saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

マイウェイ「10日めの朝」OSHO : 02

Pp 272 ー 273

ヒンドゥ教徒たちは 人を サチタナンダ satchitananda と呼ぶ。
この中には 三つの言葉が入っている。

サットSat, チットchit, そして アナンダananda だ。

サットとは 実存的なものを意味する。
非実在には けっしてならないもの、それがサットだ。
サットとは 真実なるもの、非真実には けっしてならないものを意味する。
サットとは 永遠なるもの
かく在った、かく在る、かく在るだろうーーー
このすべてだ。


チットとは 目覚め、意識のこと。
それこそ あなたがたの本性!
あなたがたは 常に意識的であったし、今現在 意識的であるし、また これからも意識的であるだろう。
この意識は あなたから取り上げることはできない。
それは あなたの存在の中核そのものの内部(なか)に在る
外面に在るものではない。
“ そ れ が あなた な の だ!”
だがあなたがたは その 自分自身と接触していない。

それから
アナンダとは 至上のよろこび、歓喜(エクスタシー)を意味する。
が、これは あなたが この歓喜を成就しなければならない ということではない。
“ それは あ な た なのだ!”
あなたは常に 歓びに満ちていたーーーーーーそれ以外の在り様はないほどに、不可能なほどに。
あなたには それ を 変えることはできない。


しかし あなたがたは言うだろう
こんなことは まったく馬鹿らしい とーーー
なぜなら私たちは みじめだからだ。
あなたがたは みじめだからだ。

あなたがたは自分の 外面にあまり取り憑かれているからだ。

あなたがたは 中心のことを すっかり忘れてしまった。
あなたがたは 他者と あまりに関わり合いすぎてきた。
他者のことに あまりに夢中になりすぎてきた。

その関心全体は 他者に焦点を合わせている。

あなたがたは陰の中に、暗やみの中に落ちたのだーーー


サチタナンダこそ “あなた”ーーー!



この禅師 南院は 弟子に訊いている。
おまえは 自分が誰であるかに心するようになったかね?
おまえは 自分の本性の内(なか)に根を下ろしたかね?

もし弟子が ほんとうに自分の本性に根を下ろしていたら、この場合は どうだったろうか?

この話は 理解するのが非常にむつかしい。
これは、はきものを左側に置いたか 右側に置いたかの 問題ではない。
それはこの話の要点ではない。

いかにも肝心なところのように見えはするが
それは要点ではない。
肝心な点は
南院が訊ねたとき、この弟子が ためらった というところにある。
これこそ 要点だ。


その ためらいの瞬間
彼は 自分が ためらったことを 自覚していなかった。

もし ためらいが あったことを自覚していたら、彼は 受け容れられていたことだろう。
が、その “ためらい”の“瞬間”、彼は 自覚心を 失っていた。

誰も 南院を欺くことはできないーーー



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