saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

落ちるのは熟れた果実だけ------07

(…いわゆる聖人名士のところへ行ってみるがいい。
彼らは 謙虚さについて へりくだりについて 語る。
が、彼らの 眼の中を 見てごらん。
これほど洗練された自我(エゴ)は ほかには見られないことがわかるだろう。)

今や彼らの自我(エゴ)は、宗教やらヨーガ、高徳な境地やらのガウンをまとっているーーーーーー
が、自我(エゴ)は そこにある。

彼らは 富をかき集めてはいないかもしれない
しかし自分の信奉者をかき集めているーー
通貨が 変わっただけだ。
彼らは 信奉者が何人いるかをかぞえつづける。
彼らは この世間の俗事を追いかけはしないかもしれない
が、別の世界の物事を追いかける。

だが この世間であろうが あの世であろうが、両方とも世界であることに変わりない。
それに
彼らは 人並以上に貪欲であるかもしれないのだ。
なぜなら彼らは こう言うではないか。
これら一時的なもの、瞬間的なもの
この世は 瞬間的な快楽でできているとーーーーーー

そして彼らはといえば無限の快楽を求めているのだ。
彼らの貪欲さは この上ない。
彼らは 一時的な快楽では 満足できない。
彼らの欲しているのは 永遠の快楽だ。
永遠なものでないかぎり 彼らは満足しない。
その貪欲さは 根が深い
その貪欲さは 徹底している。

貪欲とは 自我(エゴ)に属するもの
自我(エゴ)の空腹感が貪欲だーー
だから ときには
聖人のほうが罪人よりも ずっとエゴイスティックだということが起こる。
そのときには賢人たちは 神性からほど遠いところに在る。
そして、ときには
罪人のほうが 聖人と呼ばれる人たちよりも ずっと楽々と〈神〉に達することができる。
なぜなら自我(エゴ)が障害になっているからだ。

私自身 経験したことだが
罪人たちは 聖人たちよりずっと簡単に自我(エゴ)を落とすことができる。
というのも 罪人たちは けっして自我に反対しないからだ。

彼らは それに餌をやってきた
彼らは それを楽しんできた
彼らは それを十全に生きてきた。

ところが 聖人たちは常に自我(エゴ)と 闘ってきて
それが 熟すのをけっして ゆるそうとしなかった!


したがって 私の姿勢はこれだーー
自我(エゴ)は もちろん 落とさなければならないーーーーーーが
それには 長い時間がかかるかもしれない。

そして それを落とすことができるのは

あなたが それを育成したときだけだ。

これこそ、この現象全体の中で 骨の折れることなのだ。

なぜなら 頭(マインド)が こんなことを言うからだ。
落とさなければならないものなら なぜ養う?
落とさなければならないものなら なぜ創る?

もし頭の言うことに 耳を傾けたら
あなたは 面倒にまきこまれる。

頭は常に 論理的だが
〈生〉は常に 非論理的だ。
この二つは けっして出会うことがないーー

これは単純な論理だね、ふつうの算数だ。

いずれ壊すことになる家なら なぜ建てる?
どうして そんな面倒なことする?
なぜ そんなに努力して 時間とエネルギーを浪費する?
家は まだそこには無い!
それなのに なぜ建ててまた それから壊すのだ?

家自体は 実は要点ではない。
肝心なのは “ あなた ” なのだーー

家を建てることで “ あなた ” は変わる。
そして それから その家を壊すことで
“ あなた ” は 完全に 変わることだろう。

あなたは もう同じではありえない。

家の建設、その全体のプロセスーーーーーー
それが あなたにとって成長であることが 判明するだろう。
そうなったら、その家が完成したときには あなたはそれを打ち壊す。
それは 一つの変革となる!


人間の思考(マインド)は 論理的だが、〈生〉は 弁証法的だ。
思考は 単純な線の上を動くーーーーーーが
〈生〉は 常に 一つの極から対極へと
一つのものから その正反対のものへと ジャンプする。
〈生〉は 弁証法的なものだ。
創造するーーーーーーと
〈生〉は 壊せ!と言う。
誕生するーーーーーーと
〈生〉は 死ね!と言う。
獲得するーーーーーーと
〈生〉は 失え!と言う。
豊かになるーーーーーーと
〈生〉は 貧しくなれ!と言う。

頂点(ピーク)となるがいい、自我(エゴ)の エヴェレストとなるがいい。
それから 深淵となるのだーー無我となるのだ!

そうなったら あなたは “両方” を知ることになる。
幻想と現実、マヤとブラーマをーーーーーー




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