第六章 内なる導き 3️⃣

(…これは、一見 逆説的だが、真実だ。)

永遠に待てる人間は、まったく 待つ必要がない。

一方、一瞬でも 待てない人間は、永遠に 待たねばならない。
そして 待っても 何も起こらない。
「さあ この瞬間に、すぐに それを起こさせよう」と語る心(マインド)は、すでに その瞬間から 動き去っている。

そういう心は いつも走っている、どこにも いない、どこにも とどまらない------いつも動作中だ。
こうした「動作中」の心、「運行途中」の心は、無垢になれない。


みんなは 気づいているだろうか。
無垢な人間は、時間を まったく気にしない。
時間は ゆっくり過ぎていく。
急いで どこかに行く必要はない。
無垢な人間は 走っていない。

瞬間から瞬間を 楽しんでいる。
瞬間 瞬間を かみしめている。
瞬間 瞬間が、それぞれエクスタシーを 届けてくれる。

ところが、あなたは あまりに急いでいるため、瞬間が エクスタシーを 届けてくれるひまもない。
あなたの場合は、ここにいるときも、その手は 未来へ伸びている。
その心は 未来へ向かっている。
それで この瞬間を逃してしまう。
いつでも そうだ。

いつでも 今を 逃している。

しかし、今というのは 唯一の時間だ。
未来は 偽りだし、過去は たんなる記憶だ。

過去は もはやないし、未来は まだ来ていない。
今の ほかは何もない。
今こそ 唯一の時間だ。


もう少し ゆったりし、勘定をやめ、子供のように 今ここに 遊ぼうとするつもりがあるなら、こうした単純な技法は 奇跡をもたらすだろう。

今の世紀は 時間を気にしすぎる。
だからこそ あなたは、「こうした技法の場合、それを実践する予備段階として、別の技法が必要ではないでしょうか」と 言うのだ。
それは 違う。


また、 これらは 技法であり、最終結果ではない。
それが最終結果のように 見えるのは、あなたに その働きが 想像できないからだ。
こうした技法が 有効なのは、ある一定のマインドに 対してだけだ。
それ以外のマインドには 有効でない。


そして実際、智者たちは 次のように言うーーー あらゆる技法は 最終的に あなたを無垢へと導き、その無垢の中で、究極の現象が起こる。

あらゆる技法は、あなたを その無垢へと導く。

その無垢があれば、究極の現象は起こる。


しかし現在、それは難しい。
無垢を教えるところが どこにもない。

利口になることしか 教えない。
大学は 人を無垢にするためのものではない。
人を利口に、狡猾に、計算上手にするためのものだ。

利口であればあるほど、生存競争では 有利になる。
計算上手であれば、富や、地位や、権力が 手に入る。

もし 無垢な人間がいたら、それは 馬鹿だということだ。
無垢であれば、この競争世界に 居場所はない。


しかし、これが問題だ。
たとえこの競争世界に 居場所があったとしても、ニルヴァーナの 無競争社会で 居場所を持つのは、無垢な人間だけだ。


計算上手な人間は、ニルヴァーナの世界に 居場所を持たないが、この世界には 居場所を持つ。
そして 私たちは、この世界を ゴールと定めている。


古代の大学は、まったく異なっていた。
その方針は、 まったく違っていた。
ナーランダや タクシャシラでは、計算は教えなかったし、利口になることも 教えなかった。

そこで 教えられていたのは無垢だった。


4️⃣へ 続く

第六章 内なる導き 2️⃣

(…名前は何であれ、“それ” は すでにあなただ。)

だから、ただの示唆であっても、その示唆を 心から信じれば、“それ” は開かれる。

だからこそ、「シュラーダ」つまり信頼や信心が、これほど大事にされるのだ。
もし 師を信じることができれば、ただの暗示、示唆、指示によって、すべてが 一閃のもとに開かれる。


次のことを よく理解するように。
物事の中には、今すぐには達成出来ないものがある。
生み出すのに 時間のかかるものがある。
それは今、あなたのもとにない。
たとえば、私が あなたに種子を与えたとする。
その種子は、今すぐには 木になれない。
時間がかかる。

