saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

落ちるのは熟れた果実だけ------08

毎日のように起こっていることだが
或る人がサニヤスを受けに来るーーーーーーすると、その人の頭(マインド)が はたらき出してこんなことを言う。
オレンジ色を着ることは 私をもっとエゴイストにします。
自分は ちょっとちがっている、ちょっと特別だと感じてしまうだろうからです。
自分はサニヤシンだ、世俗を放棄した人間、だからオレンジ色を着るのだーーーーーー、こう考えることは私をますますエゴイスティックにするでしょう。

そこで私は言う。
そうなるがいい、エゴイスティックになりなさい!
しかし 意識しながらだーー
もし無意識のままだったら
もしあなたが それを無意識の層の中に隠すとしたら
自我(エゴ)とは 一種の病弊だ。

もしあなたが それについて 意識的であったら
自我(エゴ)は 一つのゲームになる。
あなたは それを楽しめる
あなたは それを遊べる。

意識的で在ることだ、心して在るがいい。
そしてこのゲームで 遊びなさい。
ゲームというのは 悪いことではない。
が、あなたが もし、それがゲームであることを 忘れて 深刻になったとしたら、そのときには問題が 起こってくる。

だから 私は
サニヤスとは 深刻なものではないと 言っているのだ。
それは 一つのゲームーーーもちろん宗教的なゲームだがね。

それには独自の ルールがある。
どんなゲームにも ルールがあるのと同じだ。
ルールなしでは どんなゲームも遊べはしない。

〈生〉は ルールなしで在りうるが
ゲームは ルールなしでは ありえない。
もし誰かが
私は このルールに従うつもりはない と言い出したら
そのゲームは もうできなくなる。

あなたがたは トランプをやるね
そしてそのルールにのっとって やるはずだ。
このルールは 任意なもの、人工的なものだ
なぜ変えてはいけない? などとはけっして言わない。

ルールを変えて いけないことはないが
変えたら そのゲームはむつかしくなる。
もしあらゆる人が それぞれ自分のルールに従ったら、そのときにはそのゲームをすることは不可能だ。

〈生〉は 可能だ!
〈生〉においては あなたは 好きなようにやればいい。
〈生〉は 絶対に ルールなど信じない。
それは ルールを超えている。
しかし ゲームに ルールはつきもの。
憶えていなさい。
ルールが見えたら それはゲームだ と すぐさま知るがいい。
ふむ?

これが 判断の基準だよ。
ルールが見えるところでは、すぐにも それはゲームだと知るがいい。
なぜならゲームはルールを通して 存在するものだからだ。

だからもし私が
オレンジ色を着て マラ(ロケット)をかけなさい、と言ったら、これは明らかに 一つのゲームだね。
できるかぎり 上手に遊ぶことだ。
そして、それに関して深刻にならないこと。
さもなければ 肝心な点を見落とすことになる。


エゴイストになりなさい。
完璧で、修養をつんだ、洗練されたエゴイストにーー
自分の自我(エゴ)に はたらきかけつづけるがいい。

そしてそれを 美しい “銅像” にしてしまうがいい。
ん?
なぜなら、神に返す前に、あなたがたは それを返すに価するものにしなければならないからだ。
贈りものにしなければならないからだーー




「落ちるのは熟れた果実だけ」ーーーーーー おわり

話者= バグワンーシュリーラジニーシ OSHO
訳者= マーアナンドーナルタン
発行者= スワミーアナンドーシャンタン
発行= RPJ
発売= 株式会社めるくまーる社