saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

落ちるのは熟れた果実だけ------02

(…そのときには あなたの貧しさは 豊かだ。
そのときには あなたの貧しさは独自の王国をもつ---)


同じことが すべてに起こる。
ウパニシャド、あるいは老子、イエス仏陀------
彼らは皆、知識とは無用のもの と教えてきた。

ますます “もの識り” になることは 何の助けにもならない
助けにならないどころか 邪魔になる。
知識は 必要ではない。

それは 無知であれ という意味ではない。
その無知は ほんとうのものではない。
知識を充分に集積したときに、それをまた棄てる---
と、そのとき はじめて 無知が達せられる。

そのときこそ あなたは真の無知になるのだ------
ーーーソクラテスのように。

このように彼は言うことができた。
私が知っているのは ただ一つ、自分は何も知らないということだ、と。
この知識
あるいは この無知は、
ー あなたの呼びたいように呼ぶがいい ー
全面的に異質のもの、質的に ちがっているものだ。
次元が変わってしまったのだ。

もしあなたが ごく単純に 無知であるなら
というのも あなたはけっして真の知識に達したわけではないからだが
その(単純)無知は 賢くはありえない。

それは 知恵ではない
それは たんなる知識の欠如にすぎない。

そして内側には 切望が残っている。
どうしたら もっと知識が得られるだろうか?
どうしたら もっと情報が得られるだろうか?


知りすぎてしまうと------
あなたがたは教典を 知っている
過去を、伝統を 知っている
あなたがたは、知りうるものは すべて知っている

突如として
あなたは その すべての不毛さに 目覚めてくる。

突如として
あなたは これは知識ではない と 目覚めてくる。

これは 借り物だ!
これらは あなた自身の 実存的な体験ではない
これらは あなた自身が “ 知る ” に至ったものではない!

他の人たちは それを “ 知った ” のかもしれない、が
あなたは それを ただ集めただけだ。

あなたの その集積は機械的なもの

それは あなたの内部から 湧き起こったものではない

それは 成長ではない。

それは他所(ヨソ)の間口から 寄せ集めたガラクタにすぎない。
借り物、死物--!


憶えておくがいい。
“ 知る ” ということは
“ あなた自身が知った ” ときにのみ
それが あなた自身の直接の体験であるときにのみ 生きてくるのだと。

他を通して知るときには
それは ただの記憶であって 知識ではない。


記憶というのは 死んでいる---



「落ちるのは熟れた果実だけ------03」に つづく