待たねばならないし、働きかけも必要だ。
種子は すぐに木になれない。
でも 本当のところ、あなたは すでに木だ。
働きかけを 必要とする種子ではない。
すでに 木だ。

その木は 闇の中にある。
その木は 隠れている。
あなたは その木に 気づいていない。
それだけだ。

あなたは どこかほかのところを見ている。
だから 見逃している。


信頼があれば、師は機を見計らって、示唆をもって語ることができるーーー「それは ここだ」と。
もし それを信じることができたら------もし信頼の中で、その 示された次元を 見ることができたら、それは開かれる。


こうした技法は 上級者向けではない。
単純な、無垢な人間向けだ。

上級者は、ある意味で難しい。
無垢でないからだ。
すでに 修行を経てきて、何かを達成している。

そして その裏には、微妙なエゴがある。
彼らは 何かを知っている。
もはや 無垢な人間ではない。
信じることができない。

だから まず、論議によって 納得させる必要がある。
それだけではない。
彼らの場合、納得した後、今度は 自分自身の努力が必要となる。


私の言う「無垢な心」とは、論議しない心だ。
ちょうど 小さな子供のようなものだ。

父親に 手を引かれて歩く子供は、恐れることがない。
父親の連れていく先が どこであろうとも、その方向は正しいと 確信している。
父は 何でも知っている。
だから心配する必要はない。

子供は 未来のことを考えない。
これから何が起こるかには関心がない。
その道筋を 楽しんでいる。
目的地は、まったく問題でない。


父親にとっては 問題かもしれない。
彼は 恐れているかもしれない。
道を 間違ったのではないか、はたして この道は正しいのか、と 思案したりする。

でも、子供にとっては 問題ない。
「父は 知っている」、それだけで充分だ。
そして 父親の導くところ、どこへでも ついていく。
今 この瞬間を楽しみながらーーー。


信頼する弟子、無垢な心、それは ちょうど子供のようなものだ。
そして師は 父親以上のものだ。
弟子が、明け渡し、信頼していれば、師は 時を見計らうーーーそして弟子が 自分と波長を合わせたと感じたら、示唆を与える。


禅師の 睦州(ぼくじゅう)について、こんな話がある。
彼は悟りを開こうと 苦闘した。
でも 何も起こらなかった。

実際、苦闘すると、往々にして何も起こらない。
苦闘は エゴによるものだ。
苦闘によって、エゴは さらに強くなる。

彼は 自分にできるすべてをしたが、ゴールは いっこうに近づかなかった。

むしろ逆に、旅を始めた頃よりも遠ざかっていた。
彼は 困惑した。 悩んだ。


そこで 師のところへ行った。
すると 師いわく、
「これから何年かの間、努力や、ゴールや、目的地といったものは、みな忘れてしまえ。

そして ただ私のそばにいて、瞬間から瞬間へと生きるのだ。
何もせず、ただ、食べ、眠り、歩き、そして私のそばにいる。
何も尋ねず、ただ 私を見、私の姿を見る。
何の努力もしない。

達成されるものは 何もない。
達成しようという心(マインド)を 忘れるのだ
達成しようという心は、つねに未来の中にある。
それでいつも 現在を取り逃してしまう。

だから『何かを達成せねば』ということは、きっぱり忘れてしまえ」


睦州は 師を 信じていた。
そこで 師と 生活を共にした。
何日かの間、何ヶ月かの間、いろいろな考えが浮かび、様々な 観念が現れた。
ときには不安になって こう考えることもあった、「これは 時間の無駄だ。
自分は何もやっていない。
何もせずに、どうして それが起こるだろう。
あんなに頑張っても起こらなかったのに、どうして こんなふうに何もしないでいて、簡単に到達できるだろう」


それでも彼は 師を信じていた。
少しずつ 心は落ち着いていった。
そして 師の身近にいて、ある微妙な平安が 広がっていった------ある静寂が 師から自分へと降りてきた。
自分が 合体していくように感じられた。

