(…自我(エゴ)は たしかに落ちる それはまた 自発的に落ちうるものだ。
もしあなたが それが成長することをゆるしさえしたら それが成長するのを助けさえしたら
そのときには それを “落とす” 必要は まったくない。
このことは きわめて深い奥行きがある。
なぜなら、もし “あなた” が 落とすとしたら
自我(エゴ)は 内側に とどまって残るからだ。)
いったい 誰が それを落とすのかね?
もし 自分が落とすのだ と考えているとしたら
その 自分 が エゴなのだよ!
あなたが落とすものが 何であれ それは本物ではない。
本物は保存されることになり
あなたは まったく別物を 投げ出したのだ。
あなたは “ 自分で 自分を無我にする ” ことはできない。
誰が そうするのかね?
それは 起こることだ、為すことではない!
あなたがたは 自我(エゴ)の中で 成長していくーーーーーーと
全体が あまりにも地獄沙汰であるがゆえに
夢は 破れるよりほかないような時点がやってくる。
突然、あなたは ガチョウが外に出ているのを 見る!
それは 壺の中に入ったことは なかったのだ!
あなたは 自我(エゴ)であったことなどなかったのだーー
それは あなたを取り巻いていた 夢だった。
その夢は 必要だった、 と 私は言いたい。
私は それを咎めはしない。
成長のために必要な 一部なのだからーーーーーー
〈生〉にあっては、あらゆるものが 必要なものだ。
不必要なものなど何ひとつないし、不必要なものなどありえない。
どんなことが 起こるにせよ
それは 起こるべくして起こったこと
今 何が起こっているにせよ
それは 或る深い原因から起こっている。
あなたがたには それが必要なのだ、誤謬の中に ずっととどまっていられるようにーーーーーー
それは、あなたがたを助ける “まゆ” にすぎない。
あなたがたを保護し、生き延びるのを 助ける “まゆ” ーーーーーー
しかし
永遠に “まゆ” の中に入っている必要はない。
用意ができたら、“まゆ” を破って出てくることだ!
自我(エゴ)とは 卵の殻(カラ)、それはあなたを 保護する。
だが あなたに用意ができたときには
殻を破って 卵の中から出てきなさい。
エゴ(自我)とは その殻のことーー
が
待つことだ。
急いでも 大して役には立たない。
性急さは 助けにならない。
かえって 邪魔になるかもしれない。
時間をかけなさい。
そして それを咎めないことだ。
なぜなら いったい 誰が咎めることになるね?
いわゆる聖人名士のところへ行ってみるがいい。
彼らは 謙虚さについて へりくだりについて 語る。
が、彼らの 眼の中を 見てごらん。
これほど洗練された自我(エゴ)は ほかには見られないことがわかるだろう。
落ちるのは熟れた果実だけーーー07 へ つづく