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(講話の抜粋です---)


質問:
スピリチュアル(精神霊的)な
探究者であるとは
どういうことですか?


まず第一に、
それは二つのことを意味する。
ひとつは、
外面的に知られている生は
満足を与えるものではない、
外面的に知られている生は
無意味だということだ。

この生全体が
無意味なものにすぎないという
事実に気づく瞬間、
探求が始まる。

これは消極的な側面だ。

だが、
この消極的な側面がそこにない限り、
積極的な側面は後に続かない。

精神霊的な探究とは、
まず第一に否定的な感覚、
今ある生は無意味だという感覚をいう。


この生のプロセス全体が
死で終わりをつげる。

塵また塵・・
手のなかには結局何も残らない。

あなたは、苦しみ悶え、
地獄の思いで生を通り抜けるが、
結局何も成し遂げられずに終わる。
これは精神霊的探究の消極的な側面だ。

生全体が、
あなたがこれに向かうのを助けてくれる。

この側面・・
この否定性、
この欲求不満、
この苦悶・・は、
世間が行うことになる。


ひとたび
今ある生は無意味だという事実に
本当に気づいたら、
通常、
あなたは探究を始める。

無意味な生には
くつろげないからだ。

無意味な生とともに、
生のあらゆる事物と
あなたとのあいだに深淵がつくりだされる。

橋を架けることのできない溝が生じ、
大きく口を広げてゆく。

あなたは錨(いかり)を
失ったような感じがする。
そのときこそ、
意味があるもの、
至福に満ちたものの探究が始まる。
それが第二の側面、
積極的な側面だ。


精神霊的な探究とは、
夢の投影ではなく、
確固とした現実に関わることをいう。

私たちの生は、
何から何まで投影、夢の投影にすぎない。

それは、
あるがままのものを知ることではなく、
欲望の対象をかち取ることだ。

「欲望」という言葉を、
いわゆる「生」のシンボルと見なしてもいい。

生とは欲望の投影だ。

あなたは、
あるがままのものを捜しているのではない。
あなたは欲望の対象を捜している。

あなたは求めつづけるが、
生は欲求不満を与えつづける。

なぜなら、
生はありのままにあるからだ。

生はあなたの望み通りにはなりえない。

あなたは幻滅する。

現実があなたに
敵対しているわけではない。

あなたが現実と和合せず、
夢にのみ
波長を合わせているということだ。

あなたの夢は打ち砕かれて醒める。
夢を見ているさなかには
何も言うことがない。

だが、
どんな夢でもかなえられると、
何もかもが虚しくなってしまう。


精神霊的な探究とは、
この否定的な側面、
欲望が欲求不満の
根本原因であることを知ることだ。

欲望を持てば、
自ずと地獄をつくりだす。

欲しがることが世間だ。
世俗的であるというのは、
欲しがること、
あくことなく欲しがり、
欲望というものはすべて
欲求不満をもたらすだけだということに
決して気づかないということだ。

このことに
ひとたび気づいてしまえば、
あなたは欲しがらなくなる。

あるいは、
あるがままのものを
知りたいという
欲望だけが残る。


Osho -I Am The Gate

「信心銘」第五章 空の世界 by OSHO

(第五章 空の世界, P. 214~抜粋)

欲望(マインド)とは、自己破壊過程だ。

欲望(マインド)が 消えないかぎり、人は いつまでも乞食のままだ。

何を獲得できても、それは、無益に終わる。

人は 満たされぬままだろう。


 だから、もし この欲望(マインド)を解体したら、空虚によって、初めて人は満たされる。

もはや自分はいない、全体になったのだ。
自分がいる間は、いつまでも乞食だ。
いなくなれば、人は 皇帝になる。


 インドで、乞食のことを「スワミ」と 呼んで来たのはそのためだ。

「スワミ」とは、主人、帝王を意味する。
サニヤシン(雲水)のために これ以上の言葉は見つけられない。

新しいサニヤシンに どんな名前を付けるか考えていた時、私は、これよりいい言葉を見つけられなかった。
どうも「スワミ」が 一番いいようだ。


「スワミ」とは、自分自身を完全に投げ出した人を意味する。

彼は もういない。

彼は 全世界に なった。
あらゆるものの主人になったのだ。

そうでないかぎり、皇帝でさえも乞食のままだ。
欲望し続け、求め続け、苦しみ続ける。



 “ もし粗いと細かいの区別をしなければ、
 偏見にも、意見にも、誘われることはない。”


