マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 07

Pp 286 ー 287
…(あなたは 知ってはいないということを ただ “知る” に達した人に 出会ったことがあるだけだと
そのことについては 聞いたことがあるだけだ と
それを はっきりさせなさい。)


インドには 二種類の教典が存在している。
一つは シュルティshruti と呼ばれ
もう一つは スムリティsmriti と呼ばれる。
スムリティとは 記憶を意味し
シュルティは “聞いたこと” という意味をもつ。


スムリティと呼ばれる教典は
自ら知るに達した人たちに属するもの
それは 彼ら自身 得たものだ。
彼らは自分自身の記憶を語ってきた。
彼らは自分自身の経験を語ってきた。

シュルティとは 二番めのタイプの文献
これは、知るに至った人々の近くに 幸運にもいられた人々から得た教典だ。
彼らは “聞いた” のだ。


このことを いつも憶えていなさい。
もし聞いたことであるなら
そのときには これは聞いたことだが と言うがいい。
聞いただけのことだけれど 自分にとっては宝物になったほど美しいのだ と 言うがいい。
聞いただけでのことで、それは あなたの心(ハート)に触れたーー

そしてあなたは それをわかち合いたい。
しかしそれは 友情ある姿勢にすぎず
あなたはべつに導師(マスター)に なったわけではない。
それはたんなる愛情豊かな態度にすぎない
ただ自分の幸福感を わかち合っているだけのこと
あなたは 覚醒を わかち合っているのではない。

あなた自身 達しないかぎり
あなた自身 覚醒しないかぎり

それがあなた自身のものにならないかぎり
誰をも指導しようとしてはならない。


あなた自身が達したときには
あなたの 存在そのものが 一つの導きとなる。



南院禅師の許に来たこの弟子は
はじめっから まちがった一歩を踏み出していた。
なぜなら もし彼に用意ができていたとしたら
南院のほうが 彼を呼んだだろうからだ。
その来訪は彼の側で決めるべきことではなかった。



マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 08 へ 続く

マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 06

Pp 283 ー 286

…(努力して、努力の無いところに到達するがいい。
求めることで、探求の無い状態に達するがいい。
思考(マインド)を通して、無思考の境地に到るがいい。)


人には 二つのタイプがあるーーーーーー
もし私が 或るタイプの人たちに 努力しなさいと言ったら 彼らは努力するーーーーーーが
努力の無い状態を みとめようとしない。

もう一つのタイプに もし私が
それは 努力の無いところにしか起こらない、と言ったら 彼らは あらゆる努力を棄てるだろう。

両方とも まちがっている
両方とも 道を外れてしまっている。

これは〈生〉のリズムなのだ。
努力のない状態に入るように 努力を重ねること
最後のぎりぎりまで緊張をつづけてごらん。
そうすることで、緊張の解けた 意識の瞬間が得られるように。

できるかぎり早く走ることだ、そうすれば坐るときには ほんとうに坐れるように。
努力することで 疲れ果てるがいい、そうすれば 休むときには それが真の休息となるように。

あなたがたは 内側が まったく落ち着かないままに休むこともある。
土の上に 横たわったとしても
内側の落ち着きのなさは そのままつづく。
だから、ただ肉体が 横たわっているだけで
それは 休息ではない。

あなたは 仏陀のように坐っているかもしれない
が、内側では 子供が走りまわっている
頭(マインド)が はたらいている、頭が仕事をしている。
内側では あなたは狂ったようになっている
ところが外側は、仏陀と同じ姿勢で 坐っているのだ。
身動き一つせず、何の活動もなくーーーーーー
が、内側では “騒動” は つづいている。

これでは何の助けにもなりやしない。
努力して この内側の騒ぎを 終わらせなさい。

できるだけ早く走るがいい
ぐったりと 疲れ果てるがいい!

このゆえに私は ダイナミック瞑想を強調するのだ。
この手法は、努力と無努力の両方だ
活動と非活動の両方だ
疾走と坐禅の両方だーー


南院は この弟子の内部を見ていた。
こやつは もう努力を超えただろうか?
努力の無いところに到っただろうか?
意識的であることが、自然で臨機応変なものとなっているだろうか?
混乱しているだろうか?
それとも青空のように清明でいるだろうか?

