…「自己知・・・」友人のFB 記事---探求者 必読🎶

(OSHO 講話/抜粋…)

彼は知るかも知れない。
しかし
あなたが何かを知るのは、
あなたと分かたれているからだ。

覚えておくべき
ひとつのことがある。
これによって、
自己知(self-knowledge)は不可能だ。
あなたは
自己を知ることができない。

何故なら
いつであれ
あなたがそれを知るとき、
それは自己ではない。
それは何か別のものだ。
何かがあなたから分かれている。

自己というのは
いつも知る者だ。
知られる者ではない。
そしてどのように知ることができる?
あなたはそれを
ひとつの対象物に縮小できない。

私はあなたを見ることができる。
どのようにして
私は私自身を
見ることができるだろうか?

そのときには、
見る人とは誰で、
見られる者は誰だろう?

いいや、
自己は
他のものを知るのと同じように
知ることはできない。

自己知は
普通のセンスでは不可能だ。
知る者はいつも超越する。
いつも越えていく。
なんであれ、
それは知るが、
それはそうではない。

ウパニシャッド
ネティネティという。
これではない、あれではない。
なんであれ、あなたが知る。
あなたはこれではない。
なんであれあなたは知らない。
あなたはそれでもない。

あなたは知るひとであって、
この知る人は
知られるべき対象に縮小されない。

自己知は不可能だ。
もしあなたの無邪気さが、
あなたの内なる根源から来ていたら、
あなたはそれを知ることができない。

もしあなたが外側から
それを押しつけたものなら、
あなたはそれを知ることができる。

それが着こなせるようなものなら、
あなたは知ることができる。

しかし、
それはあなたの
生のまさに呼吸ではない。
その無邪気さは培われたものだ、
培われた無邪気さは醜いものだ。

タオの人は
彼自身が親切で優しいと知らない。

彼は優しい。
しかし彼は知らない。
彼は親切だ。
しかし彼は知らない。
彼は愛だ。
しかし彼は知らない。

何故なら、
恋人と知る者はふたつではない。

優しさ、親切さ、慈悲、知る者は
ふたつではない。
いいや、
彼らは分かたれていない。
知る者と知られるものに。

これは内なる貴族性だ。
あなたが裕福であっても
それに気づいていない。
あなたが
そのような裕福な者であれば、
見せびらかす必要はない。


Osho - The Empty Boat

…「Intuition」はしごの三本の横木 ② OSHO

P. 32~
(…人間の生の90パーセントは まだ動物の世界だ。我々は本能によって生きている。)

 あなたは 女性と恋に落ちる、あるいは ある女性が あなたと恋に落ちる、そして、あなたは それは何か偉大なことだと考える。

それは何も偉大なことではない、それは単に 本能的な のぼせあがりにすぎない。
それはホルモンが 反対のホルモンに引き寄せられているだけなのだ。

あなた方は 自然の手の中の遊び道具に他ならない。
どんな動物も 愛の精妙さや 愛の不思議な魅力などにかまっちゃいない、しかし、人間は ただ本能的であるということは侮辱的で、屈辱だと感じるのだ。
あなたの愛が 単なる生化学の反応だって?
あなたの愛は詩だ、あなたの愛は芸術だ、あなたの愛は哲学だーーそれが生化学にすぎないのだと?
あなたは あなたの生態、あなたの化学、あなたの自然を 恥じているようにみえる。

 しかし、これは理解するというやり方ではない。
あなたは 何が何なのかを 正確に理解しなければならない。
区別は明確でなければならない、さもなければ、あなたは いつも混乱したままにとどまるだろう。

あなたのエゴは 一番低い層にあるものでさえ、できるだけ高いものに投影し続けようとするだろう。

 あなたの愛は 単にあなたの化学がつくりあげた幻想にちがいないのだ。
考えてもみなさい、もし、ロマンチックな愛という考えを取り払ったとしたら、どんな男も女も セックスとその馬鹿さ加減に耐えることなんかできないだろう。
それは まったく馬鹿げて見えるだろう。

ロマンチックな考え方を取り去って、生物と化学の素直な言葉で考えてみなさい、そうすれば、あなたは自分のセックスが恥ずかしいことだろう。
そこには自慢できるようなものは何もない。