 もし 粗さと 細かさとの間に、善と悪の間に、美しさと醜さの間に、これとあれとの間に 区別を設けなければ、区別し、差別しなかったら、人はすべてを ただあるがままに受け容れる。

自分の判断(マインド)を差しはさまない。
裁判官にならない。

ただ「そうなっている」と、言うだけだ。


 そこに 刺があれば、「そうなっている」と言う。
薔薇があれば、「そうなっている」と言う。

聖人がいれば、「そうなっている」と、罪人がいれば、「そうなっている」と言う。

そして 全体だけが知っている。
他の誰にも、なぜ罪人が存在するのかなど知り得ない。

そこには、何か理由があるに違いない。
だが、それは 全体が心配すべき神秘だ。

自分が心配するようなことではない。


 全体は、聖人も、罪人も、刺も、薔薇も誕生させている。

その理由は 全体しか知らない。

人はただ、全体の中に落ちて行くだけだ。

そして どんな分け隔てもしない。

自分にも、その理由が分かる時が来る。
だがそれは、自分が全体になった時だけだ。

神秘は、本人が神秘そのものになった時、初めて解かれる。


 あなたが あなたでありながら、それを解くことはできない。

もし、今の あなたのままでいるなら、あなたは、大哲学者になることになる。
たくさんの答えを持つだろうが、それは 答えではない。

たくさんの理論を持つことにはなっても、決して真実は得られない。

だが、もし あなたが 神秘そのものになったら、その時は分かる。

だが その知識は あまりに微妙で、言葉にすることはできない。
その知識は あまりに逆説的で、あらゆる言語的制約を無視してしまう。

その知識は あまりにも矛盾していて---対極が その境界を失って、二つが一つになってしまっているからだ---どんな言葉も それを言い表わすことはできない。


 形態とは 言葉を意味し、背景とは 沈黙を意味する。

その知恵の中では、形態と背景は ひとつになる。
沈黙と言葉は ひとつになってしまう。
どうして それを言葉にできよう。

だが、それでもそれは言われなければならない。

なぜなら、渇くようにそれを求めている人が たくさんいるからだ。
それについて 聞いただけで、ある者のハートは、旅立つかも知れない。

だからこそ僧璨は、これらの言葉を語っているのだ。


 僧璨は、それが言葉になり得ないことを知っている。
なぜなら、それを言葉にすれば、どうしても区別せざるを得ないからだ。

何かを言う時には、どうしても、言葉を選ばなければならない。

何かを言うとなれば、どうしても、あれではなく、これを言わなければならない。
すると思考(マインド)が入って来る。


 だが、誰も僧璨ほど上手にやった者はいない。
比較を絶している。

これほど見事に 沈黙を言葉の世界に もたらした者を、他に見つけることはできない。
仏陀でさえ嫉妬を感ずるだろう。

この僧璨は 真の導師だ。

沈黙の師であり、言葉の師でもある。

この世ならぬものを、この世にもたらした。

一語一語を 自らの経験の 深い沈黙で貫いた。


 僧璨の言葉に耳を傾けなさい。
ただ聴くだけでなく、摂り入れてごらん。

自分のハートに 融け込ませるのだ。
記憶してはいけない。

自分の血流の中に流しこみ、自分の 血と骨にするのだ。

摂り入れ、それを食べ、消化し、そして忘れてしまいなさい。

そうすれば、それには 途方もない変容の力がある。

Pp. 214ー217


「信心銘」Neither This Nor That by OSHO

著者 和尚(OSHO)
訳者 スワミ.パリトーショ
発行 (財)禅文化研究所

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あなたが、信頼することができたら、つねに何かが起こり、あなたの成長を助けるだろう。

あなたは与えられるのだ。

ある特定の時期に必要なものは何であろうと、あなたに与えられる。

決してそれ以前にではない。

それが必要なときにしか得られない。
そして、一瞬の遅れすらない。

それが必要なときに、あなたはそれを得る、すぐに、即座に! 