そして 歳月がたった。
彼は 自分の存在を まったく忘れてしまった。
師が 自分の中心となり、彼は 影のように生き始めた。


そうなると 奇跡が可能となる。

そうなること自体が 奇跡だ。

ある日 突然、師は 彼の名を呼んだ、
「睦州、ここに いるか」

彼は言った、
「はい、 先生」。
そして 悟りを開いたそうだ。


それはべつに 技法のようなものではない。
直接的な 示唆でさえない。
ただ、
「睦州、ここに いるか」だけだ。
つまり、睦州の現在性(ここにいること)が 呼び出されたわけだ、「お前は ここにいるか。
どこにも行ってないか。
どこまでも、徹底的に、ここにいるか」

睦州は言った、「はい、先生」。
この「はい」の中で、彼は 全面的な現在性を得た。


伝えによると、師は 笑いだしたそうだ。
睦州も 笑いだした。
そして 師は言った、
「もう行っていい。
よそへ出かけて、お前の存在によって 人々を助けておいで」


睦州は 何の瞑想法も教えなかった。
ただ こう言うのみだった、
「私のそばに居ろ。
現在に とどまれ」。
そして弟子の波長が 合ったと見るや、その弟子の名を呼び、
「お前は ここにいるか」と 尋ねる。
それが 技法の すべてだった。


しかし この技法のためには、心の根づきが必要だ。
深い 無垢が必要だ。

瞑想技法の中には 簡単なものが いくつもある。
非常に簡単なものがーーー。

たとえば、「これに なる」とか。

それは ただの暗示だ。
こうしたものは師が 機会を捕らえて言うものだ。
いつでもいい というわけではない。

弟子が 師と ひとつになりきったとき、あるいは 宇宙と すっかり一体となったとき、師は「これになれ」と 言う。
すると 突然、焦点は変化し、エゴの 最後の部分が溶け去る。


この種の技法は、過去には効果があった。

でも今は 難しい。 非常に 難しい。

人々は とても勘定高く、とても利口になっている。
利口というのは、無垢の 正反対だ。
人々は とても勘定高い。
算数を知りすぎている。

その計算は、いつも心の中で 続いている。
何をするにも、つねに 計算し、プランを立てる。

決して 無垢でない。
決して、開放的で、受容的でない。
自分自身を 頼みすぎている。

だから いつも逃してしまう。

この種の技法を適用するには、まず準備が必要だ。
その準備は、非常に長いものになるだろう。
ところが 人々は ひどくせっかちだ。


今の時代は、地球始まって以来、もっとも せっかちな時代だ。
みな せっかちで、時間を気にし、何でも今すぐにやりたい。
とはいえ、
「それは 今すぐにはできない」というわけではない。
今すぐにも できる。
でも こんなに時間を気にしていたら、それは不可能だ。


たとえば、私のところへやって来て、「滞在予定は 一日だけです」と 言う人がいる。

翌日は サイババのところへ行き、その後は リシケシに行き、それからまた 別のところへ行く。
そのあげくに 失望して帰国し、
「インドには何もない」と 考える。

でも肝心な点は、インドに 何かがあるか否かではなく、自分が 受け取るか否かだ。

あまりに 急いでいるものだから、インスタントコーヒーのようなつもりで、インスタント瞑想や インスタント-ニルヴァーナを求めている。

それは 無理というものだ。

ニルヴァーナは、パック詰めにしたり、インスタントにするものではない。
とはいえ 不可能というわけでもない。

インスタントにもできる。
でも それが可能なのは、インスタントを 求めないときだ。
それが 問題だ。

それは インスタントにできる。
すぐに、今 この瞬間にも それは起こる。
一瞬でさえ 必要ない。
でも それが瞬時に起こるのは、時間に対して、まったく くつろいでいる人間、無限に 待つことのできる人間にだけだ。


