saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

質疑応答集「七日めの朝 --- 06 」by OSHO

愛を サダナ(修行)にしなさい。

とるに足らないつまらぬものに終らせてはならない。
頭の中の考えごとで終らせてはならない。
肉体的な満足感で終らせてはならない。

愛を 内なる探求にするがいい。
そして、相手を 助けとして 友人として捉えなさい。

もしあなたがたが タントラについて何か聞いたことがあるとしたら、タントラでは こう言っているのを知っていよう。
男でも女でも
もしあなたに パートナーか友人が見つかったら------
あなたとともに 内なる中心に向かって動く用意があり
あなたとともに 関係の絶頂にまで動いていく用意がある
そんな相手が見つかったら

そのときには その関係は 瞑想的なものになる。
そのときには その関係を通して
あなたは 究極の関係を達成するだろう。
相手は、そのための扉になるのだとーーー


もう少し説明しようかね。
もしあなたが 人を愛したら、少しずつ、その人の外面の部分が消えていく、その人の “ かたち ” が消えていく。

あなたは、かたちの無い内側のものに もっともっと接するようになる。
かたちは しだいにぼんやりとなり、消えていく。

そして、あなたが もっと深く入っていったら
そのときには この かたちの無い 個さえも消えはじめ、溶けはじめる。
と、“ 彼方なる世界 ” が ひらかれる。
そうなったら 相手のその個人は たんなる開口部、扉だったことを知る。

その愛する者を通じて あなたは〈神性〉を見出すのだ。

愛することができないために
私たちは これほどに多くの宗教儀式を必要とする。
儀式は 代用品、しかも非常に貧弱な代用品だ。


ミーラ (ヒンドゥ教の覚者)には寺院はいらない。
〈実在〉全体が 彼女の寺院だ。
彼女は 一本の樹の前で踊ることができる------と
その樹が クリシュナになるのだ!
彼女は 小鳥の前で唄うことができる------と
その小鳥が クリシュナだ!
彼女は 自分のクリシュナをまわり中につくりだす。

彼女の愛は
彼女が見るところ どこでも扉がひらかれ クリシュナが 愛する人が顕われるほどに 深いーーー

しかし最初のきらめきは かならず個を通して来る。
宇宙と触れ合うことはむつかしい。
あまりにも大きく、あまりに広大だ。
始まりも 終りもなく 無辺だ。

いったい どこから はじめればいい?
どこから入ったらいい?

愛の 相手の個が その扉になる。

恋に おちるがいいーーー
だが、それを葛藤にしないこと。

相手を 深く認め ゆるすこと、愛を招待状にすることだ。

そして相手が 無条件に あなたの内部に浸透することを ゆるすがいい。

と、 突然 相手は消え去り
〈神〉が そこに いる ーーー

もし あなたの愛する人が 神とならなかったら
そのときには この世の何一つ 神性を得ることはない。

だとしたら
あなたがたの宗教的な お話は ただのナンセンスだ。


これは 子供が相手でも起こりうる。
動物が相手でも、飼っている犬が相手でも起こりうる。
もしあなたが
自分の飼っている犬と深い関係に在ることができたら
これは 起こりうる、その犬は神性を得る!

したがって これは男と女だけのことではない。
これは、あなたに 自然にもたらされる〈神性〉のもっとも深い源泉の一つ

どこからでも それは起こりうる。


基本となる鍵は これだ。
あなたは、自分のもっとも内奥の核にまで、あなたの実存の基盤そのものにまで 相手が浸透するのを ゆるさなければならない ということ------


ところが 私たちは 自分を だましつづける。
私たちは 自分が 愛している と思っている。

もしあなたが、自分は愛している と 思っているとしたら
愛が起こる可能性は まったくない。
なぜなら もし それ が 愛だ と思っていたら、あらゆるものは 閉ざされてしまうからだ。

新たに 努力をしてみるがいい。
相手の 内深くに隠されている 本物(リアル)の存在を見つけだしてみなさい。
誰も当然こうあるべきだ などと捉えないこと。
どの個人も それぞれが 一つの深い神秘だ、内部に 入っていけばいくほど 底知れない。

だが 私たちは たがいに退屈してしまう。
というのも ただ外側の縁(フチ)のところに、いつも その外面に とどまるからだ。



質疑応答集「七日めの朝 --- 07」by OSHO へ続く