そうであったら導師(マスター)になれる
行って人々に教えることが許されるーー


あなたが 誰か他者(ひと)に教えたい誘惑にかられるときには
いつでも この話を思い出しなさい。

そしてもし
誰かに 何かを言いたくなったら こう言うがいい。
これは “関して” のことなのだ と
〈神〉“に関して”、覚醒 “に関して” のことなのだとーーーーーー
あなたは ただ聞いたことがあるだけで
あなた自身は 成就していないことを 相手にわからせるがいい。
自分は こんなにも美しいことを聞いたので わかち合いたいーーが、けっして自分は成就していないのだ と言うがいい。

そうであったら あなたも毒することなく 助けになれる。
他者を毒することなくーーーーーー


いつも 憶えているがいい。
もし “ 知らなかったら 知らないのだと ”!
けっして “ふり” をしてはならないよ!!
たとえそれが 消極的なものであってもだ!
というのも 黙ったままでいることだってできるからだ。
自分は まだ達していない と 言わずにいることだってできるのだ。
だが それも善くない。
その沈黙の中に他者は、あなたが すでに達している という感じを抱くかもしれない。

あなたは 知ってはいないということを
ただ “知る” に達した人に 出会ったことがあるだけだと
そのことについては 聞いたことがあるだけだ と
それを はっきりさせなさい。



マイウェイ「10日めの朝」 OSHO : 07 へ 続く

マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 05

Pp 280 ー 283

東洋では ずっと信じられてきたことだが
ーーーそして 正しく信じられてきたことだがーーー
〈光明〉を得て覚醒するということは
偉業を成就するというようなことではない。
それは天からの恩恵のようなもの
それは贈りもの、プラサードだ。

〈神〉が あなたにそれを与えるーー
あなたのほうで それを〈神〉の手から ひったくるわけにはいかない。
西洋の求道者にとっては、このことに気づくのは きわめてむつかしいことだ。
なぜなら 西洋では この数世紀
人間の精神(マインド)指向は 全体的に
ものを強奪する方向に転換してきた。
あなたがたは大自然から あらゆるものを奪ってきた。
科学が どんな秘密を知っていようとも
それは与えられたものではない、強奪したものだ。
あなたがたは 暴力的に強制し
その神秘の扉をこじ開けてきた。

それに成功してきたために
あなたがたは〈神〉に対しても 同じことが起こりうると考えている。
が、それは 起こりえない、そんなことは不可能だ。
あなたは 天をアタックすることは “できないよ”!!
銃剣をかざして 天に入ることはできない。
あなたは〈神性〉に
その心(ハート)を あなたに向かってひらくよう強制はできない。
なぜなら 強制するときには あなたは閉じるからだ。
そしてそれが問題になるーー

あなたが何かを 無理強いするときには
かならず自分を閉ざす。
だが もし閉ざしていたら
〈神性〉は あなたに対して自らを顕わすことはできない。

あなたがたが 無理をせず
ただ白雲のように漂い徘徊していたら
どこに到達しようという どんな努力もせずーーーーーー
ーーー目的地(ゴール)が無いときには努力もまた無くなるーーー
何かを達成したいなどと 思っていないときには
緊張して固くなるということがない。

あなたが 今在るままで幸福なとき
あなたが 今在る世界のままで幸福なとき
あなたがものごとを 在るがままに受け容れるとき
あなたが 何一つ変えたいとは思わないとき
突然
あなたは 存在のまったく別の次元に運ばれていく。
その扉は 常にひらいていたのだと あなたは気づく。
閉ざされたことなど なかったのだとーー
閉ざすことなどできない!
神の神秘は常に あなたの近くにあったのだ
遠くになど行ったことはなかった。
遠くになど行きようがない
なぜなら あなたはその〈神性〉の 一部なのだから。
あなたが行くところどこでも、神秘はついて行く。