これは、一見 逆説的だが、真実だ。


3️⃣へ 続く

第六章 内なる導き 1️⃣

「いくつかの技法は、あまりに上級者向けのように思われますが」

最初の質問
「この百十二の瞑想法のうち、いくつかの技法は、技法というより最終結果ではないかと思えます。
たとえば、『宇宙意識となる』とか『それになる』とか。
こうした技法の場合、それを実践する予備段階として、別の技法が必要なのではありませんか。
この種の技法が対象としたのは上級者、つまり簡単な示唆で到達できるような人間だったのではないでしょうか」。



この種の技法が対象としたのは、上級者ではなく、きわめて無垢な人間だったーーー単純で、無垢で、信の深い人間だった。

そうした人間の場合、ただの示唆で充分だ。

あなたの場合は 信がない。
信頼することができない。
だから、何かをする必要がある。
何かをしないかぎり、何も 起こらない。

あなたにとっては、まず 行動が第一だ。
何もしていないときに 突然 何かが起こったりしたら、きっと恐くなるだろう。
とても信じられないだろう。
迂回してしまうかもしれない。
心に留めさえしない。


あなたの場合、何かをしないかぎり、自分に起こっていることがわからない。
これは エゴのせいだ。

無垢な人間、開放的な心の場合は、ただの示唆で充分だ。

そもそも 最奥の存在は、未来に 達成されるものではない。
それは 今ここにある。 すでにある。

達成されるべきことは、今この瞬間、 あなたの中に 現に存在している。


何の努力もなく 信頼できれば、それは 開かれる。
それは 時間の問題ではない。
頑張って 獲得するものではない。

決して、どこか遠くにあって、そこまで旅する 必要があるわけではない。
それは あなただ。
それを神と呼ぶ人も いるだろうし、ニルヴァーナと 呼ぶ人もいるだろう------名前は何であれ、“それ” は すでにあなただ。


2️⃣へ続く

タントラ秘法の書🔟「空の哲学」第四章

第四章ーーー第二の質問 2️⃣
(…誰かがブッダに、「あなたは誰ですか」と尋ねた。ブッダは笑った。そして、「それを言うのは 難しい」と言った。)


でも男は 言い張った。
「何か言えるはずです。
あなたは ちゃんと居るのですから。
何か言えるでしょう。
あなたは ちゃんと居るのですから。
何か意味あることが語れるでしょう。
あなたは ちゃんと居るのですから」

でもブッダは言った、
「何も言えない。私は居る。いや、そのように言うことさえ本当ではない」

すると男は 別の方向から尋ねた、
「あなたは 男ですか、女ですか」

ブッダは言った、
「それを言うのは難しい。
かつて私は 男だった。
そのとき、私の全存在は 女に引き付けられた。
私が 男だったときには、私の心は 女でいっぱいだった。
ところが、私の心から 女が消え失せたとき、それと同時に、私の男も 消え失せた。
もはや私には 何も言えない。
私には 自分が誰だか わからない。
定義するのは 難しい」


二元性が なくなると、何も定義できなくなる。
だから、「自分は賢くなった」と 感じるとしたら、まだ 愚かさが 残っている ということだ。
また、「自分は 至福に満たされた」と 考えるとしたら、まだ 当人が 苦悩の世界にいる ということだ。
また、「自分は すこぶる健康だ」と 感じるとしたら、まだ病気になる可能性がある ということだ。