あなたが 何のロマンスもなく、何の詩もなく、オマル・ハイヤーム(ペルシャの詩人)もなく、シェリー(英国の叙情詩人)もなく、バイロンもなく、男性と あるいは女性とセックスをしているところを想像してごらんーー 単なる 再生産のプロセスとして。
なぜならば、自然は あなたを通して生殖し子孫を残したい、自然は あなたが やがて死んでしまうと知っているからだ。
あなたは永遠ではない。だからあなたが死ぬ前に、自然は生を継続させたい。
しかし、人間は 何かセックスにロマンチックなところがないと、セックスすることができない。
そこで人間は セックスの周りに偉大な煙幕を創造した、人は それを愛と呼ぶ。
人は そのふりをし、それが愛であると信じさえするーーしかし、もっと注意深く 観察してみなさい。

 あなたは 男性や女性に興味を持っている。
女性の自然の本能は かくれんぼをすることだ。

世界中の すべての文化の中に、小さな子供たちが 必ず行う二つの遊びがあるのは不思議だ。
彼らの宗教は違う、彼らの文化も違う、彼らの人種も違う、彼らの社会も、彼らの言語も違うーーすべて違っているーーしかし、この二つのゲームに関しては、彼らがアフリカに生まれようと、中国、アメリカ、インドに生まれようと、違いがない。

 その一つのゲームが かくれんぼだ。
世界中の文化の中で、子供たちが かくれんぼで遊んだことがない文化はない、ということは不思議である。

それは 何か本能に関係しているように思われる、まるで、もっと大がかりな かくれんぼのために準備しているかのようだ。
子供のかくれんぼは リハーサルにすぎない、彼らは一生、そのゲームを やり続けるのだ。

 女性は いつも隠れようとする、そして男は たくましくて探す方だ。
男が探すのは 一種の挑戦だ、女が 隠れれば隠れるほど、男は もっと元気を出して興奮する。

 しかし、世界中で すべての子供たちが かくれんぼのゲームをしている。


Pp. 32-34
「Intuition」OSHO

訳者/山川紘矢+山川亜希子

発行/株式会社KADOKAWA

…「Intuition」はしごの三本の横木 ① OSHO

P. 30~

  はしごの 三本の横木

 直観は はしごの一番高い横木で、それは 意識のはしごだ。

意識のはしごは 三つの部分に分かれている。
最も下にある第一段が 本能だ、第二段目、真ん中が 知性、そして三番目、最も高い段が 直観だ。

 本能は instinct. 知性は intellect. 直観が intuition で、これら三つの言葉には すべて in が使われている。
それは重要なことだ。
それは これらは生まれながら (inborn) の資質だということを意味している。
あなたは これらを学ぶことはできない。
外部の助けを借りて発達させる方法はない。

 本能は 動物の世界だーーすべてが本能だ。
時には 他のものではないか という指標が見つかるが、それは あなたが投影したものだ。

たとえば、あなたは 動物に愛を見ることができるがーー母親が 子供を愛情深く、面倒を見ている様子からーーあなたは これは本能ではなく、もっと高いものだ、生物的なものではないと思うことができる。
しかし、それは より高いものではなく、単に生物的なものにすぎない。

母親は 自然の手の中で ロボットのようにそうしているだけなのだ。
彼女は どうしようもないのだーー彼女は そうせざるを得ないのだ。

 多くの動物においては 父親は本能的な父親らしさをもっていない。
反対に 多くの父親は 自分の子供を殺して食べてしまう。
たとえば、ワニの場合は 子供の命は非常に危険にさらされている。
母親は保護的で、子供の命を守るために 闘う、しかし父親は おいしい朝食にありつこうとする!