これは 求める探求するという問題ではない。
これは、沈黙し 受け容れて ゆるすかどうかの問題だ。


求めたら あなたは取り逃がす。
というのも “求める人” とは かならず暴力的だからだ。
探求したら それはあなたの許に やって来ない。
というのも 探求する精神(マインド)には先入観が ありすぎるからだ。
それは その場にいない。
それは けっして “今ここ” にいない。
それはいつも 未来のどこかにいる。
何かを発見したときにはーーーーーー
この探求が完成したときにはーーーーーー
求道が終りに到ったときにはーーーーーーというわけだ。

それは いつも終りのほうのどこかにいて “ここ” にはいない。
だが
〈神〉は “ここにいる ”ーー
だからあなたがたには どうしても出会えない。
求道者は けっして到達しないーー!
これは
求道者になってはならない ということではないよ。
最初はあなたも 求道者であらねばならない
それ以外に 方法はない。
初めは あなたも探求者であらねばならない。
探し求め あらゆる努力を しなければならない。

あらゆる努力を重ね 狂わんばかりの求道者になることで
あなたは はじめて気がつくことができる。

それが起こるのは、あなたが何も求めない境地(マインド)に あるときだけだとーー

ときに休んでいるときに、それは来る。
ときには眠っているときに、それは降りて来る。
ときには路を歩いているだけで、それはそこに在る。
ときには明け方 陽の昇るのを見ているだけ
何もせず ただ見ているだけ
受動的な覚醒の内(なか)にいるーーーーーー
ただ陽が昇るのを見ているーーーーーー
あるいは
寒夜、湖水の上を
月の光が かすかにゆらめくのを見ている
また、花が つぼみをひらくのを見ている

ただ受け身の目覚めの内に在るーーーーーー
ただ 見ているだけ
ーーーなぜなら あなたの側では 何もする必要はないからだ。
花がひらくとき
あなたの助けは まったく必要ない。



花がひらくのを助けようとする愚かな人々がいたら
彼らは 花の美しさ全体を破壊するだけだ。
それに
花は実際に けっしてひらきはしない。
たとえ無理強いして ひらかせようとしたとて
それは閉ざされたままだろう。
開花は起こらない!
それは強制されたもの。
どんなものでも強制されたとしたら開花はしない。


太陽が昇るのに あなたの助けは要らない。
助けが必要だと考える人々がいるーー
こういう人たちは 多大な害をもたらす、たいへん災いをもたらす。
なぜなら彼らは どこにいても自分の助けが必要だと考えるからだ。


現実の 生の内にあっては
〈現実(リアリティ)〉が 起こるところは それがどこであれ 誰の助けも必要ない。

しかし 助けたい という誘惑に抗うのはたいへん困難だ。
というのも 助けるということで、あなたがたは 自分が何かをしているような気になるからだ。

何かをする というときには、あなたがたは自我(エゴ)をつくる。

何もしない ときには 自我(エゴ)は 存在のしようがない。

無為の瞬間には 自我(エゴ)は 消える。



太陽が昇るのを見ながら
花がひらくのを見ながら
冷え冷えとした湖面にゆらめく月を見ながら
何も することなくーーーーーー
と、突然
それ は あなたの上に 降りて来る。
あなたは〈実在〉全体が 神性に満たされているのを知る。
あなたの呼吸 一つ一つまでが神性であることを知る。


努力して、努力の無いところに到達するがいい。
求めることで、探求の無い状態に達するがいい。
思考(マインド)を通して、無思考の境地に到るがいい。



マイウェイ「10日めの朝」OSHO:06 へ 続く

マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 04

Pp 276ー280
(… 人が犯しうる もっとも危険な罪は、覚醒を 見せかけることだ。
たとえ殺人を犯したとしても これほどに大きな罪とはならない。)