つねに反対のものがつきまとう。
一方を持ち出せば、他方がついてくる。
だから どちらも捨て去ることだ。

それを 捨て去ることができるのは、両方が 出会ったときだ。


だから 宗教の 基本的な方程式は、いかにして 内側の対立物どうしを 出会わせ、それによって 両方が跡形もなく消え失せるようにするかだ。

対立物の消失とともに、あなたも消え失せる。

今のような あなたは、もはやいなくなる。

何か まったく新しく、未知のもの、想像もできないものが出現する。
それこそがブラフマン(梵)と 呼ばれるものだ ーーー神と 呼んでもいい。

ブッダニルヴァーナという用語を好んだ。
ニルヴァーナという単語は、在ったもの すべての止滅、あらゆる過去の 止滅を意味する。

この「新しいもの」は、過去の経験や知識によっては 定義できない。

この 新しいものは 定義不能だ。


無智と悟りも また二元性の一部だ。

私たちの目には、ブッダは 悟っているように見える。

でも、それは 私たちが 無智の中にいるからだ。

ブッダ自身にとっては どちらでもない。

彼にとって、二元性の立場から考えるのは 不可能だ。



タントラ秘法の書🔟「空の哲学」

講話 / OSHO
翻訳 / スワミ-アドヴァイト-パルヴァ (田中ぱるば)
発行 / 市民出版社

タントラ秘法の書🔟「空の哲学」第四章

第四章ーーー第二の質問 1️⃣

「お話によると、〈存在〉は 一個の全体であり、すべては関連し、物事は互いに溶け合っており、木は太陽なしに存在できないし、太陽は木なしに存在できない、ということです。
それに関してうかがいたいのですが、無智と悟りは、互いに関連しているのでしょうか」。


無智と悟りは 関連している。

そのふたつは 互いに対極にあたる。
悟りが存在できるのは、無智があるからこそだ。

無智が 世界から消失したら、悟りも同時に 消失する。
二元的な思考のせいで、私たちは つねに「対立物」という見地で考える。

無智と悟りは 互いに補い合っている。

真の意味で反対ではない。
補い合っている ということは、ともに 他方なしでは存在できないということだ。

だから 敵どうしではない。

誕生と死は 敵ではない。
誕生がなかったら、死は存在できない。
誕生は、死が存在するための 基礎を作る。

また誕生も 死がなかったら存在できない。
死が その基礎を作る。


誰かが死ぬときには、つねに誰かが生まれる。
死は、次の瞬間に 生となる。
生と死は 一見すると反対のものだ。

表面的には 互いに反対物として働くが、奥底では 友であり、互いに 助けあっている。


誕生と死についてなら、この事情を理解するのも簡単だ。
ところが 無智と悟りの場合、それを理解するのは難しい。

普通一般の考えでは、悟りを開けば無智は すっかり消え去る。
これが 悟りについての普通の立場だ。
つまり、無智はすっかり消え去る。
しかし それは違う。

むしろ その逆に、悟りを開くと、悟りと無智の どちらも消え去る。
一方が 存在すれば、他方も 必ず存在する。
一方は 他方なしに存在できない。

そのふたつは、ともに存在するか、ともに消え去るかの どちらかだ。
ひとつの両面だ。
コインの 一面だけを消し去り、他面を 残しておくわけにはいかない。


だから ブッダになると、無智と悟りの 両方が消え去る。
そして 意識が残る。

対極性は消え去り、純粋な存在が残る。
葛藤し、対立し、助け合う反対物は、ともに 消え去る。


ブッダは 何度となく質問される ーーー「悟った人間には 何が起こるか」と。

しかし、彼は それに対して黙するだけだ。
ブッダいわく、
「それを尋ねてはいけない。何と答えても、嘘になる。
たとえば、『悟った人間は静寂となる』と言えば、静寂の逆が存在することになる。
そうでなかったら、どうして静寂が 感じられるだろう。
また、『悟った人間は至福に満ちる』と言ったら、苦悩が その隣に 存在することになる。
苦悩がなかったら、どうして至福が感じられるだろう」。

ブッダは「何と答えても 嘘になる」と言う。

だから彼は、悟った人間の状態については、いつも 黙ったままだ。


私たちの言葉は 二元的だ。
たとえば、私たちは「光」という言葉を使うが、誰かに「それを定義せよ」と 言われたら、あなたは
いったいどう定義するか。
きっと 闇を持ち出すだろう。