父親父親らしくふるまおうという本能が全然ない。
事実、父親というのは 人間的な慣行なのだ。
ワニの母親は 子供を父親から守るために 自分の口の中に隠さなければならない。
彼女には 大きな口があるーー女性は みんな大口、おしゃべりだーー彼女は ほとんど1ダースの子供を 口の中に隠すことができる。
母親の 口の中で、あの危険な歯のそばで、子供たちは完全に安全だ。

子供たちにとってもっとむずかしいことは、どっちが母親で、どっち父親か見分けることだ、なぜならば、両者はとても似ているからだ。
そのため、子供たちは、時々 父親に近寄ってしまい、彼の 口の中に隠れようとする。
それで 永遠にお陀仏だ。
彼らは 二度とオテントウ様を見ることはない。

 しかし、母親は闘って子供を守ろうとする。
おそらく、自然が ワニに あんなにも沢山の子供を授けたのは そのためだろう。
母親は 1回に12匹も育てる、それも毎年のことだ。
もし、彼女が そのうちの2匹をなんとか守ることができれば、ワニの人口は同じ数を保つことができる、しかし、彼女は 子供のほとんど半数を守り抜くのだ。

 これを見ている誰もが、父親は なんと残酷なんだ、何の憐れみもなく、何の愛も ないではないか、それに引き換え、母親は なんと母親らしい行動をするのだろう、と感じるだろう。

しかし、あなたは あなたの考えを 投影しているだけなのだ。
母親が守っているのは 意識的な理由があってのことではない。
彼女の ホルモンが守っているのだ。
父親には これらのホルモンがない。
もし、彼に ホルモンが注射されたら、彼は 自分の子供を殺しはしないだろう。

だから、これは化学の問題だ、心理的なものではない。

生化学以上の何物でもない。


 人間の 生の90パーセントは まだ動物の世界だ。
我々は 本能によって生きている。


Pp. 30-32
「Intuition」OSHO

訳者/山川紘矢+山川亜希子

発行/株式会社KADOKAWA

…「Intuition」OSHO ⑤

P. 28~
(…あなたの本能的な生を罪の意識を感じないで、完全に喜びをもって受け入れれば、それは直観のドアを開くのを助けてくれるだろうーーなぜならそれは違うものではなく、活動のレベルが違うだけだからだ。)

そして、本能が何の音も発せず、美しく、静かに機能するように、直観も同じように働くーーそして、もっと静かに、もっと ずっと美しく。

 知性は 妨害者だ。
しかし、それを妨害者とするか、それを踏み石として利用するかは 我々次第だ。
あなたが 通りで石に出会ったら、あなたは それを邪魔ものにするか、より高い面に上がる 踏み石に使うかだ。

本当に理解しているものは 知恵を踏み石として使う。
しかし、大衆は「あなたの知性を 本能を抑える力として使え」という宗教の教えにコントロールされている。
人々は 本能と闘い、直観についてのすべてを忘れる。
彼らの全エネルギーを 自分自身の生命力と闘うために費やすのだ。
そして、あなたが いつもあなたの本能と闘い続けていると・・・・・・。


 ジャイナ教の僧侶は 一年中、裸でいるべきだとされている。
冬であってもだ、寒い夜であってもだ。
彼は マットレスも使えない、彼は 毛布も使えない、彼は 身体を覆うものを何も使ってはいけないのだ。
昼も夜もだ。
彼は 断食をしなければならない。

彼が 断食を 長くすればするほど、同じように条件づけられた人々の目には より偉大な聖人に見えるのだーー 30日間、40日間・・・・・・
これは身体との闘いだ。
これは 身体と物質を征服することだ、これは身体を征服するスピリットだ。
すべての宗教が、ちがう迷信によって 同じような状況に陥っている。
彼らは あなたの知的なエネルギーを本能と闘わせ、あなたの直観が花を咲かせるすべての可能性を だめにしているのだ。

 直観は神秘のバラであり、それはあなたを究極の喜び、そして不死の生命に導いてくれる。
しかし、人々は 死んだ過去の手に 完全に掌握されているようにみえる。
古い文献が何を語ろうと 彼らはそれをやり続けている。
人間の科学全体を 考えもしない。