それが信頼の美しさだ。

徐々にあなたは、存在があなたに与えつづけているやり方を、存在があなたの面倒を見つづけているそのやり方を学んでいく。

あなたは無関心な存在の中で生きているのではない。

それはあなたを無視しないのだ。


あなたは無用な心配をしている。

すべては与えられる。


信頼のコツを一度学んだら、心配はすべて消える。

Osho

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自分の人格を
落とさないかぎり、
あなたは自分の
インディヴィジュアリティ
(個であること)を
見いだすことなどできない。

個であることは、
存在から与えられている。

人格は
社会が押しつけたものだ。
人格は
社会のなかでは都合がよい。
社会は
個であることに耐えられない。

個であることは、
羊のように追従しないからだ。
個であることには
ライオンの資質がある。
ライオンは独りで動く。
羊はつねに群れをなしている。
群れのなかにいると
楽で居心地がいいはずだと
期待している。
群れのなかにいると、
守られて安全な感じがする。
誰かが攻めてきても、
群れのなかにいれば、
自分を救える可能性が
いくらでもある。

だが、独りだと?
ライオンだけが独りで動く。
そして、
あなたがた一人ひとりが、
生まれつきのライオンだ。

だが、社会が絶えず
あなたがたを
羊として条件づけている。
あなたのマインドを
羊として
プログラムミングしている。
それがあなたに人格、
当たり障りのない人格、
素敵で、とても都合がよく、
ひじょうに従順な人格を与えるのだ。
社会は奴隷を望んでいる。

完全に
自由に身を捧げている人びとなど
望んでいない。

社会が奴隷を望むのは、
特権をもつあらゆる者たちが
従順さを望むからだ。

Osho - One Seed Makes the Whole Earth Green

「信心銘」Neither This Nor That by OSHO

「第二章 道は完全だ」(04)
(…だから、医学を学ぶには、西洋に行かなければならないし、瞑想を学ぶには、東洋に来なければならない。)


 だが、その両方が極端なのだ。
だから両方とも危険だ。

極端は 常に危険だ。
その危険とは、車輪が回転して、東洋が物質的になり、西洋が精神的になることもあり得るということだ。

それが起こりそうな可能性は 至る所に見える。
今や東洋は共産主義に転換しようとしているからだ。
これは物質主義の行きついたものだ。

一方 西洋は、精神主義に転換しようとしている。
そこに危険がある。

車輪は回転するかも知れない。

あなたたちは 外側の世界にあきあきしている。
内側に向かって動きたい。
内面の旅が必要なのだ。


 あなたたちは内面の旅に出かけるかも知れない。
ヒッピーを見なさい。
彼らは西洋の未来だ。
彼らは技術に反対している。
彼らは内向的だ。

全東洋を荒廃させ、東洋を崩壊の危機に陥れた、あの同じタイプだ。
技術に反対し、外側の清潔さに反対している。
ヒッピー以上に汚ない人間など見つからない。
風呂にも入らないし、着物も替えない。

連中は、そんなことは外側のことで、自分は内面の旅をしているのだと言う。
自分たちに興味があるのは瞑想で、衛生ではない、と。


 違う。
同じ愚劣さ、同じ極端、同じ対極だ。

魅力はある。
一方の極端に住みあきた思考(マインド)は こう言うからだ。
「あっち側へ行ってみろ。こっち側が うまくいかなかったのだから。
こっちの極端が失敗したのだから、あっち側へ行くべきだ」と。

