saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

落ちるのは熟れた果実だけ------04

(…謙虚な人々は たくさんいるかもしれないが、
彼らの その へりくだりの下には 微妙な自我(エゴ)がはたらいている。)


伝えられるところによれば、或るとき
ディオゲネスソクラテスを訪れたという。

ディオゲネスは乞食のように暮らしていた。
いつも穴だらけ、つぎはぎだらけの汚い衣を 身にまとっていた。
たとえ誰かが 新しい衣を贈ったとしても、彼は それをそのまま着ようとはしない。
まず汚したり裂いたり古ぼけさせたりして、それからはじめて袖を通そうというのだ。

彼は ソクラテスに会いに来て、無我について話しはじめた------が
ソクラテスの鋭い眼は、この男が 無我の人ではないことを見通したにちがいない。
彼が 謙虚さについて話している その話し方は
非常に エゴイスティックだった。

ソクラテスは このように言ったという--
あなたのその汚れた衣を通して 私に見えるものは
衣の その穴を通して 私に見えるものは
自我(エゴ)以外の何ものでもない。
あなたは謙虚さについて語る------が
その言辞は 深いところにある自我(エゴ)の核からきている--



これは よく起こることだ。
ん? 偽善とは このようにして起こる。
あなたがたには自我(エゴ)がある。
が、あなたがたは 正反対のもので それを隠す。
あなたがたは 表面で謙虚になる。
この表面的な へりくだりは誰もだませない。
それはあなた自身を だましはするかもしれない。
だが ほかの誰をも だますことはできない。
汚れた穴のあいだから
あなたの自我(エゴ)が のぞいている------
それは 常にそこにいる。


これは自己欺瞞、それだけのこと。
ほかの誰も これによって だまされることはない。
これは、もし熟していない自我(エゴ)を 投げ出そうとしたら起こってくることだ。


私が教えること、私の教えは 矛盾して見えるだろう。
だがこれは〈生〉の上では真実なのだ。
矛盾は生命に固有のもの
だから私は あなたがたに、エゴイストであれと 教える。
そうであることによって
あなたがたが無我になれるように

私はあなたがたに、完全なエゴイストであれ と教える。
自我(エゴ)を 隠してはならないよ!
隠したら 偽善が生まれてくる。

それに、熟していない現象を相手に 奮闘してはならない。
まず それを熟させなさい
熟すのを 助けなさい。
それを 頂点(ピーク)にまで もっていくがいい!
怖れることはない、怖れることなど何もない。

これこそあなたがたが 自我(エゴ)のもたらす苦悶に目覚めるようになる方法だ。
それが頂点(ピーク)に達するときには
そのときには あなたがたは、自我(エゴ)とは地獄だと教える覚者(ブッダ)も私も 要らなくなるだろう。
あなたがたは 自分で それを知る--!

なぜなら 自我(エゴ)の頂点は、あなたがたの 地獄のような経験の頂点となるからだ。
それは悪夢となるーーーーーー

そしてそのときには あなたがたは、それを教えてもらう必要はなくなっている。

ただ 落とすだけ!

それを持ち歩くことは むつかしいことになるだろう。



人は
苦しみを通してのみ “知識” に 到達することができる。
論理的な議論だけでは 何ひとつ棄てられはしない。

何かを棄てることができるのは、あまりにも苦痛が大きくて もう持って歩くことが できなくなったときだけだ。

あなたがたの自我(エゴ)は
まだその痛みにまで到ったことがない。
だから あなたがたは 依然持ち歩くーー
が、それは ごく自然なこと!

私はあなたがたに それを落とせとは 説得できない。
たとえ説得されたように感じても
あなたがたはそれを隠すだろうーーそれだけのことだ。


熟していないものは
どんなものでも投げ出すことはできない。
熟していない果実は 樹にしがみつく。
そして 樹もまたその熟していない果実に執着する。

もし 無理やり この二つを分かとうとしたら
傷があとに残るだろう。
その傷あとは ずっと残るーー
その傷は 常に青い果実のままで残り
あなたは 常に痛みを感じることだろう。



憶えておきなさい。
ものには すべて、成長のため 成熟のための
大地に落ちて 溶け消えゆくための 時がある。
自我(エゴ)にも 自分の時がある。
それは 成熟することが必要だ。




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