 これらの三つが 人間の科学全体の層をなしている。
本能は リラックスした流れに乗せるべきだ。

どんな理由であれ、知性は その邪魔をしてはならない。
そして、
知性は 直観を開くために使われなくてはならない。

知性は 人生のかじ取りを 本能に任さなければならない。

そうすれば、あなたの生は 図り知れない光に満ち、輝かしい人生になるだろう。
人生がいつもお祭りのようになる。

Pp. 28-30

「Intuition」OSHO

訳者/山川紘矢+山川亜希子

発行/株式会社KADOKAWA

…「Intuition」OSHO ④

P. 26~
(…知性は、知性を超えたところには何もないと考える人にとっては障害物となりうる。
知性は、知性を超えたところに何かが存在すると理解する者にとっては美しい通路となりうる。)


 科学は 知性にとどまっているーーそのために科学は 意識に関しては理解することはできない。
直観が目覚めていない知性は 世界で最も危険なものの一つだ。
そして、私たちは 知性の危険性のもとに生きている、なぜならば、知性は科学に途方もない力を与えているからだ。

しかし、その力は 子供たちの手の中にある、賢い人々の手の中ではない。

 直観は人間を賢くするーーそれを悟りとよぼう、それを覚醒とよぼう、これらは知恵の違う呼び方にすぎない。
知恵者の手によってのみ、知性は美しい召使として使うことができる。

 そして、本能と直観は完全にいっしょに よく機能することができるーー 一つは 肉体的なレベルで、もう一つは スピリチュアルなレベルでだ。
人間の起こしているすべての問題は その中間で行き詰まっている。
マインドの中、知性の中でだ。
そこでは、あなたは みじめであり、心配があり、苦悩があり、無意味さがあり、解決がどこにも見えない緊張のすべてがある。

 知性は すべてを問題にし、解決法を全く知らない。

本能は 問題を作らない、だから解決法も必要としない。
それは ただ自然に機能する。

直観は 答えそのものだ。
それは 何の問題もない。

知性は 問題だけだ。
それには答えがない。

 もしあなたが 正しく違いを見ることができれば、理解することは易しい、すなわち、あなたの 本能が働かなければ、あなたは 死ぬだろう。
そして、直観が働かなければ、あなたの生には意味がないーー あなたは ただ だらだらと生きているだけだ。
それは 一種の植物人間だ。

 直観は 意味、輝き、喜び、祝福をもたらす。
直観は 存在の秘密、途方もない静寂、落ち着きをもたらす。

それは 誰からも邪魔されることがなく、だれからも奪われることはない。

 本能と直観が一緒に働くと、あなたは 知性も正しい目的のために利用することができる。
さもなければ、あなたは 手段はわかっても結果がでない。
知性は結果を考えつかないのだ。
このことが 今の世界情勢を引き起こしているのだーー科学は ものをどんどん作り出しているが、なぜそうしているのかを知らない。

政治家たちは これらのものを、それが破壊的であることを知らないで、使い続けている。
だから彼らは 地球の自殺を用意しているようなものだ。
世界は 知性を超えて、直観の静寂さに導いてゆくことのできる 途方もない反逆を必要としているのだ。

「直観」という言葉そのものが理解されなくてはならない。

あなたは tuition (指導)という言葉を知っているだろうーー指導は 外側からやってくる 誰かがあなたに教えるのだ。
個人的な教師だ。

しかし、直観はあなたの 存在から起こる何かを意味している。
つまり、それは あなたの潜在的な力だ、だからそれは intuition と呼ばれている。
知恵は 借りるものではない。
借り物は 知恵にならない。
もし、あなたが 自分の知恵を持たなかったら、あなた自身のヴィジョン、あなた自身の明晰さ、あなた自身の 見る目を持たなかったなら、あなたは 存在の神秘を 理解することはできないだろう。

 私に関する限り、私は全くの直観信奉者だ。
私をそうさせてほしい。

 どの宗教も、あなたの直観を邪魔するようにと教えてきたーー断食は あなたの本能の邪魔をしているだけではないかね?
あなたの身体は 腹が減っている、そして食べ物を求めている、それなのに あなたはスピリチュアルな理由から腹ペコでいる。
あなたの存在は 変な霊性に とりつかれてきている。
スピリチュアリティではない、それは単に バカ(stupidity)にすぎない。