だが、いいかね、極端から極端へ動くことは易しい。
しかし、極端は 決して人を満足させない。

東洋を見なさい。
内面への極端も充足ではなかった。
これもまた失敗だった。

内側か外側かの問題ではない。
均衡の問題だ。
均衡が成功するのだ、不均衡は失敗する。


 外側と内側は 二つのものではない。

どこで外側が終り、どこから内側が始まるのか。

印を付けられるかね。

境界線を引けるだろうか。
「ここで外側が終って、内側が始まる」などと言えるだろうか。

いったい どこで分けるのか。
二つは、分けられてはいない。

その分割は 頭(マインド)の区別だ。

内側も外側も ひとつのものだ。

外側とは、内側の拡張したもの、内面とは浸透して来る外界に他ならない。
それは ひとつのものだ。

ひとりの人間の 両手、両足、両目だ。


 外界は神の外側なのだろうか。
そんなことは あり得ない。
何ひとつ神にとって よそごとではあり得ないし、何ひとつ 神の外側ではあり得ないからだ。

全体は 外界も含まなければならない。

全体は 内面も含まなければならない。

全体にとっては、外側も、内側もない。

これが 僧璨の言うことだ。
彼は言う。

 外側の もつれの中にも、

 内側の空無の中にも、住んではいけない。

 穏やかに、何を求めるでもなく、

 大いなる 一体性の中に とどまるがいい。

 そうすれば、誤った物の見方は 自ずから消えよう。

 略---


「信心銘」Neither This Nor That by OSHO

1993年 7月 1日 初版
著者 和尚(OSHO)
訳者 スワミ-パリトーショ
発行 (財) 禅文化研究所
    京都市中京区西ノ京壺ノ内町 花園大学
印刷所 大日本印刷株式会社

…まず、自分自身から---

(友人の FB投稿記事です) OSHO の講話/抜粋、


私の提案はこうだ。
あなたが
第三次世界大戦を防止できると
考えてはいけない、
あなたが貧困を変えられると
考えてはいけないということだ。

あなたが変えられるのは、
あなた自身だけだ。

あなたの貪欲を捨てなさい、
あなたの未来を捨てなさい、
あなたのマインドを捨てなさい。
もっと愛に満ち、
もっと健康になって、
そしてハートから生きなさい。

そしてもしたくさんの人びとが
そのように生き始めたら、
それこそが
世界を変える唯一の方法だ。

世界を直接変えることはできない。
なぜなら世界は魂を持っていないからだ。
魂は個人のなかに存在する。
個人だけが変わることができる。


あなたがたが溜め込み屋のままで
貪欲で、暴力に満ちて、
抑圧されているなら、
この社会が続くだろう。

そしてあなたは
乞食にお金をやることは
できるだろうが、
彼は乞食のままだろう。
なぜならお金は決してなにも
変えはしないからだ。
私は百万長者でいて
しかも乞食のような人たちを知っている。
彼らは、
いくら持っていようが
なにも違わない守銭奴だ。

・・・

人は変わらない。
お金では
決してなにも変わらない。
もし自分が変われば、
それはまったく別なことだ。
私は慈愛の心を
持ってはいけないと
言っているのではない。

私が言っているのは
慈愛の心を持つのはいいが、
ただあなたの慈悲で
世界が変わると思っては
いけないということだ。
そんなことを望んではいけない。

なんであれ
与えられるものを
与えたらいい、
分かち合えるものを
分かち合いなさい。
ただ愛の心からのみ
分かち合いなさい。
政治的観点で、
世界を変えるなどと
考えてはいけない。
さもないと失望することになる。
そういうことは忘れてしまいなさい。
あなたはなんでも
自分がしたいと思うことをしたらいい。
乞食に会ってなにか感じたのなら
それをしたらいい。
自分がしたいと感じることを
なんでもしなさい。
私は、
なにもするなと言ってはいない。
ただ私が言っているのは、
自分が世界を変えているなどと
思ってはいけないということだ。
なにひとつ変わるものはない。

世界を変える唯一の方法は
意識のレベルを変えることだ
そしてあなたは、
それをあなた自身のなかでしかできない。
ほかの誰にも、
それを外側からすることはできない。

確かに、あなたが
自分の意識の水準を変えたら、
あなたは人びとを変えるような、
彼らが知らずに変わってしまうような
波動を生み出す。

世界には
ある別の雰囲気が必要なのだ――
別の社会ではなく、
別の空気だ。
別の霊的な波動が必要なのだ。
私が直接することに
関心がないのはそのためだ。
私はあなたを社会のしもべに、
宣教師に、
なにかそういうものに
したくはない。

私はあなたが完全に
利己的であることを望む。
まず自分が誰かを知ろうとしなさい。
これこそが利己的であることの
第一原理だ。

まず愛そうとしなさい。
これが利己的であることの
第二原理だ。
他人を愛せるようになるほどに
自分自身を愛しなさい。

そして利己的であることの
第三原理はこうだ。
その瞬間を喜びに満ちて、
祝いながら生きなさい――

そうすればあなたを通じて
なにかが起こり始める。
あなたは引き金のポイントになる。
世界的プロセスが始まる。
 
いつであれ
ひとりの覚者が生まれるとき、
世界的プロセスが始まる。
あなたは覚者になりなさい、
目覚めるのだ。
それがあなたにできるすべてだ。

Osho - The Path of Love