そうしなければ 定義できない。
きっと「光とは 闇のないことだ」などと言うだろう。


世界で もっとも偉大な思想家のひとり、ヴォルテールは かつてよく言ったものだ、
「まず 用語を定義しなければ、意見の交換はできない」と。

でも それは不可能だ。
もし 光を定義したかったら、闇を持ち出すことになる。
ところが、闇とは何か と聞かれたら、今度は それを光によって定義するほかない。
ところが その光は 未定義だ。
定義は すべて循環的だ。

昔から、「心とは 何か」と 問われたら、「物質でないもの」というのが その定義だった。
そして「物質とは 何か」と 問われたら、その定義は「心ではないもの」だった。

その用語は どちらも未定義だ。
結局それは、自分に対する ごまかしだ ーーー未定義の言葉を使って、ほかの言葉を 定義しようとする。

言語は 循環的であり、対立するものが不可欠だ。


だから ブッダは言う、
「悟った人間が存在するとさえ、私は言わない」。

存在が可能なのは 非存在がそこにあるからだ。

だから彼は、
「悟った後、その人間は存在する」とすら言えなかった。
なぜなら、存在の定義には 非存在が必要だからだ。
それで 何も言えなくなる。

言語は すべて、対極性によって成り立つ。
だからこそ、ウパニシャッドの中では こう言われているのだ ーーー「『自分は悟っている』と言う人間がいたら、その人間は 悟っていない。
なぜ 自分が悟っている と感じられるのか。
きっと どこかに 無智が残っているのだ。
その対照があるからこそ、そう感じられるのだ」と。


たとえば、黒板の上に 白墨で 何かを書く。
黒板が 黒ければ黒いほど 書いたものは白くなる。

白板の上に、白墨で書くわけにはいかない。
書いても 読めない。

対照が 必要だ。

だからもし、自分が 悟ったと 感じられるようなら、そこに黒板がある ということだ。
だからこそ、そう感じられる。

もし本当に 黒板が消え去ったら、書いたものも、やはり 消えるはずだ。
それは 同時に起こる。

だから ブッダは、無智でもなければ、賢くもない。彼は ただ在る。

どちらか 一極に 彼を据えるわけにはいかない。
両極は ともに消え去っている。


両極が消え去るとは、いったい どういうことか。
両極は、出会うと 互いに打ち消しあい、消え去る。
あるいは、次のようにも言える ーーーブッダとは、もっとも無智が深く、そして もっとも悟った人間だと。

対極性は その極致に達し、そこに 出会いがあった------そして その出会いは 両方を無効にした。

マイナスとプラスが 一緒になった。
もはや マイナスもプラスもない。
両方は 互いを無効にした。

マイナスは プラスを無効とし、プラスは マイナスを無効とした。

どちらも消え去り、純粋な存在、無垢な存在が残る。

それは 賢いとも 言えなければ、無智だとも言えない。
あるいは、その両方とも言える。


悟りとは、非二元性へと 飛び込む地点だ と言える。
その地点の前には 二元性があり、そこでは すべては分かれている。


誰かがブッダに、「あなたは誰ですか」と 尋ねた。
ブッダは 笑った。
そして、
「それを言うのは 難しい」と言った。


2️⃣に 続く

タントラ秘法の書🔟「空の哲学」by OSHO

第三章 第二の技法 2️⃣
(…途方もない覚醒が現れる。それは想像もできないほどだ。)


もし闘ったら、きっと負けてしまう。
たとえ 負けなかったとしても、たとえ欲求を負かしたとしても、結局は 同じことだ。
何のエネルギーも残っていない。
勝っても負けても、挫折を感じるだけだ。

どちらにしても 結局は消耗する。
その欲求は、あなたのエネルギーを相手に闘い、あなたもまた その同じエネルギーを相手に闘う。

欲求のエネルギー源と、あなたのエネルギー源は 同じだ。
だから 結果がどうあれ、その源泉は 消耗する。

しかし、欲求が 始めのうちに消失し、何の葛藤もなければ------。
このことが基本だ。
何の闘いもなく、ただ見つめる。
また、その眼差しも 敵対的なものではいけない。