ほんとうには “殺人” ということはありえない。
せいぜい肉体を 破壊することができるだけで
霊魂は 別の肉体に入っていく。

一つのゲームが壊されるだけで
すぐさま別のゲームがはじまるのだ。
殺人者は それほど大罪人ではない。
だが
もしあなたが 目覚めてもいないのに そのふりをするとしたら
もしあなたが そうでもないのに導師のように見せかけるとしたら
あなたは大変な害を、無限の害をもたらすことになる。
ほかのどんな罪悪も較べようもないほどの害ーー
なぜなら他の人々は その見せかけ捉え
自分たちも見せかけはじめるからだ。
そして それは広がっていくーー

それはちょうど静かな湖面に石を投げるようなもの。
さざ波が起こって ずっと広がっていく。
一つの波が次の波を生じさせ、押し広げる。
そしてそれが岸にまで ずっとつづいていくーー

この意識の湖には岸は無い。
ひとたび波紋が生じたら、それは永遠に広がっていく。
それは ずっとずっとつづいていく。
たとえあなたがいなくなっても
あなたの見せかけ、その欺瞞はつづく。
そして 多くの人々がそれによって まどわされるだろう。


偽の導師(マスター)こそ 世界で最大の罪人だ。
だからこそ南院は〈覚醒〉に到っていないかぎり
誰にも出て教えることを許そうとしないのだ。
〈光明〉を得ていたら
その光りそのものが あなたの内部で燃え
他者もまた光を得るのを助ける。

あなたの内部で燃えるその火が他者を暖める!
あなたに起こった〈生命〉が
他者をしてその死に似た不毛さから抜け出るのを助ける。


しかし憶えておくがいい。
心すること、目覚め、あるいは意識的であること
これらが連続性をもつのは、そこに努力がなくなったときだけだ ということを。
はじめのうちは当然 努力がある。
そうでなかったら何もはじまらないだろう?

あなたは 努力する。
あなたは 心するよう努める。
あらゆる方法で あなたは意識的であろうとする。
が、
努力は 緊張をもたらす。
そして
努力すればするほど ますます緊張することになる。
ちょっとした “きらめき” の瞬間もあるだろうーーーが
その緊張のゆえに 歓喜(エクスタシー)は 取り逃がす。
だがこの状態もまた通過しなければならない。
この 努力の段階もーー

遅かれ早かれ あなたがたが気がつくことが一つある。
それは、努力すれば かならず自覚心は得られるが
その覚醒は 非常に “苦しんでいる覚醒” だ ということだ。
悪夢的ですらあるし、ひどく重たいーー
それは あなたの頭上に乗せられた岩のようだ。
それは 喜びあふれてはいない。
それは 軽やかではない。
それは 踊っていない。

この努力をしているあいだに
時折、あなたは 突然 目覚めることがある。
それは、あなたが 努力していないときには
その覚醒は 軽やかで、喜びにあふれ 踊っている、
歓喜(エクスタシー)に満ちている ということだ。
しかし
これが起こるのは 努力する人たちにだけ。
努力しているあいだ
時折ふと その努力が 止まるとき この“きらめき”が起こる。
そんなとき、 あなたは 気がつく。
努力を通しては 究極なるものは達成できないと
“ 努力無し” でいるときだけ それは起こるのだとーーーーーー


私のまわりにいる瞑想者の多くに それは起こっている。
彼らは来て こんなことを話すーー
朝とか夕方とか、瞑想中には 何も大したことは起こってこないのですーーーが、夜中に突然、あるいは午後 不意に
ただふつうに坐っていただけなのに 何かがはじまってくるのですーー
彼らは別に 特別には何もしていないのだ。

こういうことは起こる。
これは ちょうどこんな感じだ。
或る名前を、いつも何度も 簡単に思い出していたのに
ある日 忘れてしまう!
舌の先まで出かかっているのにーーーーーー

あなたは奮闘する。
あなたはそれを 意識の上に昇らせようと あらゆる努力をするーーが、出てこない。
努力すればするほど あなたはかえって途方にくれる。
そして
絶えずあなたは、“自分が知っていることを知っている”。
絶えずあなたは 自分が憶えていることを知っている。
それは ほんの近くに、ほんの角先まで来ている。
が、何かの障害、何か邪魔物がそこにあって
その名前が出てくるのを妨げているーーーーーー
それは大事な友人の名前であるかもしれないのだ!
そのうちに努力全体が不毛になり
あなたは 放り出すーー
あなたは行って新聞を読みはじめるか、煙草でも吸いはじめる、いやあるいは庭を散歩する。
それとも庭で土仕事をはじめるーー
と、突然
それが 浮かび上がる!
突如として名前が出てくる!
その友人がそこに立っている、その顔が見えるーー!

