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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

質疑応答集「エゴは落ちるーーーたった今!」05

「エゴは落ちる---たった今!」05

あなたがたは何かに従事していたい。
だから エゴを落とすことはできないでいる。
空っぽで、何も従事することのない状態でいられる用意が あなたがたにできないかぎり
あなたがたに、“ 誰でもない存在 “ として在る用意ができないかぎり
たとえ必要とされなくっても、それでもなお〈生〉を楽しみ祝福する用意ができているようにならないかぎり エゴが落ちることはありえない。

あなたがたは “ 必要とされる必要 ” がある。
誰かがあなたを必要とするーーー、と、あなたは いい気分になる。
もし、もっともっと多くの人が あなたを必要としたら
あなたは ますます いい気分になっていく。
だからこそ指導的地位というのは あれほどまでに楽しめるものになる。
多数の人がそれを必要とするからだ。
指導者(リーダー)というのは 非常に謙虚になることができる。
彼は 自分のエゴを 押し出す必要はまったくない。
そのエゴは すでに深く満足している。
なぜなら
大勢の人たちが 彼を必要としているからだ
大勢の人たちが 彼に依存しているからだ。
彼は 多くの人々の生きがいとなっている。

            • 彼は 謙虚になることができる。

彼には謙虚になれる余裕が充分ある。


この事実を 憶えておかなければならない。
つまり自分のエゴを あまり押し出しすぎる人たち というのは
きまって 他者に影響を及ぼせない人たちだ ということを。
そういう人たちは 自己主張する。
それが、自分は ちょっと特別な誰かだ! と言うための 唯一の言い方だからだ。
もし彼らが 人々に影響をもてたら
もし彼らに 説得力があったら
彼らは けっして自己主張などしはしない。
彼らは きわめて謙虚になる------少なくとも表面では
エゴイスティックになど見えはしない。
というのも
微妙なかたちで 多くの人々が彼らを頼りにしているからだ。
彼らは重要人物になったのだ。
その人生は彼ら自身にとって意義深いものに見えてきたのだーーー


もし
あなたの自我(エゴ)が あなたにとって意味あるものだったら
もし
あなたのエゴが あなたにとって意義あるものとなったら
どうやって それが落とせよう?

私の話を聴きながら
あなたがたは エゴを 落とそうと考えはじめる。
しかし 考えただけではエゴは 落とせるものではないよ!
あなたがたは その根を理解するようにならなければならない。
それが どこにあるか?
どこに 存在するのか?
なぜ 存在するのか------?

これらは あなたがたの内部にあって、あなたがた自身 感知することなしに はたらいている無意識の力だ。
それを 意識の上に のせなければならない。
エゴの根っこを 地中から 土の中から取り出して
じっくり見なければならない。

“もし” 何にも従事せずにとどまることができたら
“もし”、必要とされることがなくても 満足していられたら
エゴは 今の この瞬間にでも 落ちることができる。
が、この “もし” は 大きな “もし” だ。
これら たいへんな “もし” のために、瞑想が あなたがたの用意をととのえさせる。
このハプニングは 瞬間のうちに起こるもの。

しかし、それを理解するには時間が かかるだろう。
これはちょうど 水を熱するときと同じだ。
だんだん、だんだん、だんだん熱くなっていって
と或る点に達すると、百度にまで 達すると
蒸発が はじまるーーー
この蒸発は 一瞬のうちに起こる。
これは 段階的には 起こらない、突然 起こる。
水から蒸発へと、一つのジャンプがある。
突如として、水は 消えてしまう------が
そこには “時間” が 関わっている。
なぜなら水は、沸騰点に達するまで熱せられなければ
ならないからだ。
蒸発は 突然起こるが、熱するには 時間がかかる。

理解ということには 熱するのと同様、時間がかかる。
エゴが 落ちること自体は 蒸発のように起こるもの
それは突如として起こる

だから
エゴを “ 落とそう ” とすることはやめなさい。
それよりも
自分の 理解を深めるようにすることだ。
水を蒸発に “ 変えよう ” とはしないこと
ただ 熱せばいい。
二つめのことは 自動的についてくる。
それは 起こってくる。

あなたは理解ということの内(ナカ)に成長していくのだ。
その理解を もっと強烈に
もっと焦点を合わせたものにしなさい。
あなたのエネルギー全部を、その現象
あなたの存在の、エゴの、思考の、意識のその現象を理解するためにつぎこみなさい。

もっともっと注意深くなることだ。
そして 何が起ころうと、それもまた理解のための 手がかりにするがいい。

誰かが あなたを侮辱したら、あなたは 腹を立てる。
その機会を逃さないことーーー!
なぜ この怒りが 出てきたのか理解してみなさい。

だがそれを 哲学的な作業にしないこと。
図書館へ行って 怒りについて調べようなどとしてはならないよ。

怒りが あなたに “ 起こっている ”ーーー
それは一つの経験、生きた体験だ!
焦点を全面的に それにあてて、なぜそれが あなたに起こっているかを理解してみるがいい。

これは哲学的な問題ではないんだから、それについて相談するのにフロイドはいらない
その必要はない!

怒りが起こっているのは あなただというのに、他者に相談するなんてじつに馬鹿げている。
あなたは それに触れることができる。
あなたは それを味わうことができる。
あなたはそれで 燃やされてしまう------


なぜ それが起こっているか理解してみなさい。
どこから それがやってくるか?
どこに その根っこがあるか?
どのように それは起こるのか?
どのように はたらくのか?
どのようにして それは あなたを圧倒するのか?
怒りの中に入ると どうしてあなたは狂ってしまうのか?

今までにも怒りが起こったことがあったろう。
今また その怒りが起こっている------
だが 今回は それに新しい要素を付け加えてみるがいい。
理解 という要素をーーー

そのときには質的な変化が見られよう。
そのうちに だんだんと
怒りは 理解すればするほど起こらなくなってくるのが わかるだろう。
そして、それを 完璧に理解したときには
それは消え去っていく。

理解とは 熱のようなもの
熱が 或る温度まで達したらーーー百度に達したらーーー
水は 消えていく。


セックスということがあるーーー
これを “ 理解 ” してみなさい。
そこに 理解があればあるほど、あなたは性的ではなくなっていく。
そしてその理解が 完全になった瞬間、セックスは消える。

これが 私の規準だ。
何であれ、内的なエネルギー現象があって、それが 理解を通じて消えるようなものだったら、それは “罪”だ。
もし理解することで 深まるようなものだったら、それは “徳” だ。

理解が深まれば深まるほど
まちがっているほうは消えていき
正しいほうは ますますしっかり根を下ろす。

セックスは消え、愛が 深まる。
怒りは消え、慈愛が深まる。
貪欲さは消え、わかち合いが深まるーーー

したがって 何であろうと、理解することで消えていくものは まちがいだ。
ますます しっかりと根づいていくものは正しい。

これが私の 善と悪の、徳と罪の定義のし方だ。

聖なる人というのは 理解の人 ということ
それ以外の何ものでもない。

罪人とは、理解のいっさい無い人のこと、それだけのことだ------!

聖人と罪人とのあいだを区別するものは、罪とか神聖さではなく、理解しているかどうかだ。

理解は、加熱のプロセスに似たはたらきをする。
或る瞬間が やってくるーーー
加熱が 沸騰点にまで達すると、まさに適切な瞬間がくる。

突如として エゴが落ちていくーーー

あなたは それを 直接 “ 落とす ” ことは できない。

あなたにできることは それが起こるような情況を用意することだ。
その情況を整えるには 時間がかかる。



「エゴは落ちる---たった今!」06 へ つづく---