あなたの本能が水を求めている、のどが渇いているのだよ、あなたの身体が それを必要としているのだ。
しかし、あなたの宗教は・・・ジャイナ教は 夜には水を飲んではいけないと誰にも水を飲むことを許さない。
身体に関する限り、インドのような暑い国では特に夏は身体が渇きを覚えるーーそして、面白いことに、ジャイナ教は インドだけにある。
私の子供時代、私は夜、水を盗み飲まなければならなくて、罪悪感を覚えたものだ。
私は 暑い夜には少なくとも1回は 水を飲まなければ眠ることができなかった。
しかし、私は 自分がしてはいけないことをしている、自分は罪を犯していると感じたものだった。
奇妙で馬鹿げた考えが 人々に押し付けられているのだ。

私は 本能の味方だ。
そして、これはあなた方に明かしたい秘密の一つだ。

もしあなたが 本能に 全面的に賛成であれば、直観への道を 見つけることは易しいだろう。

それらは 違うレベルで機能しているけれど、両方とも同じものだからだーー 一つは物質的レベルで、もう一つは スピリチュアルなレベルで機能する。

あなたの本能的な生を 罪の意識を感じないで、完全に喜びをもって受け入れれば、それは 直観のドアを開くのを助けてくれるだろうーーなぜなら それは違うものではなく、活動のレベルが違うだけだからだ。


Pp. 26-28

「Intuition」OSHO

訳者/山川紘矢+山川亜希子

発行/株式会社KADOKAWA
 

…友人の FB 投稿記事です---

(OSHO 講話の抜粋)

あなたは
自分がどこにいるのか
言うことができない....
「場所」そのものが
消え失せている
その空間を
正確には指し示せない。
あなたは
どこにもいないか、
あるいは
至るところにいるか、
ありうるのは
このいずれかだ。
どちらも同じことを
意味している。

「人は至るところにいる」
と言うことを選んだ
小数の者たちがいる....
ヴェーダーンタ学派は
「深い瞑想のなかで
 人は至るところにいる....
 アハム・ブラフマースミ、我は神なり」
と言うことを選んだ。

「神」とは、
至るところにいる者、
全存在にゆきわたっている者
という意味だ。
あなたは空間そのものになる。
「私はつねに在った、
 永遠に在る」とは、
あなたが時間のなかに
遍満しているという意味だ。
これがそれを表現する
ひとつの方法、
肯定的な方法だ。

仏教は別の方法、
否定的な表現を選んだ。
仏陀はこう言う.....
深い瞑想のなかでは、
あなたは
どこにも存在していない。
空間はすべて消えている。
そして時間も存在せず、
あなたは時間のない状態にある。
時間も空間もないとしたら、
あなたはどうして
存在できるだろう?

人間は時間と空間が
交わる地点においてのみ存在する。
時間の線と空間の線が交わると、
その交点に自我(エゴ)が立ち現れる。
この二つの線を取り去れば、
自我という点は消えてしまう。
それは二本の線の交差にすぎない。
それは誤った観念だった。

だから仏陀
「誰も存在していない」と言う。
深い瞑想のなかでは、
時間が消え、
空間が消え、
そしてあなたが消える。
いっさいのものが消え失せ、
そこには<無>、
シューニヤ、ゼロのみがある。
これは同じことを
否定的な仕方で語ったものだ。

肯定的な表現を選ぶなら、
「私は神だ」と言うこともできる....
それにはそれなりの危険があり、
また独自の美しさもある。
あるいは否定的な表現、
アナッタ、無我、<無>、
涅槃(ニルヴァーナ)を
選ぶこともできる。
これにも独自の美しさがあり、
またそれなりの危険もある。
<無>というまさにその観念が
人々の意欲をそいでしまう
危ないのはそこだ。
<無>でありたいと誰が望むだろう?
四十年にわたる伝道生活において、
仏陀は何度も何度も尋ねられた。
「なぜ人は<無>であろうと
 しなければならないのですか?
 それは死、
 究極の死ではないですか?」