何が起こったのだろう?
一生懸命努力していたときには あなたはひどく緊張していた。
その緊張自体が 邪魔になっていた。
その 緊張自体が 通路をせばめていた。

名前のほうは 出てきたかったし
記憶のほうは 扉をノックしていた
が、その緊張が 閉鎖状態をつくっていた。
だからこそあなたは
舌の先まで 出かかっているのにと 感じていたのだ。
事実 それは出かかっていた!
ところがあなたは ひどく緊張していたために
そのことを 気にしすぎていたために
その名前を出そうと 切望しすぎていたために
その不安が 障害となっていた。

なぜなら気がかりでいっぱいの頭(マインド)は 閉じるからだ。

美しいもの 真実のものは
すべてあなたが
求めたり 気にしたりしていないときにのみ起こる。
愛すべきものすべては、あなたが
それを待ってさえいないときに 起こる
それを求めたり 要請したりしないときにのみ起こる。
そのときには 頭の中に障害が無い。
だから あなたが
もう すっかり忘れているときに それは起こるのだ。


努力は たしかに必要だよ。
最初は 努力はなくてはならぬもの。
不毛ではあるが、それでもなお なくてはならぬもの。
その不毛さには 少しずつ気がついてくるだろう。

あなたが きらめく一瞥を、突然の一瞥を得るとき
そして、自分は別に努力していなかったと感じるとき
そして、そのきらめきが あなたに降り注ぐとき
神からの贈りものーーーーーー

そのときには あなたは 努力を放り出せる。
と、努力を放り出すことで
ますます多くの贈りものがやってくるーー




マイウェイ「10日めの朝」 OSHO : 05 へ 続く

マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 03

Pp 273 ー 276

(…もし ためらいが あったことを自覚していたら、彼は 受け容れられていたことだろう。
が、その “ためらい”の“瞬間”、彼は 自覚心を 失っていた。
誰も 南院を欺くことはできないーーー)

今 あなたが南院に会いに行って、このことをようく憶えている とするね、自分のはきものを どこに置いたかーーーーーー
これは べつにむつかしいことではない。

そして もし南院が
はきものは どこに脱いだかね? 右側か左側か?
と訊いたら、あなたは たちどころに答えるだろう。
右側です!
だが それでもなお あなたの負けだ。
それが 肝心な点ではないからだ。
それは たんなる まどわしにすぎないからだ。


南院は
“ 今この現在 ” 弟子の内部に 何が起こっているかを見るために 相手の思考(マインド)を 脇へそらしている。
南院が 訊ねたその瞬間
はきものはどこだ? 右側か左側か?

この瞬間、この弟子は取り逃した。
この瞬間、彼は ためらった
そして彼自身、その ためらいを自覚していなかった!
彼は考えはじめたーーーその瞬間、彼は目覚めていなかった。

南院は 彼の内部まで見透したーーー
その質問は 弟子の思考をそらすだけのものだった
たんなる まどわしにすぎなかった。

この弟子は 失敗した。
彼を 人々に説くため つかわすことはできない。
彼には その用意ができていない。

彼はまだ 目覚めていないーーーーーー
いまだ目覚めていない者、それがどうやって人々に教え 説くことができよう?