破壊しようという心や 敵意のない、全面的な眼差し------その 全面的な眼差しの強烈さによって、種子は焼かれる。

そして、その欲求、生じようとしていた欲求が、大空の中の煙のように消え去るとき、後には 途方もないエネルギーが残る。

そのエネルギーこそが 至福だ。
そこには、それ自身の美しさ、優美さがある。


自分の欲求と闘い続けている い わ ゆ る 聖者たちは、どれも醜い。
その「醜い」という意味は、まったく狭量だということ、闘っている ということだ。

その人間性には、何の優美さもない。
彼らは いつも消耗している。
エネルギーがない。
エネルギーが すっかり、内側の闘いに吸い取られている。

ブッダは まったく違う。
ブッダ人間性に現れる 優美さのもとは、消失した欲求にある ーーー 葛藤や 闘いや 内側の暴力なしに消失した欲求にある。


“自分の全意識をもって、欲求の冒頭「知ること」の冒頭において、知る。”


まさにそのとき、ただ知り、見つめる。
ほかのことはしない。
ほかには 何も必要ない。

唯一 必要なのは、あなたの 全存在が そこにあるということだ。

あなたが 全面的に そこにいるということだ。


これこそが、暴力なしに 究極の悟りに到達する 秘密のひとつだ。
また 決して、暴力によっては、神の王国に入れない。
その扉は、いくら叩きに叩いたところで、決して 開かない。
自分の頭は割れるかもしれないが、扉は 決して開かない。


もしあなたが 内側深くにいて、非暴力で何物とも闘わなければ、扉は つねに開かれている。

今まで 閉じていたことはない。

エス
「叩け、そうすれば扉は開かれる」と言うが、私に言わせれば、叩く 必要さえない ーーー「見よ、扉は開いている」。

扉は 今まで、つねに開いていた。

決して 閉じていたことはない。

ただ、深く、全面的な眼差しが必要なだけだ



タントラ秘法の書🔟 「空の哲学」

講話 / OSHO
翻訳 / スワミ-アドヴァイト-パルヴァ (田中ぱるば)
発行 / 市民出版社

タントラ秘法の書🔟「空の哲学」by OSHO

第三章 ーーー 第二の技法。 1️⃣
「欲求と闘わない」

“自分の全意識をもって、
欲求の冒頭、「知ること」の冒頭において、知る。”


この技法の基本点は、「全意識」だ。
全意識を ある対象に持っていけたら、それは 変容をもたらす力となる。

変容が起こるのは、何かの中に すべてを注ぎ込んだときだけだ。
その対象は 何でもいい。

これは 難しい。
どこにいても 私たちは、いつも部分的だ。
決して 全面的ではない。


あなたは、ここで私の話を 聴いている。
この「聴いていること」もまた変容となる。
もしあなたが 全面的に ここにいたら、まさに今 この瞬間にいたら、もしあなたの すべてが聴いていたら、その 聴いていることが瞑想となる。

そうしたら あなたはきっと、エクスタシーの別次元、別世界へと入っていくだろう。
ところが あなたは 全面的でない。

それこそが 人間のマインドにまつわる問題だ。
いつも 部分的だ ーーー 一部は聴いているが、ほかの部分は 別のところにあったりする。

眠っているかもしれないし、話の意味を 考えているかもしれない。
すると 分離が生じる。

分離は エネルギーを浪費させる。
だから 要は、何でもいいから 自分の全存在を挙げて行なうことだ。
何も 手控えることなく、ほんの一部の分離もなく、すべてをもって飛び込む。
自己の 全存在を挙げて その中に入れば、どんな行為でも瞑想的になる。


