saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第九章 「 浄土楽園 」 (09)

(… 私たちは、人間に起ころうとしている 新しい何かの瀬戸際にいる

人類は 死んで消えるか、あるいは跳躍、飛躍して、新しい存在が形成されるか ーーー )

私たちは、何百万年か前に 猿が樹から降りて

人類が始まり、新しい存在が誕生したのと まさに同じ時点にいる

再び その瞬間が 迫っている

それは 非常に 危険な瞬間だ

なぜなら、あらゆる可能性があるからだ・・・

 

その猿は地上で 生き延びられなかったかもしれない ということはありえた

その猿は 地上で死んでいたかもしれない

しかし 少数の猿たちは 危険を冒した

彼らは ほかの猿たちから 馬鹿だと思われたにちがいない

ん? ほかの猿たちは ずっと樹の上で暮らしてきて、まったく幸せだった

彼らは 思ったにちがいない

「この連中は 頭がおかしくなっている、狂っている

第一、なぜ 地上で生きていこうとするのか ?

なぜ自分で むだな骨折りを つくり出すのか ?

われわれの父親も その父親も、そしてその父親も みんな樹の上で暮らしてきてのだ」

 

再び、同じ状況が 起ころうとしている

人間は 長いあいだ、昔ながらの 暮らし方をしてきた

今世紀末までに、重大な量子的飛躍が 可能だ

人間は、第三次世界大戦で死滅するか

それとも、人間は 飛躍をとげて 新しい人間(ニューマン)に なるか、そのいずれかだ

それが起こる前に、大きなブッダフィールドが 必要だ

私たちが 未来を創り出すことのできるフィールドが ーーー

 

しかし、ボーディサットヴァは

「私は調和のとれた仏国土(ブッダフィールド)を創り出す」とは言えない

その強調が「私」に あるとしたら、その人は まだボーディサットヴァではない

ブッダたちでさえ「私」という言葉を使うが

彼らはそれがどんな現実にも 一致せず、ただの言葉使いで、便宜的だと強調する

 

そして仏陀は言う

「それら調和ある仏国土は、調和的でさえない」

なぜか ? 

調和とは、 まだ葛藤が活きていることを 意味するからだ

調和とは、そこに葛藤する部分はあるが もう葛藤していないことを 意味する

仏陀は、真の調和とは 葛藤する部分が融け合って 一体になる状態だ、 と 言う

だがそうなったら それは 調和とは呼べない

というのも、調和は「多」を 必要とするからだ

調和とは、調和のとれた全体のなかに 多くの断片がある ということだ

仏陀は、真の調和があるのは それらの「多」が もはやそこにないときだ、と言う

それらは ひとつに なった ーーー

 

だから調和は、真の調和は、「調和」と呼ぶことさえできない

真の調和は たんなる〈一体性〉だ

そこには いかなる葛藤も いかなる摩擦もない

なぜなら、ばらばらの部分は すべて消えて、溶けているからだ

 

 “ 何故か?

仏国土の調和』とは スブーティよ

 如来によって無調和として説かれているからだ

 だからこそ 如来は『調和ある仏国土』のことを語った”

 

何度も何度も 憶えておきなさい

それは言葉の不十分さの問題だ、ということを

だから仏陀は 何度も

不十分な言語表現の 犠牲にならないよう あなた方に 注意することを主張しつづける

 

(09)終わり・・・(10)へ 続く