彼が教えることは何であれ 偽りになる。

教えることができる “教師” は たくさんいるーーーーーーが、彼らは 自分自身まだ目覚めていない。

いい教師かもしれない、有能で技術のある いい教師
だが それは肝心な点ではない。
彼らは どんな助けにもならない。



或るとき 私は汽車で旅行していたーーーーーー
一人の男の子が大騒ぎをしていて、その車輌にいた旅客たちは全員 迷惑をしていた。

その子は あちこち走りまわったり コップを倒したり、人々にぶつかったりして、父親は大いに恥ずかしい思いをしていた。

彼は 何度もその子を止めようとしたが、子供のほうは耳を貸そうともしない。
そこで父親はついに こう言った。
ウィリー! 言うことを聴かないで走りまわっていると お尻をぶつぞ!

だが子供は相変わらず走りまわっていた。
そして車輌のいちばん端まで行くと こう叫んだ。
いいよ、ぶってもいいよ!
でも ぶったら 車掌さんのところへ行って、ボクがほんとうは いくつなのか言いつけるからね!


この父親は教師としてはありえないね。
子供でさえ 彼の言うことに耳を傾けようとしない。
自分自身に目覚めていない教師は 教師ではありえない。

彼自身まだ達成していないものを 他者に向かって教えることなど できるはずがない。




目覚め ということは伝染性の病気に似ている。
師(マスター)が 心して目覚めているときには
あなたは その目覚めに感染する。
時には
ただ師(マスター)の脇に坐っているだけで、突如あなたは目覚める。

あたかも雲が消え去って
あなたに 大空がひらけて見えるかのようにーーー
ほんの一瞬のことかもしれない。

その一瞬が 深い変化をあなたの 存在の質にもたらす。


たとえあなたの側で 何の努力をしなくても
ただ静謐なる覚醒に満ちた師(マスター)の近くにいるだけで
突如として あなたもまた沈黙する。

彼が あなたに触れるのだーーー
閉ざされていた扉がひらく。
あるいは
闇夜に走る突然の稲妻のようなもの
その瞬間 あなたは〈全体〉を見る。


それは すぐ消える。 というのも
あなたには それを保持することはできないからだ。
それは あなたが 自分で達成したものではない。
あなたは それを失うーーー
しかし それでもなお あなたは前と 同じではない。
あなたは 今や何かを “知った”!
以前は未知だった 何かをーーーーーー
この 知ったことは ずっとあなたの一部として とどまることだろう。

そして次には欲望が、新しい野心が生じてくる。
これ を 達成すること
これ を 永遠なるものとすることーーー

なぜなら ほんの一瞬で かくも歓びに満ちているものなら
もしそれが降り注いだら
ありあまる幸福感、喜びにあふれるだろうからだ。
しかし
もし師が、 教師が 自分自身 覚醒していない人だったら
彼は 目覚め “に ついて” 教えることは できるかもしれない。
が、目覚め そのものを 教えることはできない。
そして 目覚め “に ついて” 教えることなど まったくもって無意味なこと。

それは言葉にすぎない、理論に すぎない。
あなたは彼から 理論を学ぶことは できるだろうが
事実を学ぶことはできない。


このゆえに
南院の許を離れて行く前に、彼は この弟子の内側まで見通さなければならなかった。
これは質的に 非常に異なったことだーーー

教育の世界では 学生は試験される。
が、かならず彼(彼女)の記憶力が 試験されるのであって、その人そのものではない。
記憶力がテストされるのだ、けっして その人ではない!
南院は この弟子の 記憶力を試しているわけではない。
彼が訊ねているのは
どこにはきものを脱いできたか? 右側か左側か?ではない。
彼は正確な 記憶を求めているのではない。

なぜなら、どこにはきものを脱いだかは 今となっては過去のことだからだ。
南院は、弟子の 今この現在 の 在りざまを見抜こうとしているのであって、記憶力をテストしているのではなかった。
“この瞬間” の 弟子の意識を内部まで見ようというのだ。

過去 は 問題ではない。
現在が、“現在性”が 肝心なのだ!


