saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 07

Pp 286 ー 287
…(あなたは 知ってはいないということを ただ “知る” に達した人に 出会ったことがあるだけだと
そのことについては 聞いたことがあるだけだ と
それを はっきりさせなさい。)


インドには 二種類の教典が存在している。
一つは シュルティshruti と呼ばれ
もう一つは スムリティsmriti と呼ばれる。
スムリティとは 記憶を意味し
シュルティは “聞いたこと” という意味をもつ。


スムリティと呼ばれる教典は
自ら知るに達した人たちに属するもの
それは 彼ら自身 得たものだ。
彼らは自分自身の記憶を語ってきた。
彼らは自分自身の経験を語ってきた。

シュルティとは 二番めのタイプの文献
これは、知るに至った人々の近くに 幸運にもいられた人々から得た教典だ。
彼らは “聞いた” のだ。


このことを いつも憶えていなさい。
もし聞いたことであるなら
そのときには これは聞いたことだが と言うがいい。
聞いただけのことだけれど 自分にとっては宝物になったほど美しいのだ と 言うがいい。
聞いただけでのことで、それは あなたの心(ハート)に触れたーー

そしてあなたは それをわかち合いたい。
しかしそれは 友情ある姿勢にすぎず
あなたはべつに導師(マスター)に なったわけではない。
それはたんなる愛情豊かな態度にすぎない
ただ自分の幸福感を わかち合っているだけのこと
あなたは 覚醒を わかち合っているのではない。

あなた自身 達しないかぎり
あなた自身 覚醒しないかぎり

それがあなた自身のものにならないかぎり
誰をも指導しようとしてはならない。


あなた自身が達したときには
あなたの 存在そのものが 一つの導きとなる。



南院禅師の許に来たこの弟子は
はじめっから まちがった一歩を踏み出していた。
なぜなら もし彼に用意ができていたとしたら
南院のほうが 彼を呼んだだろうからだ。
その来訪は彼の側で決めるべきことではなかった。



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