こんな話がある。
ある日、臨済が庭仕事をしていた。
臨済は 禅師だった。

すると男がひとり、近寄ってきた。
男は 哲学的な質問を抱いていた。
哲学的な 探求者だった。

男は 庭仕事をしている臨済に近寄っていった。
でも それが臨済だとは知らなかった。
庭師か使用人だと思っていた。

そこで、臨済はどこかと 尋ねた。
すると臨済は言った、
臨済は いつもここにいる」

男は思った、「この庭師は 頭がおかしいようだ『臨済はいつも ここにいる』とか言う。
この男には もう何も尋ねないほうがいい」。

そこで ほかの人間に尋ねようと思い、その場を去ろうとした。

すると臨済は言った、「行っちゃいかん。
臨済は どこにも見つからない。
いつも ここにいる」。
しかし男は この狂人から逃げだした。

その後 ほかの人間に尋ねると、最初に出会った人間が 臨済だとわかった。
そこで男は 戻ってきて言った、
「どうも失礼しました。
てっきり気違いかと思いました。
ところで、お聞きしたいことがあります。
真理とは何でしょうか。
どうしたら それを知ることができるでしょう」。

臨済は言った、
「何でも好きなことをすることだ。
ただし、自分の すべてをもってする」

何をするかは 重要ではない。
肝心なのは 自分のすべてをもってすることだ。

「たとえば」臨済は言った、
「この穴を掘るとき、私のすべては この掘るという行為の中にある。この私は、あますところなく、すべて、穴掘りの中に入っている。
もはや 掘り手さえも残っていない。掘ることだけがある。
掘り手が残っている ということは、自分が 分割されているということだ」


たとえば、私の話を聴いているとき、聞き手が残っていたら、あなたは まだ全体ではない。
しかし、ただ聴くことだけがあり、聴き手が残っていなかったら、あなたは 全体であり、今ここにいる。
そして 今この瞬間が瞑想となる。


シヴァは スートラの中で言う、

“自分の全意識をもって、欲求の冒頭、「知ること」の冒頭において、知る。”


欲求が自分の内部に生じたとき、タントラは「それと闘え」とは 言わない。
それは 不毛だ。

誰も 欲求とは闘えない。
それはまた愚かでもある。
内側のものと闘うのは、自分自身と闘うことだ。
そうしたら 精神分裂になる ーーー 人間性が分裂してしまう。

いわゆる宗教は みな、人間を少しずつ 精神分裂に追いやる。
誰もが分裂し、そして自分自身と闘っている。
それも いわゆる宗教が、
「これこれは悪い。してはいけない」と言うせいだ。
だとしたら、その悪い欲求が生じたら どうするか。
それと闘い続けるほかなくなる。


「欲求と闘うな」と タントラは言う。
べつにそれは、欲求の犠牲になれ ということではない。
また、欲求に耽溺しろということでもない。

タントラは 非常に微妙な技法を与える。
欲求が生じつつあるときに、自己のすべてをもって 覚醒し、自己のすべてをもって それを見つめる。

「見ること」になる「見る者」を 残しておかない。
自分の 全意識を、この生じつつある欲求へと持ってくる。

これは じつに微妙な技法だ。
でも すばらしい。
この効果は 奇跡的だ。


理解すべきことが 三つある。

ひとつ。
欲求が すでに生じてしまったら、もう何もできない。
そうしたら 欲求は最後まで行く ーーー その円環が完了するまで 進んでいく。
あなたには どうしようもない。

何かができるのは、始めのときだけだ。
すると、種子は その場で焼かれる。
ところが、いったん発芽し、木が成長し始めたら 難しくなる------何かしようとしても、ほとんど不可能だ。
何をしようとも、エネルギーを浪費するばかりで、あなたは ますます苦悩し、苛立ち、消耗していく。


欲求が 生じるとき、その冒頭、その最初の一瞥、その最初の閃きの時点で、自分の全意識を挙げ、存在の すべてを挙げて、その欲求を見る。
何もしない。
ほかには何もいらない。

ただ全存在をもって 火のように見つめれば、その種子は燃える ーーー 何の葛藤も、何の闘いも、何の争いもなく、存在全体をもって 深く見つめれば、今まさに 現れようとしている欲求は、すっかり消え去る。

何の闘いもなく 欲求が消え去ると、そこに 大きな力がみなぎってくる。
巨大なエネルギーと、途方もない覚醒が現れる。
それは 想像もできないほどだ。


2️⃣へ つづく