何院の前に坐っている この弟子の姿を ちょっと想像してみてごらん。
何院が 訊ねるーーーーーー
と、弟子は 過去の中に迷いはじめる。
彼は はきものを どこに脱いだか 考えようとする。
それにまた、自分が それを思い出せるかどうか考える。
彼は、自分が自覚を失っていたのかどうかと考える。

今この現在、彼は 一つの混乱と化したーーー

彼の意識は 雲がかかったようになり
彼は もはやそこにいなかった。
彼は 何院の面前にはいなかった。
彼は 過去の中に行ってしまった
考えごとの中に入ってしまった。
彼は 瞑想の内にはいなかったーーー


ためらい、考えること、考えようとする努力ーーーーーー
何院の眼を ごまかせるものではない。
彼は あなたを見通す、そこにある あらゆる雲を見る
彼は あなたが 今ここ に いないことを見る。


これではあなたは 教えることなど 許されない。
これでは あなたを外に出すことはできない。
ん? 何を教えようというのだね?
自分に無いものを 教えることなどできはしない。
“ふり” を することは できるーーーーーー
が、その見せかけは危険だ。
というのも
もしあなたが 実際そうでないのに 覚醒しているかのような “ふり” をしたら、その見せかけは感染するからだ。

偽導師は 偽弟子をつくりだす。
そして その “偽” の質は 波紋のように広がりつづける。

人が犯しうる もっとも危険な罪は、覚醒を 見せかけることだ。
たとえ殺人を犯したとしても これほどに大きな罪とはならない。



マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 04 へ つづく

マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 02

Pp 272 ー 273

ヒンドゥ教徒たちは 人を サチタナンダ satchitananda と呼ぶ。
この中には 三つの言葉が入っている。

サットSat, チットchit, そして アナンダananda だ。

サットとは 実存的なものを意味する。
非実在には けっしてならないもの、それがサットだ。
サットとは 真実なるもの、非真実には けっしてならないものを意味する。
サットとは 永遠なるもの
かく在った、かく在る、かく在るだろうーーー
このすべてだ。


チットとは 目覚め、意識のこと。
それこそ あなたがたの本性!
あなたがたは 常に意識的であったし、今現在 意識的であるし、また これからも意識的であるだろう。
この意識は あなたから取り上げることはできない。
それは あなたの存在の中核そのものの内部(なか)に在る
外面に在るものではない。
“ そ れ が あなた な の だ!”
だがあなたがたは その 自分自身と接触していない。

それから
アナンダとは 至上のよろこび、歓喜(エクスタシー)を意味する。
が、これは あなたが この歓喜を成就しなければならない ということではない。
“ それは あ な た なのだ!”
あなたは常に 歓びに満ちていたーーーーーーそれ以外の在り様はないほどに、不可能なほどに。
あなたには それ を 変えることはできない。


しかし あなたがたは言うだろう
こんなことは まったく馬鹿らしい とーーー
なぜなら私たちは みじめだからだ。
あなたがたは みじめだからだ。

あなたがたは自分の 外面にあまり取り憑かれているからだ。

あなたがたは 中心のことを すっかり忘れてしまった。
あなたがたは 他者と あまりに関わり合いすぎてきた。
他者のことに あまりに夢中になりすぎてきた。

その関心全体は 他者に焦点を合わせている。

あなたがたは陰の中に、暗やみの中に落ちたのだーーー


サチタナンダこそ “あなた”ーーー!



この禅師 南院は 弟子に訊いている。
おまえは 自分が誰であるかに心するようになったかね?
おまえは 自分の本性の内(なか)に根を下ろしたかね?

もし弟子が ほんとうに自分の本性に根を下ろしていたら、この場合は どうだったろうか?

この話は 理解するのが非常にむつかしい。
これは、はきものを左側に置いたか 右側に置いたかの 問題ではない。
それはこの話の要点ではない。

いかにも肝心なところのように見えはするが
それは要点ではない。
肝心な点は
南院が訊ねたとき、この弟子が ためらった というところにある。
これこそ 要点だ。


その ためらいの瞬間
彼は 自分が ためらったことを 自覚していなかった。

もし ためらいが あったことを自覚していたら、彼は 受け容れられていたことだろう。
が、その “ためらい”の“瞬間”、彼は 自覚心を 失っていた。

誰も 南院を欺くことはできないーーー



マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 03 へ 続く