すると仏陀は言う。
「その通りだ。
 それは究極の死だ。
 だが、それは美しいものだ」

質問者が尋ねる
「ですが、
 それは誰にとって
 美しいのですか?
 だって
 誰もいないはずでしょう?」

すると仏陀は言う。
「ただ美しさだけが、
 至上の幸福だけがあって、
 それを体験する者はいない」

人間のマインドが
こう言うのも無理はない。
「でも、
 自分がそこにいないのなら、
 何もならないじゃないか....。
 それが
 とても美しいというのは
 すばらしいけど、
 自分がいなければ、
 美しかろうとなかろうと
 何の違いもないじゃないか。
 どうして
 自分を無くさなければ
 ならないのだろう?
 大して美しくはないけれど、
 少なくとも
 この私が存在している
 世間にいるほうが
 まだましだ」

<無>という終着地は
人々の意欲をそいでしまう。
仏教がインドから
姿を消したのは
そのためだ。
彼らは教訓を学んだ。
それは中国では
否定的な言語を落とした、
チベットでは
否定的な言語を落とした。
インドの仏教
原始仏教は完全に否定的だった。
仏陀の感化を受けて
何千もの人々が
変容を遂げたのだが、
仏陀のような人を
つねに見いだすということは
できない。

仏陀の影響力は
あまりにも大きかったので、
人々は死んで<無>になる
用意さえできていた。
それは仏陀ゆえに
起こったことだ。
さもなければ
<無>であることには
何の魅力も、
人を誘う力もない。
が、
仏陀の磁力が
あまりにも強かったので、
仏陀のカリスマが
あまりにも強かったので、
何千もの人々が
みずから進んで
<無>になろうとした。
仏陀がそうおっしゃるのなら、
 それは正しいにちがいない」
と。
仏陀の言葉には
それほどの重みがあり、
その目がすべてを実証していた。
「彼が消えてしまったのなら、
 私たちも消えてしまおうではないか。
 仏陀がそうおっしゃるなら、
 信頼してもいい」

だが、
ひとたび仏陀
この世から姿を消すと、
仏教の僧侶たちは
人々を説得することが
できなくなった。
彼らはインドから
完全に姿を消さねばならなかった。
彼らはそこで教訓を学んだ。
インドの外で、
仏教は肯定的な言語を
使いはじめた。
仏陀が否定したすべてのことを
使いはじめた。
それは生き延びた。
だが、
仏教として
本当に生き延びたのではなく、
ヴェーダーンタ学派として生き延びた。
肯定的な言語として生き延びた。
だが、
仏陀の最大の貢献は
否定的な表現にあった。

否定的な表現の美しさは、
人のエゴを少しも満足させたり、
少しも喜ばせたり
しないことにある。
肯定的な言語の危うさは
そこにある。
アハム・ブラフマースミ....
「我は神なり」、
アナル・ハック....
「我は真理なり」
と言うときに危険なのは、
真理が二義的なものになり、
その「我」が
一義的なものになって
しまいかねないということだ。
真理はあなたの影になって
しまうかもしれない。
力点が
「私」という言葉に集まり、
「私こそが神だ」と
なってしまうかもしれない。
神に力点が置かれ、
「私」が神に対する
たんなる影であり続けるならば、
何も問題はない。
だが、
それはひじょうにむずかしい。

その「私」はじつにずる賢い。
エゴの手口はじつに巧妙だ。
それは機会をとらえ、
その観念に飛びついて、こう言う。
「その通り、
 私が神であり、
 他の者たちはそうではない。
 私が真実であり、
 他の者たちはみな偽物だ」
だが、
そうなったら
肝心な点が
そっくり見逃されてしまう。
いずれにせよ
ひとつだけ確かなのは、
時間と空間が
消えてしまうということだ。


Osho - The Secret Of The Secrets

…「Intuition」OSHO ③

P. 20~
(…私は何かに反対しているわけではない。私は不調和に反対しているだけだ、あなたの頭が最大の不調和を作り出しているので、私はあなたの頭を ちゃんと正しい場所に持ってゆきたいのだ。
頭は 召使だ、御主人さまではない。
頭は 召使として、偉大であり、役に立つ。)


