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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

質疑応答集「七日めの朝 --- 05 」by OSHO

(…二つの中心が 出会うとき、 そこに愛がある。
そして愛とは、錬金術的な現象だ。)

ちょうど
酸素と 水素が 出会うと
新しい物質(もの)、水が創られるのと同じ。

あなたは 酸素を持ち歩くことができる
水素を持ち歩くこともできる------が
もし喉が渇いてきたら、どちらも無用の長物だ。
欲しいだけの酸素を持てるし 好きなだけの水素も持てる
しかし、渇きは消えはしない
二つの中心が出会うとき
一つの新しいものが創りだされるーーー
ふむ? その新しいものとは〈愛〉のこと。
それは まるで水のようなもの

何生にもわたってあった渇きが満たされるのだ。
突如として あなたは充足される。
それこそ目に見える愛のしるし
あたかも 何かを成就したかのように あなたが満足しているというそのことだ。

今や成就すべきものは何もない
あなたは 終着点(ゴール)に到達した
もうこれ以上ゴールはない
目的は充足された
種は花となった
全面的な開花に至ったのだーーー


深い充足感こそ、目に見える愛のしるしだ。
人が 恋におちているときには
彼(彼女)は 深い充足感の内にある。
愛自体は 目に見えない、が
そのまわりの充足感、その深い満足感
その呼吸の 一息一息、動きの 一つ一つ
その存在そのものが 満ち足りているーーー


愛は 人を無欲にする と 私が言ったら
あなたは驚くかもしれない。

欲望とは 不満にともなってあるもの

あなたがたは 自分に無いから欲する。
あなたがたは、もし 自分にこれがあったら きっと満足するだろうと考えて 欲する。

欲望とは 不満から生まれるものだ。

愛が あるときには
二つの中心が出会い、溶け合い、没入し合うときには
或る 新しい錬金術的な 質が生まれるーーー
そして そこには充足感がある。

それはあたかも〈実在〉全体が ストップして
動きが いっさいなくなったかのようだ。
そうなったら 現在の瞬間が 唯一の瞬間になる。
そうなったら あなたにも言える。
ああ、この菓子はうまい と------

死 さえ
愛の内にいる人にとっては 何の意味ももたない。
だから私は あなたがたに言う。
愛は あなたを無欲にするとーーー


怖れることはない。
怖れを落として、オープンでいてごらん。

他者の中心が あなたの中心に出会うのを ゆるすがいい。
あなたは それによって再び生まれかわる。
存在の新しい質が 創りだされるのだ。


存在の この質は言う。
〈神〉は在るーーーと。
〈神〉は論議ではなく、或る充足
充足を感じとる 感覚(フィーリング)のことだ。


あなたがたも観察したことがあるだろう。
不満を感じているときには きまって神を否定したくなる。
満足していないときには
あなたの存在全体が “ 神などいない ” と言いたがる。

無神論 というのは 論理から出てくるものではない。
それは不満から 出てくるものだ。
あなたはそれに理屈をつけるかもしれない。
------ それはそれで別のこと。
あなたは、自分は 不満だから 無神論者なのだ とは言わないだろう。
あなたは
神など存在しない、私には その証拠があるんだ
と言うかもしれない。
しかしそれは ほんとうのことではない。

もしあなたが 満足していたら
突如として あなたの存在全体が言いはじめる。
〈神〉は 在る!と。
不意に あなたは そう感じるのだ。
〈実在〉全体が 神性を得るーーー

もし愛が そこに在ったら
あなたは 生まれてはじめて、〈実在〉は 神性であり、あらゆるものは恵みであるという実感をもつことだろう。
しかし
これが起こるためには 多くのことが為される必要がある。
これが起こりうるためには、多くが壊されなければならない。
あなたは、自分の内部で 障害を生みだすようなものすべてを壊していかねばならない。



質疑応答集「七日めの朝 --- 06」へ 続く