saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 06

Pp 283 ー 286

…(努力して、努力の無いところに到達するがいい。
求めることで、探求の無い状態に達するがいい。
思考(マインド)を通して、無思考の境地に到るがいい。)


人には 二つのタイプがあるーーーーーー
もし私が 或るタイプの人たちに 努力しなさいと言ったら 彼らは努力するーーーーーーが
努力の無い状態を みとめようとしない。

もう一つのタイプに もし私が
それは 努力の無いところにしか起こらない、と言ったら 彼らは あらゆる努力を棄てるだろう。

両方とも まちがっている
両方とも 道を外れてしまっている。

これは〈生〉のリズムなのだ。
努力のない状態に入るように 努力を重ねること
最後のぎりぎりまで緊張をつづけてごらん。
そうすることで、緊張の解けた 意識の瞬間が得られるように。

できるかぎり早く走ることだ、そうすれば坐るときには ほんとうに坐れるように。
努力することで 疲れ果てるがいい、そうすれば 休むときには それが真の休息となるように。

あなたがたは 内側が まったく落ち着かないままに休むこともある。
土の上に 横たわったとしても
内側の落ち着きのなさは そのままつづく。
だから、ただ肉体が 横たわっているだけで
それは 休息ではない。

あなたは 仏陀のように坐っているかもしれない
が、内側では 子供が走りまわっている
頭(マインド)が はたらいている、頭が仕事をしている。
内側では あなたは狂ったようになっている
ところが外側は、仏陀と同じ姿勢で 坐っているのだ。
身動き一つせず、何の活動もなくーーーーーー
が、内側では “騒動” は つづいている。

これでは何の助けにもなりやしない。
努力して この内側の騒ぎを 終わらせなさい。

できるだけ早く走るがいい
ぐったりと 疲れ果てるがいい!

このゆえに私は ダイナミック瞑想を強調するのだ。
この手法は、努力と無努力の両方だ
活動と非活動の両方だ
疾走と坐禅の両方だーー


南院は この弟子の内部を見ていた。
こやつは もう努力を超えただろうか?
努力の無いところに到っただろうか?
意識的であることが、自然で臨機応変なものとなっているだろうか?
混乱しているだろうか?
それとも青空のように清明でいるだろうか?

そうであったら導師(マスター)になれる
行って人々に教えることが許されるーー


あなたが 誰か他者(ひと)に教えたい誘惑にかられるときには
いつでも この話を思い出しなさい。

そしてもし
誰かに 何かを言いたくなったら こう言うがいい。
これは “関して” のことなのだ と
〈神〉“に関して”、覚醒 “に関して” のことなのだとーーーーーー
あなたは ただ聞いたことがあるだけで
あなた自身は 成就していないことを 相手にわからせるがいい。
自分は こんなにも美しいことを聞いたので わかち合いたいーーが、けっして自分は成就していないのだ と言うがいい。

そうであったら あなたも毒することなく 助けになれる。
他者を毒することなくーーーーーー


いつも 憶えているがいい。
もし “ 知らなかったら 知らないのだと ”!
けっして “ふり” をしてはならないよ!!
たとえそれが 消極的なものであってもだ!
というのも 黙ったままでいることだってできるからだ。
自分は まだ達していない と 言わずにいることだってできるのだ。
だが それも善くない。
その沈黙の中に他者は、あなたが すでに達している という感じを抱くかもしれない。

あなたは 知ってはいないということを
ただ “知る” に達した人に 出会ったことがあるだけだと
そのことについては 聞いたことがあるだけだ と
それを はっきりさせなさい。



マイウェイ「10日めの朝」 OSHO : 07 へ 続く