  過去、現在、そして 未来

 あなたには過去があり、現在があり、未来がある。
本能は あなたの動物的な過去に属する。
それは とても古く、確固たるもので、何百万年も受け継がれてきたものだ。
私がそれを 動物のようなものと言っても、それを 非難しているわけではない、動物という言葉は 宗教の聖職者が使えば、何らかの非難を連想させるーーしかし 私は ただ事実をのべているだけだ、非難は 一切していない。

我々の過去は 動物的な過去だった。
我々は すべての種類の動物を経過してきたのだ。
それは 人間にたどり着くまでの長い、長い旅路だった。

 知性が人間だ。それが我々の現在だ。
我々は 知性を通して機能しているということだ。
科学のすべて、ビジネスのすべて、職業のすべて、世間で機能しているもの すべてーー政治、宗教、哲学ーーそれらは すべて知性に基づいている。
知性こそが人間なのだ。

 本能は 的から外れることはない、なぜならば、それは非常に古く、非常に成熟し、完全に発達しているからだ。

あなたの目は 瞬きしているーーあなたは それを意識してそうしているかね?
それらは ひとりでにそうしているーーこれが 本能だ。

あなたの心臓は 鼓動している、あなたの息は 吸ったり、吐いたりし続けている。
つまり、これらの 生の基本的な作動の すべての面倒を見ているのは あなたの知性ではない。
それらは 本能の手の内にある。
なぜならば、本能は 絶対的に確実だからだ。
それは 息をするのを忘れたり、どんなことでも忘れたりということがない。

 知性は 誤りをおかしやすい、なぜならば、それは新しいからだ。
最近 到着したものだからだ。

 それは 暗闇で手探りをしているようなものだ。
今でも それが何者であり、どこに帰属しているかを探している。
そして、それは経験に基づいていないために、その経験を 信念、哲学、イデオロギーで 代用している。
それらが知性の 興味の中心になっている。
しかし、それらはすべて 誤りを犯しやすい。
なぜならば、それらは すべて人間の作であり、だれか頭の良い人間によって 作り上げられたものだからだ。
そのため、それらは どんな状況においても確実というわけではない。
それらは ある状況においては 正しいかもしれないが、他の状況においては、正しくないかもしれない。

しかし、知性は盲目だ。
それは新しいものに どう対処していいかわからない。
それはいつも 新しい質問に対して 古い答えを持ってくる。

 < 略 >

 知性は 偏見に囚われている、つまり公正ではない。
その性質そのものによって、公正ではありえないのだ。
なぜならば、それは経験がないからだ。
本能は いつも公正だ。
そして、あなたに 自然体そのものを見せてくれる、リラックスしたやり方だ、それに宇宙が従う。
しかし、おかしなことに、本能は すべての宗教から非難されてきた。
そして知性が 賞賛されてきたのだ。

 もちろん、もし誰もが 本能に従って生きているなら、宗教も必要なければ、神も必要ではない、聖職者も必要ではない。

動物は 神を必要としない、それでいても、彼らは 完全に幸せだーー彼らが 神を欲しがっているとは思えない。
どんな動物の1匹たりとも、、どんな鳥の1羽たりとも、どんな木の1本たりとも、神がいなくて さみしいというものはいない。

彼らはみんな 生の完全な美しさと純真さを楽しんでおり、そこに地獄が怖いとか、どうしても天国に行きたいなんていう欲張りな考えはない。
また哲学的な考えの違いはない。
カトリック信者のライオンもいなければ、プロテスタントヒンズー教徒のライオンもいない。

 存在全体が 人間や、人類に起こっていることを 笑っているに違いない。
もし、鳥たちが 宗教や教会やモスクや神社なしに暮らせるのなら、どうして人間は そうできないのだろう?
鳥たちが 宗教戦争をしたなんてことは聞いたこともない、動物や木だって同じだ。
しかしながら、あなたがイスラム教徒で、私がヒンズー教徒だったとしたら、私たちは 共存することができないーーあなたが 私の宗教に改宗するか、さもなくば、覚悟するがいい、お前を たちどころに天国に送り込むから!

