(…ただの面識------
ところが私たちは 愛が起こったのだとおもう。
外面が出会う---)
それを私たちは 出会いがあったのだ と考える。
が
あなたは あなたの 外面ではない。
ほんとうに
外面とは あなたが終りになる境界線のこと
あなたのまわりを 囲っているだけ。
外面とは あなたが終りになるところであり
そこから〈全体〉が始まるところーーー
たとえ 何年も一緒に暮らしてきた 夫と妻でさえ
ほんの面識の間柄でしかないかもしれない。
たがいのことを 知ってはいないかもしれないのだ。
誰かと 長く暮らせば暮らすほど、人は たがいの中心はまだ未知のままであることを忘れていく。
したがって 理解すべき第一のことは
ただ “ 知り合い ” の間柄を 愛と勘ちがいするな ということ。
あなたは その相手と一緒に寝るかもしれない。
その相手と 性的につながっているかもしれない。
が、セックスもまた 外面のものだ。
中心が 出会わないかぎり
セックスは 二つの肉体の出会いにすぎない。
そして 二つの肉体の出会いは
“ あなた ” が 出会うこととはちがう。
セックスもまた 面識の程度にとどまる。
物理的、 肉体的------だが 表面的に識(し)ることにすぎない。
自分の中心に到るほどに 他者が内部に入ることをゆるせるのは、あなたが怖れていないときだ。
あなたが 恐怖を覚えていないときだ。
だから私は あなたがたに言う。
生き方には 二つのタイプがあるとーーー
一つは 恐怖指向のタイプ
もう一つは 愛指向タイプ。
恐怖指向の生き方は、あなたを けっして深い関係に導いてはいかない。
あなたは 怖れつづけ
相手が あなたの核心にまで浸透することをゆるさない。
或る程度までは ゆるしはするが
その向こうには壁が現れてすべては止まる。
愛指向の人は 宗教的な人だ。
愛指向の人とは
未来を 怖れない人
成り行きや結果を怖れることのない人
“今 ここ” に生きる人------
これこそ クリシュナがギータの中で アルジュナに語っていることだ。
結果のために 心乱されるな。
それは恐怖指向の捉え方だ。
そこから何が起こってくるかなど 考えてはならない。
ただ “ここ” に在って、十全(トータル)に 行なうがいい。
計算してはならないよ。
恐怖指向の人は いつも計算している
計画して、いろいろ 取り決めて、安全を計るーーー
生全体が こうして失われていく。
或る年老いた禅僧の話を聞いたことがあるのだが---
質疑応答集「七日めの朝 --- 03」by OSHO へ続く