 

 

 選択こそ 束縛だ。

 無選択は 自由だ。

何かを 選んだその瞬間、もう あなたは〈世間〉の罠に はまっている。

もしあなたに  選   ぶ  という 誘惑に耐えることができれば、もし 無選択なまま 醒めていることができれば、その罠は ひとりでに消え失せる。

なぜなら、選択しない ということは、その罠がそこに存在するのに 手を貸さない ということだからだ。

 

 その罠も やはり、 あなたの選択によって つくり出されたものなのだ。

そこで、この〈選択〉という言葉が 深く理解されなくてはならない。

その理解を通って はじめて、あなたの中に〈無選択〉という花が 開き得るからだ。

 

 なぜあなたは 選ぶ ということをしないままで いられないのだろうか ? 

なぜ、ある人間や ある物を見た瞬間、自分で選んだ ということさえ 知らぬ間に、〈選択〉の 微妙な波があなたの中に はいり込んでしまうようなことが 起こるのだろうか ? 

 

 ひとりの女性が 通る。

と、 あなたは「彼女はきれいだ」と 言う。

あなたは 自分の選択について 何も言ってはいない。

が、 選択は はいり込んでいる。

というのも、ある人を きれいだ と言う ということは、自分は彼女を  選   び   た   い  ということだからだ。

実際には 奥深いところで 選択しているのだ。

あなたは すでに罠にはまっている。

種子は 畑に落ちた。

やがて芽が出、 苗と なり、一本の木と なるだろう。

 

 あなたが この車は 素敵だ と 口に出したその瞬間、もう選択は しのび込んでいる。

自分では、その車が欲しい という選択を したことに、全然 気づいていないかもしれない。

しかし、心の中には ひとつの夢が しのび込んでいる。

ひとつの欲望が 湧き起こっている。

あるものが きれいだ と口に出すとき、あなたはそれを 手に入れたい と言っているのであり、あるものが 醜い と 口に出すときは、それが 欲しくない と 言っているのだ。

 

 選択は 微妙だ。

人は それについては ごく厳密に 醒めていなくてはならない。

何か あることを口に出して 言うときには、必ず これを心にとめておきなさい。

それを 口に出す ということは、ただ口に出すということ、単に しゃべる ということではなく、無意識の中では 何かが 起こっている。

 

 これは きれいで あれは汚いだの。

これは 善くて あれは悪いだの、区別を しないこと。

区別は いらない。

離れているのだ。

ものごとは 善くも悪くもない。

善だの 悪だの という性質は あなたによって持ち込まれたものだ。

ものには きれいも 汚いも ない。

それは ただあるがままに そこにあるだけだ。

きれいだの 汚いだのという 性質は、あなたによって持ち込まれたものだ、それは あなたの解釈だ。

 

 あなたが ある物を美しい と言うとき、それは どういう意味だろう ?

何か 美しさの規準になるようなものが あるだろうか ? 

あなたは それが 美しいということを 証明できるだろうか ? 

あなたの すぐ脇では、誰かが それを醜いと 思っているかもしれない。

つまり、それは全然 客観的なものじゃない。

誰も 何ひとつ 美しいと証明など できはしない。

 

   以下 略・・・

 

「第九話 自分の靴ひもをひっぱって空に昇れるか ? 」に つづく・・・