 もし、本能が賞賛されていたら、これらの宗教は 理論的根拠を失ってしまう、存在理由が なくなる、だから彼らは知性を尊ぶのだ。

 そして、第三のものは、それはあなたの 未来であるが、直観だ。
だから これらの三つの言葉を理解されなくてはならない。

 本能は 身体的なものーー何百万年の経験に基づいた あなたの過去であり、信頼できるもの、決してミスを犯すことがなく、あなたが気づいていない奇跡をおこなっているものだ。
あなたの食べた食物は どのようにして血液になるのだろうか?
あなたはどうして眠っている間も、呼吸し続けていられるのだろうか?
あなたの身体の中でどうやって、酸素が窒素から分離するのだろうか?
あなたの 本能の世界では あなたの身体のすべての器官に どうやって必要なものを届け続けるのだろうか?
あなたのマインドが働く為に、あなたの頭脳は どれだけの酸素を必要とするのだろうか?

ちょうど正しい量の血液が あなたの身体中を流れ、新鮮な酸素を それぞれに分配し、古くなって死んだ細胞を取り込んで、新しい細胞と取り換える、そして、古い細胞を それを処分してくれる場所へと運んでいるのだ。

 科学者も言っている、本能が 人間にしてくれていることを 私たちはすることができないと。
小さな身体の中で、本能は 本当に沢山のことをしてくれているのだ。

もし、将来、科学が一人の人間の身体を生かすための仕事をしようと思うならば、たった一人の人間のために 少なくとも1マイル四方の大きさの工場を必要とするだろう。
とんでもない大きさの機械だ!
それでも、まだ絶対だとはいえない。
機械は 壊れる可能性がある。
止まってしまうかもしれない、停電だって起こりうる。
しかし、本能は70年間ものあいだ、場合によっては長生きする少数の人間のためには100年間、絶え間なく完璧にうまく働き続けてくれるのだ。
電気が切れる ということもない。
一つの間違いも犯さない。
すべては 計画通りだ。
その計画は あなたの すべての細胞の中に備わっているのだ。

人間の 細胞の中の暗号が読めるようになる いつの日にか、我々は 子供が生まれる前から、彼の 一生のすべてを予言できるようになるだろう。
その子供が 母親の子宮で 育つ前であってもだ。

両親の細胞は プログラムを持っている。
そのプログラムの中に あなたの生きる年齢、あなたの健康、あなたが どんな病気になるか、あなたの天分、あなたの知力、あなたの才能、あなたの すべての運命が含まれている。

 本能と同じように、あなたの存在の もう一方の極が 直観の世界だーーそれは 知性の世界でもあるマインドを超えたものだ。

 直観は 瞑想によってそのドアが開く。
瞑想は ただ、直観のドアを ノックするだけだ。

直観の方もまた 完全に用意が整っている。
それは 成長するたぐいのものではない。
あなたはそれを 存在からすでに受け継いでいるのだ。
直観は あなたの意識であり、あなたの存在である。

 知性は あなたのマインドだ。
本能は あなたの身体だ。
そして、本能が身体のために 完璧に働くように、直観は あなたの意識にとって完璧に働く。

知性は これらの二つの中間にあるーー通り道であり、わたるべき橋だ。
しかし、多くの人、何百万人という人たちは この橋を決して越えることはない。
彼らは ただ、橋の上に座り、自分は自分の家に 帰り着いたと思っている。

 自分の家は もっと遠くの岸にある、橋の 向こう岸だ。

その橋は 本能と直観を つないでいる。
しかし、すべては あなた次第なのだ。
あなたは 家を橋の上に建て始めるかもしれないーーその時、あなたは 道に迷っている。

 知性は あなたの家にはなりえない。
それは小さな道具にすぎず、本能から直観に行くために 使われるものだ。

知性を 橋を越えてゆくために使う人のみが 聡明な人と呼ばれる。

 直観は 存在にかかわる。
本能は 自然なものだ。
知性は 暗闇で模索しているだけだ。

知性を超えるのが 早ければ早いほどいいことだ。
つまり、知性は、知性を超えたところには何もない と考える人にとっては 障害物となりうる。

知性は、知性を超えたところに 何かが存在する と理解する者にとっては 美しい通路となりうる。

PP. 20ー26

「Intuition 直観」OSHO

訳者/山川紘矢+山川亜希子

発行/株式会社KADOKAWA